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第六話 くっころ女騎士、クオンツからマーケットメイク戦略とリバランス戦略の手ほどきを受ける

 先物取引をし始めて、少しずつわかり始めたことがある。

 モルガンは自分の小麦のロングポジション(小麦は現在2.55ドルをつけている)を握りしめながら、考えに耽った。



 まず、ピットの中を飛び交う情報は、初心者の自分にはかけがえのない情報であることがわかった。

 農作物は、凶作になれば値上がりする。

 銅の一日取引高はせいぜい七千枚程度。

 相場の転換点の時に、あの三人はいつもポジションを大きく外す。

 そんなちっぽけな情報ひとつひとつが、右も左もわからないモルガンにとって宝のような情報であった。



 もちろん、その些細な情報はクオンツのような凄腕のトレーダーには取るに足らないノイズのような情報であろうが、モルガンにとっては学びのきっかけであった。



 次に分かったのは、平凡なファンダメンタル情報よりもテクニカル分析、テクニカル分析よりも一級品のファンダメンタル情報が大事だということ。



 帝国ニューディール政策のからくりはその典型例であった。

 テクニカル分析に忠実であれば、モルガンはかなり上等なエントリーができていたはずである。

 下手にあれこれ調べものをするよりも、テクニカルに忠実であればよかった相場なのである。

 ただ、それよりも一歩先を行っていたクオンツは、しっかりと一級品のファンダメンタル情報を握っていた。



 恐らく帝国穀物メジャーにツテがあるのだろう。

 彼の先見の明には舌を巻くばかりで、モルガンは結局のところ彼ほどはボロ儲けできていなかった。



(……こんなに悔しいなんて)



 特に新規ポジションを建てるでもなく、モルガンはただ、シカークァ商品取引所の喧騒の中を突っ立っていた。

 シカークァの熱風は、モルガンにとって少々騒がしすぎる。



(今までたくさん勉強してきたと思ったのに、もっと勉強しないとだめなんだって、こんなに痛切に分かるんだな)



 近づいたと思ったら更に遠くに彼がいる。女騎士のトレードの物語はまだ始まったばかりである。











 ▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△











 先物取引に手を出してから、モルガンのトレードスタイルは若干の変化を迎えた。

 今までは、ポジションを持たずに無為に時間を過ごすことに焦りを覚えていた。市場分析や相場の勉強のほうがずっと大事だとわかっていてもついポジションを取りたい気持ちになっていた。

 それが、先物取引の空気にあてられてから、ポジションを持たないことの大事さを知るようになった。



 むしろ、ポジションを持ち続ける(・・・・・)ことこそがしんどい(・・・・)



 あの小麦のトレードは彼女にかけがえのない経験を与えてくれた。

 それは、相場の熱気にあてられて慌ててポジションをとってしまう己の心の弱さであったり、相場の分析もろくにしないでエントリーをしてしまう軽薄さであったり、エントリーした後になっていろんな情報に一喜一憂してしまう間の悪さであったり。

 もっと情報を集めたり、基本的な分析ができていれば、こんな舞い上がり方も慌て方もしなかったはずなのである。

 それを知らないで気軽にエントリーしてしまった彼女は、一喜一憂で精神的に疲れ切ってしまった。

 ごく当たり前の事実なのだが、ポジションを持ち続けることはしんどいことなのである。



 しんどいことなのだが。



(だが、それでも私は忘れない。あの先物取引の市場に参加して本当に良かったと思っている。きっとこれからも私は、ポジションを作ることは諦めないだろう)



 今でも思い出せる、世界が変わったようなあの(・・)瞬間。

 あの相場に現れた鮮やかなクジラ――。



(クオンツのように、トレードがしたい)



 出会ったころよりも背中が遠くなった、あの野心家の男のような、鮮やかなトレードが。











 ▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△











「基本? トレードをして1~2週間も経って損が出ているならば、そのポジションは明らかに間違っている。相当時間が経っているにも関わらず損益分岐点のあたりにいる場合も間違っているだろう」



 トレードの基本を教えてほしい、とクオンツに聞くと、当たり前のような言葉が返ってきた。

 当たり前のことなのだが、それでも十分参考になる言葉であった。

 要するに建ててからずっと損を出しているポジションや全然動かないポジションは握るべきでないと言っているのだ。



 利益を生んでいないポジションはさっさと切り、利益を生んでいるポジションはトレンドが変わるまでは握り続けろ――という相場の金言にも通じるものがある。

 確かに基本中の基本の考え方ではある。

 基本ではあるのだが。



「……」



「それと、そうだな。コモディティ先物(商品先物)のほうが、個別株よりもはっきり明確にトレンドが出る。お前も先物取引に手を出し始めて分かっただろう。トレンドを追いたいのであればコモディティのほうがよかろう」(※注:インターネットにより誰でも24時間取引が可能になった現在では明確にそうとは言い切れない)



「それは……確かに、何となくそう感じたが」



 コモディティ市場のトレンドは、明確に原因があることが多い。



 例えば金市場においては天候が良好だと値上がりするが、天候が悪いと値が下がる。

 一見関係ないように見えるこの事象だが、金の最大の需要国であるバーラタ国の因習に少し原因を見いだせる。



 バーラタ国では、金の装飾品を花嫁に贈らずには結婚はできない。バーラタ国においては黄金は神のシンボルであり、金装飾はお守りなのである。

 そして祭事や吉事はハレの日、つまり晴天の日に執り行われることが多く、それゆえにモンスーンが例年より弱く晴れの日が続くような気候の時は金がよく売れる。

 また金持ちは特に黄金への信心が深い。バーラタ国は新興国家でもあり、成り上がった金持ちが多い国でもある。

 そんな金持ちはやはり、結婚なども盛大に執り行う傾向があり、金の消費に一躍買っている。



 海水表面温度の変化するエルニーニョ現象・ラニーニャ現象は長期的に続く気象現象である。それらを発端とした気候変化もトレンドが続く傾向にある。

 コモディティ市場にトレンド性が認められるのには――もちろん気象現象だけではなく様々な要因があるが――きちんとした理由があるのだった。



 そして、このコモディティ市場のトレンド性もまた、基本中の基本の考え方である。

 基本ではあるのだが。



「……」



「まだ不満か? では、トレードのテクニックを一つ教えてやろう。つまり――」



「……クオンツ。私は、貴方のようなトレードがしたい」



「ほう?」



 思わず口をついた言葉に、モルガンははっと我に返った。

 貴方のようなトレードがしたい――ないものねだりをするような子供みたいな言葉である。だが紛れもない本心からの言葉であった。



「あ、えっと、これは、その」



「構わん。続けろ」



「……その」



「それはつまりあれか。相場の基本をすっぽかして、真っ先に俺のトレードの極意をしりたいと抜かしたか」



「……っ」



 からかうように指摘され、さしものモルガンも少々後悔した。が、クオンツは意外にも、構わんぞ、と答えた。



「え」



「構わんぞ、と言ったのだ。もし俺自身が本物なら、お前にいくらか物を教えたところで痛む腹はないからな」



「……!」



 がばっと顔を上げたモルガンは、勢いのあまり唾を飲み込み損ねてむせ込んだ。

 あのクオンツがトレードを教えてくれる。しかも本物のトレードを。



「そこまで嬉しそうにがっつくなよ、犬かよ」と嘯く彼は、どこか懐かしむような、それでいて楽しむような様子であった。











 ▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△











「マーケットメイク戦略とbotトレード?」



「ああ。お前には基本的なことをたくさん学んでもらった。その甲斐あって、今や相場の王道を少しずつ理解してきたであろう。よってここからは少し横道に入ってもらう」



 にやり、と口角を上げたクオンツが示したのは――複雑怪奇な呪文が書き込まれた、魔道具の数々。

 名前を、魔術算盤。

 一般人では到底お目にかかることができない高価な演算補助装置である。



「こいつを使えば、相場の売買注文を機械的に執行できる」



「!」



「俺はトレードをアルゴリズム化している。それが俺のトレードだ」



「貴方は……!」



 モルガンはここにきて意表を突かれてしまった。

 相場の神様だと思っていた彼のトレードが、まさか自動化されているなんて、思いもしなかったのである。



 どちらかといえばもっと、いろんな細かい情報をそろえて精査し、誰もが見つけていないような相場の兆候を探し出しているような印象があったのだが――。



 機械でも売買できるように単純なルール化をするだけで、あんな鮮やかな取引ができるとは思えない、と頭のどこかが、この事実を受け入れがたいものだと感じてしまっていた。



「不思議かね?」



「いや、そういうわけではないのだが……」



「お前はよく勉強している。そろそろ、HFTbot(高頻度取引)や機械学習の世界をのぞいてみる良い頃合いだろう」



 戸惑うモルガンに反して、クオンツは実に楽しそうであった。





















 マーケットメイク戦略。

 板の上下に指値(売り指値と買い指値)を両方出して、差分の利益を得るものである。

 ポイントとして、t秒間に取りうる値幅アクティブスプレッドをいかに予測し、それを拾いに行けるかが重要であった。



「例えばある商品Aの最高買指値が135ドル、最安売指値が136ドルだったとする。誰かが135ドルで買い注文(best bid)を出しており、またほかの誰かが136ドルで売り注文(best ask)を出している状態である。

 スプレッドは1ドル。ここで問題だが、この商品を135.1ドルで買い、135.9ドルで売ることができたら、利益は0.8ドルだ」



挿絵(By みてみん)



 マーケットメイク戦略では、best bidとbest askだけでなく、t秒後の値動きを予測しての戦略も往々にして取られる。

 売り指値と買い指値を置く位置は、best askとbest bidの中央値Stから±δだけ乖離した、St+δ(δask)、St-δ(δbid)で与えられる。



 このδは、効用関数uを最大化する問題と置き換えて解くことができる。

 u = E[ -e^-γ(Ct + qt*St)]

(γ:リスク回避度=自分で設定する係数、Ct:t時点のキャッシュ、qt:t時点の在庫、St:t時点の中央値とする)



 ※中央値Stの値動きは、以下の式で表される分散σ^2のブラウン運動とする。

 dSt = σ * dWt



 また、板の厚みは、各価格帯に置かれた指値を累積することで求める。

 また、単位時間当たりにStまわりのどの価格帯でどれだけの注文が約定されるか――注文の強さについては λ(δ)=A*e^-αδ の形の式で表現しておく。



 他にも考慮することとして、片方しか約定しなかった場合は当然在庫を抱えることになるので、在庫を減らすようにバランスをとった指値オフセットをとる必要がある。



 Avellaneda, Stoikov(2008年)によると、δとオフセットの解は

 δ = γ * σ^2 * (T-t) + 2/λ * ln(1+γ/α)

 S_offset = -γ * σ^2 * (T-t) * qt

 で得られる。

 在庫が多ければオフセットは負の値をとり、St+δ-S_offset(δask)、St-δ+S_offset(δbid)と中央値Stとの距離はδaskのほうが近く、δbidのほうが遠くなる。



 また、注文の強さ(≒板に対する成行売買の強さ)を表す係数αがδに及ぼす影響は、αが大きいときδは大きく、αが小さいときδは小さくなる。

 これは当然で、離れた距離でも約定するか、離れた距離になると約定しなくなるか、約定の強弱をそのまま数式に落としたものと解釈すればいい。



「え、え、え、え」



「マーケットメイク理論を知らない状態のお前は何も考えず注文していたかもしれないが――どれぐらい約定できるのかの数式的な見積もりは、純粋にポジションを得るうえでも重要だぞ」



 安く買って高く売る、ということを数式によって実現したマーケットメイク戦略。

 ±δの差益を常に取り続けるこの手法は、数式を解くことができる人間にとってはほぼ恒常的に利益をもたらす隠れた聖杯であり、数式を解くことが困難な人間から少しずつ上げ前を徴収している見えない壁でもある。



 CARA効用関数(Constant Absolute Risk Aversion Utility Function, 絶対的リスク回避度一定効用関数)を変形して得られる上記の式は、まさに数理的なアナリストがよく知る有名な式である。





















「さて、以上がマーケットメイク理論だが――少し基本に立ち返って、アルゴリズムトレードをする基本の情報はわかるか?」



「……え」



「前日比のヒストグラムと基本統計量だ。ヒストグラムは基本中の基本だ。それと、ここでいう基本統計量というのは1次モーメントから4次モーメントのことだ。値動きの統計的性質を知っておくのは相場の常識だぞ」



 マーケットメイク戦略の説明にしばらく呆けていたモルガンだったが、基本、という単語に急に現実に引き戻された。

 基本統計量。

 言葉の響きから察するに、おそらくは基本的な情報なのであろう。

 だがしかし、案の定その基本となる知識をモルガンは持ち合わせていなかった。



「1次モーメントから順番に、平均値、分散、歪度、尖度と言われる。それぞれ基本的な売買戦略の有利不利を教えてくれる便利な指標だ――」



 1次モーメントは、いわゆる平均値である。

 過去n日分の前日比データの平均がプラスの場合は、平均してプラスの成長をしていることになる。

 健全な株式相場であれば右肩上がりに成長しているため、若干プラスの値となるのが普通である。この平均値がどちらかへ偏っていた場合、偏っている側のトレードが有利になるのは当然である。



 2次モーメントは分散である。

 分散とは、数値データのばらつき具合を表すための指標である。過去n日分の前日比データの分散が大きい場合は、当然元データのn日間の価格変動は大きいことになる。



 3次モーメントは歪度である。

 歪度とは、分布の非対称性を表す値のことである。

 ヒストグラムの形からも容易に発見することができるが、歪度には以下の

 ・歪度<0:左に裾が長い(右に偏った)分布

 ・歪度=0:左右の対称性がある

 ・歪度>0:右に裾が長い(左に偏った)分布

 が当てはまる。

 歪度が正の場合は「急に上がるが、じわじわ下げるような値動きが多い」とわかる。

 この場合はじわじわ下がっているときに買いを仕込み急上昇したときに売る戦略が有益であり、トレンドフォロー戦略に合わせやすい。



 4次モーメントは尖度。

 分布が正規分布に対してどれだけ尖っているかを表す指標である。

 ・尖度<3:裾が短く先が丸い

 ・尖度=3:正規分布=尖度3

 ・尖度>3:裾が長く先端はとがっている

 が基準であり、トレンドとレンジの比率を示している。

 そして金融商品のほとんどは尖度が大きい――即ち普段の値動きは小さいがイベントにより激しく動く性質を持っている。

「市場の値動きの8割は2割の期間で発生する」という格言はまさにこの尖度の性質を指している。

 何か適当に株や商品を買っても、8割の確率で何もないものなのだ。



「その相場は値上がりと値下がりのどちらの局面が多いのか。その相場はトレンド性が強いのかレンジ性が強いのか。誰もが当然知りたい情報のはずだ」



「……なるほど」



「相場の特性を知りたいはずなのに、手法を知っていないがゆえに調べられない。長年の勘や経験という曖昧なものに飛びついてしまう。……全くもって業の深いことだ」



 クオンツ曰く。

 統計的な性質から、有利となるポジションを計算してそれを繰り返させるだけでアルゴリズムトレードはほぼ完成するという。



「はっきり言ってマーケットメイク理論はどの相場でも使える。だから、基本統計量に基づいたトレンドフォロー戦略、もしくはカウンタートレンド戦略と組み合わせるだけで戦略の幅はかなり広くなる」



 マーケットメイク戦略と基本統計量の算出さえやっておけば、相場のセンスが鈍い人間でも勝てるとクオンツは豪語した。





















「これでも勝てないというお前のためにもう一つ有益な戦略を教えてやろう。最後の切り札――リバランス戦略だ」



 リバランス戦略。

 それは、ポートフォリオの比率を一意に定め、歪みが生じたら比率を元通りにする戦略である。



 例えば「現金:ディフェンシブ株:景気敏感株=1:1:1」というポートフォリオを定めたとする。

 十分に景気が良くなると「1:1.2:1.4」と歪みが生まれるのでこれを「1.2:1.2:1.2」にリバランスする。

 今度は景気がすっかり元通りになったとすると「1.2:1.2/1.2:1.2/1.4 = 1.2:1:0.857」となる。

 そこでもう一度リバランスしたとき「1.019:1.019:1.019」となり、景気は全く元の状態に戻っただけなのに全体の資産が約2%弱増えている計算になる。



 これは当然のことで、リバランスの過程が「景気がいいときに高く売り」「景気が悪いときに安く買い戻す」という操作を含むためである。



「相場は基本的にランダムウォークであり、上がり続けたり下がり続けるようなものではない。となれば、その上下のボラティリティを取りに行く戦略は合理的な考え方だ」



 リバランスの際には資産を売買するので、その都度、売買コストと売却時の税金(利益が出ている場合)がかかり、リターンを低下させる要因になる。

 よって頻繁なリバランスは控えるべきだが、景気の循環に応じたリバランスは有効な戦略となりえる。



「景気の循環に応じたリバランス……そうか、セクターか」



「気づいたか? 俺がなぜセクター分けが基本だとお前に叩き込んだのか」



「S&P500などの銘柄平均と比べても、業界ごとのセクターは景気の波がある! セクター毎に歪みが大きくなったときは、それをリバランスすれば反動が来た時にその差分を儲けにすることが――」



「まあ、半分正解だ。株は基本的にリスク債だから、株の世界だけで完結するのはリバランス戦略上あまり好ましくないが――俺が言いたいのはそういうことだ」



 かつてクオンツが教えてくれたセクター分けの考え方は、モルガンの視野を少しだけ広くしてくれていた。



 工作機械(自動車・電気機器など)、素材産業(化学・鉄鋼など)、運輸産業(海運・倉庫など)のセクターは景気がいいときに価格変動もよくなり、電力やガスなどインフラ業のセクターは景気が悪いときでも比較的安定した値動きである。

 当然世の中の情勢によっては、あるセクターが強くなりあるセクターが弱くなることもままある話である。



 原油価格が上昇すれば、帝国石油開発の株は買い、逆に帝国航空の株は売り。

 新型インフルエンザが流行し外出自粛となれば、ゲーム会社の株は買い、イベント会社の株は売り。



 有名な戦略として、逆相関の関係を持つセクターの銘柄に対してロング・ショート両方を行うロング・ショート戦略があるが、このリバランス戦略はまさにそれと同じことを、半ば意識せずに実行する戦略でもある。



 リバランス戦略においても、セクター分けの重要性は高いものである。



「セクター間の歪みも然り。金や国債や土地や為替含めて、幅広いアセットを保有している場合は、リバランスを定期的に行うだけで、景気変動で利益を享受することが可能なのだ」



「……そうか」



「俺のように数々のアセットを保有しているともなれば、リバランスだけでも生活費は捻出できる」



「!」



 リバランスだけで生活できる――その言葉を聞いて、モルガンはいろいろと納得してしまった。



 自分のような女騎士を居候させて、半ば道楽のようにトレードを教えてくれたりするのも。

 世間一般の人間が汗水たらしているのを尻目に、毎日のように優雅に暮らしているのも。

 作業の大半をきわめて単純なアルゴリズムで自動化できるのも。

 そして――世界経済全体の大事件が起きてないか、情報収集だけは人一倍熱心に欠かさないのも。



 全て、リバランス戦略だけで食べていける盤石な生活基盤があるからなのである。



「リバランス戦略の効果を手っ取り早く確かめたいなら、シャノンの悪魔でランダムウォークのシミュレーションするとよかろう」



 シャノンの悪魔、というのは一種の思考実験である。

 毎日、ある株と資金の比率を1:1に揃えなおす。

 株の値段は最初1ドルでスタートし、毎日2倍になるか1/2になるかランダムウォークすると仮定する。

 すると、360日後の結果として――株価が0.01ドルになったにもかかわらず、資金が1億ドルにも膨れ上がったりするのだ。



 これはあくまでシミュレーションの結果次第だが、毎日2倍になるか半分になるかという極端な変動を仮定すると、リバランスだけでも最終リターンが恐ろしく膨らむことを表している。



 実際の株の値動きは1日数%程度であるため、実際はレバリッジをかけて運用することが多い。

 机上の計算だが、1950年から2006 年まで毎日レバレッジ8倍でダウ平均に投資した場合、シャノンの魔物方式で投資すると最終リターンが1万倍にも上るという計算結果がある。税金や手数料を考慮するとパフォーマンスは10分の1以下に落ちると考えられるが、それでも恐ろしい結果である。[1]



「まあ一般の市場では、ボラティリティの小ささ故に、シャノンの悪魔だけでは手数料負けするのが殆どだ。ヒストグラムを取ると値上がりする日のほうが値下がりする日より多かったり、前日比の平均値が正の値を取るようなエッジのある市場を選ぶのが必要だ」



「……流石にそう甘くはないということか」



「だが、リバランスだけで十分食えるというのは分かっただろう?」



「……」



 そう都合の良い話があるのだろうか? と半信半疑のモルガンはすぐには頷けなかった。

 戸惑いとともに、ただ何となく相場のボラティリティを味方につける売買戦略があるのだな――といったことだけを理解するにとどまった。



 リバランスだけで勝つことができる相場がある。これが、簡単に勝てる相場を見つけろ、というクオンツの言葉の真意なのだろうか。

 ふとモルガンは、昔に聞いた言葉を改めて思い返した。





















「さて、基本統計量とリバランス戦略を教えたからには、現代ポートフォリオ理論も教えてやる必要があるな」



「む?」



 俺のトレードのすべてが知りたいんじゃないのか? とクオンツが不敵そうな笑みを浮かべていた。

 それはあえて表現するなら、教え子の成長を楽しむ喜びと、理解できるものなら理解してみろという挑戦的な心が混じった態度であった。



 参考文献

[1]シャノンの悪魔

https://syoyo.wordpress.com/2007/01/07/%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%8E%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%82%AA%E9%AD%94-vs-%E5%8A%B9%E7%8E%87%E7%9A%84%E5%B8%82%E5%A0%B4%E4%BB%AE%E8%AA%AC/

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― 新着の感想 ―
[良い点] 金融工学やクオンツの感覚をここまでわかりやすく最強目線で落とし込めてるの凄いです 「リバランスだけで生活できる」というセリフなんかは理論を咀嚼していないと出ない言葉ですし、上級者が初心者に…
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