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自分の憧れは兄だった。
みんなに慕われるリーダーで、面倒見がよくおまけに頭もいい。それが自分の兄だと言うのが当時の自慢であった。
学校が終わると、近所の子供たちと散々遊んで家に帰る。その頃には温かなご飯が並んでいて、少し待てばお父さんも帰ってくる。家族全員での食卓。笑顔が耐えない家庭。
それが壊れたのは突然だった。
共通の友人の元へ出掛けると告げて、母方の姉夫婦へ俺達は預けられた。画家であるその友人は、俺達も何度も会っていたがその日は個展が開かれるとあって、まだまだ大人しくしていられない俺達は預けられたのだ。二人は昼過ぎに帰ってくる予定であった。
「えっ!?…事故?」
母の姉の声が今でも忘れられない。固定電話の受話器を握ったまま崩れ落ちたお姉さんへ、旦那さんは慌てて駆け寄った。泣き崩れて何も言えないお姉さんに変わり、旦那さんの応対はとてもしっかりしていた。
「お兄ちゃん?」
その姿を見ていた兄の姿は今でもハッキリと思い出せる。全てを察したような目。握り締めた拳。まるでこれからの覚悟を決めたような姿であった。その後、親戚同士の押し付け合いに巻き込まれ最終的には二人で暮らしていくこととなった。
兄との二人きりの生活は、最初こそ楽しかった。三食お菓子三昧に、深夜三時までの夜ふかし。咎める人は誰もいない。ここは俺達の城。でもそんな生活はつかの間だ。学費は全て払ってくれても、生活費は一定金額だけである。しかも到底生活していける金額ではない。
「お兄ちゃん、これからは働くから優希もお手伝いしてくれる?」
「うん!お兄ちゃんがんばって!」
それが俺にとって悲劇のスタートであった。
当時中学生の兄が働ける場所などない。だから親戚に頼み込んで、お手伝いの報酬という形でお金をもらっていた。そんな働く姿を見ても何も言わないのだから、親戚連中は腐っていたと今では思う。
兄のアルバイトは最初こそ昼だけだった。でもだんだんと家にいる時間は無くなっていき、気付いたときには夜勤のアルバイトまでしていた。
夕方には一度帰ってきて、俺のぶんも含め二人前の夕食を作る。盛り付けられたそれをテーブルへ置いて今度は夜勤の仕事へ。日の出前に帰ってきて仮眠を取り昼のバイトへ。
それが兄の生活パターンである。家にいる時間がなければ当然顔を合わせるときがほとんどない。会話など当然なくなっていた。
それが寂しかった。
家に帰ってきても室内は暗く、誰一人いない。置かれた夕食を一人で食べて、一人で風呂に入り、一人でテレビを見て、一人で眠る。学校以外で会話をする相手がいない。今日あった楽しかったこと、辛かったこと、相談したいこと。それらは沢山あったのに。たった一人の家族は帰ってこない。
「……お、お兄ちゃん!あのさ…」
会話がなくなった今となっては、話しかけることすら勇気であった。それでも一度だけ言おうとしたことがあった。
「ごめん俺もう行かないと!またあとで聞くから!」
普通のことである。どこにでもある会話。でも、勇気を振り絞った俺にとってそれは絶望だった。怒りだった。悲しみだった。
そして同時に、自己嫌悪にも陥った。兄は二人分の生活費のために働いている。なのに俺は、ただ寂しいという気持ちだけで兄の足を引っ張るつもりだったのだ。何と言う自分勝手なんだろう。それ以降、話題に上げることはなかった。
兄は、いつしか恋人を連れてくるようになった。遥さんは兄がいない日にも遊びに来てくれ、これまでずっと寂しかった俺にとってもう一人のお兄さんとなった。博識の遥さんからは勉強や雑学、それから遥さんが大好きな都市伝説まで色んなことを教わった。
でも、心の片隅で思っていた。こんなふうに兄と話せたらいいのに。
聞けば兄は自由な時間を時々作って、遥さんの都市伝説巡りに割り当てているらしい。そうやって二人は色んなところへ行ったと遥さんは言っていた。そこにはもちろん、俺はいない。
友達がどれだけ増えようと、家族という最も大事なものは寂しいままである。それが爆発したのはたった一言であった。
「遥と同棲することになった」
時々顔を合わせることはあっても会話はほとんどなかった。それがいきなりこの話題である。
「そうなんだ。よかったね 」
まるでテンプレだ。引越日はまた伝えるとだけ告げてまた兄は出ていった。
「………っ!」
気付いたときには読んでいた雑誌を壁へ投げつけていた。
テレビゲームで対決する。おかずの取り合いをする。取っ組み合いのケンカをする。俺が望んでいたのは、その程度のどこにでもある兄弟だ。それができない事情あるのは分かっている。自分が兄に甘えてきたのも分かっている。でも悔しくて堪らないのだ。兄がこの家から出ていくなら、もうそんなことは望めない。
その時、初めて出てきた感情。それが遥さんが邪魔だというものだった。




