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第三話 くっころ女騎士、先物取引のピットトレーダーになる(1)

 ここから、モルガンのトレードは依然と比べて比較にならないほど忙しくなった。


 数多ある銘柄から値打ち価格になっている銘柄のスクリーニングのために、真剣に銘柄の財務状況・経営状況の調査を実施する。

 MACDとVWAPを使い、将来おそらくエントリーポイントになるであろう価格帯とそこに差し掛かるまでの時間を推定する。


 特に、銘柄の選定は今までの方法だけじゃない、新しい手法をどんどんと試している最中であった。


(ROEとROA……勉強することが増えた気がする)


 PERやPBRだけでなく、ROE(自己資本利益率、Return on Equity)とROA(総資産利益率、Return on Asset)にも目を通す。


 ROEの計算式は、ROE = 1株当たり純利益(EPS)÷1株当たり純資産(BPS)で与えられる。

 ROEの東証1部の加重平均は8.2%、日経平均採用銘柄は8.7%。どの程度の純資産からどれだけ利益を生み出しているのかの指標としてROEはシンプルで分かりやすい。

 ROE、ROA、ともに高ければ高いほど良い数値である。


 ただし、さらに式変形を進めると、ROE = 売上高純利益率(純利益/売上高)×総資産回転率(売上高/総資産)×財務レバレッジ(総資産/自己資本) = ROA×財務レバレッジに変形できる。


 ここから読み解けるROEを高める方法は、①売上高の純利益率を高める、②資産回転率(=売上高)を上げる、③財務レバレッジを増やす、の三つがある。

 すなわち、負債を増やして経営規模を拡大させたり、自社株買い・配当増配で自己資本を減らすなどのテクニックでROEを高めることができるのだ。


 もちろん、ROEが高い企業は投資先になりやすい。だが――。


(国が違うと法律が違ってくる。ROEを高めようとするインセンティブも利益構造も異なってくる)


 例えば借金をしてまでも、高額配当や巨額の自社株買いなどの株主優遇策を実行したとする。

 瑞穂国の上場制度、商習慣を適応したとき、これらの企業は上場廃止に陥るリスクがある。

 しかし帝国の場合、キャッシュフローが黒字で安定している場合は経営不安に陥ることはない。

 このときROE(自己資本利益率)は分母の自己資本が借金により小さくなるため、ROEが無限大に近くなるのである。


 McDruid、スターフォックスコーヒー、ボウイング――これらの帝国企業は債務超過にもかかわらず、株式市場でも高い評価を得ている。

 それはひとえに、高い市場シェアを背景に安定したキャッシュフローを稼ぐ力があるためである。


 ROEを高めるために株主へ還元するインセンティブが生まれる――国によって企業の経営風土が異なるのは、国の制度が違なるためでもある。


(ROEが高いからと言って、簡単に飛びついちゃいけないというわけね)


 複数の銘柄を調べながら、モルガンはふとIT関連企業(=Imaginaly Technology/魔術関連)が多く目に留まることに気づいた。

 少し調べてみると、ROEが高くなっている理由としては自己資本が少ないからだと分かった。


(ああ、なるほど。IT関連企業はメーカーとは違って、設備投資が少なくても事業運営に影響は少なく、自己資本が低くても事業が成り立つからなのか)


 そういうことか――とモルガンは深く息を吐いた。

 こうやって一つ、また新しい知見を得る。

 こういった細かい知識は直接投資には役立てられそうにないが、しかし、この細かい知識一つ一つが明日の自分のへたくそなトレードを一つ減らしてくれると信じて、勉強を進めるのだった。






 ▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△






 トレードの回数は減った代わりに、調査や分析に割り当てる時間が増えた。

 もっとトレードで儲けを出さないといけないのではないか――果たしてこれでよいのかとモルガンは不安になったが、むしろクオンツはこれを喜んだ。

 曰く、トレードは回数ではなく質であるという。


「回数を増やすのは容易だ。アルゴリズムを組めばいい。だがトレードの質を高めるのは一朝一夕でできる話ではない。地道に取り組むことだ」


 ぽん、と肩を叩かれたかと思うと、彼はすでにモルガンのそばからいなくなって、資料室の中にさっと入り込んでしまった。

 もちろんクオンツ自身も優れたトレーダーである。

 別にモルガンに付きっきりで指導をして彼女を一人前に鍛え上げるようなことをする必要は全くない。

 地道に取り組むしかない――彼の言葉はモルガンを励ますような響きでもあったが、暗に自分で努力しろと言っているとも取れる。


 取り残されたモルガンは、ひとり呟いた。


「……甘えてはいられない」


 トレードの回数が格段に減っていることへの焦りは、彼女の胸の中に言いしれない不安を募らせていた。

 このままでいいのだろうか。

 このまま、ほとんど利益を上げることもなく、損しか出していないまま、のうのうと勉強に励んでいてもいいのだろうか――。


 実際、彼女の持っているポジションの損はわずかにだが増えている。

 かつて彼女がバリュー投資の観点から選定した銘柄たちは、実際のところ相場の地合いが良くなれば値上がりする伸びしろのあるものばかりである。今焦ってエントリーするほどではなかったが、損切りするほどでもないようなじれったい値動きのさなかにある。

 だからこそ、微妙な損が続いているとも言える。


 結果が出ない。

 そのことが彼女の精神的な余裕を少しずつ削っていた。


「……株、向いてないのかな」


 ぽつりと。

 彼女は今、膨らんだ含み損を目の前にしながらそんなことをつぶやいた。


 まずは倍にしろと与えられた元手金は、今や3割ほどの損を計上している。

 今から最初の目標を達成しようと思えば、2倍ではなく3倍近くに増やさなくてはならない。


 損をしようとして取引しているわけではないのに。

 結果が出ないままずっと時間だけが過ぎていく。

 ふと弱気の思いに心が影響されて、株に向いていないのではないかといらぬことを考えるのも不自然ではないだろう。


 そんな暇があるなら少しでも分析と調査をするべきだ、と理性的にはわかっていても、つい手が止まっては頭が雑念でぼやけて思考停止する。

 今の自分は冷静じゃない。

 冷静じゃないことだけは、分かっているのに。


「……そうだ、確かクオンツが言ってた気がする。一度は先物市場のフロアトレーダーになってピットの空気を感じて来い、って」


 ふと、彼女はクオンツの言葉を思い返した。

 一度は先物市場にいるフロアトレーダーたちの空気を感じて来い――と。

 実際の取引所の場の空気を感じ取っておくことは、今後のトレードに活きてくるというのだ。


「……株から逃げるわけじゃない、けど」


 休むも相場という言葉がある。実際、今の株式相場は全般的に見通しが立ちにくいフェーズに差し掛かっており、無理にポジションを増やすような場況ではなかった。


 このタイミングで先物取引に手を出してみるのは、悪くない選択かもしれなかった。






 ▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△






 先物取引の概念は「市場価格安定のための工夫」として、古い歴史をもつ。

 農作物は価格変動が深刻で、農作物を作る農家やそれを仕入れて売る商人の利益が安定しないという問題をはらんでいた。

 これを安定化させたいという考えから、商人たちは先渡し取引の概念を思いついた。


 すなわち、秋に収穫できる農作物を夏の間に「小麦1トン 100ドル」というように先に契約しておく。

 これにより小麦の価格高騰や暴落が起きても、農家は淡々と1トンあたり100ドルの安定した収益を得ることができる。小麦を育てるコストと生活費の合算が100ドル/1トン以内であれば生計が成り立つわけである。


 市場では、商品が余っていれば価格は下がり、商品が不足すれば価格が高くなる。それが日常的な必需品であればなおさらのことである。必要なのだから高い値段でも売れるが、必要以上は安くても買わない。


 しかし、あまりにも価格が不安定であり続けると、経済自体が安定を欠いてしまい、国の経済が災害や戦争に伴う物価変動に耐え切れなくなる。

 商品を生産する生産者側も一日二日で育つわけではなく、幾度も飢饉に見舞われたりすれば最後、市場の成長が途絶えてしまうわけである。


 価格変動リスクに対する保険機能がない国は、技術成長や発展を見込むことができない。

 それゆえに、保険機能として先渡し取引の概念が成立したのである。


(現物を受け渡しする先物取引――先渡し取引は、ケルト=ベルガエ国のアントワープで生まれた。だが、清算機関により取引を管理し、清算取引と限月制度を整えた高度な先物取引制度は、瑞穂国の大坂で生まれたという)


 今の先物取引は、瑞穂国の制度がほとんど源流となっている。

 瑞穂国のタイクーン・マチブギョー、大岡越前守の整えた制度は、

 ①完全な清算取引(現物の授受を伴わないで損得だけを決済)

 ②清算機関(帳合い所)の設立

 ③時聞を決めた取引

 ④限月制(出斉する月)の採用

 ――など、ほとんど現在のシステムと変わらないほど高度に整備されたもので、米、菜種油、金取引、生糸、綿糸など価格の騰落が激しいものを広く含めた先進的なシステムであった。


 第一次産業に頼る発展途上国と産業先進国の間には格差がある。経済基盤の安定性も段違いである。

 途上国の経済を安定させるシステムとして、農作物や繊維産業などの価格の騰落を安定させる仕組みは欠かせないものだった。


「だが、これは、あまりにも――」


 取引所に足を運んだモルガンは、目の前の光景に息を呑んでいた。

 価格を安定(・・)させる――?






「売れーッ! 売れーッ! 俺に小麦を売れ! 30枚だ!」

「20枚買おう! 成行だ!」

「こっちは100枚だッ! 早く買わせろ! 今しかないんだ! 今買わせろ!」


 ――帝国取引所のピットは、今日も人々がごった返して騒がしく叫び、爆発的に取引を行っている。

 トレーダーやブローカーが取引フロアに集まり、身振りや絶叫で売買価格や数量を示して約定を競う「オープンアウトクライ」方式の立会取引。

 係員クラークがトレーダーやブローカーに売買注文を手渡すため、せわしなく走り回って目まぐるしい。






「安定、だって?」


 欲望の縮図。

 狂乱騒ぎと罵声の渦中。

 これが、市場を安定させているとは到底思えなかった。


(そもそも、何故今になって、小麦がこんなに人気なんだ? 何かコモディティ・アナリストが重要な情報を掴んだのか?)


 実際のところ、モルガンは今、目の前で起きていることから取り残されて呆然としている。

 一枚、二枚、という聞きなれない単位も、彼女にはよく分かっていない。確か彼女の記憶が正しければ、一枚100kgだとか1トンだとか、商品ごとに最低取引単位が決まっていたはずだ――とわずかな記憶を頼りに思い出す。

 となると今このフロアでは、爆発的に小麦に買い注文が入っていることになる。


(……小麦が値上がりするのか? 飢饉か何かの予兆の情報が出たのか? そんな情報どこから? 今どんなニュースが出ている?)


 ふと顔を上げると、ピットの上部に据え付けられている魔術掲示板(=遠隔地にも情報を伝達する術式が刻まれている)は、帝国ニューディール政策の農業調整法のことを淡々と発表していた。






 帝国ニューディール政策。

 先の魔物大戦により大きく経済を損なった帝国は、様々な経済巻き返し政策を実施すると発表していた。

 中でも農業調整法は、補助金と引き換えに農業生産を制限し、過剰生産物は政府が買い上げることで農産物価格を安定させる法案である。

 要は、農民の救済と購買力回復を目的とした政策である。


 農産物の価格決定は特殊である。

 まず、①生産は長期的で季節性を伴う。買いたい人がいるからと言ってすぐに生み出すことはできない。そのため需給バランスの変化が直接価格変動に影響を与える。

 次に、②腐敗性と損傷性がある。流通過程で品質を維持することが困難であり、流通経費は必然と高くなる。

 更に、③画一規格や同一品質を担保することが困難であり、流通経費に選別コストが上積みされる。


 農作物は工業製品と違い、市場価格に順応するのが難しい。

 そのため農産品の価格安定化のためには、何かしらの政策的措置が必要となる。


(……たしか、農産物の過剰生産恐慌が起きていたはず)


 時の大賢者、ナローシュの持ち込んだ知識は革命を起こした。千歯こき、牛車、有輪鋤……鉄製品の有用性が認められるや、農作業は一気に高度化した。

 ただし、農耕器具の高度化による生産力拡大により、農業労働者が減少し、生産過剰による農産物価格低下が発生した。

 農業恐慌は起こるべくして起きたものである。

 ただ、最近までは魔物大戦に伴う兵站の買い上げによって表面化しなかっただけである。






(あらかじめ想定されていた過剰生産の農作恐慌で市場の値段が弱含んでいたところを、政府が買い支えるという方針を出したから、買い場になっているのだな)


 からくりが分かった。

 安くなりすぎた農作物の価格を是正化するために、政府が政策を打ち出したのである。

 続いて、魔術掲示板が「主要農作物の作付け面積や販売用生産の削減」について言及し始めたころには、ピットのトレーダーの買いの叫びは止まるところを知らない勢いになっていた。


(参加するべきか、様子見に徹するべきか?)


 逡巡。

 先物市場の空気を感じて来い、とクオンツは言った。それは参加しろという意味だろうか、それとも観察しろという意味だろうか。

 ポイントはただ一つ。


(小麦含めた農作物の値段は、一体いくらが適切な価格なんだ?)


 今の先物価格は、その値段より高いのか安いのかを見積もる必要がある――とモルガンは考えた。


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