小百合と主人の話
『よく分からないんだよねぇ』
小百合の主人はよくそんな言葉を口にする。心底不思議そうなご様子で、首を傾げられるのだ。分からない、と行動で教えてくださるようになったのは喜ばしい変化である。生前であれば、決して叶うことの無かったこと。今はそれをしても問題ないと主人がお思いで、こうしてお考えを教えてくださろうとするのだ。
大体、主人が首を傾げるのは、小百合の長兄に対してである。それは、生前不思議に思っても決して態度にも言葉にも出さなかった。それだけ長兄が主人から大切にされていたという証である。
「……僕にはよく分からないんだけど」
コトン、と首を傾げた小百合の主人は、心底不思議そうなご様子で小百合の長兄の様子をご覧になっている。主人の視線の先で長兄は、黙々と花壇の手入れを行っていた。
今、小百合達が居るのは、主人のために長兄が整えた温室だ。基本的に鍵は長兄と主人しか持たない徹底ぶり。長兄が幸せを詰め込んだ箱庭である。
「なにが分からなかったですか、桜様」
小百合は主人へ言葉を渡す。彼女は小百合が分からないことを聞いて怒るような狭量な方ではない。むしろ分からないことを伝えれば、分かるように丁寧に説明してくださる賢君であった。
「人は与えるだけではいけない、とオーレリウスが言っていた」
「それはまた――」
余計なことを、と言いそうになって、口の中で言葉を転がした。
皇帝オーレリウスが、主人のためにそう進言したことは分かっている。彼は博愛の精神の下、とても穏やかで優しい性質をしていた。だから、少しでも主人が穏やかに過ごせるように考えて進言してくれた、と。それを小百合も把握している、当然だ。
だが、小百合達にとってそれは余計なことである。
「僕はキミ達からたくさんもらっているけれど、いつかその愛情が尽きてしまうだろうと言っていた」
「どういう経緯です、それ……」
彼等皇帝の会話は不思議なことが多いが、今回の内容もよく分からない。だが、主人はその言葉を大層気にされているご様子だ。
チラリ、と長兄へ視線を流せば、主人を見て固まっていた。どうやら、皇帝オーレリウスとの会話は知らなかったらしい。ゆらりと立ち上がる長兄が低い声で言葉を返すので、主人は大層驚いたと言葉をこぼされた。表情が変わらないのは、生前からお変わりないことだ。
「おや、凜夜。休憩するなら、こちらへ」
沈黙が落ちれば、主人がお席を勧めるので長兄はそれに従う。ちゃんと手を洗ってから席に近付くので、小百合も静かに紅茶を用意した。
「それで、桜様。先ほどのお話なのですけれど」
主人からお茶とお茶菓子を勧められてご満悦な長兄を横目に、小百合は主人を見た。会話を蒸し返すのは、純粋に気になったからだ。
小百合達にとって彼女はとても良い主人である。
周りの誰が何を言おうと、主人は今のままで充分だ。小百合達からたくさんもらっている、と主人は仰っていた。
――でも違う
与えられているのは小百合達の方だ。主人はいつも家臣である小百合達のことを慮ってくださっている。小百合達が不利益を被らないように、傷付かないでいられるように、と。
「うん」
小百合の言葉に穏やかな相槌を打ってくださる主人へ視線を寄せた。彼女は決して小百合を見ていないけれど、話を聞いてくださるのは理解している。
――まぁ、
主人は小百合達の言葉を、蔑ろにするようなことはないのだけれど。些細なことにでも耳を傾けてくださる、賢君である。
「わたくし達は、桜様に与えているつもりはございません」
「おや」
驚いたようなご様子の主人が小百合を見た。それから、そっと長兄へ視線が寄る。長兄は彼女のその視線を柔らかく受け取ると、一つ息を吐く。それは呆れたという意図を含むものではなく、純粋に彼女の尊さを思ってのものだ。主人は長兄の複雑な思惑を察しておられないので、特にお変わりなく長兄を見ている。
長兄は小百合を一瞥し、視線が合うと、主人を見た。言葉を譲れ、と言われたのだと理解している。
小百合は長兄の恋を応援しているつもりだ。主人との会話を多く望んでいるのなら、迷惑とならない範囲で好きにすると良い。小百合の言葉を横取りすることに、罪悪感を覚える必要もないのだ、本来なら。
「桜様。俺達は桜様に許されてここに居るのですよ」
この世界で、長兄は主人から傍にいることを拒否されている。小百合達はそれを知らないけれど、長兄から話を聞いた。主人から拒否された長兄が泣き縋って主人の御傍にいることを許していただいている。それがあるから、小百合達も主人の御傍に控える許可をいただけた。長兄を許しているのだから、その弟妹である小百合達を拒否することはできない。そうおっしゃった主人を、小百合は知っている。
だから、小百合達は主人が許してくださっていて、居場所を与えてくださっているからここに居られるのだ。
小百合達に最初に与えたのは、彼女ご自身である。
「桜様が俺達の望む居場所を与えてくださったのです」
それはかけがえのないことだ。小百合達にとってこれ以上の無い幸福で、返しきれない愛情だった。愛情を理解できていない主人の、理解できていないなりの、小百合達への返事のような愛情。感謝やそれ以外のいろいろな感情を伝えんとしているようなもの。
「だから、桜様。俺達にとっては、与える側は桜様なのですよ」
そっと主人の手を取る長兄を小百合は紅茶を飲みながら眺める。
生前から何かとアプローチをしている長兄だが、彼女はまったく気にされているご様子はない。長兄が彼女に恋慕していることはご存じだが、主人にとっては信頼できる従者の一人だという認識なのだろう。
――従者として最高の栄誉ですわ
それでも足りぬという長兄の方が可笑しいのだ。
「わたくしからもよろしいでしょうか、桜様」
主人から見返されて表情を溶かしている長兄を横目に、小百合も主人へ声をかける。長兄を真っ直ぐ見ていた美しい視線が小百合へ向けられた。
「いいよ、小百合。なんだい?」
拒否しても良いのに、主人は決して小百合達の言葉を蔑ろにしない。
「わたくしも、桜様にお仕え出来て嬉しいです。生前は、決して叶わないことでしたから」
主人に長兄が仕えることが決まった段階で、家を継ぐのは次兄となった。小百合が生まれてからは、小百合もその選択肢の中に入ったのだ。つまり、主人に仕えるという選択肢が必然に消えた。
本家分家となる桝岡家を統治するには、主人に仕えながら、ということは無理だ。それゆえに、直接主人に仕える一人、統治する一人。それが桝岡家を率いるトップとされる。主人に仕えることを長兄が任されたとなれば、別の一人が桝岡家を率いることになるのだろう。
――結局は
そんな綺麗な形にはならなかったのだけれど。
次兄も小百合も、朱雀院家の稀代の才人に仕えたかった。願っても決して叶わなかったそれ。まさか死後、その願いが叶うとは思うまい。
「キミ達は、僕にとってとても大切にしたい存在だよ」
そう言って微笑まれた主人に長兄が耐えられなかったのは、本当にしまらないなと思ってしまった。鼻血で白い制服を汚すのはもう見慣れてしまっている。後で長兄に仕えている者達がその制服をクリーニングするのだろう。