本当はずっと役に立ちたかった-前
小百合と清夜と凜夜の話
『兄妹で過ごす時間も必要だろう』
この場は清夜達の主人の一言で決まったものだ。別に清夜達自身はこの場を必要としていなかったし、兄妹間で話す必要のあることはない。死してなお、一人だけ主人の傍に居続けた長兄に対して、何も思っていないわけではなかった。だが、昔から彼の気持ちを知っているし、主人からの信頼も知っている。だから、ごく自然と受け入れられたことだ。
後からこの場所を知り、この場所を求めた清夜と妹。それを主人と長兄は少し困った様子を見せたが、傍に居たいと願った清夜達を受け入れた。それだけで、清夜は十分だ。
静かに長兄の淹れた茶に口をつける。
生前、死ぬ少し前に勘当された人ではあるが、清夜達にとっては変わらず長兄だった。必要があったから勘当しただけであり、両親も長兄のことを大切にしている。現代の桝岡家には彼の持ち物も保管されていた。それを大切にしていたのは、他らなぬ両親だ。
久しぶりの兄妹の時間。
だが、お互いに何を話せばよいのか分からなかった。当然の話だろう。清夜達は長兄である彼とは、ほとんど顔を合わせていなかった。長兄は常に命の危険があったから、清夜達が弱点となるわけにはいかなかったのだ。最もたる弱点である主人は、長兄よりも強い。万が一にも彼がやらかしたとして、主人は暴力的なことであれば、自分で解決することができる。
――そう、暴力的なことであれば
主人単体であれば、決して負けやしないだろう。彼女は清夜達桝岡家を始め従者の命も背負ってしまった。だから、彼女の行動は常に制限されることになる。彼女の行動が、従者への不利益にならないか。それを常に考えておられたことを、清夜は知っている。
従者の命など捨て置けばよかったのだ。
そう言うことは簡単だろう。だが、主人の心根の優しい美しいところを、清夜は好いている。酷く個人的な話ではあるが、彼女のその美しさは本来なら愛されるべきものだ。
――今の、この世界のように
主人が穏やかに暮らせるこの死後の世界を、清夜も愛している。
「兄上様、兄様」
静かに紅茶に口をつけていた妹が、口を開く。清夜はもちろん、長兄も静かに妹へ視線を寄せる。清夜は彼女の成長を相応に見ているから特別思うことはない。だが、彼はこの姿の妹を見れずに死んでいる。何某か思うことはあるのだろう。穏やかに目を細めて、妹へ視線を寄せていた。
兄二人の視線を集めた妹は静かにこちらを見返す。
その視線は相変わらず真っ直ぐで強い。
「私は、兄上様の死を納得してはいません」
この際なのではっきり申し上げます。そう言う妹の表情は硬い。決して声を荒げることはなかった。静かに言葉を紡ぐ妹は、本人が言うように納得していないのだと伝えてくる。憤っているわけではない、悲しんでいるわけでも。
そして、この言葉は長兄自身の死について言っているわけではない。
生前、長兄が死んでから追うように主人が亡くなっている。従者の命を背負う主人が、自死を選んだわけではない。ただ、生きられなくなってしまっただけだ。清夜とて分かっていることである。
主人の生を最も望んでいた人物が、その死に関わってしまった。
例え間接的であれ、仕方のないことであれ。
長兄と主人の死の真実を知っている清夜達も思うことがないわけではない。だが、これは生前に話し合って理解したことだ。そして、仕方のないことだった、と諦めるに至った話でもある。今更蒸し返すようなことでもないとも、思ってしまう。
だが妹の表情を見ていれば、そうも言っていられないなとも思った。
「おぉ……? そうか」
心底不思議そうな長兄に清夜はフォローするべきか迷う。とても聡明である彼は、清夜達の言葉が足りないところを察することができる。だが、この話題は長兄の理解の及ぶものではない。彼の全く知らない話題なのだから、当然と言えば当然である。
「……小百合、それについては」
窘めるような語調になってしまったのは仕方ない。生前、長兄と主人の死後話し合ったことだ。信頼を得ていた彼が亡くなったことで、食事が取れなくなった主人。これは、毒見係が必要な主人が最も信頼していた毒見係を喪ったためだ。元より食事に不信感を持っていた主人が、食べられなくなることは分かり切っていた。
――兄上が死ねば桜様が亡くなるのも道理だ
もとより栄養失調に近しかったらしいお身体は、それほど長持ちはしなかった。水は自然の湧き水を飲まれていたと聞く。食事は辛うじて他の従者と食事を共にすることでとった、と。それでも、お立場上、周りに不信感を与えることもできず。
満足にお食事ができなくなるのも予想できたことだろう。
「それでも、私は、兄上様の悋気を許すことはできないのです」
清夜を睨み付けるようにして語調を強めた妹に、苦笑が漏れる。
――分からなくもないんだけどね
長兄が嫉妬深いことは知っている。主人に関わる全てを、自分がやりたいと願っていることだって。そのせいで、自分の命を失い、間接的に主人の命を失わせることになった。それについて思うことがないわけではない。
だが、それでも長兄が主人のために血の滲むような努力をしたことを知っている。主人のためだけの努力で様々なことをできるようになった。清夜達がどれほど頑張ろうと手の届かない存在。生前からずっと、その才能が羨ましくて仕方がなかった。
「兄上様の悋気がなければ、桜様は亡くならなかったかもしれない」
タラレバを言っても仕方がない。
それは妹自身も分かっているのだろう。いつもは明るい表情を、珍しく表情を歪めて訴える。彼女の訴えは清夜も理解しているから、長兄が聞くのは良いことなのかもしれない。
「桜様の周りのすべてを他の者が手を出せなかったのは悪手でしょう。だから、兄上様を亡くした桜様は生きることができなかったのです。だから、ここでも同じようにしていたら、私は桜様と逃げようと思っていました」
とんでもない暴露を受けた。
清夜は驚いて妹を見る。彼女は真っ直ぐ長兄を見ており、嘘は言っていない。彼を尊敬していたことは、清夜と共通の彼女。だからこそ、これほどはっきり長兄に反旗を翻すことを言ったのは驚いた。
「兄上様の悋気は桜様を不幸にします」
はっきり物申す妹に清夜は遠くを見る。長兄はショックを受けているらしく、動きを止めていた。呆然としている、と言っても過言ではない。
「……分かってる」
「声小さいです、兄上」
はっきり物申す傾向の強い長兄の零れ落ちたような言葉に、清夜は思わず言葉を返す。それに長兄はきまり悪そうに視線をずらした。
「しかし、小百合。兄上も随分と桜様への他者の介入を許容できるようになっているではないか。もうその話は時効にしてもいいだろう」
長兄にとって主人に関わるすべて、他者が関わることが不安だった。主人は常に命を狙われていたのだから当然だ。だから不安で不安で仕方なかったのだろうと察している。
今は主人が穏やかに過ごすことができる、と長兄が理解し、納得しているのだろう。だから、周りの介入を許容できる範囲が広がったのだと考えられる。
「時効にするために話しているのです。兄上様は知るべきです」
直接主人の害悪にならなくとも、見えないところで主人の害となることがある。
妹は淡々とそう言葉を吐き出した。長兄は何も言わない。それでも、妹の言葉をちゃんと聞いていることは分かっている。
紅茶の入っているカップに手を伸ばして口をつけた。それから一口飲んで、妹を向く。その視線から感情を読むことは、清夜にはできない。ただ静かに一連の行動をしてから、長兄は妹を見返した。
「正直、今でも桜様に関わるすべては俺がしたいと思っている」
分かり切った宣言だ。主人は、長兄のすべて。命と言い換えてもいいだろう。主人のためならば、長兄は何でもできる。足りないことは努力をして、分からないことは新しく学べてしまうほど。主人のためだけに最大限の努力をできる人物である。
妹も長兄の言葉は分かり切ったことだろう。特別、何かを言う様子もなく彼を見返している。その視線はやや見下している、と言っても良いかもしれない。
「だが、そうも言っていられないことも理解した。だから、桜様の周りに信頼できる連中を集めてある。俺ができないことをできるように」
それも本当は嫌なのだろう。分かっている。
だが、それを許容できるようにはなった。主人に不利益とならないように、長兄は奥歯を食いしばって我慢できるように。
「えぇ、分かっています。だから、私は兄上様から桜様を奪わずに済んだんです」
妹の視線が和らぐ。
清夜は穏やかな気持ちになってのんびりと紅茶に手を伸ばす。もう緊張する必要もないだろう。この話はこれで終息する。
「ハァ……それに、これからはお前等もいるんだろ、俺ができない分はお前等がやれ」
サラリと言われた長兄の言葉に、清夜は驚いて長兄を見た。
彼は真っ直ぐ清夜を見て、それから妹へ視線を流す。
「俺だけじゃ、足りねぇんだろ。じゃぁ、お前等がやってくれればいい」
生前は長兄に注意をできる人物が少なかったのも原因の一つ。かつては清夜達が幼く、長兄が意見を求めても良いとしてもらえなかった。
――今は
ちゃんと長兄と共に立つことを許されるらしい。
「任せてください、兄上」
「必ずお役に立ちます、兄上様」
結局、夕餉の時間近くまで話し込んでいた。