運命を捻じ曲げろ①
店に戻ってきた三人の表情は三者三様だった
山吹はしょげかえっていると言ってもいいほどに落ち込んでいるらしい。緩くウェーブがかかっていたはずの髪が、ぺったりと額に張り付いている。陽太を見ると、地面にもぐってしまうのではないかと思うほど、深く頭を下げてしばらく上げることがなかった。
陽太としては彼を責める気持ちはないが、運命の相手がどうのこうのと言った手前会わせる顔がないということらしい。
「まあ、運命の相手ではなかったかもしれないけどさ。とりあえずキクさまの力で縁は結べたわけだしさ、結婚はできるんじゃね?」
紅丸は多少がっかりした風ではあるが、店全体の雰囲気が悪いことを察したのだろう。チャラけた様子で陽太の肩を叩いた。
問題は水羽である。
帰ってくるなりずかずかと足を踏み鳴らして客席まで来ると、どすんとソファに座り込んでしまった。両腕を組んでむすっと唇を尖らせている様子から、どうやら怒っているということだけは分かる。
陽太が声をかけようかどうしようかと思っていると、ウカがひょこっとカウンターから飛び出した。
「どしたの、ミズッチ。なんかあった?」
ちょっと小柄なウカは、椅子に座った水羽と目線を合せるようにやや前かがみになる。顔を覗き込まれた水羽は、ぐぐっと唇を噛んだと思うと勢いよく立ち上がった。
「あの間男、許すまじ!」
怒髪天を衝く、という表現が妥当かどうか。とにかくとんでもない大声で水羽が怒鳴ると、店内の者はみな耳を押さえてのけ反った。
「ま、間男?」
「そうなんですキクさま! あの男、とんでもない男です!」
「え、ええ……そうね……陽太君の彼女を……ってことよね」
水羽の剣幕に慄いたようにキクが頷くと、違う違うと青いメッシュ頭が首を横に振った。
「あの男、本命の彼女がいるのに美月さんに言い寄ってるんです! とんでもない男ですよ! 私、ああいうヤツ絶対許せないんです!」
本命の彼女、と陽太は首を傾げた。床から額を離した山吹と顔を見合わせると、彼も分からないといった風に首を捻っている。紅丸はそそくさとウカを水羽から引き離した。何らかの被害を受けないとも限らない、と判断したのだろう。
ソファ席で水羽の対面に座っていたエビと呼ばれた小太りのおっさんが「水羽チャン?」とおそるおそると言った風に訊ねると、青メッシュはぎろりとそちらを睨みつけた。ひっ、とエビが竦み上がる。
ほかのテーブル席にいた客もなんだなんだと水羽の方を窺い始める始末だ。
「水羽ぁ……落ち着いて……どういうことなのよ」
仕方なくキクがカウンター席から立ち上がって水羽の隣へと移動した。宥めながら彼女を座らせ、自分もソファに腰かける。白いワンピースに包まれた体が、スプリングがへたっているソファに沈み込んだ。
促されるまま腰かけた水羽は、両手を膝の上で握っている。ぎゅうっと力を込めているのだろう。小刻みに震えているのがちょっと怖い。陽太は仕方なくまたカウンタ―席に腰を下ろした。
「すみません、取り乱して」
「いや、いいんだけど。あんたがそんなに怒るってことは、あの男――」
キクが語尾を濁すと、水羽はこくりと頷いた。
「あいつ、ああ、さっきご覧になっていた美月さんの隣にいた男、竹中って言うらしいんですけどね。あいつ、別の会社に婚約者がいるんですよ」
「ええ? それほんと?」
「本当です。スマホにやり取りが残っていました。くさいと思ったんで、覗いて正解でした」
さらりと危ないことを言ってのける水羽だったが、店内の誰もが口を挟まなかった。今何か言ったらまた怒り出す、そう思ったのかもしれない。
陽太だけはスマホの個人情報……とカウンターに置きっぱなしになっていた自分のスマホを抱え込んだ。
「で、それなのに会社では美月さんに言い寄ってるようです。こちらもスマホの中にやり取りの履歴がありました。見ます? 相当しつこいみたいですよ。美月さんのお返事はあいまいですが。それで竹中ってやつは今度の出張でキメるって計画してるようです。友人とのやり取りに残ってました。美月さん、出張の日程がおありですよね」
「今度の出張って……水曜日だ。今日、確かそんなこと言ってた」
陽太が思わず声を上げると、水羽はまた頷いた。
「体の相性が良かったら乗り換えようかなとか、いやセフレでキープしとこうかなとか、そういう思考のようですよ。女のこと、馬鹿にしてると思いません? これが怒らずにいられます?」
だんっ、とテーブルに小さな拳が振り下ろされた。
「そもそも牧野さん! あなたが不甲斐ないから美月さんがあんな奴に付け込まれるんですよ!」
「お、おう……いや、それは俺のせいじゃないし、その竹中って男が許せないのは俺も同じだし」
「ですよね!」
もはや水羽は怒りが頂点に達しているのか、感情がコントロールできていないようだ。どちらかと言えばこの状況においては陽太が怒っているべきなのではないかと思うが、人間、自分より先に他人が激怒しているとすっと落ち着いてしまうものだ。
「まあ、君の怒りは分かったよ。水羽……さんだっけ、まあちょっと落ち着こう」
なんで自分が宥めているんだろう。そんな風に疑問が浮かぶが仕方ない。しかし水羽は興奮が収まらないらしく、またテーブルを叩いて立ち上がった。
「私、許しません。怒りました」
「いや、水羽……あんたちょっと落ち着きなさいよ。山吹ぃ」
たまりかねてキクが金メッシュの少年を振り返ると、赤メッシュの少年と二人で肩を竦めて首を振っている。なるほど、店員の彼らにもどうやら彼女の暴走は止められないらしい。
「だめです、私、怒ってますから。美月さんの運命のお相手がどうこうなんてこの際置いておきますが、あの男だけは絶対許しません。ああいう本命の恋人や妻がいるくせにほかの女に手を出そうとするような奴、昔っから大っ嫌いなんですよね!」
ぶっ潰します。底冷えするほど冷たい声で水羽が宣言すると、何故か紅丸の隣でウカが小さくなった。ばつが悪い顔をしながら、うちの兄が……と頭を下げている。
しかし水羽はそれには構わずすたすたとカウンターの向こうに姿を消した。と思ったら奥の方からぶーんという。レトロな喫茶店には似つかわしくない機械の作動音がする。
「……すみません、牧野さん」
嵐が去ったかのようにすっかり静かになってしまった店内のフロアで、山吹が陽太に近づいてきた。
「ああ、いや……」
何を謝られているのか把握できずに陽太が首を振ると、しょげた子犬のような顔をして少年が陽太の小指を指さした。
「それ……運命のお相手が美月さんだ、なんてぬか喜びさせるようなこと言ってしまって」
ああ、と陽太は小指に巻かれた赤い紐に目を落とした。縁を結ぶと言われて巻かれた紐は、まるで血を吸ったかのように赤々としているままだった。
「これってさ、白いのが赤くなると運命の相手がいるっていったよね?」
「はい」
「まだ赤いってことはさ、これ、俺の運命の相手っていうのは美月じゃなかったってこと、かな」
先ほど金盥の水面に映った風景では、美月の小指に巻かれた紐は赤くならなかった。いつまで待っても白いままで、それを見たときには全身の力が抜けるような絶望感に襲われた。
しかし今はなぜか背中に感じていた重たい気持ちが晴れているような、そんな気がする。
山吹は陽太の小指の紐と、陽太の顔を見比べた。
「そう、ですね」
相手の紐が白いままでも結んでしまえば結婚できる、と言っていたのはウカだったか。でもお互いの色が揃わない以上、無理に結婚したとしてもいつか運命の相手とやらに出会ってしまったら――。
「できました!」
ちょっとしんみりした気分になっていたところだったのに、割って入るように水羽の声が店内に轟いた。姿を現した彼女の手には、数枚、いや数十枚の紙束だ。こちら側は白いけれど、裏側は何か印刷されているように見える。
なんだこれ、と紅丸が水羽の手からひょいッと一枚抜き取った。表に返して印刷を見ると、汚物を見るような表情に変わっていく。
「……水羽、さん……?」
「美月さんの隠し撮りと、竹中と友人たちのSNSのやり取り、そして婚約者さんとの写真。すべてあいつのスマホから拝借したデータをプリントアウトしました」
「……え?」
陽太と山吹は顔をしかめた紅丸から紙を受け取った。見た瞬間、二人ともうへえ、と同じように眉根にしわを寄せる。なになに、とほかの客も寄ってきた。
というわけで、と水羽がそのプリントを陽太の手から引き抜いた。
「この写真類を美月さんの会社と婚約者さんの会社にばらまいてきます!」
「ええ?」
「後生大事に証拠となるものをスマホに取っておくなんて、馬鹿な男です。ああいうやつはきっちり制裁されるべきです。両方の縁ともども、爆発四散すればいい! いってきます!」
ええ、と店内のみんなの声が重なった。
しかしその時には既に遅く、水羽は引き戸に猛突進している。カウンター近くに立っていた山吹が一番出入口に近かったが、虚を突かれた形で水羽に後れを取った。
「水羽!」
少女の肩をつかみ損ねた山吹の手がガラス戸にぶち当たった。
「ちょっと! ああ、水鏡!」
慌ててキクがカウンターに置きっぱなしの金盥を覗き込んだ。もちろん陽太も、山吹や紅丸も、ウカもエビも他の客もだ。一斉にカウンターに集まった客たちは、みんなで囲むには小さい盥の中に映し出される映像に目を奪われた。
「美月!」
そこに映し出されていたのは、さっき見たのと同じスーツをきた美月だった。街路樹の影もさっきと大差ない長さで、まだ昼休みの時間か。隣に立っている男――竹中のスーツにも見覚えがある。
「さっきと同じ時間? あれ、もう一人……」
山吹が水面に映る街路樹の傍を指さした。そこには、さっき見たときには居なかった別の女性が立っている。ふんわりとしたスカートを履いた、美月に比べるとちょっとだけふくよかな体型をしている女性は、憤怒の表情で二人に近づいていく。
「やだ、修羅場?」
「待て待て待て。水羽どこ行った」
「それよりほら! あの人の手!」
ウカが指した女性の手には何かの紙束が握られているのが見えた。いつの間にか対峙する美月の手にも、竹中の手にも同じような紙束がある。女性は足早に二人に近づき、そしてその紙束を振り上げた。
その瞬間だ。
ガコンッという固い音がしたかと思うと、カウンターに置いておいたはずの金盥の底に大きな穴が開いたのだ。
「あ!」
たちどころに水面の映像は消え、みるみるうちに盥から床へと水が流れ落ちていく。
あのままでは美月が殴られてしまうかもしれない。いくら何でもそれは理不尽だ。
助けなきゃ、と陽太が腰を浮かせかけると、ああ、というキクの悲鳴が上がった。穴に近いところにいたのだろう。もろに水を被って、白いワンピースがぐっしょりと濡れてしまっているではないか。
濡れた白い生地がキクの素肌に貼りつき、うっすらと下着の色まで透けている。まずい、と陽太は慌てて目を逸らした。しかし当のキクは下着の透けなど気にしている余裕もないようで、無造作にくくった髪を掻きむしった。
「ああもう! まずいよ、山吹! 紅丸!」
「まずいっすね」
あちゃー、と山吹は金盥を持ち上げて穴を覗き込んでいる。
「悠長なことやってんじゃないよ! 此岸の荒れた気がこっちに流れてきちゃったじゃない。この分だと他にも影響が出かねないわ」
「そうは言っても、この件を焚きつけたのはキクさまじゃないっすかー」
「うっさいよ紅丸! 水羽がこんなに怒る案件だと思わなかったんだってば! あの子が怒り狂ってるから、あっちの婚約者とやらも必要以上に怒りが収まらないはず。このままじゃあっちもこっちも大騒ぎになるわ!」
「大騒ぎになるって……なんで? どういうことですか」
陽太が訊ねると、キクの代わりにエビが口を開いた。
「牧野の。彼岸と此岸は表裏一体なんだ。ニンゲンの世界が荒れればこちらの世界も歪み、こちらの世界で争いがあれば人間の世界も荒れる。今向こうで起こっている修羅場もこちらに影響を及ぼすのさ。ほら、彼岸に近いこの店の金盥が壊れちまっただろ?」
陽太は穴の開いた金盥を見つめた。あんなどこにでもあるちっぽけな痴話げんかでも、ほかの物事に影響を及ぼすことがあるんだろうか。
しかしタイミングはばっちりだし、この店のみんなが言うならそうなのかもしれない。とすると、と考えているうちにカウンターの中でフックに引っ掛けていたはずのフライパンが派手な音を立てて落っこちた。
「ほら、な」
なぜかエビがドヤ顔をするが、ほかの面々は割と焦ったように壊れたら困るものを手に抱え始める。金盥に続いてフライパン。向こうではまだ争いが続いているらしい。途端に陽太は尻の据わりが悪くなった。
美月に何かあったらどうしよう。美月に怪我でもあったら。そう思うと居てもたってもいられなくなる。
ああもう、とキクは山吹をつまみ上げた。気配を察し逃げ出そうとした紅丸も、襟首をつかまれて立たされる。二人の立ち位置のせいか、何故か陽太までもが並ばされている格好になった。
「山吹、紅丸。頼む。水羽を止めてきて!」
ええ……と山吹と紅丸は嫌そうな表情を浮かべたが、陽太は一人力強く頷いた。
「俺、行って止めてきます!」
「えええ、牧野さんも行くんですかぁ?」
「おいおいおい、正義漢ぶるなって、おい」
「よく言った! さすがニンゲン! ほら、あんたたちも行っといで!」
ほかの二人は乗り気ではないようだったが、美月がいまどんな状況に陥っているのか考えると気が急いた。威勢よくキクに背中を押され、陽太は急いで引き戸を引いたのだった。