問題篇
「案山子に足が生えて田んぼから逃げ出す、なんてことがあると思うか」
碓氷は目に埃が入ったときのように瞼を忙しなく開閉させながら、向かいのソファに座る真面目くさった顔の男をじっと見つめる。
「蒲生、頭でもぶつけたの。それとも寝不足か。あ、昨日見た夢の話だね」
男は真顔のままぶるぶると頭を振って、ソファの背もたれから身を起こした。
「昨日、仕事帰りにハンバーガーショップで夕飯を済ませたんだが、そこで偶々近くの席にいた女子高校生が話していたんだ。『おばあちゃんの田んぼから、誰の目にも触れず一体の案山子が忽然と姿を消した』ってな」
碓氷はアイス珈琲を飲み干したグラスを脇に押しやって、テーブルから僅かに身を乗り出した。碓氷のこのポーズが、相手の話に興味を持ち出したサインであることを、大学時代来の仲である蒲生はよく知っていた。
ハンバーガーショップで話していたのは、二人の女子高校生だった。聞き耳を立てている限り、案山子消失事件に遭遇したのはカオル、聞き役はミキという女子生徒。そして、カオルの家の近所に一人で暮らす祖母――カオルは「おばあちゃん」と呼んでいたから、以下「おばあちゃん」で話を進める――が主な登場人物だ。
カオルの話によると、彼女は一ヶ月に一度、学校帰りにおばあちゃんの田んぼ仕事を手伝っているらしい。もともとは祖父母夫婦で管理をしていたが、何年か前に旦那が病死して以来一人でこなしているみたいでな。カオルはおばあちゃんの様子を定期的に見る意味でも、月に一度は農作業を手伝えと実家の母親から命を受けていた。
カオルが手伝うことは主に草刈り作業だ。その日も、おばあちゃんと一緒にせっせと草むしりに励んでいた。件の案山子消失事件が起きたのは、そんな最中のことだった。
そもそも、カオルのおばあちゃんには風変わりな趣味があった。田んぼに十以上もの案山子を立てて、すべての案山子に名前をつけて可愛がっているんだと。「サチコ」とか「ショウタ」とか一体一体に呼び名があるんだ。カオルによれば、案山子の性格まで決まっているらしい。詳しいことはよく覚えていないし、案山子の性格は事件には関係ないだろうから先を進めるぞ。
草刈りは、二人でひとつの田んぼを半分に分けて作業する。確か、おばあちゃんが車とかが通るコンクリートの道路側、カオルが畦道側だったかな。先に異変に気付いたのは、田んぼの真ん中あたりで作業をしていたおばあちゃんだった。
カオルが畦道の近くで草を刈っていると、おばあちゃんが「カンタ、カンタ」と突然大声を上げ始めた。祖母のことだから、どうせ「カンタ」と名付けられた案山子の一体とじゃれあっているのだろうと、最初は気に留めていなかった。だが「カンタ」と呼ぶ声が妙に甲高く、しかも一向に止む気配がない。さすがにおかしいなと思い腰を上げてみると、田んぼの中をうろうろしながら「カンタ」と連呼する祖母の姿がある。カオルは訊ねた。
「おばあちゃん、どうかしたの」
「カオル。カンタが、カンタがいないのよ」
おばあちゃんは、まるで溺愛する孫が行方不明になったとでもいうように切実な声で訴えた。
「カンタって、案山子の?」
「そりゃあもちろんよ。ここにね、ここに立っていたカンタがいないの。どこかにいっちゃったのよ。カオルも分かるでしょう。青い袢纏を着て麦藁帽子を被ったカンタ」
カンタは、案山子たちの中でもとりわけおばあちゃんが惚れ込んでいる一体だ。何でも、初恋の男の名前が「寛太」で、その寛太に似せて作った案山子がカンタらしい。そのカンタが、二人が草刈りをしていた田んぼから忽然と姿を消したのさ。
カオルはおばあちゃんと田んぼを捜索した後、近くにいた近隣住民にカンタを見かけなかったか訊ねた。だが、案山子を運ぶ者の姿など誰も見ていない。おばあちゃんの田んぼに立っていた案山子はカオルの背丈近くも高さがあるから、そんな案山子を抱えていたらさすがに目立つし、夕方といえどまだ充分に明るい時間帯で見逃すこともない。つまり、田んぼ付近にいたすべての人間の目を掻い潜って、案山子のカンタは煙のように姿を消してしまったわけだ。
「田んぼから突如消失した案山子、ね」
「人間消失ならぬ、案山子消失の謎ってわけだ」
にやにやと薄ら笑いを湛える蒲生。碓氷は両腕を組んで宙を仰いだ。
「念のため訊くけど、おばあちゃんの見間違いじゃなかったの。案山子は田んぼに十体以上も立っていたんでしょ。一体くらい見逃していて、もう一度確めたら実はありましたってことは」
「カオルも最初にその可能性を考えたそうだ。だが、おばあちゃんは案山子の数をしっかり数えて、いつもより一体少ないことが判明した。ちなみに、カンタも含めて十五体の案山子が田んぼにいるらしい」
「案山子って、田畑を荒らす鳥や獣を寄せ付けないために立てるものだよね。おばあちゃんの田んぼはそんなに害獣が集まっていたの」
「先の話でも言ったが、ほぼほぼ趣味なんだそうだ。もとは旦那が案山子を作っていたが、その旦那が亡くなって以来急激に案山子の数が増えたんだと。おそらく、旦那と死別した悲しみや淋しさを紛らわしているんじゃないかとカオルは話していたな」
「で、その中の一体に初恋の男性を模した案山子があったと」
「旦那が病死した後に作ったんだろうな。妻が昔好きだった男に似た案山子なんて、生きている間には見たくないだろうし」
眉根を寄せどこか複雑な面持ちを浮かべる蒲生。一方碓氷は、淡々とした声で案山子消失事件について質疑を続ける。
「カンタは田んぼのどのあたりに立っていたの」
「ちょうど真ん中くらいだと言っていたな。確か、道路や畦道の向きに沿うように案山子は横並びになっていたとか」
蒲生はペンを持って何かを書くような動作をする。碓氷は小さく吐息を漏らすと、ショルダーバッグから手帳とボールペンを取り出した。
「カオルの話を再現する限り、恐らくこんな風に案山子は並んでいたんだろう」
「何で案山子の絵だけやけに丁寧なの」
「絵心あるだろう。線と丸だけで済ませるお前と違って」
誇らしげに胸を張る蒲生を「そうだね」の一言でやり過ごし、碓氷は図に見入っている。
「カンタが並んでいる列で、作業の範囲を区切っていたのか」
「らしいな。ちなみに、おばあちゃんもカオルも道路側を向いて、道路から畦道側に後ろ向きで進みながら草刈りをしていたみたいだぜ」
「ということは、おばあちゃんはカンタに背を向けて、カオルはカンタがいる方角を向いて作業をしていた。犯人はカオルに気付かれないように、田んぼのど真ん中から案山子を盗み出したのか。随分大胆だね」
碓氷は手帳を机上に放り、いつもの気障な仕草で肩を竦めた。
「信じられない、と言いたそうだな」蒲生は忍び笑いを返す。
「だって田んぼの隅ならともかく、カンタを狙うならどうしたってカオルの視界に入ってしまう。隙を見て盗むにしても、まずカンタの位置に辿り着くまでに気付かれちゃうよ」
「待て。そういや言っていたぞ。草刈りは基本手元を見ながら作業するから、作業に没頭している間は周囲のことは気にならないと。つまり、カオルがそのとき草刈りに夢中になっていたとすれば、こっそり田んぼに侵入し素早く案山子を抜き取ることもでき」
「ストップ。誰かが田んぼに入ったとすれば、その痕跡が残るんじゃないのか。おばあちゃんもカオルも、田んぼ仕事に慣れた人間だろう。ましておばあちゃんは、長い間田んぼの管理をしてきた農作業のベテラン。自分たち以外の誰かが田んぼに足を踏み入れたとすれば、その跡くらいすぐに見つけられるんじゃないの」
「む――カオルの話ではそんな証言出てこなかったぞ」
蒲生は言葉を詰まらせる。碓氷は小さく笑んでみせた。
「つまり、おばあちゃんとカオル以外の誰かが田んぼに入った可能性は低いね」
「分かった。地上が無理なら空から攻めろだ。犯人は小型ヘリコプターかドローンを駆使して、上空から案山子を盗み出したのさ」
「何ちゃら三世みたいにか。上空から下界を見下ろして、悔しそうな警官たちを嘲笑いながら去っていくんだろう」
嗤笑する友人に、蒲生はふんと鼻を鳴らす。蒲生はミステリ小説やスパイ映画といった大衆作品の影響を多分に受けやすい男なのである。
「上空から案山子を盗むとしたって、問題はあるよ。まず、案山子を吊り上げるためのロープなりワイヤーなりを、どうやって案山子に引っ掛けるか。案山子の構造って結構簡単というか、十字型に固定した竹に新聞紙や発泡スチロールで頭をくっつけて、服を着せるくらいで完成するよね。もしロープやワイヤーを案山子の頭部に引っ掛けるとしたら、頭だけがすっぽりと抜けて体は地上に置き去りってことにもなりかねない。それに、案山子はどの程度の深さまで田んぼに突き刺していたんだろうか。もし田んぼに土台を深く刺し込んでいたとすると、小型ヘリやドローンで上手く持ち上げられるか。張力が足りなくて空振りに終わるってことも充分にあり得るんじゃないかな」
「それは、あれだ。ヘリやドローンを複数機使ったんだ。数が多ければその分力も大きく働く」
「特定の田んぼの上空にヘリやドローンがいくつも浮いているなんて、明らかに怪しいでしょ。それこそ人目につくリスクがある。あ、人目と言えば」
碓氷は空のグラスにちらりと視線を送りながら、
「カンタが消えたとき、田んぼの周りには住民がいたんだよね。具体的にどのあたりにいたのか分かるの」
「ああ、田んぼから道路をちょっと進んだ先で二、三人が立ち話をしていたらしい。歩いて一、二分ほどのところだったかな。道路を向いて右側と左側どちらの方角にもいたから、道路には複数の目撃者が存在していたことに――あっ」
蒲生の短い叫びに、碓氷はぴくりと肩を上げる。
「すっかり見過ごしていたが、あるじゃないか。人目につかない逃げ道が」
蒲生は机上で開かれた手帳のページを、指で軽快に叩いた。
「畦道だよ。カオルは畦道に背を向けて作業をしていたんだから、何らかの方法で田んぼに上手く侵入し、案山子を抜き取って畦道側へ逃げたんだ。そうすれば人目につかず退散できる」
碓氷は手帳に書き込まれた図をしばらく眺めていたが、やがて緩慢な動きで首を横に振った。
「確かに、畦道には目撃者がいなかったかもしれないけれど、犯人の逃げ道に適しているとは思えないね。そもそも畦道は、田んぼと田んぼの間に作られら泥土の道で、足元が悪くて逃げ道にはまず向いていない。それに、泥でできた道の上を歩けば田んぼの中以上に痕跡がはっきり分かってしまう。田んぼ周りのことを熟知している者ならともかく、普通の人が逃避経路として選ぶとは考えにくい」
蒲生は唇をへの字に曲げると、ソファの背もたれにだらしなく体を預け両手を顔の横に上げてみせる。安楽椅子探偵役は、またしても碓氷に委ねられたのだった。