第七章
かたん、と箸を置くと、女房たちが振り返った。
「春宮妃さま……。また、食欲が?」
「え、……ええ」
戸惑いながら、真赭は返事した。心配そうな顔を向けられて、なんでもないとにっこりと笑って見せた。
「たぶん、この暑さのせいだと思うの。そんなに心配してくれなくても、大丈夫よ」
「ですが……朝もあまり召し上がらずに」
「大丈夫。それに、動くこともないんですもの。お腹も空かないわよ」
「そうはおっしゃいますけれど、この数日……いつも、残してしまわれて」
身分の高い者が食べたあとは、下の身分の者が食べる。自分も中宮のお下がりをいただいていたことを思えば、真赭が食べないぶん、誰かの分け前が増えるというわけだ。
その意味では、昨今食事を美味く感じない真赭よりは、もっと美味しく食べる者の口に渡ったほうがいいだろう。
「なにか、ほかのものを用意させましょうか? 削り氷でも……」
削り氷、と聞いて、真赭はつい笑ってしまった。まだ春宮妃になる前、自由だったころ。梅壺女御が、削り氷に甘葛をかけたものを振る舞ってくれた。
今ではその梅壺からも敵視を受けている真赭だけれど、その当時を懐かしく思うと同時に、あのころ始まったばかりだった夏は、まだ終わっていない。衣こそ秋の装いだけれど、まだまだ暑い季節であるというのを実感せずにはいられないのだ。
「春宮妃さま?」
「いえ……、なんでもないの」
急に笑い出した真赭に、女房たちは驚いたようだった。それでも同時に、ほっとした様子を見せる。
「春宮妃さまがお笑いになるなんて、めったにないことですから」
年嵩の女房が、言った。
「いつも、どこか寂しげで……お辛いことでもあるのかと、懸念しておりますものですから」
「ごめんなさい」
肩をすくめて、真赭は言った。
「心配させているのね。でも、あなたがたに責任のあることではないわ」
「いえ……そういうことを懸念しているのではありません」
女房のひとりが、そう言った。
「そうでなくても、呪のかかった瓜が届けられたり……それなのに、春宮さまにはお渡りがなくて。果たして春宮妃さまのお身の上のことを、ご存じなのか」
「いいのよ。春宮さまのことは」
真赭は思わず、唇を撫でる。清彰にくちづけられた唇、そして太乙に――あれ以来、真赭は十二月将を封じた腕輪をつけることができなくなっている。二階棚に敷いた敷物の上に大切に置いてあるとはいえ、体から離してしまっては、十二月将たちと心での会話をすることはできない。
(だって……太乙に聞かれたら、いやだもの)
今までは、思ったことが彼らに筒抜けでも構わなかった。むしろ声に出す必要がないぶん、便利だとすら思ってきたのに。しかし今は、太乙には心の声を聞かれたくない。どのようなことを思ってしまうか自分でもわからない――それを彼に聞かれることを思うと、恥ずかしくてたまらなかった。
(どうして、こんなことを思うのかしら……わたし)
胸に手を置いて、考える。しかし、彼にくちづけられた夜。あのとき胸によぎった感覚には、いまだに名前がつけられないでいる。その心をもてあましている真赭には、腕輪をつける勇気がなかった。
(封じ込めたままで、申し訳ないけれど……)
いっそ、解放してやったほうがいいのかとも思う。しかし祖父から受け継いだ式神たちだ。真赭のよりどころでもある彼らを手放すのは心許ない。春宮妃になってからは後宮全体を顧みる余裕がないとはいえ、後宮のことは頼むと帝にも言われているのだ。
(……いっそ、春宮妃なんて身分、返上して)
今まで、そう考えないこともないわけではなかった。しかしそうすれば、真赭はどこに行けばいいのだろう。位を返しておいて、後宮に居座ることなどできない。住む場所もなく、食べものを手に入れる術も持たず――真赭は自分がどれだけ力のない存在なのか、思い知った。
(自分の身ひとつ、養えないのだわ。わたしは……)
思い至った事実に、真赭の心はますます重く沈む。その様子を、女房たちに心配された。
□
寝つけない、夜だった。
真赭は、帳台の中で何度も寝返りを打った。しかしいっこうに眠気は訪れない。まわりで眠っている女房たちは、健やかな寝息を立てているのに。それさえもが眠りを妨げるものになって、真赭はますます眠れない。
(どう、して……)
真赭は、もう何度目になるのかわからない寝返りを打ちながら考えた。
(なんだか……落ち着かないの。あるべきものがない感じ、というか……大切なものを失って……体が、それに馴染んでいない感じ、というか……)
また、寝返りを打った。違和感がある。気づいてしまうと、苛立ってまた眠れない。
「……ん、っ……?」
ふと、部屋の中の気配を感じた。真赭は、がばっと起き上がる。
「誰……」
「静かに」
聞こえてきた声に、ほっとした。同時に懐かしさが湧き上がる。
「飛英……」
「起きていたか。ちょうどいい」
月明かりだけの部屋の中、彼の姿ははっきりとは見えない。その声は潜められていて低く、彼に気づいた女房はいないようだ。
床で眠っている者たちの隙間を縫って、飛英は器用に歩いた。真赭の帳台の浜床に乗り帳をかきわけ、真赭のもとにひざまずく。
「久しぶり……、飛英」
彼の姿を目に、涙が出そうだった。黒一色の装いも、短く言葉を切って話すところも。飛英の姿は、真赭に大きな安堵を与えてくれる。
「行くぞ」
真赭は、涙を浮かべかけていたのかもしれない。薄暗がりの中の飛英の姿が、滲んで見えた。しかしすぐに、彼の言葉にはっとする。
「どこ、へ……?」
飛英は、それ以上なにも言わなかった。単衣と袴姿で茵に横になっていた真赭を、すくい上げるように抱き上げる。決して大きな体ではないのに、その持つ腕力と瞬発力のすさまじさは相変わらずだ。
「きゃ、……ひ、えい……!」
真赭を抱きかかえた飛英は、来たときと同じように軽やかに部屋を抜ける。気づいた者は、誰ひとりいない。皆、眠りの中に入り込んでいる。
「つかまっておけ」
そう言って、彼は床を蹴った。飛英に両腕でしがみついたまま、真赭は廊に出た。弱い月明かりが照らすばかりの中、飛英は床を蹴る。
真赭は、ぎゅっと目をつぶった。飛英の強靱でしなやかな足が、地面を蹴る衝動。それに身を任せているのは心地よかった。今まで訪れなかった眠りが訪れるのではないかと思ったくらいだ。
「こ、こ……」
飛英は、どれほど駆けたのだろう。気づけば真赭は、小さな小屋の中にいた。粗末な板造り――小さく、部屋はひとつしかない。真赭が下ろされたのは、床に敷いた筵の上だった。
「ここ、どこ?」
「油小路」
「東の? それとも、西の?」
「西だ」
真赭は目を見開いた。西京の、油小路。以前はよく来ていた、西市の近くだ。真赭は、ほっと安堵した。
「ここが、飛英の住まいなの?」
「ねぐらは、いくつかある」
いつもどおりの飛英の話しかたに、さらなる安堵に包まれる。夜の闇の中、初めて来た場所なのに、真赭は寛いだ気持ちになった。
「ここは、そのうちのひとつだ」
「どうして、いくつも住まいがあるの?」
「行動上、必要なんだ」
飛英は、短くそう言ったきりだ。真赭は、ふぅんと返事をした。飛英がどこから現れて、どこへ帰って行くのか――追求したこともあったのだけれど、いつもはぐらかされて今に至る。
「どうして、わたしを連れてきたの?」
そう真赭が言ったとき、飛英の目が光ったように見えた。この暗さの中だ、見えるはずがないのに。真赭には確かに、彼の瞳がきらめいたのを見た。
「春宮妃の不遇は、噂になっている」
真赭は、かっと頬を熱くした。思わず胸に手を置いて、目を見開く。
「安心しろ。誰も彼もが知っているというわけではない。……俺の情報網に、入ってきたというだけだ」
「それに、したって……」
不遇。人の目にはそう映るのか。真赭は、唇を噛んでうつむいた。
「まぁ、あの口ばかり生意気な春宮に、好きな女を押し倒すだけの気概はないと思ったが」
真赭は、目を見開いて飛英を見た。
「それにしても、情けない。惚れた女を妃にしておきながら、手のひとつも出せないとは」
「だから……わたしを、逃がしてくれたの?」
瞠目したまま、真赭は問う。
「後宮から……わたしが逃れたいと、思っていたから?」
「あそこでは、おまえは自由に生きられない」
やはり短く、飛英は言った。
「中宮の保護があっても、おまえがいつまでもいられる場所じゃない。おまえの才は、いずれにしろいつか人目に触れることになった。後宮での嫌がらせなんか、かわいいものだ」
「かわいい、って……」
それに真赭は、ずいぶん心悩まされているというのに。それがかわいい、とは。
「じゃあ、わたしがあのまま後宮にいたら……?」
「安倍の兄弟が、なにを企てていたか知っているか?」
ごくり、と真赭は固唾を呑む。飛英はそんな真赭を見つめながら、低い声で言った。
「鬼子母神の、髑髏秘法だ」
真赭の背に、冷たいものが走った。夏だというのに鳥肌が立つ。冷たい氷で、体中を撫でられたようだ。
「おまえ、死のうと思っただろう」
真赭の胸が、どきりと鳴る。真赭はなにも言わなかったけれど、飛英にはすべてお見通しであるようだった。
「あれも、兄弟の秘法ゆえだ。今日は、受死日。おまえがあのまま後宮にいれば、今度こそ本当に死んでいた。そしてあの兄弟を喜ばせていたところだった」
言葉もない。真赭はただ、唖然と飛英の言葉を聞いていた。彼は口を切ると、じっと真赭を見つめてくる。その目が、また光ったように思った。
「おまえを、もう後宮は置いておけない。中宮の庇護下にあれば、と思っていたが、あれほど目立つことをして、そのうえ春宮妃とは。春宮妃になってから今まで、生きていたのが不思議なくらいだ」
「でも……、わた、し……」
自分の選択が誤っていたのだと知った。後宮でより働けると思って、春宮妃となった。そのことが自分の命を危うくしていただなんて。
「わかっている。おまえが、苦渋の決意をしたのだということはな」
飛英は、やはり低い声でそう言った。
「責められるべきは、春宮だ。おまえを守ってやるなどと言っておいて、いざとなってみれば手を出すことをためらい、おまえをみすみす後宮でのなぶり者にしていた。それが、安倍の兄弟の横暴を許し、今日という夜を迎えたんだ」
彼の手が、伸びる。それは真赭の頬にすべり、唇の形をなぞった。触れられることが心地よくて、真赭は思わず目をつぶる。と、鼻の奥がきゅうっと痛んだ。
「あ、……っ……」
涙がこぼれていた。それは真赭の目の縁から次々と流れ、たちまち真赭の頬を濡らす。
飛英の指は、それを拭い取った。しかし涙は止まらなくて、真赭はしゃくり上げ始める。飛英はじっと真赭を見つめたまま、彼女が泣くのに任せていた。
「わた……、わた、し……」
涙混じりの声で、真赭はつぶやいた。
「怖かったん、だわ……あんなふうに、嫌がらせされて。自由に動きまわることができないのもいやだった……春宮妃になんて、ならなければよかったと思った……」
飛英は、なにも言わない。ただ真赭の頬を濡らす涙を拭っているばかりだ。
「いやだったの……全部。なにもかも捨てて、自由になりたいと思ってた……」
真赭は、泣き続けた。飛英はやはり真赭にまなざしを注いでいるばかりで、なにも言わない。彼の冷たい手の温度が、肌に触れるのが心地よかった。
「死のうとしたことだって、秘法のせいばかりじゃないと思うわ……わたし自身、そう願っていたのだもの。自由になりたいって……重い……枷みたいな袿を脱いで、以前のように水干で……こんな、髢なんて!」
真赭は、思いきり首を振った。手を伸ばして自分の髪を引っ張り、すると腰あたりで結んでいた髢が取れる。腰までになった髪は軽くて、真赭は泣き声の中、すっきりとした感覚を味わっていた。
「もう……いやなの。内裏にいるのは、もう……ねぇ、飛英」
洟を啜りながら、真赭は言った。
「わたしを、ここに置いて……? わたし、なんでもするわ。できることなんて限られてるけれど。……もう、後宮には帰りたくないの」
流れる涙を、飛英はすくう。頬をすべって顎に触れ、指を引っかけて上を向かせてくる。
「……ん、ぁ……?」
なにを、と思った真赭は、涙を忘れた。
「ひ……、え……」
飛英が、唇を重ねてくる。ふたりは柔らかい部分を触れ合わせ、つながってひとつの影になった。
「あ……、っ、ん……」
真赭は、そのまま組み伏せられる。筵敷きの床は冷たかった。真赭はなぜか最初にそのことを意識し、しかしすぐに、唇をふさがれたことで息のできない苦しさを味わうことになる。
「やぁ……う、……」
泣いていたせいで、鼻が通らない。そこに唇を押し当てられているものだから、真赭は息ができなくて喘いだ。
「や、だ……、ひえ、い……」
「おまえ、俺の女になれ」
唇を触れ合わせたまま、飛英はつぶやいた。
「魂を結ぶんだ。結んで、俺と一緒に、都を出よう」
「魂、を……?」
ぐすっ、と鼻を鳴らしながら真赭は飛英を見つめる。彼の顔が滲んで見えた。彼は手をすべらせて、真赭の単衣をまとった肩を撫でる。
「そう。俺は、待ちすぎた。もう……待たない」
彼は、合わせに手をすべり込ませてくる。と、真赭の胸の膨らみを掴んだ。
「や、ぁ……!」
反射的に、真赭は身を捩った。しかし飛英の力に勝てるわけがない。どこにどう力を入れているのか、飛英は器用に真赭を筵に縫い止めたまま、深い部分の肌に触れてくる。
「やめ、……飛英、っ……!」
ぞくり、としたものが背を走る。女になるということは、こういうことなのか――掴んだ手に力を込められて、真赭の体はひくりと跳ねた。
(だめ……、だ、め……!)
飛英がまたくちづけを強く押しつけてきて、真赭は胸を大きく上下させた。と、乳房を掴む飛英の手が荒く肌に擦れて、未知の感覚が湧き上がってくる。
「んく、……っ、ん……」
そこに、闇を貫く光の一閃――。真赭は、目を見開いた。
さっと、飛英が真赭を解放する。組み敷かれることからは免れたけれど、いったいなにが起こったのか。急いで胸もとをかき合わせながら、真赭は上半身を起こした。
「……太乙?」
そこにいたのは、白い直衣姿の太乙だ。彼は印相を結び、その手の中から発せられた閃光がこの小さな小屋を照らしているのだ。
「ど、して……」
震える声で、真赭は言った。太乙がいるということは、ほかの十二月将たちもいるのだろうか。しかし眩しい光の中、太乙以外の人影は見当たらない。
その光は、徐々に勢いをなくしていった。太乙が手をほどくと、あたりには月明かりが染めるばかりの闇が広がっていた。
「ここ、が……?」
太乙が踏み込んでくる。飛英がさっと腕を伸ばした。太乙が真赭に近づくのを遮るようだったけれど、太乙は構わず中に入ってきた。
「飛英。おまえ、真赭の魂の緒を握っただろう」
そう言う太乙に見つめられて、どきりとした。また、単衣と袴だけの姿。太乙を前に羞恥が走ったけれど、それがなぜなのか、このたびも真赭にはわからなかった。
「完全に握ったつもりだろうが、そうはいかない……探すのには、手間取ったが」
「そのまま、永遠に手間取っていればよかったものを」
飛英が、吐き捨てるように言った。
「真赭は、後宮を出たがっているんだ。このまま、俺の手に委ねろ。そうすればおまえたちも、真赭が弱っていくのを見ないで済む」
「そうやって、おまえが真赭を奪うと? 私がみすみす見逃すと思っているのか?」
太乙が、その場に九字を描いた。結界だ。なぜ、今――真赭は、ふたりがすでに戦う意を示していることに気がついた。
彼はまた両手を組む。飛英も違う形に印相を結んだ。それぞれの口から、まったく同時に同じ呪が放たれる。
「唵、っ!」
ごぅ、と空気が渦巻いた――真赭はそれに飲まれそうになって、慌てる。ふたりの発した気は凄まじく、こんな小さな小屋では壊れてしまいそうだ。
太乙が手を組み替える。指を絡めて握りしめると、中指だけを立てて声を上げた。
「爾蘇婆、縛曰羅、吽發吒!」
飛英は、人差し指と親指を曲げて輪を作る。小指は立てて鉤状にして、その口からは炎のごとき叫びが洩れた。
「縛曰羅夜叉、吽!」
ふたりの放った気が、ぶつかる。それは先ほどの閃光よりも眩しい光になって、真赭の視界を焼いた。
「あ、……っ……」
真赭は、目の前の飛英がかっと口を開けたのを見る。そこからは鋭い牙が現れた。と、飛英の姿が変化していく。
その身はひとまわり、ふたまわり大きくなり、背が丸まって両手を地面に突く。再び真言を吐いた口は耳まで裂けて、歯がすべて尖っているのが見えた。
「降神術……!」
飛英は、その身に神を降ろしたのだ。自らの体を使った呪法は、危険であるとともに大きな効果をももたらす。飛英が降神術を選んだのは、先手を取って太乙をねじ伏せてしまうため――つまりは、並の技では太乙を封じられないと見てのことだ。
ゆらり、と大きく影が動いた。その影は四つ足の動物のもので、それが牙を剥き出しに、太乙に襲いかかる。
太乙は、ばさりと袖を翻した。と、そこから鎌首をもたげたものが現れる。真赭の体と同じくらいの太さの、巨大な蛇だ。太乙の腕に巻きついている。
蛇はやはり口を大きく開き、牙が光った。それが飛英の影を呑み込んで、その身はひとまわり大きくなる。
「飛英……っ……」
目尻は裂けたようにつり上がって、すでにもとの飛英の姿をなしてはいない。その母から受け継ぎし狐の血が、降神によって現れたのか――耳が立ち全身は毛に覆われて、それが恐ろしい咆吼をあげた。
真赭は思わず、耳を塞いだ。声を聞くだけで、魂が持っていかれてしまう――そうでなくても、真赭の魂の緒は飛英が握ったままだ。太乙が飛英を倒さなければ、真赭の魂は自由になれない――しかしそれは、飛英の死を意味する。
「蘇婆爾蘇婆、吽、縛曰羅、吽發吒!」
太乙が、声を上げる。彼が腕に絡ませた蛇が、口を開ける――と、飛英の生み出した新たな影がそこに飛び込んだ。蛇が鋭い声を上げ、音を立てて爆発する。
「ち、いっ……!」
表情をゆがめて、太乙が呻く。再び袖を振るって、現れた蛇は先ほどのものより大きい。それが鎌首をもたげて、飛英を襲った。
飛英が、大きく体を震わせる。ゆらり、と巨大な影が生まれ――しかしそれを太乙の蛇が呑み込み、再びかっと口を開けた。
「唵、麼賀薬乞叉、縛曰羅婆吒縛、弱吽、鑁斛、鉢羅吠捨……」
このたびの真言は、最後まで綴られなかった。耳まで裂けた飛英の口は、咆吼を上げようとし――それごと呑み込むかのごとく、蛇が口を開ける。真赭まで呑み込まれそうになって、慌てて早九字を切った。
「う、が……ぁ……っ……」
鋭い牙を持つ狐が、呻きを上げる。蛇の口はすべてをそのうちに収め、どくり、と大きな音を立てた。蛇が、狐を嚥下したのだ。その身の中で呑み込んだものが暴れているのがわかる。しかし蛇は口を開けず、太乙の腕から落ちて地面で大きくひとつ、跳ねた。
「……阿那野斛婆訶梵縛曰羅、吽泙吒、っ!」
太乙の気合いの一声に弾かれたように、蛇は消える。と、その場に恐ろしいほどの静寂が広がった。
「……、っ……」
「太乙っ!」
彼は、その場に片膝をつく。真赭は駆け寄り、両手を伸ばした。太乙の肩に触れて、すると彼の手が伸びて背を抱き、真赭は太乙の腕に抱かれる格好になった。
「だい、じょうぶ……?」
「平気だ」
少しも平気ではなさそうな声で、太乙は言った。荒く息を吐き、肩がしきりに上下している。
「少々、手こずらされたが……やつの魂の、緒を切った」
真赭は、まわりを見まわす。先ほどまで毛を逆立てた狐がいた場所には、なにもない。まるでこの小屋は最初から真赭ひとりで、そこに太乙が現れたとでもいうようだ。
「……悪かったな」
呻くように、太乙は言った。謝罪の言葉の意味を考えて真赭は、はっと息を呑んだ。
そう、魂の緒を切ったということは――死んだ、ということ。飛英は、太乙の使った調伏の呪に敗れ、消えた。真赭は、髪の毛ひと筋残されてはいない小屋の中を見まわす。
「しかし……降神術を使われてしまったのだ。飛英の降ろした金剛夜叉を調伏しなければ……私が、消えていた」
「ええ……、わかってるわ」
真赭は、そっとささやいた。胸に手を当ててみると、自分の魂が戻っていることがわかる。今思えば、眠ることができなかったのも飛英に魂を握られていたから。真赭の体が魂がないことを訴えて、違和感を生み出していたのだ。
「……ああなった以上、どちらかが消えなくてはいけないことは」
辛い事実ではあるが、真赭も道士だ。神の威光を借りた戦いは命を賭けたものであるということがわからないはずがない。太乙か、飛英か。宿命が選んだのは、太乙だった。
涙がにじむ。真赭は唇を噛み、うつむいた。できるだけ声が震えないように、力を込めてはっきりと言う。
「わたしだって、神の力を借りてる。十二月将のみんながいなければ、いつわたしのほうが消えていたか、わからないわ」
太乙は、膝を突いたまま立てないようだ。真赭は彼に抱かれたまま東を向き、目をすがめる。そしてつぶやいた。
「朝陽が……」
長い夜はいつの間にか終わって、かすかに陽が稜線を赤く滲ませている。その光景を見つめながら、真赭はささやいた。
「飛英は……どこに行ったのかしら」
はぁ、はぁと荒い息をつく太乙も、朝陽のほうを見やる。そして、低く呻いた。
「……来世とやらで……、また、会えるだろう」
「そうね」
真赭は、太乙に身を寄せた。抱きしめる力が強くなって、真赭はそっと目を閉じる。
太乙の、ぬくもりが感じられる。式神なのになぜこれほど人を落ち着かせる温みを持っているのか。今さらながらに不思議に思いながら、真赭は目尻を伝って流れ落ちる涙の味を噛みしめた。
陽が昇り始めるとともに、人々が姿を現し始める。飛英のねぐらだというこの小屋は、同じくらいの大きさの小屋がもたれかかりあいながら建っているところだった。
真赭たちは小屋の前に立って、行き交う人々を眺めている。男に女、老いた者に若い者。皆が忙しそうに歩いている中、真赭は単衣と袴、太乙は白一色の直衣姿と、この場にはいかにも不似合いだった。
しかも、太乙は銀色の髪に青の瞳なのだ。いくら外つ国からの者がたくさんいる都とはいえ、珍しいことには変わりない。
「ねぇ……太乙」
真赭は、ぽそりと言った。
「わたし、後宮には帰りたくない……」
「そう言うだろうと思っていた」
太乙は、たいした感慨もない調子でそう言った。
「では、どうするのだ? 人間は、食べなければ生きていけないだろう。どうやって、糧を得るのだ?」
「……そう、ね……」
皆、籠に袋、包みを抱えて歩いている。
「民間陰陽師になりたいって言った話、覚えてる?」
「ああ」
太乙は、少し間を置いてうなずいた。
「おまえにかけられる迷惑なら、構わないと言った。それは、晴明の遺言ゆえではないということもな」
「これが、機だと思うの。わたし、民間陰陽師になって……夢占とか、暦読みとか……、そういうことをして、銭をもらうんだわ」
「しかし、ここではおまえは名を持たぬ者だ」
物珍しそうな顔をして、こちらを見てくる者が何人もある。中には立ち止まり、しげしげとふたりを見つめる者もあった。
「いかにして、名を売る? 物売りならともかく、技を売るのは難しいぞ?」
「そうよね……。なにもないのに、見せて回るわけにもいかないし」
現実には、叶わぬ夢。結局は後宮しか真赭の居場所はないのか。それでも、こういう話ができるだけで嬉しかった。
「こういうときは、先達の知恵よ」
後宮のこと、そして今自分たちが立っている小屋の主のことを考えまいとして、できるだけ明るい口調で真赭は言った。
「民間陰陽師をやってる人を、訪ねていけばいいんだわ。そしてどうやったらいいのか、教えてもらうの」
「しかし、そう易々と教えるものか?」
太乙は、どこまでも現実的だ。
「商売敵だぞ? 私なら、断るが。その者のほうが腕がよくて、客を取られてしまえばどうする」
ううん、と真赭は腕を組む。
「太乙は……人間じゃないのに、そういうことにずいぶん頭が回るのね」
「順序立ててものごとを考えれば、こうなる。あくまでも普通の考えだ」
「わたしが普通じゃないみたいな言い方、やめてよ」
「おまえ、自分が普通だなどと思っていたのか?」
なによ、と声を上げそうになったとき。路地の向こうから走ってくる者たちがある。皆が急ぎ足のこの時間、走っている者がいてもおかしくない。それでもその者たちの姿が目立つのには、理由があった。
「大吉に、小吉……?」
銀色の髪に、鮮やかな緑の水干。皆が落栗色や朽ち葉色の衣をまとっている中、彼らの姿は自ずと目についたのだ。
「どうして、ここに……」
「私は、おまえの魂の緒を辿ってきたと言っただろうが」
驚く真赭のそばで、太乙はどこまでも冷静だ。
「ふたりもそうしたのだ。今では、おまえの魂はしっかりと体と結ばれている。その気配を探ることぐらい、たやすいこと」
「あ、……そう、ね」
そういう話をすると、どうしても飛英の顔がちらつく。真赭はそれを振りきるために、兄弟に向かって手を振った。
「ふたりとも……、どうしたの?」
「真赭……」
大吉と小吉は、真赭の姿を見つけてこちらに駆け寄ってきた。ぜいぜいと肩で息をしているあたり、よほど急ぎの用らしい。
「どうしたの? そんな、走って……」
「どうしたの、じゃないよ!」
まるで吠える小犬のような声を上げたのは、小吉だった。
「起きたら、真赭がいないんだもん! 後宮は大騒ぎなのに」
「後宮……?」
真赭は、太乙と目を見交わした。彼の眉間には皺が寄っていて、ただごとではないことがその表情からも察せられる。
「そう、大変なんだ。中宮さまが!」
「……中宮、さま?」
どきり、と大きく胸が鳴る。真赭は目を見開いたまま、兄弟の話を聞いていた。
内裏に戻った真赭は、大吉と小吉の話が大袈裟でもなんでもないことを知った。
朱雀門を前にしたときから、ざわめきは感じられた。そして今、承明門をくぐったとたん、わっと押されるような騒ぎが聞こえたのだ。
「いったい……なんなの?」
真赭たちを見咎める者はいない。真赭は足早に、藤壺に向かった。太乙と大吉、小吉がそのあとを追う。
「真赭! ……いいえ、春宮妃、さま」
藤壺の、顔なじみの女房だ。彼女は慌てて言い直したが、そのようなことに構っている場合ではない。
「どうしたの? 中宮さまが、ご病気って……!」
「ああ、それなのよ、真赭!」
縋りつくように、女房は言った。真赭の顔を見て気が抜けたのか、その場に座り込んでしまう。
「まわりの者たちも、中宮さまの呻き声で目が覚めたというの。それほどに、たいそうなお苦しみで……」
ああ、と女房は声を上げる。真赭は彼女の肩を叩き、大丈夫だと言い置いて、藤壺の廊を走る。
すれ違う者、皆この異変を恐れている。この日の本で、もっとも高貴な女性。そんな藤壺が病に倒れるなど、なにかの前触れに違いないからだ。
「中宮さま……!」
真赭は、藤壺の母屋に入る。いつもは楽しい気持ちでまたぐ敷居が、今日ばかりは全身の緊張を感じずにはいられない。真赭は固唾を呑みながら女房の案内を待ち、やはり蒼ざめた彼女に連れられて中宮の帳台に向かった。
苦しげな声が。かすかに聞こえる。帳台の中の、中宮の声だろうか。
「お加減は……?」
皆が、首を横に振る。真赭は帳のうちに目をやって、そこにある中宮の姿に驚いた。
「そんなに、お悪いというの?」
「お呻きになる声で、わたしたちは目が覚めました。明け方前……帳台を拝見したら、中で中宮さまが苦しげに声を上げていらして……お呼びかけしてもお返事はなく、意識さえも定かではなくて」
薄暗い帳の中、大袿を体にかけた中宮は、その凄まじい苦しみを吐き出そうとするかのように呻いていて、真赭が来たことにも気がついていないようだ。
中宮はただ眉根を深くしかめ、目をつぶって口からはしきりに、聞いているだけで苦しくなるような声が洩れている。顔色は紅潮して赤く、唇は乾いて割れて、それが彼女の苦しげな表情をいや増して見せた。
帳台の中は、妙な熱気に包まれている。これは、中宮の発する熱なのか。真赭は、そっと中宮の額に触れてみた。
「……こ、んな……」
ひどい熱だ。これほどの熱を体に溜め込んでいて、苦しくないわけがない。以前も、夢見が悪かったと中宮に呼ばれたことがあった。あのときの具合の悪そうな状態とは、比べものにならないくらいにひどい。
「典薬寮の人たちは……。陰陽寮の人たちは!?」
「皆、かけずりまわっております……ですが、どんな祈祷も効かず、なにをもお口にできる状態ではなく」
「どうして、こんなことに……」
中宮に会ったのは、ほんの数日前だった。あのときは、いつもどおりの中宮だったのに。あれから、なにがあったのか――中宮が呻き始めたという明け方には、いったいなにが起こったのか。
「昨日は……受死日」
そう、飛英も言っていた。受死日だったからこそ安倍の兄弟が鬼子母神の髑髏秘法を試み、その的となった真赭を連れて、飛英は逃げた。
そのおかげで真赭は助かったわけだけれども、ぶつかる的をなくしてさまよった術の効果が、真赭の気配の色濃い藤壺に向かった――そして、中宮に憑いた。そう考えてもおかしくはない。
「まずは……延命法を……」
真赭は、はっと振り返った。そこには、十二人の男たちが居並んでいる。彼らは真赭の命を待っているかのようで、真赭はうんとうなずいた。
「孔雀明王……摩喩利!」
「摩喩吉羅帝、莎訶!」
皆が、両手を組む。十二人と真赭の手はすべて指を組み合わせ、親指同士、小指同士を立てて合わせる。そして続けて、孔雀明王の大呪が皆の口からこぼれ出た。
(中宮さま……)
中宮の呻きが、少し穏やかになったような気がする。顔色が少しましになったような、籠もる熱が少し薄れたような――。
真赭たちは、大呪を唱え続ける。繰り返すごとに真赭の額には汗が浮かび、したたって肌をすべり落ちる。真赭は軽く首を振り、しかし印相をほどくことはなく呪を続けた。
「……嚢謨母駄南、沙婆賀!」
十三人の声が揃ったとき、中宮がはっと目を見開いた。呻き声もやみ、まるで童のような顔をしてまわりを見まわしている。
「わ、たくし……?」
「中宮さま!」
真赭は中宮のもとに駆け寄る。顔を覗き込むと、中宮は縁の赤くなった目を見開き、真赭を見上げている。唇が白く、割れていた。
「お気が、つかれましたか……!」
「え、ええ……」
中宮の声は、震えていた。しかし確かに、彼女自身のものだ。物の怪が取り憑いている様子はない。物の怪ではないとすると、いったいこの苦しみようはなんなのか。
「あなた……、わざわざ、来てきてくれたの?」
「中宮さまが、お悩みと聞きまして」
中宮は、大きく息をついた。そっと差し出した手は、かさかさに荒れている。たった一晩の発熱が、中宮をこうまでしてしまったのだ。真赭は唇を噛みながらその手を握った。後ろでは、十二月将たちの唱和する大呪が続いている。
「夢を、見たわ……」
その言葉に、どきりとした。以前も、中宮は夢を見たと言っていた。そのとき印象的だった言葉は。そして真赭は、この後宮に巣食う大きな物の怪に何度も夢で会っている。
「花畑、の……?」
「ええ、そうよ……」
中宮は、くっと息を呑む。また、苦しさが迫り上がってきたのだろうか。真赭は中宮の手を握りしめ、彼女の意識を引き戻そうとした。
「花畑の向こうで、誰かが呼んでいるの……誰なのか、わからないけれど……」
「その人の顔に、見覚えはありませんか?」
「……ないわ」
はっ、と中宮は息を吐いた。その顔が、また苦しげに歪む。
「でも……なぜか、知っているような気がするの。わたくしの……とても親しかった者だったような……あの子の、すべてを……わたくしは知っているような……」
(あの、子)
中宮は、何気なく発しただけの言葉だろう。しかし真赭にはそれが引っかかった。中宮が『あの子』と呼ぶほど、親しみを覚えている相手。しかし顔に見覚えはないという。それが物の怪の正体か。
「ああ……っ……」
再び、中宮が苦しげな声を上げ始めた。真赭は、はっと中宮の手を握り締める。中宮が再び意識を失っていくのがわかった。まわりを包む大呪に合わせて真赭も声を上げ、その力が中宮の体に流れ込むことをひたすらに念じる。
(お体の、芯に……なにかが絡みついている)
ふと、真赭はそのようなことを感じた。眉をしかめて、中宮の苦しげな顔を見つめる。
(物の怪、ではないの……? 取り憑いている……いいえ、まるで蔦みたいに絡みついている……ような……)
ぞくり、と背を走るものがあった。これは、並の物の怪騒ぎなどではない。そもそも、中宮は神仏の守りが強いのだ。そう易々と物の怪などに取り憑かれはしない。それでもこれだけの苦しみを呼ぶような状況は――。
(今年は、客星の流れた年)
真赭は、ごくりと固唾を呑んだ。
(五年前には、疫病が。今年は……なんなの? こうやって、国母にならんとする中宮さまが、これほどお悩みになる……そのことが、客星の呼んだ因果なの?)
わからない。それともあの、花畑の物の怪が関わっているのか。いずれにせよ、中宮の苦しみは取り除いてやらなければならない。真赭は中宮の手を離し、かけられた大袿の中に入れる。そしてきびすを返すと、走り出した。
「真赭! どこに行くの……」
「わたしは、辰砂を練ります!」
かけられた女房の声に、真赭は答えた。
「中宮さまのお体を、清めなければ……内側からきれいにするの。物の怪かなにか、よくないものが絡みついてる……から……!」
真赭は、大呪を合唱する十二月将たちを見る。太乙と目が合った。彼はまなざしだけで、行け、と伝えてきた。
袴の裾を懸命にさばきながら、真赭は内裏を出た。承明門を出て健礼門を抜ける。そのまま陰陽寮まで走って行って、大きな声を上げた。
「すみ、ません……!」
手前の板の間で、大きな鍋をかきまわしている者があった。汗だくの彼は、中宮に飲ませる神薬の精製をしているのだろう。
「辰砂を、ください。それと、蜜を!」
「辰砂だと……?」
真赭の上げた大声に、出てきた者があった。束帯姿の、陰陽寮の頭――安倍吉平だ。
その姿に、真赭は固唾を呑んだ。飛英に聞かされたことを思い出したのだ。真赭をよく思っていない安倍の兄弟は、よく思わないどころか鬼子母神の髑髏秘法を行ったと。
「誰かと思えば、陰陽姫ではないか」
ふん、と吉平は鼻を鳴らした。この人物は、どのような顔をして呪いの秘法を行ったのか。それを思うとあまりにも恐ろしくて、真赭はまた唾を飲む。
そんな真赭を訝しそうに見やって、吉平は言った
「また、恥も外聞もない格好をして。外法陰陽師が」
嘲笑うように、吉平は続ける。
「私たちを頼るのか? 私たちは、外法陰陽師などに協力はしない。その私欲のままに、なにをしでかすかわからないからな」
「中宮さまの、危機なんです!」
いつもなら、吉平の嫌味など聞いた端から忘れる真赭だ。しかしこのたびは、彼を無視することはできなかった。
「お苦しみなんです! ご存じでしょう? 今、わたしの式神たちが孔雀明王の大呪を唱えています。除疫の神薬が、必要なんです……!」
「おまえなどには、やらぬ」
吉平は頑固に言った。
「孔雀明王の大呪だと……? 陰陽寮の許可もなく、そのようなことをやっているのか」
「お願いします、早く!」
そんな吉平を揺すぶるように、真赭は食らいついた。
「中宮さまが……、このままでは、御身に危険が……!」
「これは、陰陽寮の管轄だ」
なおもがんと、吉平は譲らない。
「おまえのような外法陰陽師の出る幕ではない。帰れ」
真赭は、唇を噛んだ。目を大きく見開いて、憎々しげな態度を隠すこともない吉平を前に視線での戦いを挑む。
(中宮さま……!)
いつも快活で明るく、美しい中宮があれほどに苦しんでいる。真赭は個人的にも中宮の悩みを無視することはできなかったし、なによりも中宮は次代の帝の母、国の母になる人物だ。そのような人物が苦しんでいることは、天下の大事なのに。
真赭は、一歩踏み出した。吉平が、驚いたように後ずさりする。真赭はそんな彼を無視して、中に飛び込んだ。
「おいっ! この……小娘!」
吉平の声を背後に、真赭は駆けた。
陰陽寮には、祖父が存命のころ入ったことがある。そのときにあちこちを案内してもらったから、勝手はわかるのだ。
走る真赭を、驚いて見送る者たちがいる。その中を抜けて、陰陽寮の奥。真赭はたくさんの引き出しのついた棚の前に立った。そのうちのひとつを、勢いよく引き出す。中には輝く赤の砂が、たくさん詰まっていた。
「蜜……」
神薬を練るときに使う蜜は、特別なものである。普通に使う蜜は、蜂の巣から取ったものか蔓草の茎から取ったものだ。しかし神薬のための蜜は、銀撰の木の幹から取る。これは霊山にしか育たない木で、苗から蜜が取れるまでに成長するまで百年かかると言われている。
そのような貴重なものを、そこいらに置いておくはずがない。真赭は部屋中に視線を飛ばした。そして部屋の隅に、油紙で蓋をした甕があるのを見る。
(あ、れ……!)
真赭は、くんと鼻を鳴らした。そして甕に手を伸ばす。その手を、ばしりとはたいた者があった。
「な、っ……」
「泥棒の真似ごとか? 浅ましい真似を……」
「浅ましい、ですって?」
扇で真赭の手をはたいたのは、吉平だった。その目が、怒りで燃えている。
「そうだ。資格もないのに入り込み、辰砂だ蜜だと……どれほど貴重なものか、わかっているのか!」
「吉平さまこそ、わかっていない!」
片手には辰砂の入った引き出し、片手には蜜の甕を抱えた真赭は、言った。
「今は、天下の大事なんです。なによりも……中宮さまがあんなにお苦しみなのに。放っておけるわけがないわ!」
「これ以上中宮に取り入って、どうするつもりだ」
吉平は、じっと真赭を見据えながら言った。
「春宮妃の身分では、満足できないというのか? いったいなにが望みだ。どれほどの欲を持って、これ見よがしに動くのだ」
「最低!」
真赭は叫んだ。
「中宮さまがお気の毒だとは思わないの? なにが望みって、中宮さまの平癒よ! それ以外に、なにがあるっていうの!?」
そう叫んだ真赭は、手近にある皿を取り、辰砂を入れる。甕の口を油紙を破って開けて、蜜を流し込む。吉平がなおもなにかを言っていたけれど、もう真赭の耳には入らなかった。
柄杓の置いてある水甕に向かい、水をすくい取る。神薬神祭祝詞を唱えながら、手を清める。そのままその場に座り込んだ。
「此乃神床爾神離立弖招請奉利令坐奉留掛巻毛畏伎……」
真赭は、懸命に混ぜたものを練った。最初は蜜がべたべたしていたものが、次第にこなれて粘つきがなくなる。それをさらに力強く練りながら、真赭はなおも祝詞を唱えた。
「……神皇産霊大神大穴牟遅神少名比古那神乃……」
練っていたものが、だんだんと固まってくる。真赭はそれを指でつまみ、麻の実ほどの大きさにした。同じ大きさの丸薬を、いくつもいくつも作る。
「勝手なことを……」
床に座り込み、作業に熱中する真赭の頭上に、声が降ってくる。
「外法陰陽師が……」
「そのような者が作った薬に、効果のあるはずがなかろう」
「そんなもので、中宮さまが……」
真赭は、顔を上げる。真赭の作業を見ていた者たちは皆ぎょっとしたような顔をしたが、真赭は構わず立ち上がる。
「ありがとうございます!」
大きな声で、真赭は叫ぶ。そして皿を小脇に抱えると、来たときと同じような勢いで走り出した。袴が足にまとわりつくのを必死に払いながら、門をくぐって藤壺へと駆ける。
「真赭……!」
藤壺の母屋では、先ほどよりも大きな騒ぎになっていた。
「どうしたの? 中宮さまは……」
「おまえの差し金か、天雲真赭」
言ったのは、僧侶だった。見覚えがある、と思ったのももっともで、それは中宮の御法の際の阿闍梨だった。彼はあのときと同じように、真赭を睨みつけている。
「このように怪しげな者たちを、中宮のご寝所へと近づけるとは……しかも、それはなんだ」
阿闍梨は、真赭の抱えた皿を見た。
「よもやとは思うが、それを中宮さまに差し上げるつもりではないだろうな?」
「これは、祖父から伝えられた技で作った、神薬です」
真赭は、両手で皿を抱えながら、そう言った。
「もちろん、中宮さまに差し上げるのです。きっと……元気になられるはず」
「ばかな!」
あたりに響き渡るような声で、阿闍梨は言った。
「そのような、怪しげなもの……中宮さまに差し上げるわけにはいかん」
「なぜですか。阿闍梨も、祖父の力はご存じでしょう。その祖父の伝授したものです」
「これが安倍晴明のすることなら、信じもしよう。しかし、おまえはただの小娘だ」
吐き捨てるように、阿闍梨は言った。
「宮廷陰陽師ですらない。外法陰陽師が作ったものなど、信用できるか!」
真赭は唇を噛む。皿を掴んだ手が、ぶるぶると震えた。
(そんなに、いけないことなの……?)
口の中に、血の味が滲む。
(外法陰陽師……宮廷陰陽師でないと、陰陽道を使ってはいけないの? わたしは……あんなに苦しんでいらっしゃる中宮さまの、お役に立つことすらできないの?)
先ほどのようなうめき声は聞こえてこない。中宮は、少しは安らかになったのだろうか。しかし、中宮の体に巻きついていたようななにか。あれがなにかと判明させ、取り除くことができなければ中宮の平癒は難しいだろう――。
真赭の後ろから、手が伸びた。はっと振り返るとそれは太乙で、真赭の作った丸薬をひと粒、指先につまんでいる。
「太乙……」
彼はなにも言わず、それを阿闍梨の口に押し込んだ。阿闍梨は大きく目を見開き、しかしそのまま太乙が彼の口をしっかりとふさいでしまったものだから、薬を飲み込むしかなかったらしい。
「……、ぐ、っ……」
「どうですか。妙な味はしますか」
太乙は言った。
「咽喉は? 腹の具合は? どこか、おかしいところはありませんか」
「貴、様……!」
不覚にも薬を飲んでしまったらしい阿闍梨は、目を白黒させている。太乙は、その青の瞳で阿闍梨を、そしてまわりの僧たちを見やった。
「阿闍梨でさえ、口にされたのだ。中宮に差し上げてもなんの不思議があろう」
そして、いけしゃあしゃあとそのようなことを言う。彼は真赭の腕を引いた。彼にいざなわれるままに、真赭は中宮の帳台に近づいた。
「中宮さま……」
中では、幾人もの女房が中宮を取り囲んでいる。汗を拭く者、水を含ませる者。中宮は目を閉じて横になっていて、先ほどのように呻いてはいないものの、ひび割れた唇と苦しげな表情は変わらない。
真赭の姿に、女房たちが一様にほっとしたのがわかる。真赭は、一歩帳台に踏み入った。
「これを……お口に」
ささやきかける真赭に、中宮は薄く目を開けた。
「真赭……いてくれたの?」
「申し訳ありません。手間取ってしまって」
中宮の枕もとに身を寄せ、真赭は言った。
「……わたしを、信じてくださるなら。これを。辰砂と蜜を練った、薬です」
「おまえを、信用しないなんてことがあって?」
苦しげに顔をゆがめながら、中宮は微笑んだ。その表情に、ほっとする。
「そのように、おまえが言うの……きっと、いろいろ言う者があったのね。でも、わたくしは……」
中宮は、手を伸ばした。そっと真赭の手に触れてくる。真赭は、丸薬をひとつ取った。それを口に近づけると、中宮は童のように口を開けた。
「おまえを、信じているわ。どこの母親が、己の子を疑うというのかしら……」
丸薬を、中宮は苦労して呑み込んだようだ。ごくりと彼女の咽喉が鳴って、嚥下したのがわかる。薬が効くまでには、どのくらいかかるのか――真赭は、固唾を呑んで中宮の様子を見守った。
はっ、と中宮が息を吐く。その吐息は甘かった。銀撰の木の蜜は、それほどに濃いのだ。同時に、薬の効果が徐々に中宮の体に巡っていることを知る。
「中宮さま……」
真赭は、手を伸ばした。中宮の手を取って握りしめる。はぁ、はぁ、と浅い息をつく中宮を見守っている。
「……中宮、さ、ま……」
かっ、と――。
中宮が、目を見開いた。その場の者は、皆はっと息を呑んだ。
あれほどに苦しんでいた中宮は、荒い呼気を止めている。大きく瞠目して、空を見つめている。
「どう、なさった……ん」
真赭が、口を開いたときだ。中宮は、いきなり起き上がった。目を開けたまま、片手は真赭に握られて。
「中宮さ……」
中宮は、手をふりほどいた。そしてその場に立ったのだ。
「中宮さま!」
貴婦人の中の貴婦人である。立ち歩くことさえもほとんどないというのに、そのような人物が帳台の中で立ち上がったのだ。しかも、先ほどまであれほどに苦しんでいた人が。
(この、気配……!)
真赭は中宮を凝視した。今の中宮が放っているのは、確かに覚えのある気配だった。突然の中宮の行動に驚くばかりだった真赭は、それはあの花畑の物の怪であることに気がついた。
驚く者たちの顔を、中宮は見まわす。そして口を開くと、甲高い声で笑い始めた。
「ああ、おかしいこと! みんな、そんな顔をして!」
真赭は驚くばかりだ。そんな真赭を見下ろして、中宮は指を差した。
「この娘の神薬のおかげさ! よくぞ、あたしを呼び起こしてくれた」
とっさに、真赭は早九字を切った。しかし中宮は――中宮の体を乗っ取ったなにかは、真赭の腕を恐ろしいまでに強い力で握ったのだ。
「長かった……今まで。今まで、何度も目覚めようとした。この女の御法のときにも……しかしそのたびに邪魔をされて。だけれど……もう」
真赭の腕を掴んだ中宮は、にいっと笑った。普段の彼女からは想像もできない、下卑た笑いかただ。
「いつまでも、狭苦しいところにいるつもりはないよ! この体は、あたしのもの。この子など、永遠に封じてやるから!」
あの子。中宮もそういうふうに言っていた。花畑と、『あの子』。顔もわからないと言っていた、謎の物の怪。それが今まで何度も真赭の夢に現れ、そして今、中宮の体を乗っ取っている何者かなのだ。
「そして、都中に呪いを振りまいてやろう。醜いものはますます醜く、悪いものはますます悪く……この世を、闇で塗りつぶしてやる!」
(ま……そ、ほ……)
かすかな声が聞こえる。真赭は、はっとした。
(助けて……、真赭。絡まって、出られないの……)
(中宮さま!)
真赭は、目を見開いた。か弱くはかない声だったけれど、はっきりと聞き取れた。
(みんな……!)
心の中で、呼びかける。近くに控えているはずの十二月将たちが、皆同時にうなずいた。
現れたのは、何者か。まずはその魂をこの場に射止め、突き止めなくてはならない。そしてかすかに聞こえた、中宮の言葉。
(絡まって、出られない……?)
病牀にある中宮に触れたときも、そう感じたことを思い出す。中宮の魂に、絡みついているもの。蔦のように蔓延っているもの。
(捕縛の呪法……けれど、物の怪がそのような技を使える? 並の物の怪には無理だわ。もっと大きくて、深い……怨みの、念が……)
背筋に冷たいものが走るのを感じながら、真赭は印相を結ぶ。十二月将の皆も、同じように指を組み合わせたのがわかる。
「唵、っ……!」
中宮が、目を見開く。ぱっと手を離したけれど、その隙を真赭は見逃さなかった。
「行く道は 父と母の道なれば ゆくみちとめよ 此の道の神」
紡がれた歌は素早く短かったけれど、中宮を乗っ取っているなにかを足止めするには充分だったらしい。ぐぅ、と中宮は声を上げ、真赭は逆に、その手を掴む。
「をんをりきりていめいりていめいわやしまれい、そわか!」
その場の空気が、ぴぃいんと凍った。まわりにいる女房たちが、石になってしまったかのように動かない。十二月将たち以外、僧たちも身動きひとつしない中、真赭は中宮の腕を掴む手に力を込めた。
「あなたは、誰?」
逃さないようにとしっかりと握ったまま、真赭は尋ねた。
「魂の感じが、同じだわ。中宮さまの、血縁の者?」
「くっ」
中宮が、唸った。懸命に真赭の手をふりほどこうとしているようだけれど、真赭のほうが呪の影響を受けているぶん、強い。
「誰なの。言って。そうでないと、あなたの魂に直接訊くから」
ふん、と中宮が鼻を鳴らす。真赭を挑発しているつもりなのか、それにしても中宮には似合わない仕草だ。魂は近くとも、まったく別人であることがよくわかる。
「……誰。近いわね。親……きょうだい。それとも、いとこあたりかしら……?」
真赭は、もうひとつの手をさっと伸ばした。手は迷いなく中宮の胸に触れ、彼女がはっとしたところ、中に突き通って真赭の手は埋まった。
「なにを、しやる……!」
中宮は叫んだ。しかし真赭はその胸もとに手を突き込んだまま、触れたものを掴む。
「近い、どころじゃないわ……ほとんど、同じ色をしてる」
真赭は驚いた。これほど魂の近い者が存在するとは、思ってもみなかったからだ。
「あなた……何者?」
くすり、と中宮が笑った。それはやはり下卑た笑みで、真赭の心を不快にさせる。
「きょうだい。なかなか、いい線をついてるね」
蓮っ葉な口調で、中宮が言う。
「しかし、この日の本のもっとも尊き女。その女に、誰にも知られてはいけない秘密があるのを、おまえは読めたかい?」
「秘密……?」
中宮は、身をかわす。すると真赭の手は抜け出てしまい、中宮は帳台の隅でひらりと袖を揺らめかせる。にぃっと歯を見せて笑い、中宮は言った。
「あたしは、この子の姉だ。双子の、ね」
「……双子!」
背後の傳送が、目を見開いたのがわかる。双子は忌まれるもの、縁起の悪いもの。それは古来から言い伝えられていることだ。
「あたしたちは、双子だった。この子が先に生まれて、あたしがあとに……より長い間母親の腹の中にいた、あとに生まれた者が兄や姉であるということは、おまえも知ってるだろう?」
真赭は固唾を呑む。中宮が、双子だったなんて――同じ星をわけあうふたりは、しかし本来なら存在してはならないのだ。
「でも、こうやって出てきて。……なぜ、今なの? 誰かが、あなたを呼んだ……」
「あの、御法のとき……あたしは出ようとした。あれだけの人間が集まって、皆の運命を狂わせることは楽しいことだったろうが……雷鳴壺更衣の死霊などに邪魔をされた」
ぎりっ、と中宮は歯ぎしりをした。物の怪が取り憑いているにしても、普段の中宮とはあまりにも違う様子に真赭は怯んだ。
「客星だ!」
大きな声で、中宮は叫ぶ。
「客星が、あたしの力を増したんだよ!」
けらけらと、甲高い声で笑いながら中宮は言った。
「あの大きな客星を、見たかい? 夜空に、燃える炎……あれが、あたしの本来の力を起こした。目覚めさせた」
なおも笑い声を上げ、中宮は叫ぶように言う。
「いつ出ようか、いつ乗っ取ってやろうか。ずっと機を狙っていたよ。昨日は、受死日……そんな夜に、どこかで髑髏秘法が行われた。怪しい気が内裏に満ちて……あたしは、それに力をもらった」
真赭は、背をぞっとさせた。その秘法こそは、真赭に向けられたものだったからだ。
「人の、心! 人を憎む、人の心!」
けらけら、けらけらと中宮の笑い声が響く。
「どのように、呪いを振りまいてやろうか? 疫病か? 飢饉か? それとも、あたしが殺されたのと同じ……大水を起こして、そこで息を奪ってやろうか?」
ぞくり、と背に走る冷たいものを感じる。大水――ということは、生まれたばかりの双子の姉は、水に浸けて殺されたのだ。そしてその魂は空ゆくことなく、中宮の中に留まって、今まで永の眠りについてきた。
「今のあたしになら。なんでもできる! 妹が、弱っている今だから……このまま、この子の体を乗っ取ってやろう!」
「そんなこと、させない」
低い声で、真赭は呻いた。
「中宮さまは、わたしが救う……」
(まそ、ほ)
小さな声で、呼びかけられる。
(なにかが、絡まってくるの……動けないの。お願い、助けて)
実体の中宮は、またにやりと笑った。そして大きく身震いをすると、真赭のかけた魂の捕縛術が解ける。
まわりの者も、いきなり目が覚めたかのように騒ぎ始める。真赭は、大きく目を見開いた。
「捕縛術を……、解くなんて」
驚く真赭には構わず、中宮は床を蹴り、帳台の外に飛び出す。
「追って! 傳送!」
傳送はなにも言わず、その場から消えた。真赭も立ち上がり、ほかの十一人がそれに倣う。
「早く……姉君の魂が、中宮さまの体に馴染まないうちに!」
駆けようとした真赭の手を、引く者がある。誰かと思うとそれは太乙で、彼は真赭の体をすくい寄せると、抱き上げた。
「た、太乙……」
「その袴では、動きにくかろう」
さも当然のように太乙は言って、傳送の消えた方向を追った。ほかの式神たちも、続けて走る。
「だい……、じょうぶ、よ……っ!」
太乙の腕に抱えられながら、真赭は叫んだ。
「自分で、走れる。さっきは、陰陽寮まで行ってきたんだから!」
「黙っておけ、おまえは」
真赭を抱えて走りながら、太乙は言った。
「よけいな体力を使うな……この先、もっと大きなことが起こる」
それは、そのとおりだった。逃げた中宮の姉を追い、再び捕縛の術を。そしてうちに封じ込められている中宮を助け出さなければ。時間が経てば経つほど、体は姉の魂に馴染んでしまう。中宮の魂が、戻れなくなってしまう。
太乙に抱えられたまま、真赭は藤壺の廊を抜け、清涼殿の廊を抜けた。紫宸殿の前庭にまでやってきて、そこに中宮の体を押さえつけた傳送の姿があった。
「傳送!」
太乙が、腕をほどく。真赭はひらりと飛び降り、地面に片膝と手をついてもうひとつの手を上げた。指を、二本揃える。
「呪式神、封印、急急如律令!」
傳送が、ぶるりと身を震わせる。押さえられた中宮は大きく身を跳ねさせて、そのまわりを十二月将たちが囲む。
「をんをりきりていめいりていめいわやしまれい、そわかっ!」
真赭の声に、中宮は笑う。甲高い声が、響き渡る。
「二度、同じ手を食うか!」
真赭の、捕縛の呪が破られた。真赭は大きく目を見開き、すぐに口もとを引き締める。
(怨みの念が……力になってるんだわ)
人の怨みの心を餌に成長した中宮の姉は、まるで道士のようにその力を使う。中宮を助けなくてはいけないのは当然としても、その体を姉に乗っ取らせてはならない――実体を持てば、どのような術士よりも強力な技を使うものになる可能性があるのだ。
今はまだ、中宮の魂がつながっている――が、いつ姉が中宮の魂までも取り込んでしまうかしれない。
素早く、真赭は印相を組んだ。指を組み、人差し指を立てて小指同士は絡める。そして声高に呪を紡ぐ。
「蘇婆爾蘇婆、吽、縛曰羅、吽發吒!」
十二天将たちが、同じ呪を唱えた。多数の声が重なって、傳送に押さえ込まれた中宮が低く呻く。
(中宮さま!)
真赭は呼びかけた。すると、かすかな声が伝わってくる。中宮の体の奥底に押し込められた、その魂。本来あるべき主。まだ、魂はつながっている。真赭は息を詰めた。
「登明、いける?」
「これはまた、大ものですね」
どこか呑気に聞こえる口調で、登明は言った。
「どこまでいけるかわかりませんが……やってみましょう」
「お願いっ!」
真赭は、傳送を呼んだ。彼は中宮を押さえていた手を離し、一歩退く。彼も印相を結び、真赭はともに、口を開いた。
「爾蘇婆、縛曰羅、吽發吒!」
ぎゃああ、と中宮が――その姉が、声を上げる。十二人の呪――そして、真赭の唱える呪。それらが重なって大きなひとつの渦となり、中央の中宮を苦しめている。
(痛い、いた、い……っ……!)
(ごめんなさい、中宮さまっ!)
その衝撃は、内側で押さえつけえられている中宮自身にも伝わったらしい。しかし彼女の魂だけを避けて呪をかけることはできない。
「だめ……これ以上は、中宮さまが!」
「しかし、あとひと息だ」
冷静な声で、大冲が言った。彼はしっかりと印相を組んだまま、中宮の姿を見つめている。
「あとひと息で、姉のほうを調伏できる。中宮には、耐えてもらうしかない」
「で、も……」
これ以上中宮を苦しめては、物理的な死にもつながりかねない――戸惑う真赭を押すように一歩前に出たのは、神后だった。
「行くぞ、真赭」
そして彼は、印相を組み替える。その薄い唇が開き、するとほかの式神たちも唱和した。
「唵、蘇婆爾蘇婆吽、蘗哩訶拏吽、蘗哩訶拏波耶吽、阿那野斛婆訶梵縛曰羅、吽泙吒!」
目の前に、大きな光が――一瞬、視界を焼かれて真赭は目の前が見えなくなった。すぅ、と大きく息を吸う音が聞こえた。登明が、呪いを食っているのか。
光はすぐに晴れて、真赭は瞠目した。目の前には中宮が倒れている。目を閉じ仰向けになっているその身を支配しているのは、姉の魂かそれとも中宮本人の――。
「中宮さまっ!」
真赭は駆け寄り、中宮を抱き上げた。と、太乙が、虚空に向けて二本の指を立てる。
「封呪形声、急急如律令」
ぐらり、と空間が揺れる。再び真赭は、中宮の体を抱き上げたまま目をつぶり、そして開けた。
「な、っ……」
真赭は、自分の目を疑った。紫宸殿の前、左右に植えられた橘と桜。目の前にはもう一本、あまりにも巨大な木が根を下ろしていたのだ。
「これ……、な、に……?」
びっしりと緑の生い茂る木。その葉は五股にわかれている。従魁が手を伸ばし、枝に触れると大袈裟なまでに跳ねた。
「どうしたの、従魁……」
「この木、びりっとくる」
従魁は、奇妙なことを言った。真赭は中宮を抱いているので立ち上がることはできない。膝の上の中宮は、生きているのかどうかも定かではないくらいに呼吸も細く顔色も悪かった。
「触れるな」
言ったのは、太乙だった。
「おまえが式神だからよかったものの、並の人間なら、死んでいた」
恐ろしいことを、さらりと言う。真赭は目を見開いて太乙を見た。彼は振り返り、真赭と中宮を見る。目をすがめて言った。
「招霊木だ」
「なに……それ?」
真赭の質問に、太乙は口をつぐむ。そして、言った。
「怨みや妬みが凝り固まってできる、物の怪の一種だ。これほど巨大になるとは思わなかったが……」
太乙は、木を見上げる。風にさらさらと葉がそよぐさまは、ほかの木々と変わらないのに。怨みや妬みが凝り固まって――真赭は、ぞっとした。
「ということは、中宮の姉は封じたのか」
「ああ。どこに浮遊していくかわからないから、形を持てと命令したら、こうなった」
なんでもないことのように太乙は言うが、これだけ大きな木になるのだ。中宮の中に長年眠っていたその姉の情念は、想像できないほどに大きかったに違いない。
「このくらいで済んで……よかったって、言わなきゃいけないの?」
中宮を抱きかかえながら、真赭は言った。
「でも……触れちゃいけないなんて。どうやってこの木を扱えばいいの?」
太乙を見ると、彼は視線を逸らせてしまう。真赭が動けないのをいいことに、こちらに目を向けてこようとしない。
「……どうしていいのか、わからないんでしょう?」
「え、そうなの?」
驚いた声でそう言うのは、小吉だ。彼は太乙を見上げ、首を傾げた。
「自分でも手に負えないものを、作っちゃったの?」
「……それだけ、中宮の姉の怨念が強かったということだ」
それは確かに、そうだろうけれど。真赭は、招霊木を見上げる。さわさわと葉が擦れ合って音を立てているところは、よく見る一本の樹木と変わらないのに。触れることもできないなんて。
あちこちから、人が集まってくる。大吉、小吉と勝光、彼らが立ち回って招霊木に触れないようにと諭している。
「……懸巻毛畏伎大宮中乃神殿爾座神魂高御魂生魂足魂魂留魂大宮能女御膳津神……」
真赭は、目を閉じて鎮魂祭祝詞を唱え始めた。それに、十二月将たちが次々に唱和をしていく。
長い祝詞はあたりの空気を清浄にし、清く澄んでいく感覚がある。複数の声で編まれていく言葉がやがて内裏中に満ち、澱んだ暗いものを押し流していく感触――そしてなにかがぱちんと弾けて、ざわりと燃え上がる、浄化の炎が。
「……え?」
真赭は、はっと目を見開いた。そして今までとは違う音と、伝わってくる熱。祝詞とともに頭の中に生まれた光景が、目の前に実際、起こっているということに気づく。
「火……? え、っ、あ、あ……!」
招霊木が燃えている。先ほどまでさらさらと揺れていた葉は炎になって、めらめらと赤い無数の舌をひらめかせているのだ。
「真赭!」
神后と功曹が駆け寄ってくる。神后は中宮を、功曹は真赭を抱えて飛び退く。と、燃え上がる枝が、先ほどまで真赭たちがいたところに落ちた。
「な、んで……燃え、て……?」
「あのときのことを、思い出すな」
神后が言った。真赭が首を傾げると、彼は薄く微笑む。
「おまえが、泰山府君の真言を呼んだだけで召喚してしまったときのことだ。おまえ、この木を……浄化することを思い描いただろう」
「ええ……」
功曹の腕の中で、真赭はうなずいた。
「でも、燃えてしまうなんて……」
いきなり現れた大木が、いきなり燃え始めたのだ。内裏は大騒ぎになっている。こうして見ると、ずいぶんとたくさんの者たちが集まっていたのだ。男も女も、老いも若いも、貴なる者も賤なる者も、皆慌てふためいている。木に水をかける者たちもあるが、招霊木の炎は驚くほどに勢いを弱めないのだ。
燃え上がる木を見つめている真赭たちのもとへ、ほかの式神たちも集まってくる。招霊木などを生み出してしまった責任を感じてか、太乙は少し離れたところにいる。
「普通の水をかけたって、あの火は消えないよ」
首をすくめて言うのは、河魁だ。おとなしい彼が、このようにいたずらめいた表情をするのは珍しい。
「祝詞から生まれた炎だもん。招霊木がすべて燃えないかぎり、やむことはない……」
「すみません。私がすべてを食いきれなかったから」
申し訳なさそうにそう言ったのは、登明だ。恥ずかしそうに頬がかすかに紅潮しているのは、燃え盛る炎を受けてのことか。
「そんな……登明のせいじゃないわ。今までのものとは、規模が違ったんですもの」
それでも、登明は自分の役目を果たせなかったことを気にしているらしい。
「まぁ、食いではありましたよ。すべてを味わうことができなかったのは、残念ですが」
そっちのほうが、本音なのかもしれない。そう思うとなんだかおかしくて、真赭は笑いそうになった。
「中宮が。目を覚ました」
「えっ」
神后の言葉に、彼の腕に抱かれている中宮を見る。彼女のまつげが、ぴくぴくと震える。ややあって、中宮はゆっくりと目を開いた。
「中宮さま!」
「まぁ……真赭」
中宮は、言った。
「なんて……格好をしているの。袿くらい、まとっていないと……」
真赭は、目を丸くする。その場の者たちは、それぞれ笑った。神后はくすりと、大吉と小吉は、いかにもおかしそうに。功曹は口を開けて笑っているし、大冲でさえ口の端をゆがめている。
天剛は声を上げて、太乙は目を細めて。勝光は楽しげに。傳送は彼には珍しい笑顔だし、従魁と河魁は大声で笑っている。そして登明は袖で口もとを隠しているけれど、彼も一緒になって笑っているのだった。