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陰陽姫と平安の都  作者: 月森あいら
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第六章

 あの、御法の日から、ひと月ほどが過ぎた。

 六月(みなづき)のきつい陽射しも、夜になるとやや和らいでくれる。真赭は、藤壺の西の対にいた。高欄の上に腰かけ、足をぶらぶらさせながら夜空を見上げている。

「真赭」

 声がかかった。真赭は振り返り、そこにあった意外な姿に目を見開く。

「噂の渦中の人間が、このようなところに引っ込んで」

「……清彰さま」

 そこにいたのは、清彰だった。春宮の身で供もつけず、ひとりで立っている。二藍の袍が、背後に灯っている燈台の灯りを浴びて艶めいていた。

「皆、おまえの話を聞きたがっているぞ? 愛宕での祭のときも、なにがしかあったというではないか?」

「……別に、たいしたことではありません」

 そのことを言われると、痛い。内裏での儀のときに併せて、あのときも雷鳴壺更衣は真赭のみに語りかけた。同じ女の誼なのか、かの更衣には真赭しか見えていないようで、そのことがあの場にあった者たちに不愉快な思いをさせたことは、思い出すまでもなくわかっている。

「やはりおまえは、狐の血を引いた者なのだな」

 唇の端を持ち上げて、清彰は言った。

「狐は、魔性のものだというからな。特におまえには、その気が色濃く出ているのだろう」

 真赭は、視線をうつむける。燈台の灯りは階まで届かないから、ぶらぶらさせていた足は暗闇の中に吸い込まれていきそうになる。

「母上も酔狂なことだ。このように怪しげな者をおそばに侍らせるとは。それとも、物の怪避けにおまえを置いていらっしゃるのか」

 真赭は、ますます首をうつむかせた。思わず洩れたため息とともに、言葉がこぼれ出た。

「嫌味を言うためにいらっしゃったのですか?」

「……いや」

 清彰は、焦燥したようだ。真赭が顔を上げると、清彰と目が合った。彼はなぜか、慌てて首を振る。

「おまえが……そう、おまえがどれほど落ち込んでいるのか、見に来たのだ」

「申し訳ありませんが、落ち込んでなどおりません」

 つん、と顎を反らせて真赭は言った。

「狐の血も、わたしは誇りに思っています。お祖父さまとお祖母さまと……お父さまからいただいた、大切なものですから」

 なにを言おうとしたのか、清彰は言葉に詰まった。真赭はそんな清彰を見つめ、唇を尖らせて言った。

「わたしなどの心配をなさるよりも、ご自分の心配をすればいかがですか? 春宮におなりになっても妃のひとりもいないと、中宮さまもお嘆きでしたよ」

 清彰は、ますます言葉に詰まってしまう。そんな彼を、真赭は小気味のいい気持ちで見やった。

「それとも……噂は、本当なのですか?」

「なんだ、噂とは」

 眉根を寄せて、清彰は言った。真赭は唇の端を持ち上げて、清彰を見やる。

「清彰さまが、男色をお好みになるという噂ですよ」

「だっ……」

 見た目にもはっきりと、清彰は焦燥した。その表情を前にして、真赭は少しだけ胸が空いた気持ちになる。

「そういう者たちがいることは否定しないが……私は、違う」

「へぇ」

 なおも、足をぶらぶらさせながら真赭は言う。

「では、妃をお迎えにならないのはなぜですか? 誰か、手の届かないかたに恋していらっしゃるとか?」

 清彰は、黙ってしまった。真赭としては、単にからかったつもりだったのだけれど。なぜ清彰が黙り込み、燈台の灯りにもわかるほど頬に朱を走らせているのかわからない。

「清彰さま……?」

「おまえ、は」

 明らかに、清彰は焦燥している。その理由がわからずに、真赭はますます首を傾げた。

「……誰か、言い交わした者でもいるのか」

「はい?」

 思わず、間の抜けた声を上げてしまった。高欄からするりと降りると、清彰の前に立つ。

「そんなふうに、見えますか?」

「わからないから、尋ねているんだ」

 真赭が一歩近づくと、清彰は一歩退いた。それでて、真赭の一挙手一投足を見逃さないようにとでもいうように、じっとこちらを見ている。

「いませんよ、そんな相手なんて」

 ふぅ、と息をついて、真赭は言った。

「どこの誰が、狐の血を引いた、外法陰陽師のような……妖術使いかもしれないわたしを好いてくださるというのですか?」

「……母上は、おまえがお気に入りじゃないか」

「中宮さまは、面白がりなかたなんですよ。それに、私の母が中宮さまの女房で、私の後ろ見をしてくださっているから。……あんなかたは、稀なんです」

「私は、母上の息子だぞ」

 なぜか胸を張って、清彰は言った。

「母上と同じような趣味をしていて、なにが悪い」

「悪いなどと、言っていませんけれど……」

 どうにも勝手が違う。いつもの清彰なら、真赭をばかにして笑っているだろう。それともまた蛙のつぶれた幻覚を見せられて驚いているか、狐火を着けられて慌てているか。

「母上の趣味がお悪いというのなら、私の趣味も悪い」

「趣味が悪いというか……」

 ますます、清彰の言いたいことがわからない。首を捻りながら、真赭は言う。

「奇特なかたでいらっしゃる、とか……」

「それでは、私も奇特だ」

 なにを、と問おうとした。しかしその前に伸びてきたのは、清彰の腕だった。頭ひとつぶん以上、見上げる身長の彼に腕に包まれる。

「……え」

 漂ってくるのは、薫衣香(くのえのこう)だ。それほどに濃く焚かれているわけでもないのに、これほど鮮やかに薫るとは――そして真赭は、自分が清彰に抱きしめられているということに気づく。

 目の前には、花喰い鳥の文様が織り込まれている袍があって、彼の胸に顔を埋める格好になっていることに、慌てた。

「な、な、なにをなさるんですか……!」

「私も、趣味が悪くて、奇特なんだ。母上の息子なのでな」

「そ、それ、と……」

 そのことと、この抱擁と。いったいなんの関係があるのだろう。真赭は逃れようとしたけれど、清彰の腕の力のほうが強かった。

「お離し、ください……!」

「我ながら、呆れた趣味よとは思う」

 真赭を抱きしめたまま、清彰は言う。

「しかし、私はひとりしか妃を持たぬと決めているのだから」

「春宮が……そのようなことでは、いけないでしょう」

 薫衣香の薫りに包まれたまま、真赭は言った。思わぬことに気が動転し、どうやってこの腕から逃げたものかわからない。

「春宮の後宮に、妃がひとりなんて……そのようなこと、許されません……」

「私が、前例になるまでだ」

 いつもの気の強い、はっきりとした口調で清彰は言った。

「私が、そうすると言っているのだ。誰にも……文句など、言わせぬ」

「で、すが……そのようなこと、清彰さまのお心ひとつで決められることでは……」

「父上や母上なら、説得してみせる。そう難しくはないはずだ。なにしろ、その者は両親の気に入りでな」

 とりあえず、この腕を離してほしい。しかし清彰は思わぬ強い力を持っていた。真赭が暴れると抱きしめる力はますます強くなり、決して離さないとでもいうようだ。

「清彰、さ、ま……」

「おまえ、私の後宮に入れ」

 ぴたりと、真赭の動きがやんだ。真赭は、清彰の言葉を胸のうちで反芻する。そして、大きく目を見開いた。

(なんだか……ものすごいことを、聞いた気がする、んだけ、ど……)

(なんだよ、今まで気づかなかったのか?)

 胸のうちで、天剛の声が響いた。え、と言ったのは、大吉だ。

(後宮に入れってことは、つまり……)

 真赭は、やっと清彰の意図に気がついた。顔を上げると、清彰がじっと見下ろしてきている。

 そのまなざしは、今まで真赭をからかっていたものとは違った。まるで愛おしい者を見るかのような――清彰がそのような表情をするとは、今まで思ってもみなかった。

「……あ」

 どきり、と鳴り響く音に、胸を掴まれる。降り注ぐ視線から逃げられない。真赭は清彰に抱かれたまま、じっと上を扇いでいた。

「私の後宮に入れ。私の、妃になれ」

「え……ぁ、……っ……」

 真赭は、逃げられない。清彰の視線と腕、言葉の力はあまりにも強くて、ふりほどくことができない。

(真赭。出るぞ)

 呻くように言ったのは、太乙だった。

(春宮など、いかようにもしてやろう……真赭、いいな)

(で、でも……待、って……)

 見つめてくる目、腕の力。そして、居丈高な言葉。真赭はふりほどくことができなかった。力強い清彰の意に押されて、十二月将たちを解放することもできなくて。ただ、目をみはることしかできなかった。

「私の後宮に入れば、文句を言う者はいなくなるぞ」

 真赭を抱いたまま、清彰は言う。え、と真赭は思わず聞き返した。

「陰陽寮に属さぬ、外法陰陽師。狐の血を引く娘。妖術使い。そのようなことを言う者は、いなくなる。誰が、春宮妃にもの申すものか」

「……え、あ……」

 真赭は、ごくりと固唾を呑んだ。それは清彰の真摯な心と同じくらい、真赭の胸に響く言葉だったからだ。

「どうだ? 私の後宮に入れば、誰にもなにをも、言わせない。そのような者たちは、皆私の敵だ。誰も、春宮を敵に回したくはないだろうよ」

「で、も……」

 再び咽喉を鳴らしながら、真赭は言った。

「わたし、なんて……身分も持っていませんし、こんな……髪も短くて。清彰さまの、お邪魔になるばかりです」

「何度も言わせるな」

 苛立ったように、清彰は言う。

「私は、趣味が悪いと言わなかったか? 身分がなんだ、髪の長さがなんだ。そのようなことは、うわべのことに過ぎない」

 会えば喧嘩腰になり、冷やかされたりからかったり。ふたりは、そういう間柄であったはずなのに。今、こうやって真赭を抱きしめ、真剣なまなざしを注いでいるのはいったい誰なのだろう――そんな戸惑いが、真赭の中を走った。

「身分なら、与えてやる。母上の父君……太政大臣の養女とすれば、後ろ盾としては文句はないだろう。母上も、反対はしないはずだ」

「で、も……」

「髪の長さなら、(かもじ)でいくらでも整えてやれる。おまえがその水干を脱いで、裳唐衣をまとえば……どれほど、似合うことか」

「……で、も……」

 真赭の言葉は、だんだんと小さくなる。清彰の腕の力は緩まない。真赭がうなずくまで、離さないとでもいうようだ。

「わたし……、わ、た……し……」

「私のことが、嫌いか?」

 そう尋ねてきた清彰は、今にも泣きそうな顔をした。それにどきりと胸を掴まれる。

「私の妃になるのは、いやか……?」

「そ、れは……」

「私が、おまえを守ってやる。おまえに、誰恥じることのない身分と立場を与えてやる。正式に陰陽師になりたいのならそうしてやるし、そうだな……女人の陰陽師を集めた省を作ってやってもいい。そこを、おまえが仕切るのだ」

「そんな、こと……」

 真赭は、口をぱくぱくとさせるばかりだ。清彰は、なおも視線を離さない。じっと、真赭を見つめている。

「おまえは、私の妃になるんだ」

 有無を言わせない口調で、清彰は言った。真赭はもう言葉も出ずに、ただ目を見開いて清彰を見るばかりだ。

「是と言え、真赭」

 これほどに強気な清彰は、初めて見た。そしてこれほどに情熱的な言葉をかけられたのも、初めてだった。

「言うんだ。おまえに……否やは、ないはずだ」

「清彰、さま……」

 真赭は、長い間彼を見つめていた。清彰はまばたきもせずに真赭を見つめていて、そこからはもう、逃げられない――清彰に、すべてを奪い取られてしまった。そのように、感じた。

「わ、たし……」

 あまりにも意外な清彰の言葉に、返事ができない。強く抱きしめられていることで身動きもできず、あまりのことに震えている。

「わたし……!」

 とっさに真赭は、声をあげた。

「解!」

「わ、わっ!?」

 突然そう叫んだ真赭に、清彰は驚いている。彼の腕は、何かの力に掴まれたかのように真赭から離れた。その隙に真赭は清彰から逃げる。

「ごめんなさい、清彰さま!」

「おい、真赭!」

 そのまま真赭は走った。藤壺の自分の部屋に飛び込んで、そのまま座り込んでしまう。はぁ、はぁ、と乱れた息遣いを整えようと肩を大きく上下させる。

(なんなんだ、あいつ!)

 大吉が大声をあげた。その声に、真赭は大きく飛び上がってしまった。

(あ、ごめん真赭。驚かせるつもりはなかったんだ)

(うん、それはいいんだけど……)

 胸に手を置いて真赭は、はぁとまた息をついた。

(いきなり真赭に求婚とか……どういうつもりだよ!)

(しかしあの者の言うことにも、一理はある)

 そう言ったのは神后だった。考え深い彼の声に、真赭は思わず耳をそばだてる。

(春宮妃に、陰口を聞かせる者はおらぬだろう)

(でも、神后……!)

(春宮妃になれば、真赭は無位無官と遠慮する必要もなくなる。おまえは堂々と、この後宮に住まうことができるのだ)

 神后の言うことはもっともだった。真赭は、後宮を守りたい。あの花畑の物の怪の好きにさせるわけにはいかないのだ。

(そうは言うが)

 そんな神后に反論したのは、功曹だった。

(真赭の気持ちはどうなる。好いてもいない男の妃になるなど、苦痛でしかない)

(好いて……?)

 不思議そうに、神后は言う。

(真赭があの春宮を好いている必要が、どこにある。真赭はただ、春宮を利用すればいいだけのこと)

(そうは言うがなぁ)

 功曹は、がりがりと頭を掻いた。

(婚姻するとなると、ただ一緒にいるだけではないのだぞ。あの男と、枕をともにするわけなのだからな)

「!」

 真赭は思わず、声にならない声をあげた。功曹の言ったことの意味がわからないはずがない。いくら真赭がその方面には疎いとはいえ、内容がわからないはずがなかったのだ。

(それに、耐えられるのか? 真赭)

(そ、れは……)

 男と女が枕をともにするということ。そして子供ができるまでの過程。真赭はよく知っている。陰陽道に於いて月経は忌むべきものとされ、その間、女性は月経小屋にて過ごす。男性が近づかない月経小屋は、女だけの場所として居心地がいいところではあったが、その間働くことができないのは困りものだった。

 月経が何のためにあるのか。子供はいかにしてできるのか。真赭はそれを知っていたけれど、我が身のこととして考えたことはなかった。真赭は、自分が蒼ざめるのを感じていた。

(しかしこの先、真赭が後宮にいるとして)

 神后は、どこまでも冷静だ。

(あの男の後ろ盾は、あって困るものではない。春宮の力があれば、真赭は望むものを手に入れられるだろう)

(あの春宮は、真赭を正式な陰陽師としてやると言っていましたね)

 そう言ったのは、登明だ。その美しい顔を、しきりに撫でている。

(女だけの省を作ってもいいとも言っていました。実現するかどうかはさておき、真赭にそこまでの気持ちを持っているということは、評価していいのではないでしょうか)

(登明まで……)

 真赭は両手で顔を覆った。はぁ、と大きく息をついた。

(真赭、おまえはどうなのだ)

(太乙……)

(おまえは、あの春宮の申し出を、どう思っているのだ)

(わたしは……)

 顔を覆ったまま、真赭は小さく呟いた。

(……清彰さまのことは、嫌いじゃないわ)

 ゆっくりと、真赭はささやく。

(あんなふうに言っていただいて、嬉しかったもの。驚いたけれど)

(嬉しかった?)

 驚いた声で言ったのは、大吉だった。

(あの春宮だぞ? いつも真赭に、嫌がらせばかりしていた……)

(それは確かに、そうなんだけど)

 こくり、と真赭は頷いた。

(あんなふうに言ってくださるかたは、今までいなかったから……だから、わたし)

(一時の感情に揺り動かされていてはいけないぞ、真赭)

 たしなめるように、功曹が言った。

(おまえの、一生のことなのだからな? 春宮妃となれば、いやだからといってやめるわけにはいかないのだぞ?)

(そうね……そうだわ)

 顔を覆ったまま、真赭は何度も頷いた。

(それはわかってる……わかってるの)

 真赭を襲っているのは、あのときの感覚――後涼殿に行ったときに、数々の陰口を聞かされたことだ。清彰は、真赭を嫌がらせから救ってくれる。そう思うと、心がひどく揺れた。

(ごめん、ちょっと考えさせて)

 そう言って真赭は、腕輪を外した。二階厨子の定位置にそれを置きながら、大きく息を吐く。

(わたし、いったいどうしたらいいの)

 そのまま座り込みながら、真赭はなおも己に問う。

(清彰さまの妃に、なんて……そんなこと、思ってもみなかったのに)

 目の裏に、清彰の顔が浮かぶ。いつもの彼の、意地悪な顔。同時に真赭に求婚してきたときの、真剣な顔。

「……ああ」

 そのときの自分の感情を思い出して、心が揺れる。あのときの真赭は、嫌がっていなかった。驚きはしたけれど、嫌悪してはいなかったのだ。

(これは、清彰さまが)

 真赭が陰陽道を使うことを、清彰は否定していなかった。それどころか女人だけの省を作ろうとまで言ってくれたのだ。

(清彰さまがいてくださったら、わたしはもっと自由になれる)

 それは、清彰を利用した姑息な手だろうか。そうかもしれない。それでも真赭の脳裏からは、自分に向けられた陰口が消えなくて、神后たちの言ったことが離れなくて。

(もっと……後宮で活動する力を得られる。後宮を――守っていける)

 そして何よりも、と真赭は大きく息をついた。

(清彰さまが、わたしを必要としてくださっている)

 そんな思いと同時に、どきり、と胸が鳴った。

(こんなわたしのことを、求めてくださっている……あんなことを言ってくださるかた、なんて)

 そのことを思うと、心臓がことことと鳴り始める。こんな感情は、今まで味わったことのないものだった。このときめきは、相手が清彰だからなのだろうか。それとも誰が相手でも、このように感じるものなのだろうか。

「……わからないわ」

 それとも清彰の求婚を断り難く思うのは、皆が言うようにこれから自分が生きていくための後ろ盾として見ているからなのか。真赭はゆるく首を振る。

「……、……わから、ない」

 そんな真赭を、今は腕輪の中に封じ込めてある十二月将が、じっと見ているような気がした。真赭が答えを出すのを、待っているような気がした。

 真赭はいつまでも、そうしていた。答えが目の前に降ってくるのを待っているかのように、じっとしていた。



 この夢を見るのは、何度目になるのだろう。

 真赭は花畑の中に立っていた。色とりどりの花は、しかし春に咲くもの、夏に咲くもの、そして秋に咲くものと、てんでばらばらなのだ。それを見てとって、真赭はぞくりと背を震わせた。

「……どうして、こんなふうに」

 くくっ、と笑い声が聞こえる。真赭はあたりを見回したけれど、重い存在感のある気配以外は目に映るものはない。

「わたしを殺したいのなら、さっさとそうすればいいのに。いつまでもわたしを夢の中に連れ込むのは、なぜ」

 また、笑い声が聞こえる。いつものことだとはいえ、嘲笑うような調子に真赭はむっとした。

『あたしには、実態がないからねぇ』

 声の主は、うそぶいた。

『実態があれば、もっと後宮の奥に入り込めるものを。せいぜい人間たちの悪しき心をもてあそぶくらいしかできないんだよ』

「だから、わたしの体を……?」

 ちらり、とこちらを見た視線を受けたように感じた。声の主は、頷いたようだ。

『おまえの体があれば、あたしももっと自由になれる……おまえほど、あの中宮の信任を得ている娘はいないからね!』

 真赭は思わず、自分の体を抱きしめた。くすくすと、物の怪が笑う。しかしその笑いは、すぐにすっと引き締められたように感じた。

『春宮の求婚は、受けないほうがいい』

「え……?」

 突然そのようなことを言われて、真赭は戸惑った。

「どうして、清彰さまのことを……?」

 つまらないことを訊くな、とでもいうように、物の怪はため息をついた。

『理由を教えてやる義理はないね』

 ぶっきらぼうにそう言って、物の怪は姿を消してしまう。花畑の真ん中に、真赭はひとり取り残されて。物の怪の言葉を反芻するしかできなかった。



 その日も真赭は、夜空を見上げていた。

 今夜は月夜、星がまたたき美しい夜である。闇はどこまでも広がって、それを見つめていると吸い込まれてしまいそうだ。

「……はぁ」

 清彰の求婚から、三日。結局真赭の中では、答えは出ないままである。同時にあの物の怪の言葉は、どういう意味だったのだろう。

(こんなところでぼんやりとしていて、あの春宮が現れればどうする)

 真赭を気遣うように、功曹が言った。うん、と真赭は頷いた。

(おいでになるかもしれないわね)

(返事は、もう考えたのか)

(まだ……)

 高欄に座り、足をぶらぶらとさせている。あの日と同じ場所で、ともすれば清彰が現れるかもしれない。それから逃げたいのか、それとも待っているのか――真赭はなおも夜空を見上げながら、大きく息をついた。

(春宮妃になれば、神仏の守りはより固くなるだろうな)

 功曹の言葉に真赭は、はっとした。

(何しろ春宮妃となれば、中宮の次に身分ある女人だ。その存在は、おのずと神仏に守られる)

(そうなの……?)

 清彰に求められたときには、そのようなことは考えもしなかった。神仏の守りがあれば、後宮を守るための力になるに違いない。

(真赭?)

(いいえ……そうね。清彰さまの妃になるということは、そういうこともあるのね……)

 功曹の言葉を噛み締めながら、真赭は頷いた。

「あ」

 ざざ、ざざと前栽をかきわける音がする。真赭は、はっと顔を上げた。こちらにやってきているのは清彰だった。真赭は目を開けて、彼を凝視してしまった。

「真赭」

「は、い」

 彼はいつもの通り声をかけてきたけれど、どこか緊張しているようだ。いつにない彼の表情に真赭も身を強張らせながら、ふたりは目を見合わせた。

「なんだ、その……」

「前は、逃げてしまって、すみませんでした」

 高欄から飛び降り、真赭は清彰に向かって頭を下げる。清彰は、ああ、とも、うう、ともつかないうめき声をあげて真赭から目を逸らす。

「でも、清彰さまも悪いんですよ? いきなりあんなこと、おっしゃるから」

「真赭……!」

 清彰は腕を伸ばした。あ、と思う間もなく真赭は彼の腕に抱きとられていて、彼の胸に抱き寄せられて真赭の胸が大きく鳴った。

「おまえ……この間の、話」

 思わぬ清彰の強い力を感じさせられて、真赭の胸は鳴り止まない。清彰の腕の力を振りほどくこともできず、ただじっと彼に抱かれている。

「どうなんだ」

「どう、とおっしゃられましても……」

 歯切れ悪く、真赭は言った。清彰は少し苛立ったように、足をひとつ踏み鳴らした。

「私は、本気だ」

 真赭の耳の横で、清彰ははっきりとした声で言った。

「おまえは、私が娶る。おまえは、私の妃になるんだ」

「清彰さま……」

 真赭はごくりと息を呑んだ。今まで意地の悪いことしか言ってこなかった彼の口が、真赭を口説くために流暢に動いていることに驚いた。顔を上げて目をみはると、先日よりもさらに真剣な顔をした清彰がそこにいた。

「私の妃になる。はいと言うんだ、真赭」

 清彰も、陰陽道が使えたのだろうか。そう思ってしまうくらいに彼のまなざしは、口調は、強く真赭を促して、気づけば真赭は、彼の情熱の波に取り込まれていた。

「……はい」

 かすかな声で、真赭はそう言った。うつむいてしまったので、清彰の顔は見えなかった。しかし抱きしめてくる手に力がこもったこと、こめかみを、優しくかすめる唇の感覚。すべてが今まで真赭の知らなかった清彰で、それに真赭の心は揺り動かされた。

「聞こえない」

 駄々を捏ねる童のように、清彰は言った。

「もっと、大きな声で言え。私に、はっきりと聞こえるように」

(いいのか、真赭)

 響いた声は、誰のものだったのか。

(一生を、この男とともに過ごす。それで、いいのか)

(……いいわ)

 浮かされたように、真赭は言った。

(いいの。……だって、こうやっておっしゃってくれるかたなんて……今までにいなかった。誰もがわたしの技を面白がるか、嘲笑うか……女人のための陰陽寮を作ろうなんて、叶うとは思わないけれど……)

 清彰の目に見つめられながら、真赭は言った。

(そこまで考えてくれた人も、初めてだわ……)

 だから、いいの。真赭はつぶやいた。そして清彰の腕に身を寄せて、そっと目を閉じる。十二月将たちからの声も心のうちで遮断してしまい、真赭はただ、清彰の腕に縋った。

「わかりました……、清彰さま」

 抱きしめる腕が、強くなった。真赭は清彰の胸に顔を埋め、薫る香をかいだ。今まで意識したこともなかったのに、こうやって間近にいることがとても恥ずかしくなってしまう。腕をふりほどいて逃げたいような、それでいていつまでも、こうしていてもらいたいような。

「わたし、清彰さまの、妃になります」

 清彰は、嬉しそうに笑った。彼は、少し腕の力を緩める。そして手をすべらせた。真赭の首筋を撫でて、上へ。顎に指をかけられたときはどきりとしたけれど、彼の唇が降ったのは、真赭の額だった。

「ああ。それがいい」

 そっと、触れるか触れないかのくちづけをされた。それでも触れた部分がじんと熱くて、真赭は思わず頬を熱くしてしまう。

「それが、おまえを……私がおまえを守ってやれる、最良の方法だ。そして私は、おまえ以外に妃は持たない……」

 その言葉も、真赭を揺り動かした。たくさんの女たちの中に立ち交じって、妍を競うことなど真赭にはできない。しかし、ほかに妃を持たないと約束してくれるのなら。そしていつも嫌がらせばかりしていたくせに、今夜の清彰は――今宵の清彰こそが、真実の彼の姿であるように感じられるのだ。

「本当、に……?」

「私の言葉を疑うのなら、私の言うことを聞け」

 清彰は、再び抱きしめてくる。彼の腕に包まれて、薫衣香に包まれて。真赭の心の臓は、急に激しく打ち始めた。

「おまえが、その目で確かめればいいだろう。私が、おまえ以外の女に目をつけるか。おまえの技を持ってすれば、その程度のことわけないだろう……?」

「それは、そう……だけれ、ども……」

 清彰の言うことを疑っているわけではない。ただ、言葉で確かめたかっただけなのだ。

「好きだ……、真赭」

 その言葉は、甘く響いた。真赭は、ひくんと唇を震わせる。再び清彰の腕は真赭の身を強く抱きしめ、さらに声を注ぎ込む。

「ずっと、前から……初めて会ったときから、おまえが、好きだったんだ」

「きよ、あ……き、……さ……」

 強く抱きしめられても、痛みは感じない。感じるのは抗えない男の力。逃げられないということが、真赭に驚きとときめきを与えている。

「いつも……悪かった。しかし、おまえを憎んでいたのではない……好きだったんだ。おまえを振り向かせたくて。どうしていいのかわからなかったから。だから、私は……」

「もう、いいですよ……清彰さま」

 真赭を腕に、言い訳を述べる清彰がおかしかった。真赭は、自分からも腕を伸ばした。清彰の背を抱きしめると、その体が逞しく、頼りがいのあるものであるということがわかる。

「清彰さまの……妃に、してくださるのでしょう? その日を、楽しみにしておりますから」

「真赭」

 真赭は清彰の肩口に頭を寄せかけていたので、彼がどのような表情をしたのかは見えなかった。しかしその声は、今までに聞いたこともないような甘いものだ。

「……好きだ」

「はい」

 自分からも「好き」と言えるほど、清彰のすべてを知ったわけではない――それどころか、彼の知らなかった一面を見て驚いているのだ。

「こんな……清彰さまを見ることができるとは、思いませんでした」

「私を、なんだと思っていた?」

 真赭は、ひゅっと息を呑んだ。目を何度かしばたたかせて、そしてつぶやくように言った。

「いつも、意地悪をなさる……ひどい御方だと」

「おまえのほうが、ひどい」

 拗ねたように、清彰は言う。

「あれは、私の心の表しかただったのだぞ? おまえが私を相手にしないから、私は……」

「あんなのじゃ、気持ちは伝わりませんよ」

 くすり、と真赭は笑った。その顔を見ようとしたのか、清彰は腕をほどく。真赭の肩に手を置いてじっと目を覗き込んできた。

「もう、拗ねていないな?」

「わたしは……拗ねてなんか」

「いいや。さっき、高欄に座っていたときは、拗ねていた」

 真赭は言葉に詰まる。確かに先ほどは、拗ねていた。落ち込んでいた。しかしそれを、清彰が晴らしてくれたのだ。

「……でも、これからは」

 真赭は、首を傾げて尋ねる。清彰は、なぜか眩しそうな顔をした。

「清彰さまが、守ってくださるのでしょう? わたしが……人の口の端に立たないように。なにがあっても、ずっと……ずっと」

 ああ、と清彰はうなずく。

「私が、守ってやる。おまえを悩ませるもの、苦しめるもの……すべてから、守ってやる」

 その言葉は嬉しくて――同時に、胸に突き刺さった。

(なに……?)

 刺さったものの正体がわからなくて、真赭は戸惑う。

(なんなの……これ? わたしは、守られるというのに。守ってくれる人がいるというのに)

 その棘はなかなか抜けず、真赭はますます困惑する。そんな真赭を、言葉どおりに守るように。清彰はぎゅっと抱きしめていた。そのぬくもりの中に、真赭の不安も溶けていくような気がした。



 小袖をまとい、葡萄染(えびぞめ)生絹(すずし)の袴を履く。

 綾の地の単衣をまとう。鮮やかな紅に、菱形の文様が入っている。

 その上に着るのは、五つ衣。淡い萌黄から、濃い萌黄になるように衣が重ねてある。その重なりが袖口と裾に美しく出るように、丁寧に一枚一枚着ていくのだ。

 重ねるのは、濃赤の打衣と、紅葉襲の表着。まだ暑いこの時期に紅葉とは、と思ったものの、少し季節を早取りして衣の色を選ぶのが肝要なのだという。

 表は赤で、裏は濃い赤の表着に袖を通すと、その上から裳がつけられる。小腰を結ばれ、さらに重ねるのは唐衣だ。鮮やかな赤には、やはり菱形の模様が刺繍され、きらめく螺鈿が縫い込んであった。

 真赭を飾り立てるのは、衣装ばかりではない。眉はすべて抜かれて、とても痛かった。顔にはきっちりと白粉(はふに)を塗り込まれ、翠黛(すいたい)を描かれる。腰までしかない髪には髢をつけられている。最後には檜扇を持たされて、真赭は大きく、大きく息をついた。

(……重い)

 裳唐衣をすべてまとうと、これほどに重いものなのか。立ち上がることさえできないと思ったが、そもそも、立ち上がってはいけないという。

「春宮妃たる御方が、立って歩くなど言語道断です!」

 真赭の世話役につけられた、朧少丞(おぼろのしょうすけ)という年嵩の女性が声を上げる。清彰との婚姻の儀はまだだけれど、裳唐衣さえ着慣れていない真赭である。まずは練習と、真赭は懸命になっているのだ。

「貴婦人は、膝で歩くのです。ましてや、帝と中宮さまの前に出るというのに。立ち上がるなんて真似をすれば、どれほどに失礼に当たるか」

「はい……」

 大柄な朧少丞の前では、真赭も肩をすくめるしかない。言われたとおり膝で歩いてみようとしたのだけれど、すぐに突っかかって転んでしまう。

「まぁぁ!」

 転んだ拍子に、扇も飛ばしてしまった。朧少丞は器用に膝でさっさと歩くと、真赭の扇を取ってくれる。

「このようなこと、中宮さまの前では決して許されませんよ。お呼びの時間までにはまだありますから。練習して少しはましに歩けるようにおなりください」

 真赭は、素直に返事をした。檜扇を受け取り、また膝で歩く。袴が足に絡みついて転びそうになるのを、このたびはぎりぎりで留めることができた。

「そう、やればできるではありませんか。その調子で、もっとしとやかに!」

(水干を着ていれば、こんなことはなかったのに)

 童のころから、水干しか着てこなかった。自分がよもや、裳唐衣をまとうことになるなど夢にも思わず、今苦心しているところなのだ。

(中宮さまの前に出る、といったって……今まで、さんざんお邪魔してきたのに。今さら、こんな格好で……中宮さまが、どれほどにお笑いになるか)

 それを思うとこのまま走って逃げたい気分ではあったが、この重い衣装では仮に立てたとしても走ることなど絶対に無理だ。

(それに、清彰さまだって……きっと、お笑いになるわ。本物の貴婦人でもないのに、こんなにめかし込んで。なにを気取ってるんだって……)

(そのようなことはないですよ、真赭)

 聞こえてきたのは、登明の声だ。彼の穏やかな言葉が、真赭を少しほっとさせてくれる。

(よく似合っているではありませんか。萌黄の匂いが、それほどに似合うとは思いもしませんでしたね)

(そうそう、派手な色合いだからな)

 登明に合わせたのは、天剛だ。彼も、興味津々で真赭の装いを見ているらしい。

(化粧も、似合うもんだな。なんだか、いつもの真赭じゃないみたいだ)

(いいのよ、そんなふうに言ってもらわなくても)

 懸命に膝で歩く練習をしながら、真赭は心中でため息をついた。

(似合わないのはわかってるわ……、というか、似合いたく、ない)

(なぜだ? そんなにかわいらしいのに)

 そう言ったのは、勝光だ。彼の言葉は、本気なのかからかいなのか窺いにくい。

(……こんなものまとってちゃ。物の怪の祓いもできないわ)

 口に出すのは、朧少丞が恐ろしいので言えないけれど、このような重い衣装で、いざというときにはどうするのだろう。印相を結ぶのに手を合わせることも容易ではなくて、しかも立ってもいけないなんて、物の怪の祓いどころではない。

(そのときは、私たちがやる)

 静かな声でそう言ったのは、太乙だった。彼は目を閉じて、言った。

(おまえは、春宮妃という道を選んだのだから。それには、さまざまな役目がつきものだろう? 私たちだけでも物の怪くらい、封じることはわけないこと)

(なんだ、太乙は春宮の味方か)

 面白くなさそうにそう言ったのは、従魁だった。

(俺は、気に入らないけどな。真赭が、あの春宮のものになってしまうなんて)

(だからといって、では真赭はどうすればいいのだ?)

 神后が、重々しい口調で言った。

(まさか、生涯独り身でいろというわけではあるまい? それに真赭が結婚したからといって私たち式神の役割が終わったわけでもない。それどころか、真赭が今までのようには動けないのだから、役割は増したと言ってもいい)

(それは、わかってるけどさぁ……)

 従魁は、弟の河魁に「なぁ?」と同意を求めている。河魁は、こくりとうなずいた。

(真赭が、遠くに行っちゃうみたいで、悲しい)

(え、え? なんで?)

 真赭は、思わず河魁に問う。

(遠くに行っちゃうって、どういう意味? わたしが、どうして遠くに行くの?)

(だって、春宮のほうが大事になっちゃうでしょう?)

 どこか、拗ねた子供のように河魁は言った。彼の金色の髪が、さらりと揺れる。

(僕たちのことなんて、顧みなくなるんじゃないかって……)

(どうして、そんなこと思うのよ!)

 真赭は思わず声を出しかけて、朧少丞にじろりと睨まれる。

(……わたしは、結婚したって占の仕事は辞めないわよ。後宮のかたがたの夢占もするし、吉兆も占うし……だって、これは)

 真赭は、そっと手を胸に置いた。

(お祖父さまから、あなたたちを受け継いだわたしの勤めだもの。お祖父さまのご意向に沿いたいの。あなたたちを腐らせるようなことはしないわ)

(まぁ、そのほうが俺たちも退屈せずに済むが)

 そう言ったのは、功曹だった。肩をぐるりと回して、今すぐに異変があっても対応できるようにと準備しているかのようだ。

(清彰さまが、女人の陰陽寮を作ってもいいとおっしゃったんですもの。実現するかどうかは別として……わたしが陰陽道を使うのを反対なんてなさらないわ)

(だと、いいけど)

 ぽつりと言ったのは、傳送だった。滅多に口を開かない彼が声を出したものだから、真赭も、ほかの十二月将たちも驚いた。

(でも、春宮妃なんて……忙しいでしょう。僕たちを顧みてる暇なんてあるのかな?)

(そんな……、傳送)

 真赭は、なんと言っていいものか迷った。その拍子に膝行る稽古をしていた足が袴を踏みつけてしまい、真赭は板の間にころりと転がった。

「まぁぁ、春宮妃さま!」

 朧少丞の、金切り声が響いた。

「転ぶとはなにごとですか、転ぶとは! しっかりお気をお持ちになってください!」

「は、い……」

 必死に起き上がりながら、真赭はため息をついた。

(これなら、物の怪退治のほうがまだ楽だわ……)

(それは、確かに違いないな)

 くすり、と笑ったのは太乙だった。

(着慣れぬ衣装に、住み慣れない場所……おまえが、果たしてどこまで耐えうるか)

 彼は目をすがめ、たたんだ扇を口もとに当てる。

(あの春宮も、無茶を言う。自由に生まれついた小鳥を、つかまえるような真似を)

(太乙?)

 彼は、いったいなにを言いたかったのか。しかし真赭が考える前に朧少丞の甲高い声が響き、真赭は慌てて膝で歩く練習に戻った。



 先導の女房について歩く。

 渡廊を歩くときは、立ってもいいと聞かされてほっとした。後宮の、あの長い廊下を膝行って移動しなくてはならないのかと、うんざりしていたからだ。

 それでも、今までのように軽やかに駆けるというわけにはいかない。そもそも衣装が重すぎて、駆けるどころかゆっくりと歩くことで精いっぱいだ。

(本当に、大変なのね……女人って)

 しみじみと胸の中でつぶやいたその言葉に、けたけたと笑ったのは大吉だった。

(なに言ってるんだ、真赭だって女人だろうに)

(だって、わたしはこんなもの着なくてもよかったのに……)

 教えられたとおり丁寧に裾捌きをしながら、真赭はため息をつく。

(水干と……短い髪で充分だったんだわ。わたしが求めていたのは……)

 言葉を切る。そしてそれは清彰が、真赭のしたいことを認めてくれると言ったから。それに伴うさまざまな世間のやり玉をかわせるからと言ってくれたから。真赭が清彰の求婚を受け入れた内側に、そういう面があることは否定できない。

(それでは。春宮の求婚を受けたことを、後悔していると?)

 真赭は、首を横に振った。

(受けたのは、わたしの意思だもの。後悔なんてしていない……ただ)

(ただ?)

 真赭は、またため息をついた。

(こんなお役目が回ってくるなんて、思わなかっただけ)

(そこは、真赭が早まったとしか言いようがないよな)

(あの春宮、童のような顔をしていて、意外としたたかだな)

 ふん、と鼻を鳴らしたのは勝光だ。

(うまく、真赭を口説いて……春宮妃なんて堅苦しいものなんて似合わないって、わかってるのに)

(でも、その代わりに真赭が非難されることを防いでくれるんだろう? 春宮妃に口出し手出しができる者はないって)

(だと……いいんだが)

 真赭に与えられたのは、登花殿だった。殿舎をあとに、弘徽殿と、庭向こうに梅壺の見える承香殿を臨む廊に出たとき。

「まぁ、陰陽姫が。裳唐衣なんてお召しになって」

 聞こえてきた声があった。真赭は、はっとする。声の主は、どこかの御簾のうちにいるのだ。幾人かの、くすくすと笑う声が聞こえてきた。

「陰陽姫も、化けるものね。耳やら尾やらは、どうやって隠したのかしら」

「お得意の妖術じゃないこと? それで、春宮さまも騙したのよ」

 真赭は、目を見開く。歩くことに集中していた意識が、一気に話し声に引きつけられる。

「外法陰陽師を、妃にだなんて」

「狐の娘を」

「妖術使いを」

 冷水を浴びせかけられたかのようだ。真赭の足は止まってしまい、後ろについていた女房が小さく驚いた声を上げた。

「わたくしたちも、騙されないようにしなくてはね」

「いつ、泥団子を食べものと偽られるか、わかったものではないわ」

「物の怪が寄ってくるかもしれないわ……恐ろしいこと」

 くすくすと、笑い声が合間に聞こえる。御簾の内側で、扇で口もとを隠して。どこかの殿舎の女房たちが、真赭のことをあげつらっているのだ。

 後宮を、中宮を守ると心に決めた。しかしその後宮は、真赭を拒否している。貶め、嘲笑って、真赭をもてあそんでいる。

 真赭に与えられたのは登花殿。今まで住んでいた藤壺は遠い。同じ後宮なのに、藤壺を少し離れれば、真赭のまわりは敵だらけだったのだ。それを今まで、知らなかった。

(清彰さま……!)

 しかし世間の糾弾から真赭を守ってくれると言った清彰は、いない。女房たちに囲まれているとはいえ真赭は独りで、ただ大きく目を見開くばかりだ。

「あら、立ち止まってしまったわ」

 なおも、声が聞こえる。

「やはり、狐の耳は大きいのね。どんな音でも聞きつけるとみえてよ」

「いえ、匂いをかぎつけたのかもしれないわ。狐の鼻は、犬と同じくらいによく効くというから」

 真赭は、付き添いの女房に促されて、はっとした。慌てて歩き始めたものの、動揺が邪魔をしてか、袴の裾を踏んで転んでしまう。

「まぁ」

 くすくす笑いが、遠慮もない大きな笑い声になった。弘徽殿も梅壺も、ここからは見えない。真赭の味方のいない麗景殿にも宣耀殿にも、女たちの笑いはどんどん広がって、真赭を包んでいくかのように感じられる。

 目の前が、暗くなった。付き添いの女房たちが抱き起こしてくれたものの、しっかりと自分の足で立つことはできないように思われた。

(こんな……今までよりも、ひどい)

 ようやっと立ち上がった真赭は、よろよろと歩き始める。そんな真赭を目に、また笑い声が起こった。

(清彰さま……、嘘つき。わたしを、守ってくれるとおっしゃったくせに……!)

 清涼殿までの廊は、長かった。弘徽殿や梅壺からは遠のいたものの、真赭の知らないところでまだ皆が真赭を嗤っている――春宮妃という身分になったからこそ、受けるそしりもあるのだと知った。

「春宮妃さま、お加減が……?」

「いいえ」

 声をかけてくる女房に、真赭は首を振った。

「大丈夫よ。わたしは、大丈夫だから」

 そう言うことで自分を励まし、真赭は先を歩く。清涼殿の北廊に案内され、北廂を抜けて。昼の御座に招き入れられると、かけられた御簾の前に座る。

 頭を下げて、やや待った。すると奥から、衣擦れの音が聞こえてきた。

「そなたが、天雲真赭か」

 御簾の向こうから声がする。真赭は全身を緊張させた。同時に薫った黒方の匂いから、中宮もそこにいるのだということがわかる。

(中宮さま……!)

 親しむ相手の存在に、緊張がほどけた。ふたりが腰を降ろし、するとするすると御簾が上がっていく。

「私の息子を虜にした美姫とは、そなたのことか?」

「……いえ、あの」

 帝は、温和な人柄と見受けられた。いと高き御方なのに、こちらに気負わせるということがない。そのことに、真赭は安堵を深くした。

「よい、(おもて)を上げよ」

 真赭は、ゆっくりと顔を上げた。さらり、と髪が揺れる。巻き上げられた御簾の向こう、脇息にもたれて座しているのは梔子色の直衣の帝と、紫苑の襲の裳唐衣に身を包んだ中宮だった。

 中宮は、真赭ににっこりと笑いかけてくれる。黒方の薫りとその笑みで、真赭は少しばかり寛いだ気分になった。

 とはいえ、帝の前である。中宮の存在に安堵はしたものの、やはりいつものように藤壺の母屋で会うときのようにはいかない。真赭は、身を固くして座っている。

「春宮が、妃を娶りたいと言ってきたときには驚いたが」

 ぱたり、と扇を鳴らしながら、帝は言った。

「想う者があるから、妃は娶らぬと。ずっとそう言っていたのだが。それが、そなたのようにかわいらしい姫君だったとは」

「いえ……、あの。申し訳ありません」

「なぜ、謝る」

 帝は、くすくすと笑った。その笑いかたは、中宮によく似ていると思う。夫婦というものは似ているものなのか。それともともにいると、徐々に似てくるものなのか。

「安倍晴明から、十二月将を受け継いだ者。かの葵葛の君の孫。高名な陰陽姫……」

「主上。それは」

 中宮が、帝を遮った。

「真赭は、その呼ばれかたは好きではないんです」

「そうなのか? 陰陽姫……なかなか、よい呼び名だと思うが」

 同意を求めるように、帝は真赭を見た。真赭は再び頭を下げて、畏れ多くも帝に話しかける。

「わたしは……陰陽師ではありませんので」

「しかし、式神を操り陰陽道を使い……夢占にも長けているというではないか」

 扇で膝を叩いて、帝は言った。

「予も、陰陽師たちに夢占をさせるがな。しかし、そなたのように謙虚な者はおらぬ。皆、自分の手柄をことさらに言い立て、出世を狙う者たちばかりだ」

 帝は、少し疲れたような息をついた。このようにいと高き人物にも悩みはあるのか。となれば、自分の悩みなどたいしたことはないと真赭は思う。

「春宮が、女人ばかりの陰陽寮を作ってはどうかと言っていたぞ。そのようなこと、考えてもみなかったが、それもまた面白いやもしれぬ」

「ですが、女人の陰陽師とは……なかなか民間にもおりませぬものを」

 中宮が、少し眉根を寄せて言った。そんな彼女を、真赭は凝視する。いつもは袿一枚で脇息に寄りかかっているような姿ばかり見ているから、隙のない裳唐衣姿の中宮にどうしても違和感を持ってしまうのだ。

「そこを、教育するのではないか。なぁ、真赭」

 いきなり名を呼ばれて、驚いた。はい、と小さな声で返事をして、真赭はひれ伏す。

「そなたは、予の知っているかぎり唯一の女人道士だ。あなたが主導して、女人陰陽師を育英するというのはどうだ」

「どう、って……」

 清彰にも、同じことを言われた。彼のその言葉ゆえに、真赭は彼の妃になることを了承したのだ。しかしそのようなことを言われて、はいと引き受けることなどできるはずがない。真赭は言葉を探して、口もとをまごつかせた。

「まぁ、そんな重責を、この子に負わせるおつもりですか?」

 とんでもない、というように中宮が言ってくれて、ほっとした。確かに、女人でも才のある者はいるはずだし、真赭も仲間ができれば心強いとは思う。しかしその教育を任されるとなると、真赭はあまりにも力不足だ。

「それに、真赭は春宮妃なのですよ? そちらの責務もあるというのに、これ以上真赭に負担を負わせてはなりませんわ」

「……まぁ、それも、そうだ」

 帝は、考え込むそぶりを見せた。帝は真剣に、女人陰陽師の育成を考えていたのだろうか。残念そうな顔はしたものの、それ以上はもうなにも言わず、真赭への他愛ない質問と、その父、母、祖母と祖父の話になった。

「葵葛の君がお亡くなりになったのは、予が元服して間もないころだった」

 扇を鳴らしながら。帝は言う。

「あのかたも、自分は陰陽師ではないとおっしゃっていたけれど。確かに、そなたのように式神を操ったりということはなさらなかった。が、見通占に長けていらっしゃった」

「見通占?」

 中宮が、首を傾げた。帝は、大きくうなずく。

「占ってもらいたい者がやってきた方向と、その日の干支で見るのだよ。その者が占ってほしいことや、その者の性格まで見通せると……千里眼の君とも呼ばれていた」

 菓子と白湯を出され、もてなされた。真赭は緊張しつつもそれらを口に運び、藤壺で出される菓子のほうが美味であるような気がするのはどうしてだろう、と考えた。

「孝允は、あまり陰陽道の才がなかったようだが。しかし孫のそなたに未来を託して、十二月将を預けられたのだろう」

 真赭は、思わず身を小さくする。父の孝允には、あまりいい思い出がない。太乙は、孝允は真赭の才を嫉んでいたと言っていたけれど、それゆえだろうか。しかし自分に才があるなどと――とても、そのようには思えないのに。

「後宮を守ってくれて、ありがとう。これからも、よろしく頼む」

「は、い……」

 囓りかけの糫餅(まがり)を手に、真赭は慌てて頭を下げた。帝は笑い、中宮も笑った。囓りかけの菓子を持ったままなど、子供っぽかっただろうか。仮にも、春宮妃が――真赭はますますうつむいてしまい、そんな真赭に中宮が声をかけてくる。

「そんなに、緊張しないでちょうだい。おまえがそんなに小さくなっているのを見ると、いじめているような気になってしまうわ」

「そんなつもりは、ないのですが……」

 真赭が小さくなっていると、中宮は笑う。帝も、そんなふたりを微笑ましいというように見ている。

「いいから、好きなだけ食べるといい。なにか欲しいものがあるのなら、持ってこさせよう」

 帝は、鷹揚にそう言った。しかしこのような場であれが欲しいこれが欲しいなどと言えるはずはなく、真赭は手にした糫餅をかりかりと食べた。

 これがいつもの水干姿で、重い髢などつけなくてもいいのなら。どれほど菓子の味を堪能できただろうか。藤壺で食べる菓子のほうが美味いと思ったのは、あまりにも違いすぎる環境において、慣れないものを着ての違和感ゆえなのではないかと思った。

 帝と中宮は、微笑みながら真赭を見ている。彼らの期待に応えるために旺盛な食欲を発揮しながら、実のところは美味しいと感じられない菓子を頬張った。



 登花殿に住まう春宮妃のもとに、大きな瓜がいくつも届けられたのは、七月(ふみづき)になってのことだった。

「春宮妃さまにおかれましては、お加減があまりよろしくないということを伺いまして」

 瓜を持ってきた女房が、そう言った。

「春宮さまのお渡りがないのも、そんな春宮妃さまのお加減を気遣われてのこととか……わたくしたちも、気を揉んでおります」

 真赭の頬が、かっと熱くなった。真赭が春宮妃として後宮に上がってからというもの、清彰が登花殿にやってきたことはなかった。いくら真赭が男女のことに疎いとはいえ、それが通常の夫婦のありかたではないことはわかっている。

 それでも真赭から来てほしいということは言えない――それは男女のたしなみでもあったし、そもそも真赭は、後宮を守るという仕事に熱を入れられると思って、春宮妃になったのだ。

 今では、そのことを後悔していた。今まで縁のなかったほかの殿舎からの嫌がらせは絶えることがなかったし、それどころかより激しい、露骨なものになっていったからだ。

 それは今まで夢占などをしてきた桐壺や弘徽殿も同じだった。その前の渡廊を通っても、さすがにあからさまな陰口を叩かれることはないけれど、しかし皆が沈黙を守っている。真赭を庇うという選択肢はないようだった。今や春宮妃であり術士である真赭に親しもうという様子は見せない。

 それでも、春宮妃などなろうとなってなれるもの、やめようと思ってやめられるものではない。以前のように水干姿で駆け回ることのできない今、真赭は鬱々とした気分のまま、毎日を過ごしていた。

「これは、弘徽殿女御さまが、特別にお使わしになったもの。身の詰まったものを御自ら、お選びになったものでございます」

「それは……、ありがとう、ございます」

 戸惑いながら、真赭はそう言った。目の前の台には、瓜が三つ載っている。どれも色よく熟れて、確かに食べ応えはありそうだった。

 女房は、深く礼をして去って行った。三つの瓜を前に、真赭は眉根を寄せる。

(……ねぇ)

(ああ)

 いくつもの声が、真赭の中で重なった。

(呪が、かけてある)

(瓜の中身は……)

(まずは、切ってみるか?)

 功曹が、そう言った。真赭はうなずき、そばの女房に包丁を持ってこさせる。

「春宮妃さま、御自ら切られるのですか?」

 女房は、不思議そうな顔をしている。真赭は、まわりの女房たちに言った。

「今から、気分のよくないことが起こるわ。失神したくない人は、出て行ったほうがいいわよ」

「な、なにごとですか……」

 皆が動揺の声を上げる。それでも好奇心には勝てないらしく、退出する者はほとんどいなかった。

 真赭は、幾重にも重ねた袖をまくり上げた。春宮妃にあるまじき行為だと眉をひそめる者もいたが、真赭は構わず包丁を振り下ろす。

 ぱかり、と瓜が半分に割れた。中にあったのは食べるための身ではなく、黒々ととぐろを巻く、一匹の蛇だった。

「きゃ……ぁ、あ……っ!」

 まわりは、大騒ぎになった。真赭はその蛇を睨みつけたまま、二本揃えた指を腰に当て、さっと刀を抜く仕草をした。

「もう、大丈夫よ」

 真赭は、蛇を掴みあげる。そのまま、ぽいと中庭に投げ捨てた。

「早九字を切ったから。あの蛇も毒を出さないわ」

「春宮妃さま……、直接触られて……平気なのですか」

「毒はもうないって言ったじゃない。ただの、大きなみみずと変わりないわよ」

 声をかけてきた女房は、震え上がってしまった。ひぃ、という悲鳴とともに、どこかに逃げ去ってしまう。

(どうしたのかしら……?)

(真赭が、大きなみみずなんて言うからだろう!)

 声を上げたのは小吉だった。

(俺だって、想像しちゃったよ! あんなでっかいみみず、気持ち悪いだろう!)

(いえ、素手で蛇を掴んだりしたら、その時点で充分気味が悪いと思いますが……)

 登明も、眉根をしかめてそう言った。

(それにしても)

 ふぅ、と息をついたのは、太乙だった。

(これで、何件目だ? わざわざ呪のかかった食べものだの衣服だのを持ってくるのは、真赭が道士だと知ってのことなのか?)

(知らなかったら、もっと巧妙な手を取るだろう)

 そう言ったのは、神后だ。彼も、呆れたような吐息を吐き出す。

(わざわざ、嫌がらせのためにやってるのか? 酔狂というか……飽きないよな)

(まったく、春宮はなにをしている)

 怒った声でそう言ったのは、功曹だった。真っ黒な目を、怒りに染めている。

(自分の決めた妃が、このような目に遭っているというのに。気づきもしないで、どこをほっつき歩いているのか……)

(別に、いいのよ)

 真赭は、やんわりと十二月将たちを止めた。

(清彰さまを患わせることではないわ……それに、中宮さまをご心配させたくないの)

(しかし、このようなことが続いては煩わしいではないか)

 大冲が、冷静な声で言った。

(向こうが呪で来るのなら、こちらも呪で返せばいい。蛇入りの瓜なら、蜜柑の中に鼠でも忍ばせておけ。うんと気味の悪いやつをな)

(あなたって、ときどきとんでもないことをさらりと言うのね)

 滅多に口を開かない大冲だからこそ、その言葉には重みがある。真赭は、苦笑した。

(大丈夫よ。このくらいのこと……)

(おい、本当に大丈夫か)

 心配する言葉をかけてくれたのは、勝光だ。いつもふざけている彼がそのような声を上げるのだ。真赭は、よほど疲れて見えるのだろう。

(大丈夫。ただ……この、衣装がね)

 今日の真赭の衣は、今様式の牡丹模様の重ね袿だ。今まで水干姿で走り回っていたことが嘘だったかのように、毎日何枚もの袿を重ね、その重みのせいで、脇息に寄りかかることしかできない。

(重いのよ。いつまで経っても、慣れないわ。みんな、こんな着ものをまとってよく動きまわれること……)

(そもそも、貴婦人というものは動かない)

 大冲とは違う調子で、やはり冷静に言ったのは太乙だ。

(自らは母屋の奥に座し、まわりの者たちが立ち働くものだ。しかも、真赭は春宮妃。今や、中宮の次の身分の高い女人だ)

(そんな相手に、呪のかかった瓜なぞ持ってくるかねぇ……)

 ちらり、と中が空洞になった瓜を見ながら。勝光が言う。

(しかし、真赭。本当に大丈夫なのか?)

 そう言ったのは、太乙だ。彼からそんな慰めをもらうことになるとは思わずに、真赭は思わず目をしばたたかせた。

(大丈夫……よ……?)

 胸を押さえながら、真赭は言った

(わたし、そんなに大丈夫じゃないみたいに見える?)

(いや……蛇くらいでまいるような神経ではないと思っているが)

(それって、失礼よ)

 くすくすと笑いながら、真赭は言った。

(なんなら、貴婦人らしく倒れて見せましょうか? か弱く、はかなげに)

(似合わないから、やめておけ)

 やはり太乙は冷静に言い、真赭を笑わせた。

(わたしも、そう思うわ。そういうのは、ほかの貴婦人がたにお任せして)

 真赭は、にっこり笑って両手を握りしめた。はっと気がつくと、まわりの女房たちが気味悪そうに真赭を見ている。

「あ、……これ、は」

「十二月将のかたがたと、お話しだったんですよね」

 そのうちのひとりが、声を上げる。

「わたしたち、春宮妃さまのそういうところ……わかっていますから!」

「ありがとう……」

 それでも傍目には黙り込んでうつむいて、いったいなにをしているのか、まわりの者を無視して、と思うだろう。声を上げた女房も、懸命に真赭を理解してくれようとしているというのがわかる。

(でも、みんなと話すことをやめてしまったら……わたしは、どうなってしまうかわからない)

 水干をまとって、元結にくくって。西京の市に行っていたころが懐かしい。春宮妃という身分では、市どころか自分の殿舎から出ることさえままならない。なによりも、この重い衣がまるで枷のように、真赭の全身を拘束しているのだ。

(倒れて気を失うのは、わたしのほうかもね)

 袖の襲を指先で撫でながら、真赭はつぶやいた。

(みんながいてくれるから……わたしは、わたしでいられるんだわ)

(それなら、いいけれどな)

 真赭の加減を窺うように、大吉が言った。

(無理、するな? 外に出られなくて、いらいらが溜まってるんじゃないのか?)

(大丈夫だって)

 精いっぱい、真赭は笑った。笑顔を忘れてしまうことだけは、避けなければならないと思った。



 月が、皓々と輝く夜。

 真赭は、池の縁に立っていた。重い袿はすべて脱ぎ捨てて、単衣と袴だけの姿である。

 十二月将の連なった腕輪は、帳台の枕もとに置いてきた。真赭は今、完全にひとりだ。今、真赭にいやがらせをする者たちに狙われては、身もふたもないだろう。

 それでも、真赭は池の縁に立っていた。呪をかけるまでもない、後ろからひと押しされれば真赭は池に落ち、そのまま死んでしまうかもしれない。

(……わたし、どうしてこんなところにいるのかしら)

 ぼんやりと立つ、真赭は思う。

(いいわ……、どうしてでも)

 真赭は、月の映る水面に目をやる。風で水が波立ち、月の形も歪んで見える。それを不吉だと思う心も、美しいとも思う心も真赭からは欠けていた。ただなにも考えず、ぼんやりと池の縁に立つばかりである。

(わたしは……どうなるのかしら)

 水面に落ちる真赭の影が、ゆらりと動く。少しだけ強い風が吹いて、影がぐしゃりと形をなさなくなる。

(……わたしも、あの影のように)

 十二月将の皆に、大丈夫だと言った言葉は嘘ではない。嫌がらせには、慣れた――そのつもりだった。しかしいつの間にかこうやって池の縁に立って、足もともおぼつかなく池を見つめているというのは、自分でも理由を説明できない。

(揺れて……歪んで。沈んでしまえたら)

 なぜ、そのように考えるのだろう。なにが、真赭を惹きつけるのだろう。

(わたし……、池、に……)

 そのまま、吸い込まれていきそうだった。それもいい――吸い込まれて、いなくなって。誰か、悲しんでくれる者はいるだろうか。十二月将の皆は、少しは泣いてくれるかもしれない。あれだけ情熱的に真赭をかき口説いたくせに、後宮に置き去りの清彰は? せいせいしたとでも思うのだろうか。

(わたし……)

 ふいに、視線を感じた。一瞬だけ視界に映ったもの――花畑だ。池のほとりに立っているはずなのに、なぜ花々が。しかしそれは、すぐに消えてしまった。

(お花畑の物の怪)

 真赭はさっとまわりを見回す。どこからか、見つめられている感覚――それを感じて真赭はぞっとしたけれど、今の真赭には、それから逃げ出すだけの気力がなかった。今、物の怪が襲いかかってきても、真赭には抵抗の術はなかっただろう。交戦しようという気さえ、失われてしまっているのだから。

「……あ」

 真赭は、はっと目を見開いた。水面に、人の顔が映ったのだ。それはすぐにさざ波に消えたけれど、真赭は確かに、はっきりと見た。

「おかあ……、さ、ま……?」

 思わず池の縁に膝を突き、覗き込む。すると風がやみ、水面は鏡のようになった。

「お母さま……!」

 それは、真赭の母――小染式部と呼ばれたその人の顔だった。真赭と目が合うと、小染式部は微笑んだ。

(だめ。来ては)

 笑顔のまま、小染式部は言うのだ。

(来てはだめ……まだ、早い)

「おかあさま……?」

 来るな、とはどういう意味なのだろう。真赭は、ただ立っていただけだ。なにをするつもりもない――ただ、立っていただけ。そして今、水の面を覗き込んで声を上げている。

(そのときが来るまで……、今は、ただ自分の身を大切に……)

「おかあ……さ、……ま!」

「……真赭!」

 重なった声があって、真赭はびくりと震えた。振り返ると、こちらに走ってきているのは太乙だった。烏帽子に、白の直衣。いつもと同じ格好で、ただなにかに焦っているかのように、駆けているのだ。

 ――太乙らしくもない。真赭が、そう思ったときのことだった。

「真赭!」

「きゃ、っ!」

 太乙はそのまま、後ろから真赭を抱きしめた。その拍子に転びそうになって、真赭は悲鳴を上げる。

「なにを……、危ないじゃないの、太乙!」

「おまえ、が……」

 はぁ、と乱れた息をついて、太乙は言った。

「飛び込むんじゃないかと思って」

「わたしが……?」

 太乙は、真赭の腰を抱き上げる。立ち上がったふたりは、しかし太乙の手が真赭を離さないものだから、ぴたりと寄り添ったままだ。

「どうして、わたしが」

「そんな顔を、していた」

 真赭は、首を傾げた。思わず、自分の口もとに指をやる。

「いつ?」

「蛇の呪のかけられた瓜を見たときだ。あのときから、おまえはおかしかった」

「おかしくなんて……」

「では、どうしてこんな格好でここにいる」

 真赭は、はたと自分の格好を見た。袿も重ねず、単衣と袴だけである。裸も同然の格好ではないか。真赭は、頬が熱くなるのを感じた。

「太乙こそ……」

 固唾を呑んで、真赭は言った。

「どう、して……? 解呪、していないのに」

「私たちは、おのおのの意思で、おまえに封呪を委ねている」

 真赭を抱きしめたまま、太乙は言った。

「その気になれば、自分で封印を破れる。そうでないと、おまえが……今のようにひとりきりのときに、危険な目に遭えばどうするのだ」

「そう……だった、わね」

 単衣に袴。そんな格好のまま、太乙に抱きしめられているのだ。真赭は慌てた。しかし太乙は、腕の力を緩める気配も見せない。

「こんなところを見つかったら……朧少丞に叱られてしまうわ」

「そうだな」

「だ、から……」

 離して。そう言いたかったのに。しかしその言葉が口から洩れる前に、太乙の手は真赭の顎をつかまえていた。強い力で、上を向かされる。

 すると唇に重なってくる、柔らかいものがあった――。

「あ、……っ……?」

 声はくぐもって、ちゃんとした言葉にならなかった。真赭自身も、自分がなんと言おうとしていたのかわからない。ただ、口をふさいでくるものが柔らかくて、しっとりと湿り気を帯びていて。

「……ん、く……っ……」

 それは、隙間なく重なってきた。息苦しくて喘いでも、太乙は真赭を離そうとしない。ますます強い力で抱きしめながら、くちづけを――そして、濡れたものが真赭の唇の上を這う。

「や、ぁ……っ」

 それに溶かされたように、真赭の唇は開いた。そこに、するりと入ってくるもの。真赭の歯の表面を撫でるもの。

「たい、……お、つ……」

 ますます深く、くちづけられる。息を奪われて真赭の意識は、ぼんやりと霞み始めた。

「……ふ、ぁ……っ……」

 そのまま、太乙の腕の中に落ちていこうとした刹那。声が響いて真赭は、はっとした。

「真赭……!」

 名を叫ばれて、反射的にそちらを振り返る。入り込んできた舌も、唇も、離れてしまう。その温度と、柔らかさが、心地よかったのに――。

「清彰さま……」

「おまえ、真赭の式神だな?」

 こちらに大股でやってくるのは、清彰だった。烏帽子に、薄紅の直衣。真赭を訪ねてきたのだろう。

「式神のくせに、なぜひとりでいる? なぜ、真赭を?」

「……宮さまこそ」

 太乙は、気丈に言い返した。その腕はいまだ真赭を抱きしめたままで、まるで清彰には渡さないとでもいうように、力強く離れない。

「太乙……」

 その腕の中で、真赭はもがいた。しかしやはり太乙は、腕を離さない。真赭を腕の中に包んで、春宮たる清彰を睨んでいる。

「常には放りっぱなしの妃を、こんな時刻に訪問ときたか」

 清彰が、顔を引きつらせた。真赭は太乙をたしなめようとする。

「……悪いか」

 引きつった顔はそのままに、清彰は言った。

「私の、妃だ。いつ訪ねようと、私の勝手だ」

「しかしその間、真赭がどのような思いを……」

「太乙!」

 真赭は叫んだ。太乙は真赭に目を落とし、唇を噛むと視線を逸らせる。

「どんな思いを?」

 繰り返したのは、清彰だった。真赭は、慌てて首を振る。

「なんでもないわ! 本当に、なんでもないの!」

 清彰は、なおも疑わしそうな顔で真赭を、そして太乙を見た。ふん、と鼻を鳴らすようにすると手を伸ばし、真赭の手首を取る。

「ちょ、清彰、さま……」

 真赭は、太乙の手から離れてしまった。清彰に引っ張られ、真赭は登花殿の軒下にまで連れてこられる。

「おまえ、どんな思いをしていたっていうんだ」

「なんでも……」

 真赭は、清彰から視線を反らせる。しかし彼の手は強く真赭の手首を掴んだままで、真赭を逃がしてくれない。

「後宮に、なにかがあったのか。なにか……されたのか?」

「そこまで……」

 真赭は、ごくりと息を呑んだ。

「そこまでわかっていらっしゃるなら、どうしておいでにならなかったんですか」

 清彰と、正面に向き合った。今度は、清彰が視線を逸らせる番だ。

「わたしが後宮に入ってから。一度も、お訪ねくださらないではありませんか。わたしは一日、登花殿に閉じ込められて……自由もなくて」

「……それは、悪かった」

 まなざしを逸らせたまま、清彰は言った。

「私は……おまえを疎んじて、後宮に赴かなかったのではない。決して、疎んじてなど……」

「では、なぜなのです」

 責めるつもりはなかった。しかし大吉の言ったとおり、鬱憤が溜まっていたのかもしれない。真赭は声を上げて、胸の前で拳を握りしめた。

「なぜ、お訪ねくださらないのです。なぜわたしを、後宮に放っておかれるのですか……!」

「それ、は……」

 清彰は、視線をこちらに向けない。軽く唇を噛んで、視線を背けてしまっている。

「しかし、おまえこそ」

 彼が真赭の方を向いたのは、怒りに目を燃え上がらせてのことだった。真赭は思わずびくりとし、一歩後ろに後ずさりをしてしまう。

「おまえこそ……式神とはいえ、男だ。太乙といったか……あのようなものに、くちづけさせるとは」

「あ、れは……」

 かっと、頬が熱くなった。太乙に与えられた初めての、それでいて熱すぎるくちづけの感覚が蘇ったのだ。

「わかり、ません……、わたしには。太乙が、なにを考えて、なんて」

 清彰が、先ほどまで真赭が立っていた池のほうを見た。人の姿はなかった。太乙はどこかに行ってしまったのか、自ら珠に戻ったか。

「おまえは、私の妃なのだぞ」

 清彰の手が、肩にかかる。引き寄せられ、抱きしめられる。その胸は広く大きかったけれど、先ほど太乙に抱きしめられたときほどのときめきを呼ぶことはなかった。

「ほかの男に、唇を盗むことを許すなど……言語道断だ」

「許したわけじゃありません……」

 そう、真赭の唇は盗まれた。太乙が奪っていった――彼の唇の熱さ、柔らかさ。抱きしめる腕のぬくもり、力強さ。すべては真赭の体に残っていて、いくら身を震っても感覚が遠のくことはなかった。

「あれは……太乙が。わたしを、気の毒がって」

「気の毒、だと?」

 清彰が、目をつり上がらせた。怒りを孕んだまなざしで真赭を見た清彰は、腕を伸ばしてくる。真赭の体を抱き、引き寄せ、唇同士が触れるほどに間近に顔を寄せた。

「おまえは、あれが憐れみだとでも思っているのか? おまえを気の毒だと? おまえを慰めてのことだと?」

「で、も……」

 彼が後宮に来ないわけもわからなければ、太乙の行動の意味もわからない。真赭は混乱に陥って、しかししゃがみこみそうになるのを清彰の腕が無理やりに引き上げる。

「おまえは、私の妃だ。私の……ものだ」

 その吐息が、唇にかかる。ぞくり、と背に痺れるものが走る。

「真赭……」

 清彰が、唇を寄せてくる。ふたりのそれが、重なった。触れ合う柔らかさは、先ほど初めて知った――太乙に奪われたくちづけと。

(違、……っ……)

 太乙のくちづけは、しっとりと真赭を抱きしめるようだった。包み込むように、柔らかに。あのくちづけはあまりにも甘美で、息苦しささえもが甘露のようだった。

 しかし清彰は、乱暴に奪うように、真赭の唇をふさぐ。吸い上げてくる感覚もなければ、舌で舐め溶かされて蕩けるような感触もない。ただ激しく重ねられ、痛いほどに抱きしめてくる。

(い、や……!)

 胸のうちで、真赭は叫んだ。清彰から逃れようとしても彼の力は強く、抵抗すればするほど抱きしめられるだけだ。息が詰まる。それは太乙に唇を奪われたときとは違う、ただ呼吸のための器官を押しつぶされてしまっているだけで、息が吸えない。

(やめ、……て……)

 真赭はもがいた。しかし清彰は真赭を離さない。ぐいぐいと押しつけられるくちづけが、恐ろしかった。そこからすべてが、奪われていくようで――。

「……や、ぁ……っ、め……!」

 真赭は、途切れ途切れの声を上げた。清彰の胸を、渾身の力で押す。腕力では敵うわけもないけれど、清彰は真赭の、本気の抵抗を感じ取ったようだった。

 唇が離れる。彼の腕の力が緩んだ隙に、真赭は逃れた。いつものように袿を重ねていては重くて、これほどに身軽には動けなかっただろう。しかし単衣と袴の格好は真赭の俊敏さを邪魔することなく、真赭と清彰の間には、人をひとりふたり挟んだほどの距離ができた。

「は、っ……」

 真赭は思わず、唇を擦った。池の縁での太乙のくちづけが、上書きされてしまった。清彰の、乱暴なばかりのくちづけに――それを惜しく思ったのは、どうしてなのだろう。

「真赭……」

 呻くように、清彰が言った。目をつり上がらせ、唇を噛んで。彼が睨んでいるのは真赭なのか、それとも太乙なのか――。

「おまえは、式神に心を寄せているのか」

「な、っ……」

 真赭は、目を見開いた。そんな真赭を、清彰はなおも鋭く見つめる。

「そんな、わけない、……。式神たちは、わたしの仲間です。心を寄せるのは、当然で……」

「そういう意味で訊いているのではない」

 とぼけるな、と清彰は吐き捨てるように言った。

「あの式神と、心を通わせているのか、と尋ねているんだ。もう、寝たのか」

「ん、に……を……」

 清彰の思わぬ言葉に驚いて、真赭は大きく目を見開いた。いくら真赭の知識が乏しくとも、清彰の言う意味くらいわかる。同じ帳台で、枕を並べて眠ることでだけではない――男女の間にある、それ以上のこと。真赭の頬は、再び熱くなった。

「そ、んなわけ……ない、でしょう……?」

 震える声で、真赭は言った。

「そのような、こと……誰とも、したことはありません」

「本当か?」

 清彰の目が、意地悪く光ったような気がした。以前、ことあるごとに嫌味を言ってきたり、真赭の腕を試すようなことをしてきたときの清彰のようだ。

 そのことに奇妙な懐かしさを感じた。身分も位もなく、水干をまとって走り回っていたあのころ。それは強烈な慕情となって、真赭の胸を貫いた。

「な、んなら、確かめて、みればいいでしょう?」

 真赭は胸を張り、挑戦的に清彰を見た。

「あなたには、その権利があるのですから。わたしは、あなたの妃……あなたがどう扱おうと、わたしはなにかを言える立場ではありません」

「……っ!」

 清彰は、まるで仇を睨みつけているかのように真赭を見ている。真赭は、震えていた。本当に清彰が、確かめるようなことをしてきたらどうしよう――そのための心の準備はなかったし、力で押されれば、真赭が抗うことなどできるはずがない。

「どうしたんですか? 確かめてみるのでしょう?」

 なおも気丈に、真赭は言った。

「私はあなたに、どう扱われてもいい身……わたしには、抵抗の手段なんてありません」

 単衣の袖を風に揺らしながら、真赭は手を差し伸べた。清彰の袍の袖に触れるか触れないかというところで、清彰が一歩後ずさりをする。

「今は、十二月将もいません。腕輪は、寝床に置いてきました。あなたの邪魔をするものは、なにもありません」

 清彰は、眉根を寄せて唇を噛んでいた。真赭がその袖に触れると、ぱっと勢いよく振り払ってしまう。

「真赭……!」

 呻くように、彼は言った。そのままきびすを返し、夜の中を足早に去って行く。月明かりも届かない闇の中に清彰の姿が溶けてしまってから、真赭は大きく息をついた。

(わた、し……)

 そっと、唇を撫でる。すると蘇ってくるのは、しっとりと重なった唇の感覚。吸い上げられて息ができず、それでいて甘い感触。

(……どう、して……?)

 清彰のくちづけは、乱暴で一方的で。そちらのほうが印象に残っていても、おかしくないのに。真赭の唇に刻まれているのは太乙のくちづけ――彼の、なにを意図していたのかわからない行為。

(太乙に、訊いてみる?)

 真赭は、自らに問いかけた。なぜ、真赭の様子がおかしいとわかったのか。なぜ、真赭を抱きしめたのか。なぜ、真赭にくちづけたのか――。

(……でき、ない)

 なおも唇に触れながら、真赭はぶるりと身を震った。

(尋ねるなんて……そんな、恥ずかしいこと)

 考えるだけで、頬に朱が上る。真赭は指をすべらせ、唇から頬にかけてをなぞった。

 そう考えて、ふと思う。十二月将たちと一緒にいて、なにかを恥ずかしいなどと思ったことはなかったのに。もちろん沐浴などのときは腕輪を外したけれど、このたびの恥ずかしさは、そういう恥とは違う――真赭は考えた。

 うまく、言葉にはできない。しかし今までにない感情が、真赭の中に生まれている。それにふさわしい名を探そうとして、しかしできなかった。

 それがなにものであるのか、真赭にはわからなかったからだ。今まで、真赭の心になかったもの。新しく生まれ出た感情。それは真赭の胸の奥の決壊を破って氾濫し、それでいてその名がわからない――。

(なんなの、これ……は……?)

 風に雲が流れて、夜の闇が揺れる。月が隠れてあたりは暗くなり、真赭の視界も閉ざされる。

(誰か……教えて。お母さま……)

 再び池の縁に歩いて行こうとして、しかしあたりはあまりに暗かった。真赭はその場に立ち尽くしたまま、ただじっと、闇を見つめていた。

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