ESP OUTSIDE
世界で初めてESPと呼称された能力が記録されているのは、第二次世界大戦後の冷戦時において、CIAによるモスクワでの諜報活動が困難とされていた際に、実験的に導入された超能力者によるものである。
冷戦末期に差し掛かった当時のソ連は敵対国であるアメリカ合衆国への最終手段として極秘の核弾頭搭載型大陸間弾道砲攻撃作戦を強行するも、CIA所属の超能力者によるESPにより計画は強制的に白紙に戻される事となる。
斯くして危惧されていた第三次世界大戦開戦の火蓋は切って落とされる事なく、未然に防ぐことに成功。だが、アメリカ政府はESPによる諜報活動及び軍事作戦に関して黙秘を貫いており長年その真意は不明のままであった。
ESP能力の代表的なものとして、遮断された情報又は超遠距離の物体を視認し情報を得る事ができる「超視覚」や物体に触れる事なく自在に動かす事ができる「念動力」等があるが、超能力者ごとに使用可能なESPは異なり、どれも各能力者によって発動時間、強度、発動条件は様々である。
ESPについて解明されている事は未だ少なく、ESP能力の使用者が世界にどれほど存在しているのか、そもそもESPは先天的な能力であるのか、もしくは後天的な能力なのか、後天的な能力の場合における発現条件の有無などについては全くもって不明であった。
時が流れ、実のところ、その話はアメリカ政府によるプロパガンダの一種なのではないかとの噂も囁かれていた頃、もしくは多くの人々がそれらを与太話の一つと捉え忘れていた頃、日本で起きたとあるESP犯罪を皮切りに、遂に2031年8月にアメリカ政府によって正式にESP能力と超能力者の存在が認められることとなる。
それは、人類の新たな可能性の顕現、驚異の時代の幕開けであった。そして、これから始まる物語は極々平凡な日本の男子中学生がESP能力を持つ同級生達と過ごす只々青春の物語である。
──五月十日、雲一つ無い晴天の朝、白い太陽が眩しい
澄んだ空気が心地よく、まだ冴えない頭が眠気に揺られている。僕こと深谷喜助は、今年の春から中学生になり、新たな人生の門出に胸を高鳴らせていた。とは言っても、小学生時代からの知り合いと隣の地区の小学生が集まっているのがほとんどであり、だいたいが見覚えのある顔ぶれなのだから、大した緊張感もなくのんびりと過ごしていた。
ただ少しのんびりしすぎたようで、本当に何事もなく一ヶ月が経過してしまった。まぁ、変なトラブルに巻き込まれたりとかあっても困るのだが。
朝のホームルームが始まり、教壇に立つ担任の先生が簡単に出席確認を済ませた後、今月の学校行事について話し始めた。
「今月は林間学校があります。知っている人も何人かいるかと思いますが、レンタルしたキャンプ場で一泊二日の森林体験をしてもらいます。各自配られたしおりによく目を通しておくように。班分けは、そうね……帰りのホームルーム迄にくじ引きを作っておくから、それで決めましょう」
クラス中がザワザワとした談笑で溢れかえる。それもそのはず、この林間学校という行事は僕の通う私立彩卵学園中等部の一年生にとって初めての野外活動でクラスの協力事なのだから。ただ僕のクラスに限って言えば、少し他のクラスよりも熱狂的な騒ぎであった。どうしてかと言うと、僕のクラスにいるとある個性的な生徒に関係することである。
そうそれが、大宮莉多という少女である。清楚で可憐、秀才で天才。彼女の生きた13年の人生で何度芸能界にスカウトされたのかは数えきれない。そして彼女の持つ優秀な頭脳は只の中学生の領分を超え、誰も彼もが彼女に教えを乞う。その上、彼女はとある大企業の創業者一族の箱入り娘で超が何個も付くほどの大金持ち。しかも、彼女はそれらを鼻にかけ天狗になる事も傲慢な態度を取ることも無く、誰に対しても人当たりが良く慈愛に満ち溢れている。非の打ち所が無く正に聖女、女神である。
この一泊二日の林間学校で彼女とお近付きになりたいと考えている者は後を断つことはないだろう。クラス中で男も女も関係なく彼女と交友を深める事で頭がいっぱいの様子だ。
因みに、もう一つ最後に付け加えるとしたら、そんな彼女は僕の幼馴染である。家が隣同士ということもあって昔はよく一緒に遊んでいた。ただ、この深谷喜助の幼馴染みという情報はあまり出回っていはいない。彼女を取り巻く大衆にとってこれは不必要な情報だという事なのだろう。
暫し治まりそうも無い喧騒に担任の先生は目を瞑っているだけ。僕はというと、あまりこの行事についてイマイチ乗り気にはなれないでいた。それというのも、僕の家はお世辞にも裕福とは言えない家庭である。聞くところによると、この林間学校というのは持参した食料やら道具で協力し合うイベントらしい。
あぁ、嫌な事を思い出す。小学生時代に遠足に持っていったお弁当が白飯と焼いたネギだけだった。どうせ焼くならもっとこう、卵とか肉とか色々あるだろうに。それからというもの、僕を昔から知る人からはネギスケと不名誉なあだ名で呼ばれている。学校行事とは時として残酷なものであると幼いながらに達観させられた。
「浮かない顔だな、喜助」
机に顔を伏せていた僕の背中をポンポンと叩いて起こし、良い笑顔で白い歯を見せるのは友人の熊谷篤。入学してから出会った男だ。たわいもない話を数回しただけだが何故か気の合う友達である。
「まあ、諸事情でね」
熊谷は僕の儚げな表情にニヤニヤしつつも深くは聞いてこない。嫌な気はしない。僕の家庭の事情は風の噂でなんとなく知っている様だが、追求されないという事がなんだか心地良い。
「せっかくなら、大宮と一緒の班になれたらいいな」
「そうだね」
そういえば、大宮さんとは中学生になってから話をしていないな。家が隣同士で幼馴染みだからか小学生のまだ三年生か四年生の時迄はよく遊んだが、いつの間にかそういうことはパッタリと無くなってしまった。きっと僕とは住む世界が違うのだろう。
一時間目の授業が終わり僕がトイレに向かおうと廊下に出ると、あの大宮さんがすれ違いざまに小声で話しかけてきた。花の蜜のような甘い香りがフワッと香り、僕は久しぶりに間近でみる彼女の顔にドキっとした。
「今日、貴方の家に行くから。首洗って待ってなさい」
僕のドキドキは甘酸っぱいトキメキから冷や汗滴る恐怖へと変わってしまった。脅しとも取れる様な言種にビビりながらも、久しぶりの会話がそれかと内心ガッカリしたのは僕の弱いところなのかもしれない。まったく、今時首を洗うなんて聞かないぞと思いつつ、迫り来る尿意を落ち着かせに僕は早歩きで場を離れた。
家に来て何をするつもりなのか、幸い僕の親は夜仕事に出掛けているため揶揄われる事は無いが。何故だろうかと考えつつチラッと大宮さんに目線を配るも、彼女は目も合わせてもくれない。
刻々と時間が経つ、中学生の初めの頃の授業なんていうものは大した内容は無く暇なものだ。かと言って居眠りでもしようものなら、小学校の時とは比にならないくらい怒られるので僕は欠伸で出た小粒の涙が溢れない様にグッと堪えて、ノートに落書きをしながら授業が終わるのを待つ。
「大宮さん、この問題分かるかしら?」
先生が小難しい問題を大宮さんに当てた。大宮さんはピンと背筋を伸ばし、淡々と聞かれた問いに答えていく。僕が頬杖をつきながら眺めていると、彼女は出された問題に全て正解し、クラスメイトから称賛と驚嘆の声を浴びていた。彼女はそれが当たり前の様に澄ました顔で優雅に席に着く。
彼女に見惚れていると、あっという間に帰りのホームルームとなっていた。担任の先生が教壇に立ち、ガサゴソと袋からくじ引き用の手作り感満載の箱を取り出した。
「それじゃあ、順番にくじ引きして下さいね」
前の席から順番にくじを引いていく。四人で一組という構成でいく様だ。仲良しグループで固まり喜ぶ女子や、入学してから初めて会話をするのかぎこちなさを醸し出す男子など様々な人間模様が出来上がる。しかし、やはりと言うべきか注目株は大宮莉多であり、彼女と同じ班になれた者は未だ出ていないようだ。
「次、喜助の番だぞ」
はしゃぐ熊谷に告げられ、僕はくじを引きに行く。くじ引きの結果については、できれば僕も仲の良い人達と組みたいなとは思っていた。少しドキドキしながらくじの中身を確認する。グループはAと書かれていた。
「おお! 同じグループか、良かったー!」
薄目でくじの中を見ていた僕の後ろにいた熊谷の笑い声が聞こえてきた。どうやら熊谷もAグループだったらしい。僕も熊谷と同じ班になれて少しホッとした。
全員くじを引き終わり、先生がワイワイ騒ぎ興奮冷めぬクラスをまとめようと話し始めると、それを遮る様に大宮さんが手を上げた。
「すみません。あの、Eグループって私だけですか……?」
大宮さんの発言でクラスが再びざわつき始める。僕のクラスは全員合わせて二十五人。四人で一組だと確かに一人余ってしまう。先生の方を見るとあちゃーっといったポーズで顔を背けた。
「えっ? あー……ごめんなさい。本当は一つだけ五人組の班にするつもりだったんだけど、間違えてたみたいね」
どうやら先生のうっかりミスの様だが、よりにもよって間違えて作られたEグループのくじがあの大宮にいくとは……クラスのざわつきは収まりそうも無い。ふと先生がチラッと僕の方を見てきて目が合った。すぐに目を逸らされたが、笑っていた様な気が……何故だろうか。
「そうですね、大宮さんは……Aグループに入ってください」
先生の一言でクラス中が湧く。主に一緒になれず落胆した声がほとんどであった。
「おお! あの大宮と同じ班か、ツイてるな! なぁ、喜助!」
熊谷はまた嬉しそうに手を叩いている。教室を見ると、周りの人たちも続々とくじを引き終わっていった。
「なんだ、熊谷と一緒かよ」
「深谷君、熊谷君……よ、よろしくね」
横からヒョコっと顔を出してきたのは、小柄で可愛らしい女子の蓮田翠。蓮田さんの横には彼女とは対称的でヤンキー風な女子の川口蕨がいた。川口さんは熊谷と小学校が同じだったらしく昔ながらの知り合いだ。
「宜しくね、川口さん、蓮田さん」
蓮田さんは極度の人見知りらしく、挨拶するだけで照れている。すぐに川口さんの後ろに隠れてしまった。なんだか小動物的というか、愛くるしい女の子だ。
「あら、もうみんな仲良しなのね! 私も仲間に入れて欲しいわ!」
溌剌とした眩しい声の主は大宮さんである。彼女が一言挨拶するだけで周りの人間を魅了しあっという間に場に溶け込んでいった。先程まで川口さんの後ろにいた蓮田さんも大宮と小さく握手をしており、横にいる川口さんもそれをニコニコと見守っていた。たぶん、これが尊いと呼ばれるやつなのだろうな。
下校のチャイムが鳴り響き、各々帰路に着く。家には母親が夜仕事の準備をしている……予定なのだが、やはりと言うかいつも通りというかまだ日が沈まない内は就寝中なのである。
「やれやれ」
僕は仕事前の昼食でも夕食でも、ましてや3時のおやつでも無い、腹拵えに丁度いいものを作り始める。油の跳ねる音なのか、それとも香ばしい肉の香りなのか、母は何かに釣られて起きて来た。まぁ、これもいつも通りの、予定調和というやつである。
「今日も美味しそうー」
呑気なセリフを吐き、いそいそとテーブルに着き箸を進める。美味しそうに自分の作った料理を頬張る姿を見ると嬉しくなるものだ。頬杖をつきながら暫く眺めていると陽気に誘われたのか、何だか瞼が重くなる。ウトウトとしていると、溜め息混じりの小声で「行ってきます」と言われた気がした。
今寝ると夜眠れなくなりそうだと、必死に頭の中身を掻き回すものの睡魔に勝つことは出来なかった。「睡魔、お前がナンバーワンだ……」などとふざけた捨て台詞が頭の片隅に出入りしたところで僕の意識は途切れてしまった。
目が覚めると、真っ暗な部屋に取り残されていた。カーテンを閉めずに出掛けたみたいで、月明かりだけが薄らと部屋に差し込んでいる。独りの夜には慣れてしまった。ノイズ混じりの脳みそを叩き起こし、シャワーを浴びて顔を洗って、また眠りに就いてしまおう。僕は開かない目を擦る。
それにしても体が重い。うまく起き上がることができない。そんなに疲れていたのだろうかと、自身の貧弱さに情けなくなってくる。
モゾモゾと態勢を整え再び起きあがろうとするも、やはり重い。だが、何だろうか、嗅ぎ慣れない甘い香りが鼻をくすぐる。でも、懐かしさも感じるこの香りは嫌いじゃない。いつかの日々が頭に過ぎる。僕は違和感からか眠気に抑え込まれていた意識を少しずつ紐解いていく。
「相変わらず甘い匂いがするのね」
不意に囁かれた声で体がビクッと跳ねる。目が暗闇に慣れ視界が拡がると僕の鼻の先には、大宮莉多がいた。というか、馬乗りになっている。彼女の長い黒髪が僕の頬に擦れ、じゃらし遊ばれている様な気になった。
「おはよう。ちゃんと首は洗ったのかしら?」
そういえば、来るって言ってたな。少しずつだが状況を理解していく。しかし、冴えない頭で考えるも何故彼女は僕に跨っているのだろうか。うん、分からない。
「おはよう。寝過ごしていたことは謝るよ。色々話したいこともあるんだけど、まずそこから退いてくれないだろうか? そして、今日はどの様な要件で来たのか聞かせてくれ。ついでにもう一つ、『首を洗う』というのは些か物騒なのであまり言葉にしない方がいいと思うよ」
「まず、私は謝られても今は貴方を許してあげないし、ここから退くつもりは無いわ。そして、今日来たのは大事なお話をする為よ。ついでに言うと、今日のお話はちょっぴり物騒な話をするから『首を洗う』ではなく『首を洗え』と解釈してもらいたいわね。つまり貴方には『覚悟』をしてもらわないと困るわ。その上で私の話をよく聞く事ね」
凄い。この人、全否定する事を躊躇わない人だ。しかも、オマケまで付いてるじゃないの。でも、僕は彼女を何か怒らせる様な事をしたのだろうか。思い付かないが、きっとそうなのだろう。
「わ、わかったよ。とりあえず、その大事な話っていうのが何か聞かせてよ」
彼女は急にグンっと顔を僕の顔に近づけてきた。まつ毛長いな、瞳に色素が薄いな、唇も……余計な思考で息が詰まる。
「林間学校のことよ」
「ふぇ?」
僕は今噛んだのだろうか、情けない音色が口から漏れた気がしたぞ。だから、僕の顔が紅いのは決して照れているとかやましい気持ちがあるとかでは無く、大事な話の途中で噛んでしまった事による申し訳なさなのだ。
「たった一つ、そうたった一つだけ、林間学校には問題があるのよ」
「問題? 林間学校で? 何だろう……あぁ、そういえば大宮さんって寝相悪いんだっけ」
「……問題は二つだったわ。そうたった二つだけ、林間学校には問題があるのよ」
問題が増えてしまった。とりあえず、二つ目のそれはしまっておこう。僕は彼女の寝相の悪さを思い出し少しニヤけそうになったが、一旦記憶の隅に追いやる事にした。
「一つ目の問題が何かを教えてよ」
「カレー。そう、カレー作りよ」
真剣に話す彼女の目は真っ直ぐに僕を捕らえている。しかし、何の思惑があってそんな事を言い出しているのか思考を巡らすも、さっぱり分からない。だって彼女は可愛いくて頭が良くて、お嬢様で、みんなから好かれていて、非の打ち所がない……あぁ、そういえば手先は器用じゃ無かったかも。
「……でもさ、カレー作りはみんなでやるものだし……ちょっとくらい下手でも大丈夫だよ」
「ちょっとくらい下手でも? ほんと貴方はいつも90点の男の子ね。いいかしら? 私は完璧美少女なのよ。一度の失敗も許されないの」
自分の事を完璧美少女と言い切る彼女。あながち間違っていないのが少し腹立たしい。というか、割と僕の評価が高い気がするが、これは気のせいなのだろうか。
「まぁ、事情は理解したよ。それで、つまり僕に料理を教わろうって事だよね?」
「やっぱり、85点ボーイね。料理ってのは腕だけじゃダメなのよ」
彼女は小さく人差し指で作ったバツマークを自分の口元に持っていく。うーん、一問5点ということですか。減点されてしまったようだ。それにしても、上機嫌だな。
「そう! カレーに必要な食材を集めるのよ! それも飛び切り極上の物をね!」
パッと手を広げはしゃぐ彼女はまるで幼い子供の様だ。あれ、大宮ってこんな感じだったか……うん、たしかにこんな感じだったな。もう随分昔のことだけど、あの時もよく手を広げて、はしゃいでいたよな。
「極上って、言うのは簡単だけど、当てはあるの?」
「当ては……あるわ! まぁ、それについては追々ね」
終始振り回されっぱなしだな。だけど、居心地は悪くない。和やかな雰囲気の中、僕はふと彼女の言葉を思い返す。あぁ、まだ物騒な話が残ってるじゃないか……それは是非聞いておかねばならない。あわよくば、首を洗う手間が省ければいいのだが。
「あの、大宮さん……聞きたくないけど、聞かないでいると落ち着かないから、一つ質問をするね。そろそろ『物騒な話』についても教えてくれないかな?」
「ふぅん……」
また少し彼女の機嫌が悪くなった。自分から尋ねるのは良く無かったのだろうか。前髪の隙間からジト目で睨む彼女に僕はたじろいでしまう。
「そんなに聞きたいならしょうがないわね。つまり、極上の食材を使い完璧な料理人として覚醒した私が行うカレー作り、これが万が一にでも失敗したらどうなると思う?」
「まぁ、ちょっと恥ずかしいとか、そんなものだろうね」
「そうね、そうなるわね。そして、完璧を失った私は絶望の余り命を絶ってしまうかもしれないわ」
そんな大袈裟なと思ったが、彼女の目は嘘をついている様に見えない。そこは嘘であってくれと、僕は人生で初めて人の嘘を願った。
「まぁ、仮に……万が一でもそうなったら、僕も目覚めが悪いなぁ」
「大丈夫よ。その時は、貴方が目覚める事は無いから」
おっと、ようやく「物騒な話」が出て来ましたね。驚嘆のあまり開いた口の塞がらない。すると、僕の震える唇を彼女はそっと指でなぞった。ドキドキが止まらない。いや、これは決して僕に跨り続けている彼女の仕草に興奮している訳では無く、突拍子もなく突然向けられた殺意に怯えているだけなのだ。
「うん、まぁ、分かったよ。僕にできる事なら何でも協力するから。今日は一先ず、お開きということで……」
小動物並みに高速で動く心臓のノイズを彼女に悟られまいと、僕は焦り彼女を突き放した。
きっと君は「キャッ!」なんて可愛い声でびっくりするだろうから、すかさず「ごめん!」と謝ろう。よし、シミュレーションはバッチリだ……あれ、おかしいな、全然動いてない。微動だにしない。
「……そろそろ、退いてもらってもよろしいですか?」
「嫌よ。まだマーキングは終わってないわ」
マーキング……動物が縄張りを示す行為として自分の体を擦り付ける等して匂いを残す事。
「マーキングって……ますます意味が分からないよ」
「だって、スパイスの匂いに侵されて、私の匂いを忘れられたら嫌だもん」
この子どれだけ僕にカレー作らせる気なんだろう……一瞬でもドキドキした自分が情けなくなるな。彼女は僕のシャツがクシャクシャになるまで握りしめている。顔を埋める彼女を無理矢理退かす事を一瞬躊躇ってしまった僕は、ゆっくりと天井を見つめる事にした。暫くこのままにしておくか……気が済んだら帰るだろう。
──五月十一日、相いも変わらず体に悪そうな太陽が白く輝く
朝になった、なってしまった。日が眩しい、チカチカと光が差し込み、思う様に目が開かない……今日も晴れているな、雲一つない青空だ。後ろを振り返らなければ、いい気分のままだ。まだ急ぐ事は無い、時間はあるはず……まぁ、そうは言っても、見てしまうのは人間のサガというもので……あぁ、大宮さんがスピスピ寝てらっしゃる。もう……寝相が悪いなぁ。まさか、本当に帰らないとはね。すぐ隣の家だから油断したのかな、伏線回収にもならない起承転結が一瞬で我が家で起きてしまったな。
母親が帰ってくる前に何とかこの状況を誤魔化さなくては。そう思っている内に、ガチャガチャとドアの鍵を開ける音が聞こえてきた。あぁ、本当に起承転結が早い。というか、転が無い。ショートカットされた四字熟語に追いつけるほど僕の脳みそのスペックは高くないんだ。
「おはようございます。深谷さん。お邪魔しています」
先程まで寝息を立てていた少女が寝癖の一つもない整った顔で、僕の母親に挨拶をしている。あたかも、朝用事があり迎えに来ましたみたいな顔で、ジャージを着たまま寝起きの僕の支度が終わるのを「待っていたのですわ」と言わんばかりの顔で、彼女はそこに立っていた。
「あら、おはよう! 久しぶりね!」
疲れた顔をしていた母親が彼女を見て急に声を高くした。二人がリビングで談笑している内に、顔を洗って歯を磨き準備を終わらせる。新聞配達に行く時間も迫っているし、何より僕が余計な事を言いそうで怖い。彼女はこういう時は上手くやるんだ、羨ましい限りだね。着替え終えた僕は外の自転車目掛けて小走りで部屋を駆ける。
「それじゃあ、深谷くん学校でね」
彼女の合図で僕は家を出た。どうやらバイト終わりに学校に寄れということらしい。休日の崩れる音が聞こえてきた。
新聞配達のバイトを軽くこなして、僕は彼女の待つ学校へ向かった。古い自転車はパンク寸前だが、気にせず走る。通り抜ける風が滑らかで気持ちがいい。
「遅かったわね。いつまで待たせる気なの?」
「これでも、急いで来たつもりなんだけど……」
いつもの教室で、いつもの席に大宮莉多は座っていた。彼女はむぅっと口を尖らせて、見せつける様に不機嫌な態度を取る。時計の秒針は静かに回り、暫し沈黙が流れる。
僕は焦り、平謝りをすると、グデっとだらけていた大宮さんがピシャリと起立する。見下ろす様に笑う彼女に顔を見て僕は確信する。やはり、揶揄っているに違いない。
平然と優雅に教室に佇む彼女は素早く僕の手を引き、家庭科実習室へと向かった。暖かく柔らかい彼女の手は僕の手を握り締め離さない。
「さぁ、今日は貸し切りよ。思う存分、私に教えなさい」
おおよそ人に教えを乞う人間の態度では無いなと思いつつ、僕は手際良くカレー作りを始めた。自慢じゃないが、我が家での家事は僕が担当している為、料理は得意なのだ。まあ、だからこそ大宮莉多は僕を推薦したのだろう。でも、他の班になってたら誰に教えてもらうつもりだったのだろうか。何となく他の男といる姿は想像したくない。
あれこれ考えている内にカレーの香ばしい匂いが教室中に充満する。なんて食欲をそそるのだろうか、今日は朝ご飯も食べずにいたから余計に美味しそうだ。
「本当に上手ね」
珍しく彼女が感心している。よし、僕の自尊心は満たされた。さてさて、およそ一通り作り方を教えたつもりだ。後は彼女が作っている横であれこれ指摘をするだけだ。とは言っても、カレー作りにおいてはそうそう口を出す事は無いだろうが。
彼女は黙々と僕の真似をして2杯目のカレーを作りはじめる。手順は間違っていない。ただ、隠し味なのか……そう思える程に指をザクザク切り血を流している。袖に辻斬りでも飼っているのか、不器用にも程がある。
「ちょ、ちょっと待って! 危なすぎるよ!」
流石に見てられない、いやこれは僕も悪かった。素直に謝ろう。もっと早くに止めるべきだったな。玉ねぎもジャガイモもルゥに入れる前から赤黒く染まっているではないか。そして、大宮さんは何故そんなに平然としていられるんだ。
「ほら、手貸して!」
僕はさっと彼女の手を取り、消毒と手当てを施す。彼女は大人しく僕の包帯裁きを見届けていた。あくせくと手当てをする僕を見て何故だか彼女は嬉しそうにニンマリと微笑んでいる。手当てを終え、再びカレー作りを始める。何度も何度も練習を繰り返す。
「包丁を使う時は、添える手を猫の手にするんだよ」
「猫の手? あらあら……喜助君、それはあざと過ぎないかしら」
隣でニャアと招き猫のポーズをしている君の方があざと過ぎると思うのだが……可愛い過ぎるので黙っている事にした。
「……作り過ぎじゃない?」
僕が彼女にふとした疑問を投げかけるも、彼女は知らん顔でそっぽを向いた。仕方ないので、皿に盛り付けセッセと食べ片付ける事にした。少食では無いが、この量は多すぎる。フードファイターを目指すつもりは無いのだが……あれ、大宮さん笑っているよね?
「頑張れ♡ 頑張れ♡」
黙々とスプーンを口に運ぶ僕を見て、彼女はニコニコなのかニヤニヤなのか、どちらにせよ機嫌良さそうに頬を緩ませている。
なんとか完食し、腹がパンパンに張り詰める。それにしても、よくこれだけの食材を集めたというか、運べたものだと変な関心をしてしまう。
「お粗末様です。私はお昼から用事があるから今日はここまでにしましょう」
洗い物をパパっと片付け、彼女は颯爽と去っていった。「お粗末様」とは本来僕から発せられる台詞なのだが……だってほとんどの調理は僕がやったのだから。むぅ……まるで台風だな。取り残された僕は、暫くの間そこから動けずに只々消化が早まることを考えていた。
「あれ、喜助じゃないか。休みなのに学校とは真面目だな」
ガラガラと開いたドアから熊谷が手を振っている。熊谷は土日も部活練習に励んでいる様で、少し泥のついたユニフォーム姿で登場した。汚れた服装だからか、教室の中までは入ってこないところが、むしろ君の方が真面目だなとも思う。
「ちょっと、料理の練習をしててね」
大宮さんの名前は伏せておく事にした。彼女も完璧である為に練習をしている訳で、となれば、あまり練習している事は周りに悟られたく無いだろう。よし、これで一つ貸しができたぞ。
「もう帰るだろ?」
「うん、今日はもう帰るよ」
「それじゃあ一緒に帰るか。あー、腹減ったなあ」
こういう時には無性に申し訳なくなってしまう。仮に僕が牛で、僕の胃袋が四つ有れば、このパンパンに詰まった胃袋の一つや二つ分けてあげてもいいのだけれど、そうはいかないんだ、すまん。
帰り道、熊谷は当たり前のように買い食いをしコンビニの肉まんを頬張っていた。
「そうだ、せっかくだし俺の家寄ってくか?」
熊谷から誘いを受けた。断る理由はない、むしろ中学生になって初めて行く友達の家にワクワクする。熊谷の家の地区は僕の家からは少し離れており、よほど用事が無ければ行く事は無い。見知らぬ道路は、独りだと心細いが二人なら恐るものはない。
「ただいまー」
熊谷の家は、よくある戸建住宅でまだ新しいのか白い外壁が光って見えた。玄関を開けると整理された靴箱が目に入る。靴を脱ごうと上り框に腰をかけると、熊谷のお姉さんらしき人がパタパタと駆け寄ってきた。
「あっくん! 泥まみれで入るとまたママに怒られるよ!」
熊谷は面倒臭そうな顔をしながらも、お姉さんの言う事を忠実に聞いている。お姉さんの言う事は絶対なのだろう。その場で服を脱ぎ、お姉さんの持ってきた洗濯直後のキレイなジャージに着替えた。
「お、お邪魔します……」
それにしても、凄い美人だな。モデルでもやってるのだろうか、スタイルもいいし、何というか華がある。見たところ高校生だとは思うが、とても大人っぽい。あぁ、よりによって今日の朝はバタバタしてしまっていたな。寝癖が残ってないか今になって気になってきたぞ。僕は手で後頭部を触り跳ねた毛が無いか確かめてみた。大丈夫そうだ。
「あら、いらっしゃい。ゆっくりしていってね、深谷君」
僕に気付いた熊谷のお姉さんはニコリと微笑んでくれた。この笑顔だけで、今日を頑張れそうな気になる。あれ、でも何で僕の名前を知っているのだろうか。熊谷が僕のことを話していたのかな。
「熊谷のお姉さん、美人だね」
「よく言われる。喜助……お前、あーゆうのがタイプなのか?」
テレビゲームをしながら、熊谷はぶっきらぼうに聞いてきた。好きなタイプか……あまり考えたことなかったな。少し自分の好きなタイプについて悩んでみると、何故か僕の頭には大宮さんの笑顔が思い浮かんだ。最近、また仲良くしているからだろうか。まぁ、遊ばれているだけの様な気もするが。
「……そういう熊谷は、好きな女子とかいるの?」
「俺? そうだな……うーん……ていうか、俺のことは篤でいいよ。俺だけお前の事を名前で呼んでるのはフェアじゃないだろ」
名称に不正をした覚えは無いが、友達らしいやり取りが実は嬉しかったりもする。なんだが、少し誤魔化された様な気もするが。
それにしても篤はゲームが得意なのか、今日発売されたばかりなのに最も簡単にクリアしてしまった。死にゲーなんて呼ばれるコアなファンも多い作品らしいのに、凄いなぁ。気が付くと夕方まで遊んでいた。日が落ちるのはまだ早く、夏は遠い様だ。
そろそろ母親の起きる時間だ、早く帰らないと。また遊びに来る約束を取り付け、篤とは玄関で別れた。さて、今日は何を作ろうか悩むところだが、林間学校が終わるまではカレーは無しにしよう。
「ただいま……あれ、もう出かけたのか」
帰宅すると、家の中はガランと澄んだ空気だけが残っていた。少し遊び過ぎたのだろうか、母親は何も告げずに既に出勤していた。寝起きにお腹が空いたのか、何か作り置きでも漁っていた様で冷蔵庫の中が散らかっている。
いつも通り料理をするつもりでいたが、その必要は無くなっていた。急に予定が空くと寂しいもので、買ってきた食材を疎になった冷蔵庫の中に敷き詰めると僕の今日の仕事は終わってしまった。お腹は空いてる様な気もするが、何故だか作る気にはなれない。
僕がソファに腰を下ろしだらけていると、性懲りも無くアイツがまたやってきたよ。睡魔とかいう厄介な奴が。だが、僕はもう戦わない。目を瞑ると、意識がフワッと持ち上がり、段々と落ちていく。沈む思考は脳に留まり、閉じた瞼の裏側に暗闇が入り込む。
昨日よりも鮮やかに明確に甘い香りを感じる。体が重い。腕も痺れているせいか、指先の感覚が鈍い。
「起きてるんでしょ?」
またしても、大宮さんが僕に跨っている。ソファにもたれかかった僕をギュっと抱きしめる様に彼女は僕の上にいる。彼女のポカポカと温かい身体からは、少し速い鼓動が伝わってくる。もしかして、彼女も緊張しているのだろうか。ただ彼女以上に速い鼓動の僕は、再び今日は何をされるのだろうかと悶々とさせられ身動きが取れない。
いや、決して期待なんてしてなかった。今日も寝てたら、もしかしたらなんて微塵も考えてなかったよ。誰かに責められた訳でも無いのに、心の中で僕は言い訳を繰り返す。そう、勘違いされても困るから今は寝たふりを続ける事にしているだけなのだ。
「ふぅん……そういう態度取るのね」
彼女はそう言うとグっと僕のお腹の辺りまで登ってきた。唐突に僕の襟をずらして下げると、首をカプリと噛んできた。生温い舌が僕の肌を擦る。
「ふぇっ……」
「おはよう。今日も首洗ってなかったのね」
随分と首を洗う事を催促してくるが、そんなに僕はこれから起きる何かに覚悟をしなければならないのだろうか。それとも、文字通りの意味で首を洗えと言う事なのだろうか。そうだとしたら、なんだか物凄く恥ずかしいのですが……ところで、僕の首は何味だったのでしょうか。
「おはようございます」
僕は不思議と敬語で呟いてしまった。彼女は不服そうに拗ねたように、先程よりも強く反対側の首を噛む。垂れた唾液が襟ぐりに染み込み、冷たい。
「大宮さん……首がベタベタだよ。何か悪い事をしたなら謝るから、今日こそは退いてくれないかい?」
「喜助君が謝る必要はどこにもないのよ。でもね、今日も私は退いてあげない」
今日は昨日よりも強く体を擦り付けられている。スクールカーディガン越しに彼女の慎ましい胸が僕の貧弱な胸部と接触する。彼女の甘い匂いで頭がどうにかなってしまいそうだ。良い事をした覚えは無いが、悪い事をした覚えはもっと無い。しかし、確実に言えることは、良い思いはしているということだろう。
──五月十二日、雲が多く外は灰色に包まれている
結局、今日も朝まで彼女は僕の上にいる。靴下が片方だけ脱げ、とっ散らかった格好で上手に僕の上に収まっているのだから不思議なものだ。
さて、今日は何と言い訳をしようか。妙に冷静な頭で考える事ができるのは、彼女の寝相の悪さに安心感を覚えた事が起因なのだろうか。でも、この状況って言い訳のしようもないよな等と諦観すらも冷静に分析する。
しかし、僕の心配を他所に母親が帰って来ることは無かった。なので、まだスピスピと寝息を立てる彼女に「行ってきます」と挨拶をする事もできたし、寝癖を整える事もできた。僕は今日も新聞配達に向かう。もし遅れて帰ってきた母親が彼女を見たらどう思うのだろうか、不安とワクワクが同居する。
日曜日の暗い朝はまだ人気が少なく、道が空いていて走りやすい。普段なら自転車を降りて押さなければならない路地も今日はスイスイと行ける。手際良く新聞配達を終わらせて、僕は一息吐く。甘い缶コーヒーが喉に染みる。何だか最近、いつもと違う日が起きていて地に足がつかない。悪い気はしないけど。
昼に差し掛かるものの、一向に雲が流れる気配は無い。どんよりとした空気の中、新聞配達終わりの買い出しを済ませ家路を急ぐ。駆け足気味にペダルを踏むせいか、足の裏が少し張ってくる。
「あ、深谷君」
信号待ちをしている僕に誰かが後ろから話しかけてきた。反則級の上目遣いをした蓮田さんが買い物袋を持って僕の後ろに立っていた。少し目線の高くなった僕はすぐに自転車から降りて挨拶を返した。
「こんにちは、蓮田さん。えっと、買い物?」
「そ、そうだよ。深谷君もお買い物してたんだね」
蓮田さん随分いっぱい買いこんでるなぁ。大家族なのだろうか。それにしても、蓮田さんの私服姿を見れたのはラッキーだな。可愛い。今日の天気は暗いが、僕の心は少し晴れた気がしたぞ。うん、とても可愛い。
「ぁう……」
蓮田さんは紅潮した頬を隠す様に俯きながら両手で顔を覆ってしまった。ジロジロ見すぎてしまったようだ。申し訳なく思う。
「い、いや……深谷君が謝ることじゃないよ……」
再び上目遣いの蓮田さんが、小さく丸まりながらもフォローしてくれた。というか僕は今、口に出していたのか。それよりも、モジモジと緊張を紛らわす為に手遊びしている仕草も小動物的でますます可愛いな。うん、とても可愛い。
「林間学校、楽しみだね」
「え? うん、楽しみだね」
取り敢えず蓮田さんが何故だか上の空で落ち着かなそうなので、共通の話題を振ってみることにした。蓮田さんも林間学校を楽しみにしている様だ。こうやって周りの人達が楽しみにしており姿を見ると、余り乗り気でなかった僕も少し楽しみになってきた。もしかしたら、僕は影響を受けやすいのかもしれないな。
「深谷君って優しいね」
並んで歩いていると唐突に蓮田さんが褒めてくれた。そう思ってくれるのはありがたいことだが、何か特別に優しくした覚えは無いんだよな。こういう時は何て返すのが正解なのだろうか。うーん、先日、大宮さんからは85点の男だと言われてしまったし、この問題は是非正解して今日は100点を取りたいぞ。
「あ、私の家こっちだから。また明日学校でね、バイバイ」
勝手にあれこれ考えているといつの間にか、それぞれの家路の分岐点にまで来ていたようだ。答えは一旦保留にして、僕は蓮田さんが見えなくなるまで手を振った。
蓮田さんの姿が見えなくなり、僕はポツンと道端に佇む事となる。一息吐いて僕はまた自転車に跨り、ペダルを漕ぐ。
「おっ! 深谷じゃん! やっほー!」
今度は軽快で明るい声が聞こえて来た。またしても信号待ちをしている僕に誰かが後ろから話しかけてきたのだ。振り返ると、そこにいたのは、またまた林間学校で同じ班の川口さんだった。今日はよく人に会う日だなと思いながら、僕は自転車から降りて挨拶を返す。
「あれ、深谷の家ってこの辺なんだっけ?」
「そうだよ。まだもう少し歩くけどね」
僕は並んで歩く川口さんと他愛もない会話をする。そんな川口さんの見た目は、少し怖いヤンキー風な女子である。ただ、あくまで、「ヤンキー風」であって「ヤンキー」では無い。僕が中学生になって初めて会話をした女子というのが実は川口さんなのだが、その時の事はよく覚えている。
入学式が終わり、僕はその日は家でくつろいでいたんだ。入学式は午前中で終わったから、夕方過ぎにスーパーに出掛け安くなった食材を買ったんだけど、少し買いすぎたのか袋がパンパンに張り詰め重かったことも覚えている。そういう日に限って急に天気が悪くなるもので、疎に雨も降り出していたな。僕が小走りで家に向かっているときに、ふと脇道に置いてあったダンボールを見ると、子猫が丸まくなって震えていたんだ。
「そういえば、あの時の猫は元気?」
「ああ! あれから病院にも連れて行ったけど何も問題無し! 元気過ぎて困っちゃうくらいだよ!」
僕が蹲る子猫を見て、どうしようかと悩んでいたところに来て助けてくれたのが川口さんだったのだ。川口さんは雨に濡れて今にも破けそうな汚いダンボールをヒョイと担いで家に持って帰って行ったんだ。あの時、川口さんと会ったのもこの辺りだったな。
「川口さんって篤と仲良かったよね。同じ小学校なんだっけ?」
「あー、まぁ、仲が良いというか腐れ縁って感じかな。家も近くてさ、昔はよく一緒に馬鹿なことして遊んでたんだけど……最近のあいつ妙にませてるっていうか……大人っぽくなったっていうか……」
熊谷の話をすると川口さんは何故だか分からないが少し顔を赤らめて俯てしまった。僕は篤と川口さんの関係は少し、僕と大宮さんに似ているのかもしれないなと思ったが、顔を赤くする川口さんを見て少し野暮だったかもと反省した。
「それじゃあ、僕はこっちの道だから。また学校でね。猫にもよろしく言っておいてよ」
「ああ、またな! あいつも深谷に感謝してたし、今日会ったことは伝えておくよ!」
川口さんって家では猫とお喋りしてるんだ、ちょっと見てみたいかも。僕はそれから真っ直ぐに自転車で進み家に帰った。まだ母親はいない。今日の帰りは遅いのか、どこかで泊まっているのだろうか。買ってきた食材を冷蔵庫に詰め、ソファに座り一息吐く。
「おかえりなさい」
「うわ!」
大宮さんが真後ろから声を掛けてきた。まさかまだ部屋に居るとは思わず、僕はびっくりして素っ頓狂な声を上げてしまった。恥ずかしい。
「『うわ!』なんて挨拶はないのよ、喜助君。『ただいま』でしょ?」
「ただいま……いや、何でまだ家にいるのさ」
「誰も居なかったら寂しいと思って」
たしかに大宮さんがいて少しホッとした自分もいるが、なんか悔しいな。そして今日も何かに付き合わされるのだろうか。期待と緊張がグルグルと頭の中で交錯する。ニヤリと笑う彼女を見てしまうと、僕は胸の高まりが止まらないのだ。
「喜助君、今日はね、ジャガイモ掘りに行くわよ」
彼女は僕が二息目を吐く前に、僕の手を引っ張って外に駆け出した。不思議と心は軽く、彼女の突発的な行動にも順応する。しかし、手を引かれ着いて行った先はどうにも果てしない大地で、僕は息を呑んだ。
「ここは?」
「私のお祖父様の畑よ。好きに掘っていいわ」
好きに掘っていいと言われましても、ジャガイモ掘りなんて小学生の低学年のとき以来だ。どこに埋まってるのか皆目見当もつかない。
「因みに、只のジャガイモじゃあダメなのよ。究極のカレーを作るために用意する至高の食材、『黄金のおジャガ』を見つけるのよ!」
黄金のおジャガ……ゴールデンポテト、スーパーにもありそうな名前だな。しかし、あの大宮さんが言うくらいなのだから本当に凄い物なのは間違い無いだろう。よし、ここまで来たなら僕も腹を括るしかないな。頑張って探すぞ。
「その『黄金のおジャガ』っていうのは普通のジャガイモと何が違うの?」
「見たら直ぐに分かるわ。だって金色にピカピカ光り輝いているのだから」
そんなもの食べれるのだろうか、やっぱり不安になってきたな。だが、今更どうこう言っても仕方ないので、僕は一抹の不安は頭の片隅に押し込むことにした。まぁ、無くなったわけではないのだ。さっそく僕は腕まくりをし、腰を下ろした。彼女はそんな僕を見てニコニコと微笑んでいる。今日も上機嫌だ。
「大宮さんも掘るよね?」
「……流石、喜助君。やる気マンマンね」
あっさりと流されてしまった。まぁ、想定の範囲内だ。僕はせっせと手を動かし土を掘る。ジャガイモを傷つけない様に掬うように優しく、且つ力強くスピードを意識する。うーん、なんだか楽しくなってきたぞ。
「……本当に光るジャガイモなんてあるの?」
かれこれ数時間は掘った。空は相も変わらず雲で覆われているが、辺りはすっかり暗くなっている。風が冷たく、滴る汗で余計に体が冷える。
「あら、もうギブアップ? 喜助君、貴方いつからそんなに弱々君になってしまったの?」
ぐぅ……そこまで言われると、辞めるとは言い辛いな。それにふと「物騒な話」をされた事を思い出し、僕は身震いする。いや、これは決して怖いとかビビってる訳じゃなくて、夜になってちょっと寒くなっただけなんだ。
僕が言い淀んでいると、彼女は急に何かを思いついた様にパッと悪戯な笑みを浮かべる。僕は嫌な予感がしたので、一度目を背けつつ少し時間を置いてチラッと彼女の顔を見た。満面の笑みであった。もし彼女が月なら今日は満月だ。それほどまでにいい笑顔の彼女には、もう不安しかない。
「もし、喜助君が今日中に『黄金のおジャガ』を見つけることができたら……とーっておきのご褒美をあげるわ!」
「とーっておき……? 具体的に聞きたいんだけど……」
「言ってもいいけれど……今言っちゃうと思春期の喜助君は悶々としちゃって逆に手が動かなくなっちゃうから、まだ言えないわね」
まったく……彼女が僕の事を揶揄っている事は分かっているんだ。分かってはいるんだ。だけど、期待せずにはいられない自分が悔しい。ご褒美の事で頭がいっぱいだ。うーん、すまん。いや、僕は誰に謝っているんだ。あぁ、思考が滅茶苦茶だ。
取り敢えず僕は浮かれた気持ちを悟られないように黙って手を動かすことにした。あくまで、しかたなく、彼女のわがままを聞いているという体裁でいなければならない。だがしかし、ご褒美とは一体何なのだろうか、ご褒美の事を考えない様にすればする程、昨日の夜と一昨日の夜の事が頭の中でグルグルと目まぐるしく廻る。
「手を止めてはダメよ。ほら、頑張れ♡ 頑張れ♡」
いや、僕は決してやましい事等考えてはいないぞ。そうだ、僕は彼女が完璧に林間学校をこなすための手伝いをしているだけなのだ。僕の事を馬車馬の様に働かせる彼女は、一人暖かそうなコートを着込み、制服の下には真っ黒のストッキングを履いて健気に応援してくれている。僕はといえば、学校指定のジャージに無地のティーシャツを肌着として着ているだけ。パンツはトランクス、ブリーフは遥か昔に卒業したのさ。
「やれやれ……」
声が震えて恥ずかしい。僕は自分の顔が紅くなるのが手に取るように分かり、それは余計に僕を恥ずかしめた。
「あれ、何だこれ?」
破れた軍手から少し顔を出した僕の指先に何か硬い物が触れた。僕は今一度ボロボロになった軍手をピンと履き直し、土を掘る。ほつれた編み目の隙間から黒い土が爪に潜り込むが、不思議と今は気にならなかった。石でもなく植物でも昆虫でもないそれは、ピカピカと光り輝いていた。目を丸くしながらも僕はそれを掘り起こし、手に取ってみる。
「凄いわ! 喜助君、貴方は本当に見つけてしまうのね!」
大宮さんがはしゃいでいる。ということは、これが「黄金のおジャ」なのか。しかしこれは、ジャガイモというには余りにも歪なのではなかろうか。僕の手の上にコロコロと転がる金色のそれは、大量の歯車が喧しく動き、秒針の様な細い金具が高速回転する中であちらこちらから蒸気と光がブンブン放たれている。こんな物口に入れたら、とんでもないことになるぞ。
「大宮さん、たぶんこれはジャガイモじゃないよ」
一応申し訳なさそうに教えてあげることにした。しかし、彼女は僕の持つそれが本当にお目当ての物だった様で、パタパタと僕に駆け寄り僕の事をギュッと抱きしめてきた。ここまで喜んでもらえるなら、寒空の下でその金色に輝く到底ジャガイモとは呼べない何かを探し当てる事ができたのは、僕にとっても嬉しく思う。
「さあ、早く帰りましょう。こんな寒い日の夜中に外に出てると風邪を引いてしまうわ」
大宮さんは僕の手を引っ張って自分のポケットに押し込んだ。軍手を脱いだ僕の手は汗と泥で、普通なら嫌がられると思うのだが、彼女は全く意に返さずポケットの中で僕の手を握る。妙に火照った今の僕には、冷たい彼女の手が気持ちいい。
──五月十三日、今日も曇り空が続き朝露が灰色に浮かぶ
結局昨日の夜にも母親が帰って来ることは無かった。あの大宮さんはというと、上機嫌のままに彼女の自宅に帰り一言「おやすみ」とだけ言って家の前で別れたのであった。僕は目が覚めてからも帰り道に繋いだ彼女の手の感触が未だに残っているようで、少しドキドキと胸が高鳴っていた。僕は速くなる鼓動を抑えながら新聞配達を簡単にこなしてから直ぐに学校へと向かった。
「おはよう! 喜助!」
学校に着くと僕より少し早く到着していたのか篤がいた。今日はいつも以上に元気が溢れている。いい休日でも過ごせたのだろうか。僕も軽快に挨拶を返し、談笑し合う。
ふと教室を見渡すと大宮さんが友人達と昨日のテレビドラマの話で盛り上がっていた。彼女は途中チラッと僕の顔を確認する様に目を向けてきたが、何故か目を合わせてはくれない。これもいつもの事ではあるのだが、ここ最近一緒にいる事が多かっただけに少し寂しい気持ちもある。
午前中の授業が終わり昼休みに入った頃、僕は給食を食べ終えゆっくりと教室で寛いでいた。今朝迄の憂鬱な曇り空はすっかり何処かへ消え去り、燦々と太陽が輝いている。春風が窓から通り抜け、爽やかな心地良さが僕の体に染み渡っていく。つまり、お腹が膨れて眠くてしょうがないという事である。
「おやすみ」
誰かの声が聞こえてきた気がする。
ぼんやりと泥濘みに浸かった脳みそを引き上げ目を覚ますと、辺りは真っ暗な闇に包まれていた。独り、教室で眠ってしまっていたのだろう、だが誰も居ない教室に夜になるまで取り残されるほどに深い眠りだったのだろうか。
「おはよう。久しぶりね」
教室の端の方から声が聞こえてきた。聞き馴染みのある声だったが、妙な違和感を感じつつ僕は振り返る。窓から差し込まれる街灯の光だけを頼りに顔を覗くと、そこにいたのは数日前から家に帰って来なくなっていた母親であった。
「あれ、何で学校にいるの?」
「帰りが遅いから、迎えにきたんじゃない」
至極真っ当な事を言うものだ。やはり何かおかしい。違和感を拭う事ができない、だがその正体を突き止めるには僕の頭はまだぼんやりとし過ぎている。
「さあ、早く帰りましょう」
母親は僕の手を取り、教室の外へと向かった。何年振りだろうか、こうやって母親に手を引かれ歩くのは。誰もいない学校だからとはいえ、中学生にもなって母親に手を引かれるというのは小っ恥ずかしいものだ。
「そういえば、昨日の夜何処に行ってたのかしら? 帰ってこないから心配しちゃったわ」
昨日の夜……正直に言ってもいいのだろうか。大宮さんと母親は顔見知りだけど、顔見知りだからこそ夜中に遊んでいた事がバレるのは避けたいところだ。
いや、やはりおかしい。何故、この人は僕の心配をしているのだろうか。そもそも帰ってこないのは……僕ではなくて……
「深谷君! 起きて!」
「ふぇ?」
突如僕は肩を揺らされ起こされた。目を覚ますと教室はまだ明るく、疎に人が居る。さっきまで隣にいた母親の格好をしたあの人は見当たらなくなっており、僕の目の前には泣きそうな顔をした蓮田さんが僕を見ていた。
「おはよう、蓮田さん。どうしたの? そんなに慌てて……」
「え、えっと……大宮さんに深谷君が寝てたら起こしてあげる様に頼まれてたの。それで、さっき教室に戻ってきたら、深谷君の中に誰か知らない人が見えて……」
はて、話が途中からさっぱり分からないのは僕が寝ぼけているからなのだろうか。ただ蓮田さんが僕の為にあたふたしてくれていたというのは凄く嬉しい。大宮さんも僕の事を気にかけてくれている様だ。そんなに寝ていたらまずかったのかな。そういえば、午後の授業は移動教室だったな。たしかに、教室で寝過ごしたら遅刻してしまうもんな。
「う、うーん……そう言う事じゃ無いんだけど……」
蓮田さんは小声で何かモニョモニョ言っている。僕は次の授業に必要な教科書と道具を揃えて、実習室に向かうことにした。
今日は過冷却についての実験をするようだ。この実験は、冷やした瓶の中の水を一瞬にして氷にするというもの。水をゆっくりと冷やし0度以下まで温度を下げつつ、氷にならないように水の状態を保っているところに、氷に変化させる「切っ掛け」を入れることにより、一瞬にして水から氷になるということらしい。
適当に机を囲み、みんな実験に勤しんでいる。これがまた、中々に面白いもので、まるで魔法の様に一瞬で水から氷に変化する。僕にも何か「切っ掛け」があれば、この平凡な日常が変化することもあるのかもしれないな等と、ませた思考を巡らせている内に授業は終わった。
そして今日もあっという間に何事も無く終わり、帰り支度をする。起こしてくれるよう気を利かせてくれた大宮さんに一言お礼を言いたかったのだけど、彼女の姿は見当たらなかった。
明日から林間学校だけど、もう料理の練習はしなくていいのだろうか。いつもは彼女の方から僕の家に来ていたけれど、やっぱりお礼も言いたいし今日は僕が彼女の家に行ってみようかな。迷惑じゃなければいいけれど。
──五月十日、輝く太陽が鬱陶しい
憂鬱な朝を迎え、私は眠い目を擦り、学校へ行く準備を進める。私こと大宮莉多は今日から最低でも六日間、全ての選択を間違う訳にはいかない。完璧でなければならない。何故なら、これからの約一週間が私の最愛の彼氏、深谷喜助の生死の分岐点なのだから。中学一年生の少女がおよそ負うべきでは無い重圧に胃が痛くなるが、彼のことを想えば大した問題では無い。
さて、何故私が彼の運命を左右するそんな事を知っているのか、それは至極単純な事で、つまるところ私の能力によるものなのである。言い換えるなら、愛の力と言っても過言では無いわ。
私はとある時期から自身のESP能力に目覚めた。元々生まれ持った力だったのだろう、何の「切っ掛け」があったのかは分からないが私は小学四年生のある日に「未来視」の能力が発現した。この「未来視」が中々に癖のあるもので、実のところ確定した未来が視える訳ではない。つまりそれは、私の脳内での推測や考察をもとに演算処理されたいくつかの仮想未来が限りなくはずれのない可能性の情報として脳にインプットされるというものである。
そうして私は喜助君の死の未来を何度も何度も視ることで、唯一の生存方法を遂に見出すことに成功したのであった。私にだけ許された未来を変える力によって、彼を救うために私はこれから全ての事象を攻略するのだ。
「おはようございます」
私は学校に到着するまでにも何度か挨拶を交わす。知ってる顔もあれば、知らない顔もあり、ただ彼ら彼女らは私のことを知ってくれているようだ。私は誰であろうとも笑顔で答えることにしている。席に着いてからも、周りの人たちは私を放ってはおかず、世間話を少々しているとホームルームが始まった。
「今月は林間学校があります。知っている人も何人かいるかと思いますが、レンタルしたキャンプ場で一泊二日の森林体験をしてもらいます。各自配られたしおりによく目を通しておくように。班分けは、そうね……帰りのホームルーム迄にくじ引きを作っておくから、それで決めましょう」
担任の先生が話し終えるとクラスはザワザワと浮足立ち、野外行事の話で盛り上がっている。喧騒の中、私は喜助君の視線に気づいてはいるが、何食わぬ顔でいなければならない。でも、ちょっとくらいは顔を見てみようかしら、チラッと覗くだけ一瞬見るだけにしましょう。私が彼の顔をパッとほんの一瞬見るとやはり目が合ってしまった。可愛い顔で、まん丸の目で、私を見ている。あぁ、可愛すぎる……尊い……あぁ、もう無理、好きすぎるぅ。
彼のことを想っているといつの間にかホームルームは終わっていた。ホームルームどころか一時間目の授業も終わっていた。授業終わりのチャイムが鳴り、そそくさと彼がトイレに行こうとしたのか廊下へと向かっていったのが見えると、私自身気付かぬ内に私は彼の後をつけてしまっていた。
「今日、貴方の家に行くから。首洗って待ってなさい」
あぁ、つい、冷たい口調で話しかけてしまった。すれ違いざまに見えた小さなお耳も食べちゃいたいくらい可愛いすぎて、動揺を隠すあまり変にクールなキャラを気取っているのが情けなくなる。
思えば、中学生になってから彼とは一言も話ができていない。彼の生死の分岐点を「未来視」で読み取ってから、解決策を講じるのに頭がいっぱいだったこともあるが、何より小学生の時とは打って変わって制服姿になった彼は私にとって常にクリティカルヒットを出してくる存在であり、間違って直視でもしてしまえば頬が緩んでしまうのは確実なのだ。流石の私も、周りの目もあるのでそれは避けたかったのだが、気付けば会話もなく一か月が過ぎていたのである。
さて、ここから私はいくつかの仕事をこなさなければならない。一つ目は、担任の先生が昼休みの間に作る班分け用のくじ引きに細工をすること。そして二つ目は、それとなく深谷君に気を許していることを匂わせること。これが、「未来視」によって導き出された最適解である。
「あら、大宮さん。手伝ってくれるんですか?」
若い担任の先生が嬉しそうに、手伝いを申請してきた私を見上げる。担任の南浦和先生は、今年赴任してきたばかりの新任教師であり、まだ社会人になりたての彼女には不安もあるが、なにより仕事熱心な人であった。彼女は私がそれとなく、くじ引きで一緒になりたい人、つまり深谷君の話題をチラつかせると目を輝かせて話を聞いてくれた。いくつになっても女子は恋話が好きなようだ。
「大宮さん……健闘を祈るわ!」
南浦先生は慣れないウィンクをしながらグッと親指を立てたポーズで見送ってくれた。最近の若い先生ってこんな感じなのかしら。まぁ、真面目な女子が唐突にはしゃぐギャップっていうのも悪くないかもしれないわね。今度、喜助君を揶揄う時に取り入れてみようかしら。
細工も終わり、私は帰りのホームルームを迎える。「未来視」の通り、私は喜助君と同じ班になることに成功した。そしてもう一人、私にとって、いや彼にとって重要な人物がいる。それは同じ班になった蓮田翠。三日後と四日後に喜助君を狙い襲いに来る奴を迎撃するためにも協力してもらわなければならない。
何も知らぬ彼女を巻き込むことは不本意ではあったが、彼を救うためには致し方ない。そのため私は彼女とも同じ班になれるよう、いくつかの未来を視ていたのだが、何故か彼女はどの未来でも私達と同じ班になっていた。だから、私以外のくじには何一つ細工はしなかったのだが、やはり「未来視」の通り同じ班になってくれた。
帰りのホームルームが終わり、家路につく。今日は喜助君の家に御呼ばれの日だ。まだ会うまで数時間はあるが、今から既に胸がドキドキと脈打ち、気持ちが高まる。帰宅してすぐに私は軽くシャワーを浴び、再び制服に身を包み彼の家へと向かった。彼は私が着いてからも暫く眠っているだろうから、少し悪戯をしちゃいましょう。あぁ、楽しみだわ。
──五月十二日、憂鬱な気が更に滅入るような曇り空
私は喜助君の温もりを存分に堪能し、彼の胸に顔を埋めていた。先日の夜は林間学校での注意を促す為の話をしようしたのだけれど、至近距離であの可愛い顔を見つめていたら頭の中が真っ白になって思わずカレー作りの話をしてしまった。妙に意味深な感じでカレーの話をしてしまったけど、実はただ単に彼と一緒に料理が出来たら楽しいだろうなと思っただけなんだけどね。
それに、実際に問題になるのはその前に起こるであろう出来事であって……カレー作りの夜まで生きていられたらいいけれども。本当の事を言ったところで未来が変わる事は無いことも承知の上な訳で。
しかしまぁ、私としても流石に少しは喜助君自身にも警戒してもらった方が良さそうかなと思い立ち次こそはということで、昨日の夜再び会いに行くと、またしても彼の可愛い寝顔に脳をやられてしまった訳で。このままだと、あの夜に言ったように首を洗う羽目になるわね、だって喜助君にいない人生なんて考えられないもの。
あぁ、もう……喜助君、貴方が可愛すぎるのがいけないのよ。やはり、というか当然の事だけども、絶対に彼を死なせる訳にはいかないと私は再度固く胸に誓った。
──五月十日、飽きるほど見た空が眩しい
彼是、何十回と繰り返し眺めてきた景色も、十数回目ぐらいのときは鬱陶しく感じていたが、流石にもう何かを想うことは無い。俺こと熊谷篤は今日から六日後の朝を平凡に迎えるために朝の身支度を適度に済ませ、学校へと向かった。毎度のことながら姉貴が寝癖を直すように朝から騒いでいる。
俺が「時間転移」のESP能力に目覚めたのは、つい最近の出来事であった。つい最近の出来事と言っても、何十回と繰り返し使っているもんだから既に数年分は使ったのだろうが、時間軸としていえばこの能力の発現は俺が中学生になってからのものである。
中学二年生の夏の日、俺は姉貴が死んだ報告を両親から聞かされる。塾の帰り道に交通事故に巻き込まれ、即死だったという。しかし、その事故には明らかに不審な点があり、俺は姉貴の死因が本当に交通事故だとは受け入れられず、自力で調べることにした。
事故から数日経ち、新たな情報を得る為に俺は事故当時に姉貴と共にいたという子供に会いに行くことにしたのだが、途中でプツリと意識が途切れてしまう。そして、俺は気が付くと中学一年生の入学式の日にタイムリープしていた。それが、俺のESP能力の最初の発現だ。
それから何度か人生を繰り返し、姉貴の死を回避するために、姉貴の真の死因を探るために動いてみて分かったことがある。まず、姉貴の死はとあるESP能力を使う犯罪組織による人為的なものであったこと。
そして俺は姉貴を救う為、ESPを使った犯罪組織を潰す必要があるのだが、その鍵となるのが同級生の大宮莉多であったということまで突き止めた。しかし、その大宮も林間学校初日に同じく同級生の深谷喜助が行方不明となり後に死亡していることがわかる中学一年生の夏に後追い自殺してしまうこととなる。
「浮かない顔してるな、喜助」
俺は朝のホームルーム後に机に突っ伏している同級生の肩をたたく。相変わらず呑気な顔をした奴だな。まぁ、流石に何十回とこの日を繰り返せば、次にこいつが「まぁ、諸事情でね」と物憂げな態度でいることも可愛く思えるというものだ。悪い気はしない。
「まぁ、諸事情でね」
「せっかくなら、大宮と一緒の班になれたらいいな」
大宮が喜助はAグループとして同じ班になることは全てのタイムリープで確定した未来である。何の因果かは分からないが、俺を含め他の班員が変わることはあっても大宮と喜助が別の班になることはありえない。だが、いくつかの未来において班員の面子によっては五月十三日に深谷喜助の死が確定する。それは、Aグループに蓮田翠がいなかった場合だ。何故なら、蓮田の持つESP能力が深谷喜助を守る為の必須能力であるからだ。
俺はとある未来で蓮田の持つESP能力を探り当てた。彼女の持つESP能力は「精神感応」。それは彼女が会話をしているときにのみ発現し、会話相手の心情を読み取ることができるというものだ。彼女には以前から、まぁ出会ったのは中学生になってからであるが、不可解な点があったことから俺は彼女のESP能力の発現を知ることができた。
初めは、彼女と会話をしているときに自分が心で思ったことをつい口に出してしまったのかと思うことがあったが、それは彼女が無意識にESP能力を発現させていたからであり、彼女自身も人見知りのせいなのか他人と会話をすることが少なく、能力についてあまり理解していなかったのである。
これらの事象を踏まえ俺は、蓮田にAグループのくじを引かせるように細工することにした。俺は、蓮田が人見知りという性格上知り合いもしくは、仄かに憧れを抱いている大宮と同じ班になりたいと思っていること、そしてこの時期の蓮田が自身のESPをあまり理解していないことを利用させてもらうにした。
それは、蓮田がくじを引く直前に「次、蓮田の番だぞ」と声をかけてあげること。男女問わず話しかけることができる自分のキャラクターが今はなんとありがたいことか。そして、声をかける際に心の中で「間違えて二枚引いちまったから一枚は箱の折り目の隙間に入れといたけど、そういえばあの紙、Aって書いてたな」とわざとらしく思考してやること。これで彼女はAのくじを引き当てる。単純だろ? だが、これが五月十日の最適解だ。
「なんだ、熊谷と一緒かよ」
「深谷君、熊谷君……よ、よろしくね」
目論見通り、蓮田が同じ班になった。そして、今回は蕨が同じ班なのか。過去に蕨が同じ班になったことは数回あるが、いずれにしても喜助を守ることはできなかった。蓮田がAグループとなったことにより、五月十三日の昼休みに喜助が何者かのESP能力により精神操作され、その日の放課後に行方不明となる未来が無くなった。
あとは五月十四日の林間学校中に起きる喜助の誘拐を抑えることができればよいのだが、未だかつて十四日の事件を解決できたことは無い。
──五月十一日、既に雲の形すら覚えてしまった
俺は同じ日を辿る。だが、確実に一つずつ、悲劇の可能性の芽を摘む。果てしない草原が頭に過ぎる。俺は一つ、また一つと、小さな双葉を手で引きちぎるのだ。
休日の朝、俺は部活に行く為早起きをし飯を食う。姉貴が眠そうに起きて来て、コーヒーを淹れてくれた。まだ寝ててもいいのに、何故かコーヒーだけは入れてくれる。苦くて好きじゃないんだが。いつの間にか日課になっていた。
今日は確か、喜助が大宮と調理実習室で遊んでいる日だったな。最初の頃は、料理中に邪魔しちまってさ、大宮に目を付けられて大変だった。アイツも喜助の事になると怖いんだよな。
「行ってくる」
「気をつけてねー」
学校へ向かう足取りはまだ軽い。今回も色々と試していくしかない。どの行為が正解かはわからないが、俺のタイムリープはどうにも都合良く出来ている。ESPには決まった発動条件があるが、俺の場合、拝む様に手を合わせ、戻りたい時間を願うだけ。反作用やデメリットなんてものは無い。要は使いたい時にいつでも使えるのさ。
あの日は偶々、姉貴の死んだ交差点に花束が置いてあったから思わず手を合わせたんだったな。姉貴の骨は既に埋葬されていたが、どうにも拝まずにはいられなかった。
ふと俺はあの時、入学式の出来事を思い出したんだ。何故かは分からない、別に特別入学式の日に思い入れがある訳でも無いのに。まぁ、今となってはどうだっていい事だ。こうして、自分の能力に気付く事が出来たんだからな。
「あれ、喜助じゃないか。休みなのに学校とは真面目だな」
「ちょっと、料理の練習をしててね」
俺は部活を終え、校内をウロウロと歩いていた。大宮が嬉しそうに顔をニヤつかせながら教室から出て行った。俺は出会さない様に物影に隠れ、大宮が玄関を通り抜けたのを確認してから、調理実習室のドアを何食わぬ顔で開けてやった。
バンっとドアを開けると肩が跳ねて動揺する喜助の姿があった。大宮と一緒にいた事がバレて無いとでも思っているのか。だけど俺は気付かない振りをしてやる事にする。
はぁ……まったく、何で俺がこいつらのイチャイチャにここまで気を遣わないといけないんだよ。
「もう帰るだろ?」
「うん、今日はもう帰るよ」
おっと、今の言い方は不自然過ぎたか。いや、そんな事は無い……意識しすぎだろうか。落ち着け、俺。
姉貴を救う為、大宮には必ず生きていてもらわなければならない。そして、その大宮を生かす為にも、喜助……お前にはこんなとこで、死んでもらっちゃあ困るんだよ。
──五月十三日、星がよく見える澄んだ夜
家に帰ってもやはりというか、またも母親の姿は見当たらなかった。まぁ、度々あることなので気にはしないが。僕は軽くシャワーを浴びて少し寛いだ後、大宮さんの家に行くことにした。いきなり行っても断られるかもしれないけど、まぁ直ぐ隣だし、都合が悪ければ帰ってくればいいだけのことだ。
それになんだか、今日は学校で昼寝をしてしまったからかよく目が冴えてるんだよな。明日の林間学校も最初は乗り気じゃなかったが本当に徐々に楽しみになってきたぞ。そんなことを考えていると、あっという間に彼女の家の玄関前に着いた。
「あら、いらっしゃい。待ってたわよ」
インターホンを鳴らそうとモニターに指をかけると同時に鈴の音より早く彼女が出迎えてくれた。家に来ること言った覚えは無いのだが、これが女の子の感というやつなのだろうか。彼女に手を引かれ部屋にまで来てしまった。ここに来るのは随分と久しぶりだ。なんだか、部屋中に彼女の香りで溢れていてドキドキする。
「どうしたの? そんなにえっちな顔して」
「ええ!? そ、そんな顔してないよ!」
彼女はまたもや僕を揶揄って遊んでいる。放課後になると彼女は僕のよく知る彼女になる。学校でもこんな感じでもいいのにと思う反面、他の同級生が見ない大宮さんを知っているのが僕だけだと思うとちょっと嬉しくなる。
「そういえば、もう料理の練習はしなくていいの?」
「ええ、もう大丈夫よ。バッチリ予習したから」
彼女は自信満々に僕の問いに答えた。あれから、一人で練習したのだろうか。少し手の傷も増えている。僕は彼女の影の努力をわざわざ聞くのは野暮のような気がしたので、林間学校が楽しみであることだけ伝えることにし、明日に備えて就寝することにした。
──五月十四日、よく晴れた眩しい朝は今日という日を歓迎しているようだ
「んーっ、いい天気だなぁ」
僕は今日も新聞配達をこなし、そのままの足で学校へと向かった。林間学校のキャンプ先は僕たちの住んでいる地区からはそう遠くはないのだが、あまり行く機会の無い場所である。キャンプ場は当然ながら森林に囲まれ木漏れ日が気持ちよさそうだ。夏はバーベキューが楽しむことができ、冬にも焚火ができるように併設された施設にレンタル品が揃っている。いつか、行ってみたいとは思っていた。
「キャンプ場に着いたらまずは、テント設営かな」
僕は道具の準備ができるか不安だったけど、いつのまにか家にキャンプ道具が用意されていたので持ってくることができた。まぁ、テント設営とかは初めてだけど、何とかなる気がするぞ。そうこうしていると、お目当てのキャンプ場に到着した。
「わぁ、着いたね!」
「おお! 広いな!」
僕と篤はさっそく、Aグループに割り当てられたエリアにテントを張る。大宮さんたち女子も、道具の整理や準備などを手伝ってくれて、和気あいあいと林間学校を楽しむ。一応これは授業の一環ではあるのだが、同い年の男女でこう協力し合うというのは楽しいものだ。
「わぁ、深谷君、手先が器用なんだね」
「えへへ……そ、そうかな」
テント設営が終わり、僕たちはオリエンテーリングの一つとして魚釣りをしにキャンプ場内の釣り堀に向かったのだが、蓮田さんと川口さんは虫が苦手なようで、餌となるミミズを触れないと泣きついてきたので代わりに付けてあげることにした。大宮さんは澄まし顔で黙々とミミズを針に通している。彼女に怖いものなどあるのだろうか。
さて、初めての釣り体験だったのだが思ったよりもスルスル釣れて楽しい。持ってきたバケツが釣れた魚で溢れかえっている。釣り堀とはいえ、こんなにも寄ってくるものなんだな。いや……これは、釣れ過ぎなのではないだろうか……意外な才能を見つけてしまったかもしれない。
「えへへ、また釣れたぞ!」
僕は大漁に取れた魚たちを見て恥ずかしながらはしゃいでしまっていたのだが、ふと違和感を覚えキョロキョロと辺りを見渡した。なんだろうか、妙に静かだな。違和感に気付いたのは僕だけではなかった様で、川口さんが篤に心配そうに話しかけていた。
「どうした? 疲れたか?」
「あぁ、蕨か。ん……いや、大丈夫」
篤にしては珍しく歯切れの悪い返答だ。たしかに先程から釣り竿を持ったままボーっとしていた。いつの篤なら、釣れた釣れないで騒いでいるだろうに。心配だな。
「何か悩みがあるなら僕も聞くよ」
「ん……ありがとな、喜助」
程なくして釣った魚を班のみんなで食べ終えた。塩焼きの魚を美味いと思ったのは初めてかもしれない。これから少し森の中を散策しテントまで帰るのだが、さて今日のカレーは上手く作れるだろうか。お腹が膨れたせいか、今はまだ晩御飯のことまでは頭が回らないな。
森の中は晴れていてまだ暖かい。きっと夜になれば寒くなっちゃうんだろうな等と考えながら僕は樹木の観察をしていた。針葉樹と広葉樹の違いについてのレポートとやらを書かないといけないのだが、背の高い木は見上げるだけで首が疲れてくる。
「こっちを見て……」
風で揺れて木の葉が舞う中、何か声が聞こえた気がした。ぼんやりとした頭から意識が消えていく感覚がする。
──五月十四日、見飽きた晴天
俺は何度も繰り返してきた今日にウンザリしながら、キャンプ場へ向かうバスに乗り込む。いつもの席にいる喜助は今日もよく笑っている。これから殺されるっていうのに呑気なもんだ。
バタフライエフェクトと呼ばれる様に何処で未来が分岐するかは正直俺にもわからない。たしかに俺は再三に渡りタイムリープを使い、幾度となく敗北した。様々な分岐点に立ち、未だ見えない希望の光を探し続ける。今回こそは守り抜いてみせると誓う。誓って、誓い続け、決意を固め、自身を鼓舞するのだが……
「わぁ、着いたね」
「おお! 広いな!」
無邪気に学校行事を楽しむ同級生を見て、俺は漠然とした自己嫌悪に陥っていく。はぁ……まぁ、正直なところ「守り抜いてみせる」なんて格好を付けてはみたが、今回も失敗するんじゃないかなんて考えも頭に残ってはいる。もしかしたら運命って奴は変えることができないんじゃないかって。
この後の未来はこうだ。俺たちはテント設営を終わらせて釣り堀の虹鱒を釣りに行く。そこまでは平穏そのものだ。だが、釣りを終えテントに戻る途中で俺たちの前から忽然と喜助は姿を消してしまう。どれだけ目を光らせ周囲を警戒したところで、いつも喜助の姿は突然見えなくなり、後日死亡が確認される。理由は恐らくESPによるもの。だが、そいつの正体が分からない。結局今回も何の解決策も思い浮かばないまま、この時間まで到達してしまった。また駄目なんだろうな……
「どうした? 疲れたか?」
蕨が心配そうに顔を覗き込んできた。こいつとは、ガキの頃からの腐れ縁だ。家も近く、親同士の仲が良いせいか小学生に上がる前から顔見知りだ。しかも、小学一年の時から今日までクラスが離れた事がない。昔は泣き虫でよく俺の後ろにいたが、今じゃすっかりヤンキー風になっちまった。いくら自由な校風だからと言って、中一で金髪ピアスは厳つすぎるだろ。
「あぁ、蕨か。ん……いや、大丈夫」
どうやら俺はよっぽど酷い顔をしていたんだろうな。久しぶりにこいつの声を聞いた気がする。懐かしさすら覚える蕨の声は、なんだか暖かい感じがした。中学に入ってからメッキリ話すことも無かったし。まぁ、色々あったからな。
「何か悩みがあるなら僕も聞くよ」
喜助も同様に心配そうに俺を見てきた。良い奴だよ、お前は。本当にいい奴だ。でも悩みか……まぁ、ズバリお前の事だよ、喜助。過去に何度か直接狙われている事を伝えたこともあるが、結局結果は変わらなかった。
「ん……ありがとな、喜助」
さて、どうしたものか。くよくよ悩んでいても仕方がない。当初は姉貴の為に動いていたが、喜助は今となっては長い付き合いの親友だ。助けると決めたなら、必ず助ける。その為のタイムリープだ。よし、まずは頭を整理しよう。
現状、今回起こる事件はESPによるもので間違い無い。過去に蓮田のESPを使って校内にいる人間を篩にかけた事もあったが、見当たらなかった。つまり、敵は外部の者。しかし、敵の人数、目的、使用ESPについては全くもって不明。
対抗手段となるのは、やはりこちらもESPになるだろうが、俺のタイムリープは当然ながら戦闘向きでは無い。大宮も何らかのESPが使えると推測されるが、問いただしても教えてくれる事はなかった。その上、大宮に事情を説明し協力を仰いだ場合、この林間学校中に喜助と大宮の二人がこの場で殺されるようになってしまう。つまり、この案は使えない。
とにかく、最低限俺は喜助から目を逸らしてはいけない。辺りも警戒し、注意を怠らないようにするしかない。
「あれ、深谷君……何処に行ったんだろ……」
蓮田の声でハッとする。まただ……やはり駄目なのか。目を逸らす事などしていなかったのに。なのに、また姿を消してしまった。見失ってしまった。
「探してくる!」
張り上げられた声の主は蕨だった。俺は焦り、咄嗟の判断で蕨の手を掴み、静止した。きっと俺は、誰にも見せられない程に情けない顔をしていた事だろう。だが、止めずにはいられなかった。
「待て! 危なすぎる!」
「はぁ? 逸れただけだろ。熊谷、お前やっぱり疲れてんだよ。先にテントで休んでろ」
「私も行くわ」
蕨はそういうと俺の手を振り払って、喜助を探しに走った。大宮も蕨に付いて走り去っていった。横で蓮田が心配そうにしている、小さく手を握り締め去っていく二人を眺めている。呆然とする俺も同様に、二人を見送ることしかできないでいた。俺はまた、助けられなかったのか。もし、このまま蕨までいなくなってしまったら、俺はどうすればいいんだ……
──五月十四日、まだ口の中に塩魚のしょっぱい味が残っている
「あれ、ここは何処だろう?」
気が付くと僕はみんなと逸れてしまっていた。さっきまで、隣にいたのに。道に迷ったのかな、というより道が無いぞ。本当に此処は何処だ、森とはいえキャンプ場の舗装されて森のはずが、まるで樹海の様な所に来てしまっている。草木が揺れる音も、動物達の物音すらもしない。どうなっているんだろう。
「あら、迷子になっちゃったの?」
声がした方に目を向けるとそこには母親がいた。仕事に行く時の様な服装で、明らかに森林内では異質であったが、何故か僕は頭に靄がかかったかの様に考えが上手くまとまらない。そもそも、母親がこんなとこに来る事なんてあり得ない。しかし何故だろうか、その声に耳を傾けてしまう。
「みんな待ってるわよ。一緒に帰りましょう」
帰るって、何処に……僕はされるがままに母親に手を引かれ森を歩く。不思議と気持ちは落ち着いていて心が軽い。
「さっき初めて釣りをしたんだ。魚も美味しかったよ」
「そう、良かったわね」
母親は僕を見てニコリと微笑んでくれた。今日は初めてのことばかりで嬉しいな。これからも今日みたいな日が続けばいいのにな。
「深谷! そいつから離れろ!」
僕は急に聞こえてきた怒号にビクッと体を震わせ跳ね上がってしまった。パッと振り返ると川口さんが地面を蹴り上げ勢いよく僕に向かって走り飛びかかってきた。
徐々に意識が戻り、頭が冴えてくる。ふと横を見ると知らないオバサンが僕を睨んでいた。
「チッ、あと少しだったのに」
川口さんは遮る様に僕の目の前に飛び出し、睨みを効かせるオバサンに対抗して戦闘態勢を取る。
「てめぇ、私の友達に何してんだよ。返答によってはタダじゃおかねぇぞ」
「昨日とは違う奴だな……どうやって嗅ぎつけて来たかは知らんが、お前には関係ない事だ」
オバサンは強い口調で川口さんに言い放つとグルンと首を回転させまた僕を睨みつけてきた。どうしよう、めっちゃ怖い。
「おい、ガキ。お前の持つ『賢者の石』を寄越せ」
なんだそれ。ゲームの話かな。そんなもの全く心当たりが無いぞ。でも、鬼の形相をした知らないオバサンというのはとても怖いもので、取り敢えず何かを出す振りとしてポケットの中をゴソゴソと漁ってみた。すると、緊張して冷たくなった僕の指先にコツンと硬いものが触れた。
「なんだこれ」
取り出してみるとそれは、数日前に大宮さんと一緒に掘った「黄金のおジャガ」だった。「黄金のおジャガ」は相変わらず僕の手の平の上でグルグルと歯車を回転させ謎の蒸気を噴きながらブンブン光を放っていた。
「ほう、『賢者の石』のその動き……お前、響者か。なら、生かしておくわけにはいかないな」
「ふざけたこと吐かしてんじゃねえぞ、ババア!」
知らないオバサンと川口さんが何やら盛り上がっている。僕の事で争っているのだろう。なんだか、申し訳なくなるな。
「……いや、これ『賢者の石』じゃなくてジャガイモだよ」
「そんな訳無いだろ!」
コンマ零点何秒の速さで二人同時のツッコミが飛んできた。やっぱりジャガイモじゃなかったのか。たしかに僕も疑ってはいたのだが、ついつい大宮さんのあの飛び切りの笑顔に誤魔化されてしまったんだよな。仕方ない、大宮さんにも説明してあげないとな。でも、どう伝えるべきか悩むなぁ。彼女の悲しむ顔は見たくないが、黙っているのも人が悪いだろうし。うーん。
「あらあら、喜助君。何ボーっとしているのかしら?」
考え事をしていると今度は大宮さんの声が聞こえて来た。
「あれ、大宮さんもいる。ああ、そうだ。これ、やっぱりジャガイモじゃなかったよ」
「ええ、知ってるわ」
あっさりと認めてくれた。というよりも、やっぱり揶揄っていたのだろう。彼女はするりと僕の手にあった「賢者の石」を取り上げて楽しそうにクルクルと回し遊んでいる。まったく、困ったお嬢様だ。
「何、無視してんだガキ共が。響者もいることだし、面倒臭ぇからまとめて殺してやるよ」
「はぁ……品性のカケラも無い人ね。貴方程度の人に数日振り回されていたと思うと、頭が痛くなるわ」
溜め息を吐きながら、彼女はそっぽを向いてしまった。すると、目を離した隙を見計らったのか怒ったオバサンが瞬時にナイフを構えて彼女に向かって走った。
「大宮さん危ない!」
「ふふ……もう大丈夫なのよ、喜助君。貴方はこれからもずーっと私が守るわ」
大宮さんは僕の頬を両手で包む様に撫でると天使の様な笑顔で微笑んだ。やはり可愛い。いや、そんな事思ってる場合じゃない。オバサンがナイフを……
──五月十四日、いつも以上に目覚めが悪く、憎たらしく輝く太陽が鬱陶しい
今日は私にとって絶対に失敗の許されない日。昨日は蓮田さんに手伝って貰って喜助君を守る事が出来たけどね。まぁ、彼女は余り理解してない様だったけども。だけど最大の問題は、今日の林間学校の昼。
結局、喜助君を狙う奴の正体は分からずじまいだった。恐らく精神に干渉するタイプのESPだとは思うけど、何も対策が出来ず今日を迎えてしまった。戦闘さえ出来れば、私は負ける事は無い。だけど、向こうもそれは良しとしないでしょう。
どうしても、どれだけ頭をフル回転させても、喜助君を救う未来が観測出来ない。あぁ、嫌だ。それだけは絶対に嫌。
私は重い足を引き摺りながらキャンプ場行きのバスに乗る。とにかく今は考えるしか無い。ひたすらに考えて、考えて抜いて喜助君を助けるんだ。
「わぁ、着いたね」
あぁ、無邪気な喜助君……可愛すぎる。好き……大好き。喜助君を守る為なら、私はどんな未来も否定してみせる。
時間が刻一刻と迫る。しかし、どう足掻いても生存できる未来が無い。無数に広がる可能性を、膨大な未来を視ても、喜助君が生きる未来だけが見えない。せめて護身用にと思って自然な流れで「賢者の石」持たせておいたけど、結局運命は変わらなかった。はぁ……ストレスで胃酸が込み上げてくる……最悪だ。
「えへへ、また釣れたぞ!」
喜助君を見ていると涙が込み上げて来た。我慢しないと、笑顔でいないと。あぁ、どうしたらいいのだろうか。
「どうした? 疲れたか?」
「あぁ、蕨か。ん……いや、大丈夫」
クラスメイトの呑気な会話が聞こえてくる。どうせゲームでもして寝不足なんでしょう。私は涙腺を刺激しない様に目を細めて喜助君を眺めた。
「何か悩みがあるなら僕も聞くよ」
あぁ、喜助君。本当に優しいのね。そんなアホ面の同級生にも心配して声をかけてあげるなんて、どこまで徳を積む気なのかしら。それにしても、熊谷篤……何故か喜助君から名前で呼ばれてる男。私も昔は莉多って呼ばれてたのに……もし、無事に林間学校が終わったら一発殴ってやろう。
「アレ? 変わった……?」
「どうしたの? 大宮さん?」
急に未来が変わった……どうして……いや、理由なんてどうだっていい。喜助君が生きている。未来が変わって、生きている。興奮した胸の高鳴りで心臓が破裂しそうだ。落ち着け私、落ち着くのよ。しっかりと、確実に、精密に未来を視て、過程を辿るのよ。
成程。森林探索中に喜助君が攫われる未来は確定、まぁ喜助君が可愛すぎて捕まえておきたくなる気持ちはわかるけども……そして、川口さんが喜助君を探しに行くことでESPを使う奴に遭遇。こいつが、元凶ね。
念の為他の未来も見ておきましょう。ふむ……もし、喜助君を探しに行く川口さんを一人にした場合、喜助君と川口さんの二人の死が確定。もし、川口さんを静止し代わりに熊谷篤が喜助君を探しに行く場合、喜助君を見つける事すら出来ない。
つまり、最適解は喜助君を探しに行く川口さんに着いて行くこと。次に勝利条件の確認。当然ながら、私達三人共が無傷、無事である事。そして、敵の無力化及び制圧。勝利方法は……「賢者の石」の使用。使用者は私。よし、確認終了。これで、未来を確定する。
「あれ、深谷君……何処に行ったんだろ……」
私の一歩後ろを歩く蓮田さんがこの場で異変が起きている事に初めに気付いた。「未来視」の通り、私たちは既に奴のESP下に陥っている。
「探してくる!」
川口さんが宣言する。「未来視」の通り進んでいる。よし、未来に変更は無い。喜助君を救える。ふふ……これほどまでに未来を視ることが楽しいと思った事は無いわ。
私は川口さんに着いて喜助君を追っていくと、森の開けた所に出た。喜助の後ろ姿が見える。未来が視えていたとはいえ、喜助君の無事な姿を見て私はホッと胸を撫で下ろす。喜助君の隣には私が相対する事を待ち望んでいた憎きESP能力者がそこにいた。
虚な目をした喜助君が何やら楽しそうに見知らぬオバサンと話している。どうやら、敵は「認識阻害」の能力者。私は再び「未来視」で敵の情報を探る。
「深谷! そいつから離れろ!」
川口さんが喜助君とオバサンの間に割って入る様に飛び出していった。川口さんにも、後でお礼を言いましょう。感謝してもしきれないわね。
川口さんが戦闘態勢を取りオバサンに牽制している。私は確実な未来を勝ち取る為、今はまだ様子見を選択。
「昨日とは違う奴だな……どうやって嗅ぎつけて来たかは知らんが、お前には関係ない事だ」
昨日の昼休みに喜助君を狙ったのもこのババアで間違いない様だ。私は大好きな喜助君にちょっかいをかけるESP使いのババアに心底怒りを覚え、体を震わせていた。しばらく会話を盗み聞きしていると、喜助君達は「賢者の石」について話をし始めた。
実のところ「賢者の石」について私は詳しく理解出来ていない。ただ「未来視」にて幾つかのESP能力を考察した際に、ある条件下において「賢者の石」がESPの発現の「切っ掛け」となる場合がある事が判明した。もし、喜助君に何らかのESP能力が発現すれば、自己防衛の助けになるかと思い彼に携帯させていたという訳なのだが、結局喜助君にESP能力が発現する事は無かった。
「ほう、『賢者の石』のその動き……お前、響者か。なら、生かしておくわけにはいかないな」
しかし、今のESP使いのババアの発言からして、喜助君が何か特別な存在であるかのように見受けられる。ふむ……響者……現段階では不明瞭ね。喜助君の事は全て知っておきたいのだけど……まぁ、これは追々知る機会ができるでしょう。
さて、そろそろ登場してあげましょうかしら。喜助君は私に気付いて無いようだし、私が来たらびっくりしちゃうんだろうな。本当はもう少し様子見しててもいいのだけど、私自身そろそろ喜助君成分を補充しないと、禁断症状が出ちゃいそうだし、助けに行きますか。
「あらあら、喜助君。何ボーっとしているのかしら?」
あぁ、喜助君……キョトンとしたお顔も可愛ゆ……好き。私は思わず彼の頬を弄ってしまった。もちもち、すべすべ……最高じゃないの。
「あれ、大宮さんもいる。ああ、そうだ。これ、やっぱりジャガイモじゃなかったよ」
はぁあん……もう……溜まらないわぁ。まさか本当にこの「賢者の石」のことをジャガイモだと思っていたなんて、可愛すぎりゅう。あぁ、まずいまずい、興奮して未来を見失うところだった。
それにしても、この「賢者の石」ってやつ物凄いスピードで歯車回ってるわね。蒸気の量も尋常じゃないし、鋭い光がビカビカしてるわ。明らかに、喜助君に反応している。だけど、「未来視」で確認しても喜助君の変化はこれといって無いのよね。ますます不思議すぎて、喜助君にキュンッ。あぁ、まずいまずい、またしても取り乱すところだった。
「大宮さん危ない!」
考え事をしていると、ぶっ殺すだのなんだのと、ESP使いのババアがごちゃごちゃ騒いでいたけど、私は喜助君の事以外興味が無いから無視していたら、どうやらナイフ片手に私に襲い掛かって来たようだ。喜助君が私の為に大声を張り上げてくれている。普段は大人しい喜助君が……私の為に……あぁ、尊い。
「ハハッ! ガキが、調子に乗るからだ。例えお前がESP使いだとしても、意識外がらの攻撃を防ぐ事はできない! 私の『認識阻害』は周囲の人間全てに作用する! 逃れる術は無いんだよ!」
背後にいたと思っていたESP使いのババアはいつの間にか私の目の前におり、ナイフを私の胸に突き刺して高笑いしている。恐らくコイツは「認識阻害」を併用した暗殺術の使い手なのだろう。だが、私は平然と冷徹な顔で見下す。ババアが僅かながらの冷や汗を垂らしているのが見えた。
「あ? 刺さってない……何故だ?」
ババアがたじろぎながら後退りで私から距離を取る。目を丸くした喜助君が小走りで私に駆け寄って来た。少し泣きそうな顔をしているのが、また可愛い。
「だ、大丈夫!?」
喜助君はアワアワと焦りながら、私の全く問題の無い擦り傷一つ、泥汚れひとつない服を見渡しながら心配そうな顔を浮かべる。
「大丈夫よ。ほら、確かめてみる?」
私が喜助君の小さな手を引っ張り自身の体に誘導すると、喜助君は不思議そうな顔で一生懸命にパタパタと私の身体を触り無事を確認していた。この小動物の様な必死さを見るとこんな状況下でもつい悪戯したくなるというのが、乙女心と言うものよね。
「もう……えっち……」
「わあ! ごめん、いや……そんなつもりじゃなくて!」
はぁはぁ……た、堪らないわぁ……なんで、喜助君はこんなにも愛おしいのかしら。可愛すぎて、窒息死するところだった。
「お、お前達! いちゃついてる場合じゃないぞ!」
顔を赤くした川口さんが私たちに叫んでいる。振り返ると、またしてもESP使いのババアがナイフを構えて飛びかかってきた。もう……喜助君との愛の時間なのに……めんどくさいわね。
避ける気もなかった私は再びナイフで刺されたが、無傷であった。それを見たESP使いのババアは真っ青な顔で落胆している。
「だから、無駄なのよ。おばさん」
「どうなっている……」
私の「未来視」は幾千の未来を見据え、現在の行動により特定の未来を確定できるというものであった。だが、先程喜助君の持つ「賢者の石」を手に取る事で私のESPは更なる段階へと進んでいた。この場で何らかの条件を満たしたのだろう。私のESPは新たな力を得ていた。
「わざわざ、貴方に教えてあげる義理はないのだけれど……今回は特別に『宣戦布告』として教えてあげる」
「私の新たなる能力、それはあらゆる不確定な未来から一つの『未来』を私が選択確定する事で、『今』起きている現象が確定した『未来』に辻褄が合う様に因果関係が収束するというもの。つまり、私は先程『ナイフに刺されなかった未来』を選択し『ナイフに刺された今」を無くしたという訳』
「名付けるなら、そうね……『因果掌握』とかどうかしら? つまりこれから私は貴方の辿る無数の未来の中から最も残酷で凄惨な『未来』を選択するのだけど……それによる因果の収束で貴方の『今』がどうなるのか……楽しみね」
話を聞き終えたババアは恐怖の余り気を失いその場で私に跪く様に倒れ込んだ。ようやく、今回の喜助君の誘拐「未遂」事件の幕が降りた。
しかし、私は一つの疑問に遭遇する。それは、何故こいつが喜助君を狙っていたのかという事。改めて考えてみると、今回のこのババアの犯行動機は喜助君の持つ賢者の石を狙ったものだった。だけど、実はこの賢者の石はあくまで、喜助君が誘拐され殺される「未来」を回避する為に持たせた護身用だ。
つまり、賢者の石以外にも喜助君が狙われる理由があるという事。むしろ、そちらの方が本命か。響者……早急に知っておく必要があるかもしれないわね。嫌な予感がする……
「まさに神の領域だな」
突然の声に背筋が凍る。太く低い男の声。慌てて声の方を振り向くも、どこにも姿は見当たらない。喜助君と川口さんにも聞こえていた様で、二人ともキョロキョロと周りに人が居ないか探している。騒めく森の木々の音がうるさく、だがツンとした張り詰めた空気に息が詰まる。
「あぁ、すまない。申し遅れた。私は深谷喜助君、君を殺しに来た者だ」
姿の見えない何かは脅し以上の恐ろしい事を言い放つ。恐らく、こいつもESP能力者。そして、賢者の石を持たせた事による変化する未来以前の未来で喜助君を殺した犯人だ。あぁ、悪い予感ほど直ぐに的中して嫌になる。
「さぁ『宣戦布告』は済ませた。お嬢さん、私の未来を確定し、迎撃してみてはくれないか?」
ムカつくことに、手慣れている。ESPの戦いを知っている奴だ。確かにこの状況では「因果掌握」も「未来視」も使う事はできない。本当に吐き気を催す程の窮地だ。ようやく、平和な日が戻ると思った矢先に。
「うん、そうだろうな。ハハッ、そうだろうな。可愛いお嬢さん、その凶悪な能力は目視出来ない相手には使えないのだろう」
クッ……正解だ。本当に腹が立つ。そう、ESPには発現条件が必ずある。それはある種、ESPの弱点とも言える。どれほど強力なESPでも発動条件を封じられれば、持ってる意味は無いのだから。
「グゥ……カハッ……!」
喜助君が急に息苦しそうに足をバタつかせ手を震わせる。見えない敵が喜助君の首を締めたのだ。私は咄嗟に喜助君の前に殴りかかってみるも、私の拳は空を切る。趣味の悪い奴だ。敵は私達を揶揄い、痛ぶり、楽しんでいる。
「深谷、大丈夫か!?」
片足を着き倒れ込む喜助君に川口さんが駆け寄る。敵の姿は依然として見えない。どうすれば良いのか、どう倒すか、私は頭を高速回転させ思考を巡らせる。しかし、敵には十分過ぎるほどの時間を与えてしまった様で、唐突に私の服がビリビリと破け始めた。
「あぁ、すまないね。君の綺麗な柔肌を傷つけるつもりは無いんだ。ただ、ちょっと、楽しませて貰おうと思ってねぇ……」
「クッ……変態め……」
奴のESPは奴自身の肉体だけでなく、所有物にも作用するのか。刃物を持っているのは確かだが、形状すらもわからない。考えている間に、私の服は続々と破かれていく。形振り構わず私は辺りを殴りつけてみたが、敵に攻撃が当たるはずも無く気持ちの悪い野太い笑い声だけが森にこだまする。
「んんっ! 良い身体だ、実に良いねぇ……ハァハァ……」
姿は見えないが、舐め回す様な気持ちの悪い視線だけは感じる。変態の笑い声等無視だ。今はどうやって勝つかだけを考えろ。私は更に頭をフルに回転させ思考を巡らせる。
「そうだ……喜助君! こっちを見て!」
「ふぇ?」
そう、喜助君の「未来」を選択すれば良いんだ。喜助君の辿る幾千の「未来」の中から生存できる「未来」を選択確定すれば良いんだ。敵を目視出来ないのであれば、喜助君の因果を掌握すれば。私の目の前には喜助君がいる、目も合っている。彼の瞳の奥には私が映る。だが、何も起きる事は無く、予想外の出来事に鈍い恐怖が降り掛かるのみであった。
「ククク……無駄だ。響者が仇になったな」
何故、喜助君と顔を突き合わせても、私の「因果掌握」が発現しない。響者が仇? 一体、どう言う事なの……
「ククク……仕方ないな、今回は特別に『宣戦布告』として教えてやろう」
「響者は我々人類の天敵なのさ。お前さんも見ただろう、その少年の持つ『賢者の石』が異常を起こしていたのを」
あのグルグル歯車が目まぐるしく回転して蒸気を噴いていたのはエラーだったのか。しかし、それが何を意味するって言うのよ。睨みを効かせる私の腰に見えない手がピタリとくっ付く。振り払い様に蹴りを入れてみるも、やはり当たらない。本当に気持ち悪いわね。
「『賢者の石』が何かも知らない様だな。あれは、ESPの源泉なのだよ。ESP発現の『切っ掛け』となり得る物、能力の無い者はアレを使う事でESPが発現し、既に能力を持つ者はESPを更なる段階へと引き上げる。そもそも、ESPとは人間が本来持つ潜在能力に過ぎない。お嬢さん、君の『因果掌握』とやらも結局は我々人間の持つブラックボックス……アカシックレコードへのアクセス領域をこじ開けてるだけの事」
「だが稀に、我々エスパーとは異なる能力を持つ者がいる。それが、響者だ」
意味の分からない事を早口でベラベラと喋る奴だ。胸糞悪い。とにかく今は、この変態が能書き垂れて愉悦に浸っている間に、打開策を見つけないと。
「響者は我々人類とは異なる世界で生きている。お前さんの『因果掌握』が作用しないのも、それが理由だ。奴らの存在はアカシックレコードに記されていない、例外なのだよ」
「それが何で、響者は人類の天敵だって言うのよ」
時間を稼がないと。考えて、考えるのよ。こいつに勝つ算段を。話を引き延ばして、兎に角考えるしかないわ。
「響者は人類のアカシックレコードを書き換える事ができる唯一の存在なのだ。まぁ奴らに自覚は無いようだがね。そして、我々の組織は長年の研究の末、一つの答えを出した。別の世界、別の次元からやって来た響者の目的は何か。それは、この世界への侵略だとな」
被害妄想も甚だしい只の過激派じゃないの。私は変態の話を聞き、心の中で深く溜息を吐いた。
「だから我々は今日、響者を殺す『宣戦布告』をしに来たのさ。人類から外来種への『宣戦布告』を、手始めにその少年の首を頂くことでね」
静寂に紛れた殺意がこの場を支配する。草木が風で揺れ擦れる音だけが耳に大きく残り反響する。
「おっと、少しお喋りが長引いたね。ではこれでお終いだ」
諦観し力の入らない私の目に、赤く煌めく血飛沫が宙を舞う光景が入り込む。あぁ、結局未来は変わらずか。確かに一瞬見えた生存の未来はさっきのババアを倒してドヤってる場面でしかなかったものね。私ったら早とちりして、最悪ね。こんな変態に嬲られて、大好きな喜助君も守れずに死ぬなんて。本当に反吐が出るわ。
──五月十四日、燦々と輝く太陽と強めの風が気持ちいい日だ
私こと川口蕨は友達の蓮田翠と並んで林間学校行きのバスを待っていた。今日から一泊二日の林間学校だ。ワクワクするぜ。この日の為に、動画サイトでキャンプも仕方も予習済みだ。
「大宮さんと、熊谷君……大丈夫かな……?」
「何が?」
私の隣でちょこんと佇んでいた蓮田が心配そうにキョロキョロしながら小声で話しかけてきた。
「ちょっと顔色悪そうだったから……」
「ふーん。バス苦手なのかもな。なんかバスってたまに変な匂いするし」
熊谷がバスが苦手って話は聞いた事が無いけど、一応大宮には後で酔い止めを渡しておくか。アイツ弱そうだし、なんか守ってやらないとって気になるんだよな。隣の蓮田も同じく弱そうだ。そういえば、同じ班の深谷も弱そうだな。この班は私がしっかりしてやんねぇとな。
「ハーッハハッハ!」
「ふふ……川口さんは優しいね」
思わず高笑いをする私を見て蓮田がニコニコと微笑んでいた。丁度時間になったのか、バスが到着したから私は真っ先にバスに乗り込んだ。小気味良く揺れるバスがキャンプ場に向かって走る。私は一番後ろの席を陣取り窓から景色を眺める、今日が晴れていて良かったと思った。
「わぁ、着いたね」
同じ班の深谷が呑気なセリフを吐いている。頼り無さそうな奴だが、こういうのがいると場が和んでいいんだよな。蓮田も数少ない人見知りしないで話せる相手だと言ってたしな。そんな事を考えながらも私は男子達がやっているテント設営を手伝う。当然男子と女子のテントは別れてるが、暇そうなら遊びに行ってやろう、大宮と、蓮田を連れてな。
テント設営が終わり一応授業として魚釣りをするのだが、ミミズに触らなきゃならないのが本当に嫌な事だ。私と蓮田が釣り餌のミミズを見てゲッソリとした顔をしてると意外にも深谷がテキパキと釣り餌を竿に付けてくれた。案外、頼もしいのかも知れないな。
「はぁ……」
少し離れた所で糸を垂らしている熊谷が何やら溜め息を吐いている。釣れなくて落ち込む様な玉じゃ無いはずだが。朝バスに乗る前にも蓮田も熊谷を見て元気が無いって言ってたし、どうしたのだろうか。しょうがねえ、ちょっと話しかけてやるか。こんなにいい天気なのにしょぼくれやがって、だらしない奴だ。
「どうした? 疲れたか?」
「あぁ、蕨か。ん……いや、大丈夫」
熊谷がめっきり覇気のない返事をする。本当にどうしちまったんだ。いつものお前なら、空元気でも使って弱みを見せない男だったのに。うむ、ちょっと心配になってきたな。横で大漁の川魚にはしゃいでいた深谷も俯く熊谷を心配して駆け寄ってきた。友達思いのいい奴だ。
大宮もさっきまで険しい顔をしていたが、何やら調子が戻った様で目が輝いている。良かった、良かった。
釣れた魚を食べ終え森を抜ける。森林探索という事で、生えてる樹木の生態を観察しろってことらしいが、正直よく分からないな。少し顔色の戻った熊谷が熱心に辺りの木々を観察してるから、私に心配かけさせた料金として、後でレポートはこいつに写させて貰おう。
「あれ、深谷君……何処に行ったんだろ……」
突然、蓮田が心配そうに言い放った一言で、熊谷がまた泣きそうな顔をしている。大宮は落ち着いている風を装ってはいるが、若干目が泳いでいるな。しょうがない……頼り無い奴らばかりだし、私が探しに行ってやるか。
「探してくる!」
まったく、深谷もボーっとしてるから何処かで道にでも迷っちまったんだろ。しかし、私の目の前にいたと思ったんだがな。いつの間に居なくなったんだろうか。それに、森の中ってこんなに薄暗かったか? まだ昼間のはずだが。妙に静かなのも気になるし、靄みたいなのが掛かって、どっちが前でどっちが後ろかも分からなくなってきたな。
「右を振り向いて、そのまま真っ直ぐに走って!」
キョロキョロ辺りを見渡す私に木登りしていたリスが話しかけてきた。何故か私は中学生になってから動物の声が聞こえる様になったのだ。深くは考えない様にしていたが、今は助かるぜ。
「ありがとな!」
私はリスの指示に従い、右に振り向いてから真っ直ぐに森を走り抜けていった。すると、数分走った所で後ろ姿の深谷と見知らぬオバサンが並んで歩いていた。妙な胸騒ぎがする。深谷が笑いながら隣のオバサンに話しかけているが、目には生気が宿っていない。よく見ると、そのオバサンの腰に携帯されたサバイバルナイフがギラリと怪しく光り放っている。
「深谷! そいつから離れろ!」
私は深谷とオバサンの間に体を捩じ込ませ、怪しいオバサンを睨みつけてやった。怪しいオバサンは舌打ちをしながら私に睨み返してきた。尋常じゃない殺意だ。前のめりに腰を落とし眼光を光らせるそれは獣の様で、これほどの殺意を向けられるのは初めてだ。柄にもなく足が竦むが、友達の前でビビる訳にはいかねえ。私は頑として目は逸らさないでいた。
「てめぇ、私の友達に何してんだよ。返答によってはタダじゃおかねぇぞ」
「昨日とは違う奴だな……どうやって嗅ぎつけて来たかは知らんが、お前には関係ない事だ」
昨日ってどういう事だ。こいつずっと深谷を狙っていたのか。ますます逃げる訳にはいかないな。こういう時はどうすればいいんだ……取り敢えずボコボコにブン殴ってから警察に突き出すか。
私が戦闘態勢を取っているとオバサンと深谷が「賢者の石」とやらについて話し始めた。私には何の話かさっぱり分からない。後ろにいる深谷をチラッと見るも、深谷はキョトンと呑気な顔をしている。こいつもあまり分かってはいない様だな。
震える拳を握り直し、洗い呼吸を整えていると、見知った背格好の者がボヤけた背景から浮き出てきた。私は揺れる空気に機敏に反応し警戒を強めるも、それは直ぐに安堵に変わった。
「あらあら、喜助君。何ボーっとしているのかしら?」
やけに落ち着いた大宮が深谷の顔をじっと見つめてヒョコっと顔を出してやってきたのだ。朝には体調の悪そうにしていた彼女がが、何故だかこんな状況下にいる時が一番顔色が良いのは不思議であったが、妙な頼もしさがあった。
それからは大宮の独壇場となり、怒気を孕む冷徹な言葉の応酬が続く。私には何が起きたかは分からずに、立ち尽くすだけであったが彼女が小難しい話をし終えると、怪しいオバサンは失神し地面を舐める様に倒れ込んでしまった。
「一体何が起きてるんだ……?」
勝ち誇りキメ顔をする大宮が小さく深呼吸し胸を撫で下ろす。こいつも本当は緊張していたんだな。私には何が何だかさっぱりわからないままだったが、兎に角何かが解決したのだろう。良かった、良かった。
気が付くと先程まで鬱蒼し靄がかかった様な薄暗い森に、光が差し込み青々とした草木が輝いている。深谷は相変わらず呑気にキョトンとした顔をしてる。開けっぱなしの口からは少し涎が垂れていて、馬鹿みたいな顔だ。よし、こっそり写真を撮って後で揶揄ってやろう。
「まさに神の領域だな」
突然の野太い男の声に、寒気がする。私は瞳孔が開き頭が真っ白になった。それは、先程までの強者故の脅しだけでは無い、明確な殺意を込められた音だった。恐怖で顔の筋肉が震えるのが分かる。それは、その場にいた大宮も同様だ。
「さぁ『宣戦布告』は済ませた。お嬢さん、私の未来を確定し、迎撃してみてはくれないか?」
「うん、そうだろうな。ハハッ、そうだろうな。可愛いお嬢さん、その凶悪な能力は目視出来ない相手には使えないのだろう」
姿の見えない男は捲し立てる様に脅し続ける。隣で怯える大宮を見て私は一度、冷静になれる様、頭を捏ねくり回す。
私も馬鹿じゃない。勉強は苦手だが、今までの話から推測するに、大宮達は何か超能力的なモノでバトルしていたのだろう。そして、今の声の主、新たな敵は「透明化」の能力者って訳だ。更に言うと、大宮は恐らくこれが不測の事態であり、最悪に限りなく近い状況なのだろうな。
また何やら、アカシックなんたらだの、エフェクターだの知らん単語が羅列されていく。見えない誰かの話を聞けば聞くほど、大宮の表情が曇っていく。声はするのに、気配すら感じ無いのは気味が悪いな。
暫く、そんな話に耳を傾けていれば、大宮と私の服がビリビリに引き裂かれていくではないか。見えない上に変態だなんて、たかが女子中学生の相手としては荷が重すぎるぜ。
「そして我々は今日、響者を殺す『宣戦布告』をしに来たのさ。人類から外来種への『宣戦布告』を、手始めにその少年の首を頂くことでね」
見えない敵はネットリと格好を付けた嫌味な言い方で脅しかけてくる。それにしても、エフェクターって言うのは深谷の事を指しているって事で間違い無いのだろうが、まったく物騒な話が次から次へと続くもんだ。
「おっと、少しお喋りが長引いたね。ではこれでお終いだ」
再び強烈な殺意が肌に突き刺さる。本気なのだろう、本気で人を殺すつもりなのだろう。私の友達を、殺すつもりなのだろうな。やっぱり、ムカつくぜ。この変態の為に私が頭を使わないといけないなんてな。
勝つ為に出来る事、出来なければいけない事、するべき事、私は考えた。一つ頭のネジを外せば、解決策は直ぐに見つかった。敵が勝利宣言をしてから僅か数秒の時、真っ赤な血が辺り一面を濡らす。それは、私の手首から噴き上がった血液である。
「な、馬鹿が!」
返り血を浴びて正体が浮き出て来た変態が焦りながら私を罵倒する。つまり、この行為は正解だって事だ。ざまあ見ろ。
「ハハッ! ようやくお出ましだな変態!」
「グゥッ! 貴様ぁ!」
悔しそうに顔を歪ませる中年の小太りジジイが、語尾を荒く息巻いている。ますます煽りたくなるぜ。
「ハハハッ! 変態が仇になったな! お前が刃物を持っていたのに、深谷への攻撃は素手だったのは、自分に色が付くのをビビっての事だろう! それなのに、性癖全開の煩悩野郎が、調子に乗るから、こうなるんだよ!」
私はこの変態の前にやって来ていたもう一人の変質者、つまり大宮に負けて私の直ぐ近くで失神中のオバサンが持ってたサバイバルナイフで私は自分自身の手首を切ってやったのさ。流石プロのナイフだ、バチクソに切れ味がいいぜ。
「大宮ァ! 後は任せた!」
どうして、私がこんな大胆で知的な勝利方法を思いついたかって? 何故なら私は、「オタクに優しいギャル」だからなのさ。決してヤンキーじゃあねえ。透明人間相手にはこれが一番効くのは、漫画で予習済みだぜ。
あぁ、血が減り、目が霞む。朦朧とする意識の中、大宮が変態相手に勝ってるところが見える。良かった……やっぱりこいつら頼り無いから、私が守ってやらねえとな……世話が焼けるぜ……
──五月十四日、ポカポカ暖かい……でもちょっと風が強いかも
今日は林間学校の日。私こと蓮田翠はお友達の川口蕨さんと一緒にバスを待っていました。彼女は中学生になって初めて出来た友達で、すごく優しい人です。
私は昔から、ちょっと変わってるって言われます。たまにお話をしていると、その人の心の声が聞こえて来るんだけど、それが心の声かどうかは私は直ぐにはわかりません。それで、よく変な目で見られるので、私はあまり人と話すのが得意では無いのです。それにやっぱり心の声が聞こえると言うのは不便なもので、聞きたくも無い事まで聞こえて来てしまって気が滅入ります。
「ハーッハハッハ!」
(──この班は私がしっかりしてやんねぇとな)
でも、川口さんはいつも明るくて、友達思いで、優しいです。頼りになりますね。
バスに揺られて景色を眺めているとあっという間にキャンプ場へ到着しました。見渡す限りの森が綺麗で、ワクワクします。
「わぁ、着いたね」
同じ班の深谷君は何を考えてるのか分からない事が多いです。ちょっと珍しいかもです。でも、話しやすい雰囲気を作ってくれます。良い人です。
空気が澄んでいて美味しい。深呼吸をすると甘く感じるのは何故でしょうか。私がくつろいでいると、みんながテントを張り始めたので、私も頑張って一緒にテントを張りました。横で作業していた大宮さんと熊谷君は何故か今日は元気がありません。モヤモヤとずっと考え事をしている様です。
ハッ……そういえば、大宮さんは深谷君が大大大好きで、熊谷君も深谷君とめちゃ仲良し……もしかしたら、これは深谷君の取り合いなのでしょうか。三角関係が拗れてしまったのでしょうか……どちらを応援したら良いのか……ふふふ、私は二人とも応援しますよ。
そんな妄想をしているとテントは完成したので、釣り堀に行く事になりました。でも、やっぱり、まだ熊谷君は元気がありません。心配ですね。
もしかしたら、昨日の深谷君の身に起きた変な事が原因なのでしょうか。お昼休みに、私は大宮さんに深谷君を起こすように頼まれたのですが、深谷君の精神に入り込む人がいました。まだ、誰にも言っていませんが、あれは恐らく私と同じ超能力でしょう。
「アレ? 変わった……?」
(──急に未来が変わった……どうして……)
「どうしたの? 大宮さん?」
さっきまで俯いてた大宮さんがパッと笑顔になった。取り敢えずは、一安心なのかな。でも、深谷君に起きてるトラブルは本当に解決出来たのでしょうか。私の心配は増すばかりであった。
釣りを終えてさっき作ったテントに帰る途中、私は深谷君の姿が見当たらない事に気付いた。一瞬だったが、私たち以外の声がしたような気がした。今森の中を歩いているのは私の班だけ、周りには生徒どころか先生たちもいない。なのに、変な声が聞こえたのは、やっぱり気のせいではなかったのだ。
「探してくる!」
「待て! 危なすぎる!」
川口さんが事態を察して飛び出して行った。大宮さんもその後に続いて森の中を走っていく。熊谷君が止めに入ったけど、川口さんは押し切って瞬く間に深谷君を探しに行ってしまった。私は朝から具合の悪そうな熊谷君と一旦テントに戻り先生に助けを求めようと思い、木の根っこで足を取られない様に慎重に早歩きをした。
「あら、どうしたの?」
急いで森を抜けようとしたところに、担任の南浦先生がちょうど良いところに来てくれた。先生は私の顔を見て人数の足りない班に疑問を思ったのか話しかけてくれた様だ。
「あの、実は森の中で深谷君が行方不明になってしまって、川口さんと大宮さんが探しに行ったんです。私もテントに戻ったら先生に言わなきゃって思ってて……」
「それは、大変! 分かったわ。貴方達はテントに戻ってて! 私が探しに行ってくるわ!」
(──こいつらは、ESP能力者じゃ無さそうだな。捕獲対象を探しに行ったのは二人か)
知らない男性の声が不意に聞こえて来た。声は目の前の人からである。そう、南浦先生の格好をした誰かだ。
やはり深谷君は何か事件に巻き込まれているみたい。私はのしかかる恐怖で冷や汗が止まらない。だけど、友達を助けたい。私の能力がバレたら殺されるかもしれない。だけど、私はこの人から情報を探る事にした。友達を助けられるのは、今は私にしか出来ない。
「ま、待って下さい先生。私、少し具合が悪くて……テントまで一緒に来て貰えないでしょうか? 深谷君もたぶん、ただ逸れただけだと思いますし……」
「え? あぁ、そうね。分かったわ」
(──まぁ、あいつらなら俺が合流しなくても大丈夫だろう。今は周りに気付かれないようするのが先決だ)
私は先生の振りをした何かと並んでテントに向かって歩く。私の歩幅には合わせる気が無いのか、その人はズンズンと進んでいく。後ろには熊谷君が黙って歩いている。
「先生。あの、ちょっと聞きたいことがあるのですが……」
先生の振りをした人は立ち止まって一瞬冷たい顔をした。私は緊張で喉の奥が干からびて声が上手く出ない。だが、聞かなければならない。
「どうして、貴方たちは深谷君を狙っているのでしょうか?」
「はぁ?」
(──こいつ、何故それを知っている。能力者か?」)
「変装をしても無駄です。南浦先生は私たちにも敬語で喋りますから。貴方とは全然違いますよ」
「そうか。目敏いね、君」
(──感が鋭いな。しかし、こいつの能力が分からない以上迂闊に手は出せないか)
まだ私の能力には気付かれていない。兎に角今は出来るだけの情報を集めよう。毅然とした態度で舐められ無い様に、堂々と淡々と私は話を続けた。
「お仲間は二人でしたよね。助けに行かなくて良いのですか?」
「あいつもプロだ。俺は君の様な人を近づかせなければ、それでいい」
(──どこまで知っているんだ。まぁ、万が一にもあいつが負ける事は無いだろう。「認識阻害」は俺ですら相手にしたく無い、厄介な能力だ。それに加えあいつのナイフ術は群を抜いているからな。それと、「透明化」の方は変態だが有能だ。問題はない)
成程、能力は「認識阻害」か。それで、深谷君は気づかない内に攫われてしまったと。問題はナイフを持っている事、大宮さんなら何とか出来そうだけど。うーん、心配かも。ていうか、透明人間の変態って一番ヤバいのでは? 問題アリアリでしょ。
「それで、質問に答えて下さい。何故、貴方達は深谷君を狙うのですか?」
「答えるつもりは無い」
(──末端の俺たちが分かることなんて無いっての。そもそも狙いは「賢者の石」だけだったのに、捕獲対象が響者だったせいで、急遽俺と変態オヤジが借り出される事になったんだから。はぁ……あまり長くこいつといても面倒だ。とっとと殺しちまうか)
「はぁ……貴方の仲間は二人、「認識阻害」と「透明化」。使う武器はナイフ。目的は「賢者の石」といったところですか」
「お前、何者だ……いや、まぁいいか。ここまで知られているなら、殺すしか無いな」
(──え、えぇ……どゆこと? ヤバすぎだろ、この女! 何でそこまで詳しいんだよ! と、取り敢えず落ち着け俺。ま……まぁ、口封じさえ出来れば大丈夫だよな……)
うぅ……これ以上聞き出せる情報は無さそうですね。あぁ、それにしても、私が冷静に対処してると思われているのでしょうが、そんな事は微塵も無いのですよ。足もさっきから震えが止まりませんし。震える私を見て、先生の格好をした人が、のそりとにじり寄ってくる。あぁ、私殺されるのかぁ……死にたく無いなぁ……
「グハァ……!」
後ろで黙って話を聞いていた熊谷君が、先生に変装した人に思いっきり木片を振りかぶり殴りつけた。鈍い打撃音が響く。
「すまない、蓮田! 遅くなった!」
殴られた衝撃で変装が解けたのだろう、頭の薄いオジサンが白目を向きながらその場で倒れ込んだ。ズシンと鈍い音がするところを見ると、顔面から倒れ込んだのだろう。薄い頭が余計に薄くならずに済んで良かったねと、私は失礼ながら思ってしまった。
「ふぇーん! 怖かったよお!」
「ありがとうな! 蓮田のおかげでみんな助かったよ!」
緊張が解けて私は土の上なのにペタンと座り込んでしまった。凛々しくも、緊張の汗でびっしょりになった熊谷君を見ると、私は途端に不安が押し寄せて来て、涙が止まらなくなってしまった。熊谷君が泣きじゃくる私の背中を優しくさすってくれた。
「うぅ……熊谷君、何回目?」
「うっ……二回目だ……」
「何で、一回失敗してるのさぁ……」
「ご、ごめん!」
恐らく私は以前の時間軸で話し終えた後に殺されたのだろう。まぁ、そのつもりだったから、しょうがないんだけど……熊谷君も敵の情報をかき集め、しっかりと対策をしてくれているみたいだ。深谷君達、無事なら良いけど……
──五月十四日、穏やかな陽射しが森を照らす
僕は次々に起こる不思議な現象に只々唖然とするしかなかった。目の前にいた川口さんが突如自分の手首を切ってしまった事にも驚きだが、その飛び散った血が空にへばりついて人の形が浮かび上がる。一体何が起きているのだろうか。
浮かび上がって出て来たのは中太りのオジサンだった。出て来たオジサンは自身の顔を手で覆う様に隠し、ジタバタと暴れている。先程まで強気な言葉で悠然としていただろうに、何かに凄く怯えている様であった。全く何が起きているのか僕には分からない。
「や、やめてくれ!」
「黙れ変態。貴方の因果は既に掌握した」
何故か服がビリビリに引き裂かれ、白い肌が顕になっている大宮さんが、普段は見せない様な怒りの表情でそのオジサンの襟首を掴み睨みつける。オジサンはガタガタと奥歯を振るわせ怯えているが、数秒後には足の力が抜けたように失神してしまった。
「川口さん! 早く救急車を呼ばないと!」
大宮さんが、気絶したオジサンを地面に叩きつける様に放り投げて、慌てて川口さんの元に駆け寄り介抱する。だが、川口さんは先程からずっと荒い呼吸のまま目を閉じたままである。僕はふと、篤から止血剤と包帯と消毒液を持たされていた事を思い出した。たかが林間学校でこんなに大荷物の救急セットが必要なのかなと疑問だったのだが役に立つ時が来た様だ。
僕はすぐさまに川口さんの怪我を手当し、背中におぶってテントの所へ向かう事にした。立て続けに色々な事がありすぎて、もうパニックである。泣きそうな顔の大宮さんが心配そうに川口さんを必死に見ている。彼女の服も破れていたので、ジャージの上着を貸してあげる事にした。ちょっと寒い。
「あれ、深谷君……どうしたのですか!?」
なんとか元のテントの場所に戻ると、担任の南浦先生と蓮田さん、そして篤がいた。みんなが僕達の姿を見て、直ぐに川口さんを運ぶ手伝いをしてくれた。
川口さんはテントで暫く安静にしていると、意識を取り戻した。起きたばかりの川口さんは僕と大宮さんの顔を見るや笑いながら、「良かった」と呟いてまた寝た。今はスゥスゥと寝息を立てている。
それから、少しして南浦先生が「もう大丈夫」と僕達に教えてくれ、ホッと一安心したところで夜食のカレー作りを始める事にした。
「無事で良かった。本当に……喜助、生きててくれてありがとう」
隣で人参を切る篤が、何故か僕に感謝の言葉を述べ、安堵の表情でこちらを見ている。いや、僕は何もされていないんだけどね。心配なのは大宮さんと川口さんだよ、と僕は思った。
まぁ、川口さんもカレーの匂いに釣られたのか、あれから数時間もしない内に目を覚まして、今は元気にカレーの盛り付けの手伝いをしてる。何事も無くて本当に良かった。
それにしても、何だか篤が朝よりも大人っぽい気がする。林間学校とは、こんなにも人を成長させるのか。
「よし! できた!」
グツグツと鍋の煮える音が明朗で小躍りをしたくなる。というか、川口さんはすっかり待ちきれない様で踊り始めている。あんな事があったのにタフすぎるだろ。
辺り一帯にカレーの香ばしい良い匂いが漂う。色んなことがいっぺんに起きてすっかりお腹が空いてしまった。さっきまで、明るかった空が暗くなりオレンジ色の太陽が沈みかけている。
「美味いな!」
「美味しいねー!」
林間学校に来れて良かったと今では思う。ほんの数日前迄は憂鬱な行事でしかないと思っていたけど、こうして仲間内でワイワイと同じ釜の飯をご馳走になるのはいいものだ。我ながら、カレーもよく出来て美味い。
まぁ、結果として、僕には今日何が起きていたのかは分からないままであったのだが。みんなが無事でいるから、深くは考え無くても良さそうだ。けど、やっぱり、何がなんだったのか不思議である事に違いはない。
カレーを食べ終え、ぼんやりと星空を眺めながらそんな事を考えていると、隣にちょこんと大宮さんが座って来た。寄り添った彼女の肩が僕の肩に触れる。心地良い風が肌を撫で、彼女の綺麗な黒髪が靡く。バックの夕日と相まってその姿は幻想的で目が奪われてしまった。僕は彼女に見惚れながらも、今日こそはと、しっかり口を開き感謝を述べる。
「莉多、ありがとう」
今日一日、何が起きていたかは分からないが、僕は彼女に感謝せずにはいられなかったのだ。ただ何となく、きっと今日だけじゃなくて、ずっと彼女達は助けてくれていたのではないかと思っていた。
すると、大宮さんは目を丸くし、驚いている。そんなに僕が感謝の言葉を口にするのが、意外だったのかな。広角の上がったふやけた笑顔の彼女はパクパクと声の無い口を動かしている。
「今、名前……」
うん……あれ、何でだろう、何故か下の名前で呼んでしまっていたぞ。急に僕は恥ずかしくなって、自身の耳が赤く火照るのが分かった。僕の照れているのを見て大宮さんはニヤニヤと悪戯な笑みを浮かべる。
「ようやく、名前で呼んでくれた」
大宮さんは、首を少し傾けながら僕の顔を覗き込んで来る。余計に恥ずかしくなり僕は俯くのだが、彼女は目を逸らしてはくれない。吐息を感じられる程に距離の近い彼女の顔は、いつもよりも可愛らしい。夜空の映る彼女の瞳は、どこか懐かしい宇宙で……いっそのこと吸い込まれてもいいかも知れないとすら思う。
「おいおい……随分、良い雰囲気じゃないか」
「く、熊谷君! あんまり前に出たらバレちゃうよ!」
「蓮田ぁ! 声がでかいぞ!」
「蕨の声が一番でけぇよ!」
横目でチラッと茂みを見ると、ヒョコっと顔を出す三人が見えた。みんな、もうバレてるよ……まったく、呑気だな。大宮さんも、機嫌が良さそうにニコニコと微笑んでいる。
「みんなにも、後でちゃんとお礼を言おうと思うんだ」
「あら、喜助君……貴方どこまで知っているの?」
意味深な詮索をする彼女であったが、僕はいつもと変わらない、彼女に馴染みのあるキョトンとした顔で答える事にした。
「え? いや、何も知らないよ。ただ、何となく……そんな気がしただけだよ」
僕は何も知らない。それはきっと、みんなが努力して、頑張って、死に物狂いで、僕が気づかない様にしてくれたのだろう。本当に何となくだけど、そんな気がするんだ。だから、詮索だとか推測だとか、そういうのは野暮なのだろうな。少しはぐらかす様に僕は再び星を見た。
「あ、流れ星だ」
「喜助君は、何かお願い事できた?」
「早すぎて出来なかったよ」
だから、僕はこうして大宮さんと……莉多と一緒に夜空の星を眺めているだけで充分だし、いつかこの日がいい思い出になるのだと願いたい。流れる星に祈る程の事じゃない、自分でそうしたいと思えばいいだけだ。
静寂は孤独を加速させるかも知れない。絶望は心の侵食し脳を貪る害虫でしかないないだろう。そこに、抗う術は無いのかも知れない。でも、希望を追いかける精神の歩みこそが、唯一の対抗手段なのだとしたら、それは星の輝きの様な眩さで瞳が潰れたとしても僕は瞬きをするつもりは無い。
隣にいる彼女は何を願ったのだろうか。出来れば、可能ならば、それが叶ってくれるといいなと僕は思う。思い耽る僕の頬を彼女の髪がそっと撫でた。また、いつもの甘い香りがして、僕は隣をそっと見返す。
「スゥスゥ……」
僕の肩に頭を預けて莉多が寝息を立てている。また靴下を片方だけ放り投げる前にテントに運んであげよう。でも、この状況で起こさない様に運ぶのは至難の業だろうな。周りに見られると騒がれそうだけど、今日はそんな事気にする気は無い……と、思いつつも僕は周りをキョロキョロと見渡した。
妙に静かだと思ったら、いつの間にやら先程まで茂みに隠れていた同級生達も、寄り添って団子の様に固まって眠っていた。「お疲れ様」と言いたいところだけど……
「呑気だなあ……」
何にも気付かない僕は呑気な台詞を言う。正解か不正解か、今の僕は友達が傍に居るのなら、些細な事はどうだって良かった。殺されるだとか、そんな些細な事は、どうだって良いのであった。
楽しく読んでいただけたら嬉しいです。
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