第四話 くっころ女騎士、先物取引のピットトレーダーになる(2)
まず大前提として、政府の買い付け資金は無限ではない。
そのためいくら農作過剰であるとは言えども、いつもの市場価格よりも高すぎる金額にはならないと予測される。
(だめだ、帝国ニューディール政策なんて詳しく知らない。クオンツならばきっとうまく対応したのだろうけど……)
どの値段までを買い支える基準とするのか、政府の買い付け余力はどこまであるのか、そもそも今の適正価格はいくらなのか――根本となる情報をモルガンは何も持っていない。
今あるわずかな情報だけで、この熱狂を上手に泳ぐのは困難だと思われた。
だが、トレーダーとしての本能が囁いている。
これは年に幾度とない大相場の予感である、と。
実際に小麦先物の取引板を見ると、現在午前二回目の板寄せが始まっており、恐ろしい勢いで魔術掲示板の情報が更新されている。
2.31ドル、2.315ドル、2.32ドル……買いが殺到している。
板に表示される価格は徐々に、上に上にと切りあがっている。
反対に売りにでる注文の数はめっぽう少なく、もうヤケクソとばかりに成り行き買い注文の数もじわじわと増えている。
(……過去十年の小麦価格チャートを見ると、たった2年で小麦の1ブッシェル当たりの値段が26%も下落している。2年前は3.08ドルだったのに、今は2.34ドルじゃないか。最近パンが安いなと思ったが、これはおかしい。おかしすぎる)
自前の相場手帳を開いたモルガンは、国会図書館からコピーしてきた1つのスクラップ記事を見つけた。あらゆる統計情報をありったけ詰め込んだ自作の手帳の中には、小麦の価格変動のチャートも含まれていた。
生活必需品が2割を超えるほどの急落をすると、これはもうさすがに「下落しすぎ」の水準である。
そもそも小麦は用途の応用が広く、どこの国でも需要は広く存在する商品である。それがこんなに安くなることは普通に考えるとあり得ないことであった。
嗜好品ならばともかく、生活必需品の2割の価格変動。
考えられるのは、国の政策によるもの、産業構造の変革によるもの、魔物被害・戦争・災害などの地政学的リスクによるもの。
モルガンの知る限り、小麦安へと誘導するような国家的な政策はとっていなかったはずである。
また、地政学リスクを考えても、有事の時の買いだめ行動の対象としてパスタやパンがあり、普通は短期的に原料である小麦の需要が急増するはずである。
やはり小麦安が考えられる背景としては、生産過剰による不況だとみてよさそうであった。
では、どの水準まで政府が買い支えるのか――モルガンはふと板を見た。価格推移はじわじわと上がり、2.345まで値を付けたところで一旦落ち着きを見せた。
「先物取引における小麦1枚は、確か、5000ブッシェル(約136トン)と決まっていたはず……」
つまり、1セントの変動は50ドルの損益を生み出す。最低値幅は、1ブッシェル当たり1/8セントと決まっているため、最低でも6.25ドルは評価損益が動く計算になる。
もしも小麦の値段が丸々3ドル台まで戻ったとすれば――1枚だけで3000ドル以上の利益になる。
(いや、冷静になれ。確かに政府は急激な下落の歯止めを望むかもしれないが、かといって急激な価格上昇を望むはずもない)
自分がもし政府なら、とモルガンは考えた。下落に歯止めをかけるターゲット価格をバランスよく設定する。
この過剰生産による不況は、農産業だけでなく繊維業や重工業など他の産業にも起きている。当然物資を運搬する鉄道業にも不況の陰りは起きている。
全体的に見れば、一般物価水準も低下しているのだ。
であればターゲットとなる指標は、一般物価水準の変動比率を、農産物の価格の変動比率で割った値を仮置きするはずである。
この3年でおおよそ一般物価水準は18%近く下落している。小麦価格26%の下落と比較すれば、農産業の価格縮退は他産業と比較して0.9倍(0.74 / 0.82 = 0.902)となり、1割以上縮退が進んでいることになる。
(単純に考えるなら、1割増……2.34ドルではなく2.6ドル近くを狙える!)
政府による具体的な農作物の買取値段はまだ発表されていない。だが、きっとこの予想を大きく外すことはないであろう――とモルガンは考えた。
相場は思惑で購入されて、事実で売られる。であれば、具体的な数字が出る前の今こそが買う絶好のチャンスであろう。
――どうやって買えばいい?
モルガンは今、この活気あふれるピットの熱風を感じていた。
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帝国の穀物集散地、風の街シカークァ。
この周辺は年間の寒暖差が激しい大陸性気候であり、冬季は厳しい寒さとなるが、夏季は温暖な南西風の影響でかなりの暑さとなる。
ミシガン湖からの強い季節風が吹き付けるこの街は、いつからか「風の街」として知られるようになっていた。
拝金主義者の政治家が多い(※Windy=口先だけの意味)から、シカークァの連中の会話は風の話だけだという皮肉(※会話に中身がないという意味)から――といくつか説はあるが、とにかくこの町は風のような勢いにあふれている。
とりわけ、シカークァ商品取引所は特筆すべき商品市場である。
シカークァ商品取引所は世界の商品市場に大きな影響力を持つ取引所の一つであり、トウモロコシ、大豆などの穀物の先物価格形成に非常に強みを持っている。
(なぜなら、帝国は世界の穀物庫と言われるほどに穀物を収穫しているからだ)
帝国の穀物価格が世界の穀物価格に影響を与えるのは当然のこと。帝国から世界への穀物輸出高はトップクラスであり、帝国の穀物が安くなれば他国の穀物価格も追随して安くなる。
(ただ――小麦は世界で広く作付けされている穀物だ)
小麦は少々特殊である。
夏が比較的短い国でも問題なく作付けできて、単位面積当たりの収穫量が多く、そしてパンやパスタなど加工の応用の効く食材である小麦は、世界に広く生産されている。
人類が一万年も前に栽培し始めたとさえ言われるほど歴史の古い穀物である小麦は、当然、国境を越えて数多の文化圏にわたって生産されている。
古くから栽培法が確立している小麦は、どこかの国だけが価格を主導して動かす、というほど極端な農作物ではない。
(このシカークァ商品取引所の先物市場価格が世界にどれほど影響を与えるか――いや、帝国ニューディール政策を世界はどう受け止めるか、だな)
世界の穀物庫といわれる帝国のニューディール政策。
農業調整法案はまだ不明な情報が多い。
明確なトレンドができてから遅れて乗るほうが安全だろうか、と一瞬の悩みがモルガンの胸中に生まれる。
(もっと情報を集めないと。もっと、基本的な情報を)
モルガンはシカークァ商品取引所の会員登録手続きの申請待ちの空き時間で、近くの図書館に足を運んだ。
調べるのは基本的な情報。すなわち、気候変動の影響である。
穀物の価格に影響を与える要因としては、真っ先に気候変動が挙げられる。
作物の生育サイクルには、気候の影響を受けやすい2つの時期――植え付けの時期と受粉の時期がある。
特に植え付け時期の気候は大変重要であり、日照りによる降雨不足、多雨による湿害などが起きると作物はたちまちに枯れてしまう。
小麦は耐湿性が弱いため、湿害に弱い。
多雨な気候は小麦にとっては過酷な環境となる。だが今年は取り立てて異常な気候ではなく、小麦も例年通りの収穫量が予想された。
(では、やはり今年の小麦の先物市場価格は、純粋にニューディール政策の影響で変動するわけだ……)
市場の空気と、魔術掲示板の速報が気になる――とモルガンはあの正八角形のピットに戻るべく急ぎ足で図書館を後にした。
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「午後第一節の取引を開始します――!」
取引所のセリ担当者――チェアマンが表示板を操作する端末に高速で数値を叩き込む。
撃析係が仮約定価格とその売買枚数を提示する。高台に登った見張り係がその値段や枚数を読み上げ、正場帳係が価格と枚数を帳簿に記載する。
小麦の先物価格は、2.41ドルまで跳ね上がっていた。
(買うべきだったか……! しかし、会員証が渡されたのはついさっき……!)
この値上がりは読めていた――だがすっかり乗り遅れた。モルガンは歯噛みするしかなかった。
まだ間に合うか、とモルガンは覚えたてのハンドサインで買いをアピールした。
2枚成り行き。取引量にして10000ブッシェルの取引である。
このハンドサインで2万ドル近くが動くかと思うと実にあっけなかったが、それでもモルガンはこの市場に乗ろうと考えた。
証拠金は10%もあれば十分。2000ドル程度で2万ドルの取引ができる。10倍のレバリッジは彼女にとって非常に大きく感じられたが、冷静に考えれば小麦の値段はまだ5%も変動していない。
10倍のレバリッジを考えて、50%の損失が起きたとしても、高々1000ドル単位である。
まだいける――と彼女は高鳴る心臓を抑え込んだ。
板が大きく動く。成り行き売買から決済が開始される。建て玉がどんどん消費され、板の値段は徐々に吊り上がっていった。
順番に取引が行われたのち、取引板に多数残ったのはやはり買い玉――多数の買い注文であった。
市場は、小麦を買いたがっている。そう確信した彼女は期待に胸を鳴らした。
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翌日、彼女はクオンツと共に新聞記事を眺めて、その内容に目を見開いた。
ニューディール政策、農業調整法の詳細。豊作恐慌から農家を救うために、減反に応じた農家への補助金支給と、農産物を担保にした融資政策を実施。
そこにある農産物の価格表には――小麦のパリティ価格は2.2ドルとあった。