小百合の秘密
小百合は兄妹の中で唯一、主人の寝室に入ることができる。その理由は簡単な話で、兄妹で主人と同性なのが小百合だけだからだ。だから、きっとこのことを知っているのは、小百合だけなのだろう。生前から主人に仕えている兄は、律儀に主人の寝顔を見たことはないと言った。主人が寝ている間は、寝ずの番をしていたというのだから、兄の主人への忠誠は察せられるだろう。
生前から死後まで、兄は主人と共にあるが、寝顔を見たことはない。
「もし、兄が見ていたら発狂していますね」
健やかなる寝顔、とはよく言ったものだ。
小百合はよく休んでいる主人の顔を覗き見る。気配に敏感な主人だが、今は小百合の気配では目を覚ますことはない。それは一重に主人から兄への信頼の証だ。兄と兄弟である小百合が、主人に不利益をすることはないだろう。そう判断してもらったがゆえの、信頼。だから小百合は、主人のこの姿を知ることができた。
――あぁ、御労しや桜様……
なぜ、主人程の身分の御方が、身体を丸めて眠らなければならないのだろう。生前死後と主人のお立場を考えれば、こんな寝姿になるはずがない。
なにかを守るように丸くなって眠る主人。
生前死後と、このお姿を兄が見ていれば発狂して泣きわめいているだろう。そして、みっともない姿を見せながら、主人に寝姿の矯正を懇願するのだ。主人も主人で、兄には甘い。きっとその懇願を困惑しながら受け入れてくださる。
小百合は、それを知っていながら何も言わない。
主人のこの寝姿を知ってなお、これについて主人には伝えていなかった。伝えようか迷ったこともある。だが、主人に言っても困ったような雰囲気になるだけだろう。小百合は主人を困らせたいわけではない。
なにより――
――お可愛らしい
もう死んでいるゆえ、身体への悪影響はないだろう。例え何か害悪があったとしても、この世界で主人に害を与えられるものはない。主人を愛する世界の理が、身体への害悪を許すはずもなく。
「……おはよう、小百合」
「おはようございます、桜様」
マジマジ主人を眺めていれば、パチリと瞳が開く。
主人の寝起きは大変良い。よく眠られた時は言わずもがな。睡眠時間が短い時でさえ、寝起きの不機嫌を見たことはなかった。
今日もぱちりと目を開いて、小百合に朝の挨拶をされる。それに返せば、主人は一つ頷いて着替えを始めた。小百合は着替えを準備しつつ、さっさとベッドを整える。正直このタイミングでやらなければ、主人は整えてしまうのだ。基本的に自分のことを自分でできてしまう主人である。
「朝は何を飲まれますか?」
紅茶もミルクも用意してある。
「そうだね……紅茶を頂こうかな。ミルクとお砂糖も入れてほしい」
甘いのが飲みたい。そういう主人に小百合はサッと準備に取り掛かる。主人はその間にぬるま湯で整容をされ始めた。
まだ日も上っていない早朝。温かくて甘い飲み物を飲んだ主人は、皇帝としての服を身に着けて刀を持つ。最初の頃は代わりに御持ちします、と伝えたこともある。命と同じくらい大切な刀であることは重々承知。だが、少しでも彼女の役に立ちたかったというのが本音だ。
『女性である小百合の持つ物ではないよ。こんな危険な物、僕が持たせたくないんだ』
そうやんわり断られてしまった。主人がとても大切にしているものだと知っている。
無理に持たせてほしいわけではなかった。小百合のために持たせたくないという主人に泣きそうになったのは仕方ない。主人も女性であることを指摘することはしなかったが、本当ならそれを伝えたなかった。
皇帝桜の住まうミモザ宮の外門へ主人に控えて向かう。外門では兄が静かに主人を待っている。
――まるで忠犬ね
事実、外門に待つ小百合の長兄は、主人にのみ誠実だ。それ以外には負の感情を向けることが多い長兄は、主人のためにだけ存在している。本人もそう公言しているし、小百合もその考えは理解していた。
「おはようございます、桜様」
主人と同様に皇帝用の制服を身に着けている長兄が、主人へ最敬礼を取る。
「おはよう、凜夜。今日も良き日だね――顔を上げなさい」
穏やかな主人の言葉に長兄は顔を上げて主人を見る。小百合は知らないが、この二人を初期から見ているこの女性寮に属する彼女達は、この光景を穏やかに見ていた。最初の頃は「僕に最敬礼を取る必要はない」と主人が言っていたらしい。その言葉を無視して、最敬礼を取り続けていれば、主人が折れて今に至る。
その話を聞いた時に、小百合は笑ってしまった。
否、話しを聞いた時から、結末は分かっていたと言った方が良いだろう。
三つで一目惚れをし、五つで仕えられない真実を知り、七つで周りに諦めさせて主人に仕えた。本来ならば兄は主人に仕えることはできなかったのだ。長兄は小百合達の家の跡継ぎである。それゆえに、良家の主人に仕えられる立場ではなかった。だが、それを捨ててまで、長兄は主人に仕えるために血の滲む努力をしている。
――正しく、化け物
幼い頃から自分の持ち得るすべてを主人に捧げてきている。それはきっと、これからも変わらない。
「それじゃ、行ってくるね、小百合」
「はい、行ってらっしゃいませ、桜様」
外門まで主人をお送りすれば、小百合の朝の日課は終わる。これからは、再び主人の寝室へ戻り、清掃を行う。これからの業務も変わらない。
頭を垂れれば頭を撫でられる。最初は止めるようお願いしたが、彼女は止めない。スキンシップを取らない主人から与えられるそれ。ここに来た当初は意味が分からなかったが、主人と親しい他の皇帝達を思い浮かべれば理解できる。
――あの方達が主人に人と触れ合うことを教えたのでしょう
それは喜ばしいことなのだろう。きっとそれは小百合が喜ばなければならないことだ。
素直に喜べないのは、ここが死後の世界だから。死んだあとになって、初めて人と触れ合う温かさを知る。涙が出てしまったのは仕方がない。
「励めよ、小百合」
「はい、兄上」
二人の背中を見送ってから、小百合は今来た道を戻るのだ。