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雨上がりの逢着  作者: 水無月
5/5

エピローグ

六月


 目が覚める前からとっくに雨は降っていたようで、もう夏だというのに少し肌寒い。マンションの階段を重そうに下っていると、先に下り始めていたであろう住人がすぐ手前に現れ、このまま抜いてしまって良いものかと躊躇いながらも、軽く会釈をしながら逃げるように階段を下りる。外に出れば、いたるところに水溜りが落ちていて、ようやく慣れ始めた革靴を濡らしてよいものかと悩みながらも、あえて踏んでみる。悪くない。そうやって今日もあれこれ想いを馳せながら駅へと向かい、空模様をそっくりそのまま顔に吐き出す乗客たちの渦で流れた先では、他の列と比べてかなり空いていた。車内はため息や視線の置き場に悩む労働者であろうスーツ姿の男、雨で身だしなみが崩れ俯く洒落た女等々、無造作に並ぶ。あの頃にはなかった光景だ。上京してあれから何年も経ったというのに、いまだに感嘆してしまう。そういうわけでは、僕はまだ馴染んでいない旅行者に過ぎないのかもしれない。そうは言いながらも、身形だけは違うようで、シャツはかなりしわだらけである。雨の日は、とくにあれこれ思い悩んでしまう。彼女が去ったあの日以来、僕は駆られるように勉強した。何かやらねばならないと、熱が湧き上がった。それまでの世界は急に些細なものに想え、何か漠然としていて鮮烈とした何かが、僕が生きるただ一つの理由となっていた。彼女に芽生えた、あの頃の乾くような衝動は、いつしか恐れとなり、熱が平に移ろいでいる自分がいた。それでも、前に進み続けた。あの一瞬、空気が冷め始めようかという時に感じた、言いようのない心地よさを覚えた熱が、ひどく恋しいから。僕は確かに変わった。あんなにも鬱屈としていた色は自由を知った。誰も自分にそれほど視線を注ぐことはなくて、それぞれが何かに夢中になっていると。最初は随分戸惑ったけれど、案外気持ちのいいものだと感じている。それでも、今となっては大切にかしずいたこの熱を、持て余しているというよりは、誰かに逢いたいと想えたためしが無い。


それゆえに、今でもコンビニによく足を運ぶのかもしれない。それも、せわしない晴れの日ではなく、雨が打ちつけるような朝が訪れた日。そういうわけで、今日も仕事終わりに寄ろうとふと想った。時計の針は6時20分を指しているというのに、どういうわけか茜色の夕日が揺らめくように寄り道をしている。そういえば雨も止んでいるではないか。路面の水も薄くなり、雨の乾く香りがする。何か用事があるわけでもないのでゆったりとコンビニに入り、疲れきった頭にとアイスを買い、なぜか名残惜しそうに店を出る。なにか考えることもなく、慣れた足取りで傍の軒先のガードパイプに腰を下ろす。なぜか貰ってしまったビニールの袋からそっとアイスを取り出し、封を開け、口に運ぶ。この一口を食べていると、情景も相まってか、内の熱がわずかながら感じられる。その時、熱が揺らいだ。あの時以来の衝動が。躊躇いながらも、横を振り向く。女がいた。なんて奥ゆかしいのだろう。それでいて、夕焼けの花弁がよく映えている。違和感を覚えた。違うと僕の目は言う。それでも、この熱は確かだと答える。目元が熱い。そっと雫が溢れる。分からない。ただ、どうしようもなく身体が、心が、想いが熱い。その時、彼女はコーヒーを口に注いだ。澄ましてはいるが、それも悶えるような顔で。僕は思わず言葉を溢す。


「......夕... 日さん。」


彼女の瞳が見えた。茜色に彩られた瞳が揺らいだ。


「......は...晴くん。」


そう彼女が口にした瞬間、僕は抱きしめていた。


けれど、あの時みたく、激しいものではなく、和らげに。


「貴女に逢いたかった。」


彼女は清らかな雫を溢しながらも、熱くなった手を僕の頬にやり、震えるような声で、


「ただいま。」


僕らはまた出逢った。


けれど、この熱はきっと冷め止むことはないだろう。


夕日がそこにあるかぎりは。

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