第一章【殺人依存】・七話:殺人という行為
ここは旧校舎の一階と二階を繋ぐ階段の、中間。一階と二階という別世界を分かつ場所。ただでさえ日当たりが悪いのだが、あいにく今日の天気は雨。小降りにはなっているものの、空の灰色は一向に晴れず、深淵の闇は空間を包み込む。淀んだ空気も充満し、そこは老朽化した旧校舎よりも異質な空間に成り果てていた。
そんな淘汰した場所を訪れる、二人の人影。 滅びた空間を照らす太陽のような少女。そして滅びた空間とよく似た不完全な少年。あまりにも不釣合いなそれらは、どこか、結末を予感させた。
◇ ◇ ◇
「それで話ってなぁに? 串永くん」
階段の中間の突き当たりで振り向く彼女。流麗な黒髪を乱雑になびかせながら、その無垢な瞳を彼へ向ける。うつむき加減の彼は静かに彼女の瞳を見つめていた。青い病的な、屍のような顔で。微かに、薄気味悪い笑みを浮かべながら。
「話っていうのはね。そのねぇ……」
そう言いながら彼女へ近づいていく彼。
――刹那。 彼の両腕が躍動を得る。虚ろだった瞳に灯された、雌を見る雄の本能。彼は不意に、彼女を壁際に押し倒し、その事に愕然とした彼女に馬乗りになった。
「何、串永くん! やめてっ! やめてよ!」
突然の出来事に動揺しながらも、反抗するため声を張り上げる彼女。
「うるさい! 黙れ黙れ黙れ! 勉強、運動。富原に全て負けたんだ! こんなの僕のプライドが許さない……! だから! あいつが大切にしている君を、僕が汚すんだ! 僕のモノにするんだ!」
汚濁にまみれた薄汚い言葉。自我の塊となった彼は止まらない。
力いっぱい彼女の制服の襟を掴み、斜め一文字に破り捨てる。露になった汚れを知らない純白の肌。
――これ以上は……!
彼女の抵抗はより一層激しくなる。突き出される手や足が、彼の顔を押しのけるように動き、これ以上の侵攻を阻もうとする。彼は自らを拒む手のひらを払いのけながら小さく舌打ちをした。
すると、自らのズボンのポケットに手を突っ込み、怪しく光るナイフを取り出し、それを彼女の眼前へ近づける。それを見た彼女の顔は必死に抵抗する熱を帯びた表情から、蒼白なおののいた顔に変わる。その様はまるで吹き消される蝋燭の灯火。彼女は抵抗する事をやめた。彼はそれを確認してから、ニヤリと口元を歪ました。
彼の――欲に取り憑かれた獣の醜い唇は、少しずつ、宝石のように汚れを知らない唇へ近づいていく。
◇ ◇ ◇
「おい!」
階段下から響く怒号。獣は自らの行為が中断された事に不快そうな顔をするも、刃先を彼女に向けたままそこを覗き込む。
怒りに燃えた、静かな瞳。冷静で冷たい、紅の劫火。漆黒の闇と同化するほど黒い髪を揺らめかせ、そう形容するに値するほど憤怒した、富原豊がそこにいた。
「富原……お前なんで来たんだぁ?」
「お前のフラれる所が見たくてよ。でも、告白どころか犯罪現場を目撃するとは思ってなかったぜ。……お前。 俺が来たからにはどうなるか分かってるよな」
それを聞いた獣は、狂喜した。吐き気のするような笑い声を轟かせながら立ち上がり、階段上から彼を見下ろす様に佇む。――未だに、ナイフは彼女に向いたままだ。その点については、用心深いと言えよう。
「富原ぁ! 確かにお前は強いよ。『少年空手全国大会ベスト8』、『中体連主催全国柔道大会ベスト4』。ひ弱な僕はどう足掻いたって勝てやしないさ! でもなぁ、僕にはこれがあるんだよ」
そう言って、獣はナイフを自分の口元に近づける。銀の光を放つそれが、あたかも自らの牙のように。彼はそれを凝視し、まぶたを閉じる。そして、つかの間の沈黙の後、獣に聞こえるように呟いた。
「それが?」
と。恐怖のない、半ば呆れた口調で。先ほどまでの怒りに満ちた表情は消え、微かに笑みさえ見える。
「へっ、強がるなよ。ここで殺してやる。これが僕の復讐だ!」
彼は獣の熱弁を聞き終えると、深くため息をついた。目の前にいる哀れな獣に、僅かな殺意を抱きながら。
狂った叫び声を上げ、獣は跳んだ。真っ直ぐ彼めがけて。その刃を彼に突き立てるために。彼も動かない。ただその刃を、睨みつけるだけで、モーションは無い。
そしてその刃は――彼を捉えれなかった。
◇ ◇ ◇
「ドン!」
轟音と共に床に体を打ち付ける獣。階段の最上段から飛び降りた衝撃はひ弱な体には強すぎて、苦しそうなうめき声を上げ身をよじる。それは死に掛けのゴキブリじみていて、吐き気がするほどおぞましい。
床に落ちたナイフ。それは彼の首もとを通過した。ただ――刺しはしなかった。
「……なんで? 刺したぞ。刺したはずなのに何でお前は死なないんだぁ!」
「刺されては無い。俺の体を通り過ぎただけだ。その刃が――俺の存在を認識できなかっただけだ。どんなに研ぎ澄まされた刃でも、どんなに速い銃弾でも、俺を死には至らしめれない。俺は――『非存在理由所持者』だからな」
彼は長い説明を終えると、静かに歩き出す。落ちたナイフの下へ、ゆっくりと落ち着き払った表情で。
――いつも使っている物とは違うが、大丈夫だろう。
獣はその一連の行動を怯えながら見つめていた。逃げる隙はいくらでもあったのだ。 でも逃げれない。蜘蛛の糸に絡めとられた蝶のように……いや、蛾のように。ただ、凶刃が迫るのを見続ける、他無かった。
――内心。化け物に勝負を挑んだ事を後悔しながら。
その遅すぎる後悔をゆっくりと味わいながら、獣は狩られた。
◇ ◇ ◇
「ごめん。あっ、少しどいて」
野次馬の群れを掻き分けながらどうにか前に進む。なぜなら何事も無く家に帰ろうとしていた僕の耳に“殺人”という単語が飛び込んできたからだ。
長い長い人ごみを抜けた所に――それはあった。
朱色の池を床に作りながら、存在する死体。首元を貫いたナイフ。そしてそれを力強くつかんだ男の手。それは日常からかなりかけ離れたものでありながらも、この旧校舎に酷く似つかわしくて、なんとも、『をかし』と言いたくなってしまう。
「同じクラスの、串永幸一郎……」
同じクラスの人間が死ぬという現象を、生まれてから死ぬまでに体験できるだろうか、と思っていたが意外に早かった。
別に、殺人現場なんて珍しくは無い。この前黒崎さんに見せられた書類の写真には、こんなものとは比べ物にならない惨劇が広がっていたからだ。
だけど、この現場は気味が悪かった。蛇が背中を伝い、静かに首元を舐めるような寒気。この場の空気とよく似た、薄汚い怨念が漂っている、そんな気がした。
ひとまず、走って荒くなった息を整えるため深呼吸をする。汚れた空気を味わうようにゆっくりと。別にそんなつもりは無いが。そしてもう一度現場に目を向けた。 現状は変わらず、死体が転がっている。
「はぁ。まいったなぁ……」
自分でも意味が分からないその言葉を、頭を掻きながら静かに呟いていた。