令和元年9月18日(水)「小鳩ちゃん危機一髪!」山田小鳩
「小鳩姫」
甘美な響きの声音で名前を呼ばれた。
普段は清楚さを専売特許とする生徒会長が、刻下は淫靡にすら感じる視線を私に注ぐ。
二人きりの生徒会室。
世界から隔離されたかの様なこの狭小な部屋の中で、彼女が発する体臭を仄かに認識した。
「如何様な御用件でしょう?」
努めて機械的に対応する。
五感を遮断できればいいのに。
私のそんな対応にも、彼女は気にする素振りを見せない。
「ねぇ、デートしましょう」
「断固拒否します」
彼女の戯事を瞬時に棄却する。
「生徒会長命令よ」
「斯様なパワーハラスメント且つセクシャルハラスメントな発言を容認することはできません」
「あらぁ、残念ねぇ」
言葉とは裏腹に微塵も残念そうではない。
むしろ私が相手をすることに歓喜している。
彼女は3年生の先輩で、教師はおろか他のどんな生徒の前でも真面目な挙動を乱すことはない。
私と二人の時のみ本性を発現させる。
機会は少ないが、過去に何度か玩弄された。
今日は週末に開催される運動会の予行演習が実施された。
生憎の雨で急遽体育館が使用された。
運動会当日の土曜日も雨の予報だ。
過去に雨天で決行された事例を紐解き、不測の事態に準備しようと思念した。
誰もいないはずの生徒会室に来て、過去の記録を調査しようとした矢先に、何故か生徒会長が出現した。
「相変わらず、小鳩姫は仕事熱心ね」
小鳩姫という呼称も平素は断じて使用しない。
彼女の嬌声に私は暗澹たる気分となり、平然を保持するのに労力が必要だった。
「その、必死に耐え忍ぶ顔がたまらないのよねぇ」
日野の超然振りを熱望してしまう。
「退屈凌ぎでしたら、他所を当たってください。仕事中です」と愈々軽蔑の眼差しを公然と示したのに、「えー、小鳩姫が良いのよぉ」と彼女は語尾を延ばす媚態を見せる。
遂には私の席の背後に接近し、頭髪を愛撫し始めた。
繊細な指先にまさぐられる感触に背筋がぞわりとする。
私が過大に反応すれば相手も執拗に継続する過去の経験から、懸命に堅忍する。
「誰彼か来訪するかもしれませんよ」
猫を被る生徒会長にとって露見したくはないはずだ。
「大丈夫よぉ。こんな雨の日に生徒会室に来る子なんて小鳩姫くらいだもの。だ・か・ら」と陶然とした彼女の掌が私の顔の肌をなぞりだした。
二学期以降の生徒会はスマートフォンの校内持込に関する全校生徒アンケートに向けて多忙を極めていた。
それが一段落となり、あとは印刷して配布するのみ。
今日は久方振りに生徒会の仕事は予定されておらず、他の面々は安息していることだろう。
運動会の準備は例年通り実行委員が中心となり進行している。
生徒会に仕事を持ち込む人物が居るとしたら日野くらいだが、放課後に此処まで足を運ぶとは思えない。
教師の指示に服従するだけの生徒会長だと過小評価していた。
しかし、意外と奸策に長けているのかもしれない。
「現時点までの会話は録音しています。公開されたくなければ、これ以上の狼藉は自重してください」
私は所有するボイスレコーダーをスカートのポケットから取り出した。
それを一瞬提示して、すぐに仕舞う。
非力なので強引に奪取されることを懸念した。
「あらー、これ以上の狼藉ってどんなことを期待しているのかしらぁ」
私の最後の切り札にも彼女は一切怯まない。
逆に肉薄して来た。
背中にピタリと密着し、私の頬に自分の頬を触れ合うほど寄せる。
過去にここまで近接されたことはない。
苛めのようなものだと推察していたが、事ここに至って別の可能性が頭をよぎる。
背後からのし掛かられて小柄な私は身動きが取れない。
生徒会長の右手が、ポケットに入れたままの私の右手を求めるように伸びてくる。
彼女は躊躇なく私のポケットの中に手を挿入した。
私は思考が停止し、言葉が出ない。
布越しに太股に触れる彼女の手の感触に、私は怖じ気づいた。
だが、彼女の右手はボイスレコーダーを握る私の右手ごと引き出された。
横目で彼女の顔を窺うと、明確に焦燥感が表出していた。
あっさりとボイスレコーダーを強奪した生徒会長は、私から距離を取った。
自由になった私は深呼吸してから、彼女を見上げた。
「虚偽でした。録音していません」
「しょ、証拠は!?」と尖った声で詰問された。
彼女は手中にあるボイスレコーダーを凝視するのみで、腫れ物を扱うように指先で摘まんでいる。
どうやら操作ができないようだ。
「貸与しますから、何方かに操作してもらっては?」と提案するが、「その人に聞かれたらどうするの」と取り合ってくれない。
仕方がないので、彼女の目前で懇切丁寧に教示してみせた。
間抜けな絵面の様に思ってしまうが、その馬鹿馬鹿しさに先程までの感情も吹き飛んだ。
やっとの事で理解してもらい、私は肩の力が抜けた。
「……悪かったわ。今日はやり過ぎた。ごめんなさい」
生徒会長は辞儀こそしなかったが、反省の弁を述懐した。
笑って放免にはできないが、「二度としないでくださいね」と念を押して勘弁してあげようとした。
「分かったわ。それなら、わたしとご褒美デートをしてね」
……この人はいったい何を分かったのだろう。
承諾の返答を待たずに欣喜雀躍する生徒会長を見て、私は呆然と立ち尽くしてしまった。
††††† 登場人物紹介 †††††
山田小鳩・・・中学2年生。生徒会役員。実質的に生徒会の活動を牛耳っている。
工藤悠里・・・中学3年生。生徒会長。2年生の三大美少女である山田小鳩、日々木陽稲、田辺綾乃を侍らすことが夢。
日野可恋・・・中学2年生。山田小鳩を利用して生徒会を思いのままに操るこの学校の裏の支配者だと一部の生徒から認識されている。




