名前のない気持ち
「また、空を見てたんだね」
誰かの声がしたわけじゃない。
でも、心のどこかでそう呟いた自分がいた。
放課後、教室の窓から空を見上げたそなたくんの姿が、頭の中に焼きついて離れなかった。
あの時も、屋上のときも。
彼は、何も言わずに空を見ていた。
……なのに、不思議と“伝わってくる”ものがある。
それが何かなんて、分からない。
でも、私の中にずっと閉じ込めていた感情の一部が、少しだけ動かされてる気がする。
「……気のせいだよ。きっと」
そう口に出して、自分に言い聞かせる。
だけど今日、ふと名前を呼ばれて、心が跳ねた。
「天野くーん、これ教えてー!」
「そなたー、それ持ってきてくれる?」
みんなが“そなた”って当たり前に呼ぶたびに、
なんでだろう、胸の奥がチクリとする。
呼ばないで、なんて思ってない。
でも、呼びたい、なんて思ってるわけでもない。
──わたしだけが、名前を呼べない気がした。
「ねぇ、みうって、天野くんとなんかあったの?」
授業のあと、結衣がまた聞いてきた。
「前より気にしてる感じするし……話しかけようとした?」
「してない。話す理由、ないし」
「ふぅん? でもさー、あの人、なんか特別じゃない?」
……そう、かもしれない。
空気みたいに静かで、でも確かにそこにいて。
こっちが逃げようとしても、なぜか“見つけられてしまう”ような目をしてる。
「変な人だよね。喋り方も、ちょっと浮いてるし」
「あれ、なんか……昔の文豪みたいな喋り方じゃない?」
「うん……」
その“ちょっと不器用な言葉”に、私は少しだけ、安心していた。
器用に人と距離を縮める人なら、きっと私はもう、目も合わせてなかった。
でも、彼の不器用さは、どこか私の“今”に似ていた。
うまく話せない。
でも、黙っていても、何かが伝わってしまうような。
──気づかれたくないのに、
気づいてほしい自分もいる。
「……あのとき、なんで屋上に来たんだろうね」
無意識に、口からこぼれていた。
結衣が「ん?」と聞き返すよりも前に、私は鞄を持って立ち上がる。
「先、帰るね」
「え、うん。気をつけてね~」
階段を下りるとき、自分の鼓動がうるさく感じた。
なにも起きてないのに。
なにも、始まってないのに。
ただ、“何かが動いている”──
それだけが、確かだった。
この気持ちに名前をつけてしまったら、
もう元には戻れなくなりそうで、怖い。
でも、もしまた、彼が空を見上げているのを見かけたら──
私は、今度こそ、目を逸らせるだろうか。
それが、いちばん怖かった。