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第五話 くっころ女騎士、先物取引のピットトレーダーになる(3)

「……!」



「どうした、そんなに顔を青くするほどの記事だったか?」



 クオンツのからかうような声が耳に入らない。それほどにモルガンは慌てていた。



(そんな馬鹿な……物価指数から計算すれば、小麦の適正価格は1ブッシェル2.6ドル近くになるはず!)



 小麦のパリティ価格2.2ドル。政府が農家から農作物を買い上げる適正価格。

 それが今の市場価格より下回るはずがない。



 こんな価格では、小麦の値下がりを食い止められるはずがない――。



 計算の前提が間違っていたのか。それともモルガンの知らないような重要なことが今マーケットに起きているのか。

 温めたミルクも塩気の強いパンも全く味がしない、まるで砂を噛むような気持ち。

 新聞記事を食い入るように見ながら、モルガンは胸に渦巻く不安で動けなくなっていた。



「どうした?」



「……パリティ価格が、予想よりも低い」



「? ……ああ、なるほど? お前、農業調整法による価格調整を背中に、農作物の先物取引の買いポジションを増やしてたのか」



「……そんな、馬鹿な」



「いやあ、お前いい経験してるじゃねえか。どうせならそのポジションと心中しろ。ここからもっと勉強になると思うぜ」



 頭は煮えたように冷静さを失っていたが、心中という言葉が彼女にかろうじて他の選択肢を思い出させていた。

 心中の対義語は、見切りをつけること。

 つまり損切りである。



「……いや、損切りする。予想より遥かに低いパリティ価格は、きっと相場の失望売りを呼び込むはず」



「ほう」



 賢くなったな、とクオンツは呟いた。

 新聞を眺める彼は、なにか面白そうな情報はないかとネタを探している真っ最中のようにも見える。



 だがなモルガン、とコーヒーを啜りながら続けた彼は、中途半端な賢さは傷を広げるぞ――といかにも不穏なつぶやきを残した。











 ▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△











 適正な価格なんてものはない。

 それらは人ではなく、相場が決めることだ。



 ファンダメンタル分析を欠かさず行いながらも、そのファンダメンタル分析を是としないクオンツの言葉である。

 逆にテクニカル分析をすることで、今まで見えてこなかった相場の情報を見ることができる、隠された真実に気づくことができるとも彼は言っていた。



 即ち、半端な情報を頼りにするぐらいなら、テクニカル分析で違和感を読み取ったり、もしくは更にファンダメンタル的な情報の深堀りをしてから確固たる根拠をつかみにいくほうがはっきり良いというわけである。



 全くもってクオンツの言うとおりだ、とモルガンは動揺していた。

 モルガンは、自分のトレードに混乱をしていた。



(政府が農作物の価格の下支えをしないなんてそんな馬鹿な話があるか!?)



 否。下支えはしている。

 ただその買い取り価格が、現行の先物取引価格よりも下回っているだけである。



 この買い取り価格ライン以下には落とさない、という政府のスタンスなのであろう。

 だが、いかにも弱気なその態度にモルガンは予想を大きく裏切られた。



(……読みが甘かったか!? もしや帝国はあまり劇的に小麦価格を釣り上げることができないのか!?

 例えば――例えば、様々な国との貿易通商条約などで、生活必需品の価格を一国の政府が他国に無断で極端に調整することが禁じられたりしているのか!?)



 言われてみれば、そもそも通商条約や政府介入の仕組みをモルガンはほとんど知らない。

 何が禁じられていて、何が可能なのか、ほとんど法律を知らないのである。

 加えて帝国ニューディール政策という、新政策である。



 何も知らない状態だった。

 だというのに、何かを発見したかのように浮かれてトレードをしてしまっていた。

 ――今更になって事実に気付いて、モルガンはぞっとした。



(物価指数による見積もりによると市場価格の一割増しが妥当な価格……そう思いこんでしまっていた。

 冷静になれば分かったのに。政府の買上げ資金には限界があると。経済が不況で物価が冷え込んでいる中、政府が潤沢な予算を用意できる道理があるはずがない。この不況のせいで、帝国政府の財政状況だって、対して良くないはずなんだから)



 となれば当然、最悪のケースのみを避けた消極的な法案になるのは必然である。

 今回の最悪のケースとは、荘園農家など大規模農家が破産して、帝国農業の基盤が破壊され尽くすことである。

 そのため政府は、減反政策による農家への援助と、最低価格買い取りの法案を出した。



 ターゲットは当然、荘園農家が破産しない程度の価格水準になるはずなのだ。



(適正価格なんて……下回って当然だった! 適正化なんて政府は考えてなかったんだ!)



 そもそも政府には、小麦を多量に買い上げる資金的体力があまりなかったに違いない。

 だから市場価格よりもパリティ価格を安く設定した――そうすれば政府へ小麦を売りに来る量が激減するのだから。結果的に資金をほとんど減らさずに価格の下支えが出来る。

 今更になって気づいても遅い、とモルガンは自分を呪った。



 息を弾ませながらも彼女は、シカークァ商品取引所へと走り急いだ。

 ――モルガンは更に思考の沼にはまっていく。











 ▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△











「売りだ! 全部売りだ! ちくしょうめ!」



「買う、買うぞ俺は! 下支えがあるってのは何のマイナスでもない! むしろプラス要因なんだ! 俺は買う!」



「ふざけてる! なあおい! 農産物の価格はイカれちまってるよ! 分かるか!? 流通経費と人件費を加味して利益を計算すると、三年前と比較して農家手取りは半減してるんだよ、半減!

 ところがだ、こんなに低いパリティ価格! 政府は馬鹿しかいないのか!?」



「この世界恐慌時にも統制が取りやすく、またトップダウンで政策を反映させやすい荘園農家のみを優遇する法案だったか。でもこれはあんまりにも奇妙だ」



「売らせてくれ、売らせてくれ、頼む、頼む、売らせてくれ、俺を助けてくれ」



 シカークァ商品取引所は、いつにもまして人々の怒号と罵声に満ちていた。

 市場の空気は言うまでもない。

 戸惑いと悲観である。









「総悲観は買いだ! だから買いだよ、アノマリー的にも格言的にもそうだろ、なあ! 最低買い取り価格だってマイナス要因じゃない! むしろプラス要因なんだって! それ以上下がらないんだから、じゃあ後は上がるだけなんだよ! なあ!」



 ある男は、ナンピン買いをするがごとくポジションを増やして、買いポジションの根拠を繰り返していた。

 自分に言い聞かせるような叫び方。

 理屈の上では買いしかない――と買いの理屈を探しているようだった。損切りが出来ていない典型例だと言えた。



「場況に従うよ。こんな日はポジションを持つべきじゃない。休むも相場さ」



 穏やかそうに見えた紳士は、失意を隠せないといった顔つきで買いポジションを整理していた。

 淡々とした損切りである。続けて彼はそのままシカークァ商品取引所から引き揚げていた。今日はもう懲りたとばかりの態度であった。



「ああ、ああ、ああ、ああ……」



 膝をついて泣いている女性は、手元のノートを取り落としたまま動かなくなっていた。

 そのノートには、小麦価格の適切な値段としていろんな細かな情報が書かれていた。予想収穫高や予想減反面積、他国の小麦の輸出入量や家畜飼料などの社会消費まで加味した細かなデータブックだとひと目でわかった。

 だからこそ、パリティ価格はもっと上になると彼女は予想していたらしい。



 似たようなものだ、とモルガンは考えた。

 ただ一つ違うとすれば、彼女はモルガンよりも真剣に調査して、モルガンよりも深刻な被害を受けたということである。











「……思惑で買って事実で売れ、か。まさか昨日の価格がピークだったとはな。昨日の先物相場価格は、材料の織り込み済みだったところを出遅れたトレーダーが焦って買っただけで、事実が出た以上はもう上がらない……」



 あまりにも苦い結末。

 モルガンは2.28ドルまでつけている小麦先物価格を眺めながら、細く長いため息をついた。

 今日のニュースを受け、チャートは寄り付きで大きく売られたあと、前場三回で保ち合いを示している。だがこの保ち合いも長くは持たないように見える。

 損切りの潮時である。



 買いしかないと思ったのに――細く長いため息をついて、突然、彼女は急に雷に打たれたように目を見開いた。











 ――買いしかない、と思った?

 ――そして今は、売りしかないと思っている?











 今のトレンドは(・・・・・・・)? と本能が囁いた。



 トレンドの否定は出来高によって確認されなくてはならない、と古くからダウ理論は説明していた。

 そして今、モルガンは先物市場のトレンドを明らかに見失っていた。



 テクニカル分析の観点が、頭から綺麗に消えていた。



(……いや、まさか、売りしかないさ。売りしかないじゃないか、この悲観の空気は。だって一日で5%も下落したんだから……)



 自分でも信じられない、とモルガンは頭を急に冷やした。

 急いで手元で計算する。いくつかトレンドラインと思しきチャネルラインを設定し、単純移動平均線をいくつか拵える。

 その結果できたチャートの形は、やはり弱含んでいる。



 明確な下降トレンド。

 だが、出来高が異様な増え方を見せている。



(……日足のMACDを取ると、僅かにダイバージェンスが発生している。つまり下降トレンドが弱くなっていることを示唆している。

 そして、昨日までの価格推移を見ると、あのままの価格帯をうろちょろ推移していたら、今日明日あたりにMACDのゴールデンクロスが起きていた(・・・・・)はず……)



 その意味だと今日は、MACDのゴールデンクロスの否定をされた形になる。

 絶好のトレンド転換点だったところを一旦引き伸ばされたような嫌な形。

 しかし、その一時的な否定のおかげで、4時間足のMACDも共連れのように形が整って、一旦ゴールデンクロスを狙う形になった。



 出来高も不思議な増え方を見せている。

 普通はトレンドに沿った値動きで出来高が増え、保ち合いで出来高が減るのだが――今はちょっとそのサイクルがずれている(・・・・・)



 即ち、下降トレンドなのに、値段が下落したときに出来高が増えず(・・・)、何故か保ち合いの様相のときに出来高が増えている(・・・・・)のだ。



(……流石に昨日今日の値動きは極端に出来高も大きかったが……。いや、出来高が極端過ぎた(・・・・・)だろうか?)



 そう、昨日今日の出来高は、まるでセリングクライマックスを迎えているような出来高――。



(誰かが、価格を、上手に操作(・・・・・)している……?)



 ついでにモルガンは建玉を見た。

 掲示板にあるデータを見ると、売りの建玉が圧倒的に多い。価格のボリュームゾーンは2.29ドル。次いでのボリュームゾーンは2.26ドル。



 何と、売り仕掛けている建玉で、やや損をしている建玉が存在しているのだ。

 それも相当な数の建玉である。

 即ち、この売り一辺倒しかないような相場において、突っ込み気味にショートを握った層がそれなりにいる、ということである。



(……もし彼らがレバリッジを最大に効かせているとしたら、保証金は5%程度。つまり、5%値上がりするだけで彼らは強制精算(ロスカット)を食らうことになる……)



 ロスカットというのは、ポジション損が大きくなりすぎて保証金を超えそうになったら強制決済を行う仕組みのことである。

 今回の場合、2.26ドルで20倍レバリッジをかけて空売りしているポジションに対して、5%値上がりして現価格が2.38ドルになったとき、その売りポジションは吹き飛んで保証金もろともすべてを綺麗さっぱり決済するということである。



 そしてロスカットは、値段を踏み上げるための絶好の燃料である。



(え、嘘、でも、そんな、何で……)





















 突如、市場がざわめき出した。



「成行買、1200枚。成行買――1200枚が現れたぞ!」



 時間が止まったような瞬間。全ての人の予想を超えるような展開。

 ――そしてその日、モルガンは運命を見た。



「まだ来る! 買いポジションがどんどん埋まっていく! 買いに1000枚! 買いに2000枚! まだ――1000枚単位で買い方が増えている!!」



「撃析係! 価格がまだ動いているぞ! 早く反映させろ! 見張り係! 読み上げが混線している! 大きな単位から捌け!」



 荒れ狂う相場を悠々と泳ぐ、クジラの姿を見た。

 誰よりも狡猾に、そして自由に相場の波を渡る、マーケットの魔術師の影を見た。



「名前は――Quants! ティレニア海の伝説、エトルリアの死神、マーケットの大海の巨人、オルクスのQuantsです!」



 市場に声が爆発する。

 見えざる手を操る、マーケットの神様の姿を、そこに見た。











 ▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△











 先物取引について、クオンツ曰く。



「先物取引の商品は、歴史的に小豆、大豆、砂崎、繭糸などの農水省系商品と、貴金属、天然ゴム、毛糸といった通産省系商品に分かれる。

 農水省系商品は、家計の安定のために政府介入がよく行われるが、価格政策に依存性が高い」



 価格政策には種類がある。

 ①価格変動が一定幅を超えたときに、政府機関が直接買い支え・売り渡しを行うもの。

 ②価格が一定水準を下回ったときに、交付金により生産者に手取り保証を与えるもの。

 ③そもそも価格が行政により細かく設定されるもの。



 種類がある理由としては、営農類型によって、投下資本、収益性等経営構造が大きく異なるため、経営リスクの程度に差があるためである。



「さて、今回の帝国ニューディール政策は、①の亜種のようなものだ。パリティ価格に基づき政府は融資(・・)を行う。そして減反に応じて交付金を与える。知るべきポイントは融資というところだ」



「……融資」



「ああ。価格の下支えと同時に政府支出の適正化を狙った政策でもあり、なおかつ市場価格の乱高下を抑える、極めて優れた政策だ」



 パリティ価格と融資。

 今回、モルガンが本当に検討するべきだったことをクオンツは講義形式で教えてくれた。



「農産物を担保にした融資政策を実施、とあっただろう? あの政策は、帝国商品信用公社という政府機関が、農作物を担保にして農家に金を融資するものだ。そして重要なポイントとして、貸し与えた資金は返却義務がない」



「……つまり?」



「例えば小麦のパリティ価格を2.2ドル/ブッシェルとしよう。小麦の市場価格が2.4ドルに値上がりした場合は、借りたお金を返して小麦を返してもらい、2.4ドルで小麦を売ればいい。

 一方で小麦の価格が2.0ドルなどパリティ価格を下回れば、農家はお金を借りたまま返却せず、小麦を明け渡すことで精算する。すると農家は、事実上2.2ドルで小麦を売ったことになる」



 最低でも2.2ドルを保証された状態で、それよりも値上がりすればその分は儲けとなる。

 農家にとってはパリティ価格は実質的な下支え価格として働く。



「もちろん市場価格がパリティ価格を下回ることはほぼあり得ない。政府機関が2.2ドルで融資すると言ってるのに、市場で2.1ドルで安くして売りたいやつはいないからだ」



「……政府機関による買上げと何が違うのだ?」



「買い上げてもらった後で農作物が値上がりしたらどうする? 今後もしかしたら値上がりするかもしれない、という状況で、最低価格で買い上げてもらうのはあまり気が進まないんじゃないか? もしお前が農家で10000ブッシェルの小麦を生産したなら、その10000ブッシェル全てを政府機関に買い上げてもらおうとは思わないはずだ。

 それなら最初から融資の形のほうがいい。心置きなくお金を借りれるし、値上がりしたときは小麦を返してもらえば値上がり後の値段で小麦を売れる」



 クオンツの説明を注意深く聞くと、大事なポイントは「心置きなくお金を借りられる」というところだった。



「もしもだ。お前が10000ブッシェルの小麦の農家だったとして、急にお金が必要になったとしよう。それも大金。パリティ価格で考えたとき半分の小麦を手放さなくてはならないほどの大金だとする。

 このとき政府機関による買上げの場合は、お前は苦渋の選択に迫られる。即ち、最低価格による買い上げか、市場への売却かだ。そして市場価格はパリティ価格を下回ることはない。お前は市場価格で小麦を売り、市場には5000ブッシェルの小麦が出回る。

 かたや、政府機関による融資の場合はどうなる。お前に圧倒的に有利な選択肢が一つ増える。お前は5000ブッシェル全てを担保にして、大金を借りてその場を凌ぐ。市場価格が高くなるまでは、市場には1ブッシェルも出回らない」



「……なるほど、つまりこう言いたいのだな? 融資の場合は、市場価格が十分に高くなるまで小麦は売られないと」



「そうだ」



 市場価格が十分に高くなるまでは、市場に小麦はあまり出回らない。

 パリティ価格からほんの少し高いだけであれば、融資金を借り受けたまま、小麦の値上がりを待つのが得策だからである。



 そして市場原理として、出回る小麦の量が減れば自然と価格は上がる。

 よって小麦の価格は、農家がそろそろ売りたいかなと思う値段帯まではじわじわと上がることとなる。



「即ち、今回の農業調整法は農作物全般において好材料だ。それも、ただ単に政府機関が買い上げるよりもマーケットにおける価格上昇の効果が見込める」



「……では、今日の失望売りは?」



「ああ、今日はニューディール政策に詳しくないトレーダーが餌食となったようだ。パリティ価格による下支えを期待して買い、パリティ価格が市場価格よりも低いことに失望売りをした彼らは、俺たちの餌になった」



 俺たちの餌――という言葉にモルガンは眉をひそめた。

 あの商品取引所の狂乱騒ぎこそ、マーケットの最先端だったとモルガンは思っている。

 そしてあの場では間違いなく、市場を総悲観が支配していた。

 誰もがパリティ価格を安すぎると考え、誰もがあの低価格では下支えとして機能しないと失望を隠しきれないでいた。



 あの場にいるトレーダーは真摯に分析をしていた。餌というにはあまりにも――。



餌だ(・・)、モルガン。フロアトレーダーになってお前も気付いただろうが、あの場に居合わせている奴らレベルでさえ餌になり得るのだ」



 容赦なく断じるクオンツ。

 二の句が継げないとはこのことである。モルガンはこのときまさしく、己の未熟さを思い知った。











 ▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△











「お前は知らないだろうが、穀物商社の連中はこのシナリオをすでに読み切っていたぞ」



 帝国の穀物商社――穀物メジャーと呼ばれる専門の大手商社。

 主要穀物の買い付け、集荷、輸送、保管までを手がけており、帝国の国内外の穀物流通に多大な影響を与えている大企業。

 そして、天候や収穫動向をいち早く掴む広い情報網を持っている驚異の組織。



 そんな名前がぽろりと出てくることにモルガンは少し驚き――そしてすぐに目を見開いた。



「! 穀物商社には政府高官が天下り先としてポストを持っている! つまり帝国ニューディール政策の詳細情報は既に、穀物商社が握っていたというのか!」



「そうだ。帝国商品信用公社の発足にも、彼ら帝国穀物商社の手を借りているところが多い。穀物の集荷、輸送、保管方法のノウハウはゼロからではどうしようもないことが多い。当然、穀物商社の手を借りなくてはならないはずだ」



「……」



 からくりが少しずつ見えてきた、とモルガンは唇を噛んだ。

 つまり、穀物メジャーと荘園農家と帝国政府との間で談合があったのだ。



「穀物メジャーにとっても、荘園農家にとっても、そして政府にとっても農作物の値下がりは痛い。

 そのため、計画的な農耕地の減反と、最低価格支持戦略の二つが必要だった。しかし極端な値上がりも望ましくなかった。故に、帝国商品信用公社による融資が検討された」



「……ある程度値上がりすれば、今度は担保になっていた農作物が公社から取り出されて、売りに出される穀物が増えるから値上がりのブレーキになる、ということか」



「ああ。作物の現渡しを認めた融資を行うこの農業調整法は、つくづくよく考えられている」



 ここにきてクオンツは一旦言葉を切った。先程のはあくまで前談だったらしい。



「さて、本題だ――」と声を潜めた彼は、もっとも本質的な話を今からする、と前置いた。



 つまり、政府が談合によって価格帯をある程度取り交わしていたものだとすれば――それはどの程度の値段帯になるのか、という話である。



「……価格帯なら、物価指数変動と価格変動との比率を考えて予想すれば……」



「否、不十分だ。考えてもみろ。農産物の価格が二割減ったとして、もし農業を営む経営コストが変わらないのならば、手取り収入は二割以上減るはずだ。そしてこちらの試算では農家の手取り収入は半減している」



「な」



 そういえば商品取引所でそんなことを叫んでいるやつがいた――とモルガンは思い出していた。

 農産物の価格は下がっている。だが本当に重要なのは、農家の収入がどれぐらい下がっているか……なのだ。

 そして恐らく農家を救うためには、手取り収入を暴落前に戻す必要がある。

 その価格は、確実に2.6ドル以上の値段でなくてはならず――。



「結論から言うと、メジャーの連中は3ドルを目指している。小麦価格は3ドル程度ないと、荘園農家はともかく小作農は助からない」



「!」



「そして途中でパリティ価格の見直しが入る予定になっている。最初のターゲットを2.35ドル、次のターゲットを2.6ドルとする算段だ」



「!!」



「最初にいきなり2.6ドルを目指さなかった理由は、国庫の財政状況によるものだ。もしかしたら2.2ドルでも価格支持となり値上がりするかもしれない……という政府の甘い見通しもあったようだ」



「……クオンツ、貴方は……!」



 立て続けに恐ろしい情報が出てきて、モルガンは衝撃を受けた。

 こんな情報を知っていれば、誰でも簡単に勝ててしまう。

 逆に言えば、これほどの精度の情報を握った上でトレードに臨んでいる連中がこの世界にいるのだ。



 曖昧な情報に踊らされてトレードしているだけでは当然損をするというもの。

 こんな特別な情報を握っている存在――クオンツのようなトレーダーを相手にして楽々と儲けられるはずがない。



 今まさに彼女は、力の差を、嫌になるほど目の当たりにしている。

 嫌になるほど遠い、トレード界の生きる伝説のような存在。



「良かったな。お前の握っている買いポジションは、これで黄金の切符となった。お前はついに、自分の力で儲けを出したといえる」



「……っ」



「……? 何を悔しがっているのだ」



 不思議そうに問いかけるクオンツの前には、唇を更に強く噛む女騎士が一人。

 モルガンの目の奥は、少し熱くなっていた。



 自分がやっていたことは。

 今まで学んできたことを最大に活かして、きちんと分析できたと思ったあれは。

 相場の空気にあてられて、買い相場の熱狂にほだされて、買いポジションを持てない時間をじれったく思い、ようやく買いポジションを持った時に思わず嬉しくなったあれは。

 そして翌日に思い知った、帝国ニューディール政策の思わぬ新聞報道と、急にやってきた総悲観の相場にうろたえて立ち竦んでしまったあれは。

 何の行動も起こせないままに、損失の膨らむポジションを眺めてただ時間だけが過ぎていったあれは。



 そして――相場をあんなに鮮やかに泳ぐクジラを見つけたあの瞬間は。



(こんなの、自分の力だなんていえるはずがないだろ、クオンツ。私はちゃんと自分の力で――)



 ――自分の力で、儲けを出した?

 褒められているはずの言葉が上滑って聞こえる。

 熱くなった目頭から、大粒の涙が二つこぼれ落ちた。



 シカークァ商品取引所には、勢いのある風がまだ吹き荒れている。



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