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陰陽姫と平安の都  作者: 月森あいら
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第五章

 で? と問いかけてきたのは、藤壺中宮だった。

「どうなの。陰陽姫の、このごろは」

「……やめてくださいませんか」

 昼の陽射しは、御簾を通さないと暑い。藤壺の母屋の御簾は半分が垂れていて、陽の差さないその奥には、脇息にもたれかかった中宮がいた。

「その……、陰陽姫、というのは」

「まぁ、近ごろはあなたの話題で持ちきりだというのに?」

 昼間の暑さの中、中宮は単衣の上に袿を一枚まとったきりである。その単衣は、さすがに透ける絽のものということはないものの、中宮ともあろう者がそのような格好をしていいのかと思う。今日は誰の訪問の予定もないのだろうか。中宮は登明曰くの、のらくらした格好でそこにいる。

「阿闍梨でさえ祓えなかった物の怪を、安倍晴明譲りの陰陽道で祓ってしまった……あの阿闍梨は痛く面目を失ったし、正式な陰陽師でないあなたを内裏に入れていたと、帝までが責められているわ」

「そ、れは……」

 白一色の水干姿、髪は後ろで元結くくりにしている真赭は、うつむいた。そんな真赭の反応を楽しむように、中宮はくすくすと笑っている。

「畏れ多い、です……阿闍梨や、帝にまでご面倒をおかけしてしまうなんて」

「それはそれで、帝は楽しんでいらっしゃるけれどね」

 それは中宮も同じなのだろう。やはり楽しげに笑いながら、中宮はじっと真赭を見る。

「だって、普段は偉そうにしている陰陽寮の者たちが……小娘にしてやられたと、怒っているのですもの。後宮だけではなく、大内裏中……都中。もしかして都の外にまで、あなたの噂は伝わっているかもね」

 その言葉に、真赭はただ下を向くしかない。中宮は、まわりの者たち以外には決して見せないようなだらしない格好で、笑っている。

「これを機に、陰陽寮の陰陽師にしていただいたらいいのに。今だったら、誰も反対しない……できないわよ」

「女が陰陽師など……前例がありません」

「あら、ではあなたがそのひとりめになればいいのじゃない?」

 物怖じすることのない、中宮らしい物言いで彼女は言った。

「なにしろ父方の祖父は安倍晴明、母方の祖母は言い伝えに聞く葵葛の君……。ともにその母に狐を持ち、その狐の霊力をいただいてあなたのお父さまが生まれたのだって。有名よ?」

 真赭は、なおもうつむいたままだ。

「どこに行っても、そのことを言われます。この間は、清彰さまにも同じことを」

「まぁ、あの子も耳の聡いこと」

 声を上げて、中宮は笑った。かたわらにつきそう女房が眉をしかめたのは、笑い声があまりにも大きくて、中宮という身分にふさわしくないものだったからだろう。

 しかし当の中宮は、気にした様子もない。手の甲を頬に当てて、なおも笑う。

「あの子は、特におまえのことを気にしているから。おまえが噂の渦中になって、自分のもとから離れていくのが心配なのでしょう」

「清彰さまは、わたしをからかっておいでなだけです」

 下を向いたまま、真赭は言った。

「からかうおもちゃがなくなって、ご不満なだけでしょう。わたしには、そうとしか思えませんが……」

「気になる相手が、どういう意味で気になるのか。その理由がわからないようでは、あの子が妃を迎えるのもまだまだね」

「中宮さま?」

 中宮の言葉が、よく聞こえなかった。真赭が首を傾げると、なんでもないというように中宮は手を振って、真赭を遮る。

「なんでもないわ。あなたには、直接関係のないことよ」

「はぁ……」

 中宮に見捨てられたような感覚で、真赭は押し黙る。ふたりの間の沈黙は真赭には重くて、真赭は慌てて顔を上げ、尋ねる。

「あの、あのとき……現れた、雷鳴壺更衣。あの御方の魂鎮めの儀式は、いつになるのでしょうか?」

「今、いい日を陰陽師に占わせているとおっしゃっていたわよ」

 中宮がぱたぱたと手を振ると、かたわらの女房が扇をはためかせた。風を送れ、という合図だったらしい。

「近日中に、行われるのじゃないかしら。そのときは、あなたもまた大忙しね」

 雷鳴壺更衣の魂を鎮める儀。それは重要な儀式ではあるが、しかし後宮にはもっと大きななにかが住まっている。花畑とともに夢に現れたあの視線の主の正体がなにか、真赭はまだ探り当ててはいない。しかし狼の穢れがあったころから、中宮を襲っていた倦怠感。あれはまったく関係のないことではないと、真赭は思うのだ。

(なにか……中宮さまに関係のあること?)

 なにしろ目の前の中宮は、あれだけの御法をやってしまうだけの器量の持ち主だ。より大きな物の怪――あの、花畑の物の怪。あれが彼女を狙っているか知れず、そのことが真赭には気がかりだった。

「わたしは、駆り出されるのは御免です……」

 なおもうつむいたまま、真赭は言った。後宮の災いへの懸念は尽きないけれど、まだ確証のないことを中宮に言って、不安がらせるつもりはなかった。

「また、十二月将を見せろだとか、腕輪に戻して見せよだの……皆さま、勝手なことをおっしゃりすぎです」

「まぁま、有名人になってしまった自分を悔やむしかないわよ」

 楽しげに、中宮は言った。

「わたくしだって、十二月将には興味津々だわ。でもおまえがいやがると思って、あえてなにも言わないだけなのに」

「中宮さま、までですか……」

 真赭は、がくりと肩を落とす。中宮は、また笑った。

「そりゃあ、興味のない者はいないわ。おまえ、自分からはわたくしに十二月将を見せてくれたことはないじゃないの」

「中宮さまは、そのようなことに興味を示すかただとは思いませんでしたので」

「これでも、中宮としての立場があってね」

 中宮は、体を起こす。その細い肩から、袿がするりとすべり落ちた。

「そうね……おまえを陰陽寮にやってしまうのは、わたくしもやはり反対だわ」

 その袿を、女房が直す。中宮は髪をかき上げ、すると彼女の耳が見えて真赭は驚く、髪に隠れているべきである耳を見せるなど、それこそ中宮にあるまじき行為だったからだ。

「もしおまえが陰陽寮の陰陽師になってしまったら、こうやっておまえを召すこともできなくなってしまう……それが、寂しいわ。おまえと、気軽に話すこともできなくなってしまうのだから」

「それは、わたしもいやです」

 こくり、と真赭は首を垂れた。その心中で、登明がささやく。

(中宮が見たいというのなら、見せてやればいいではありませんか。私たちは、別段構いませんよ?)

(でもお祖父さまから、あまりむやみに見せるものではないと言われているし……)

 中宮は、心中で十二月将と言葉をかわす真赭を、楽しげに見つめている。声が聞こえるはずはないのだけれど、そのことを察知しているのかもしれない。

(必要なとき以外にあなたたちを実体化するのは、私もいいことだとは思わないわ。誰が……どのような術を使って、あなたたちを悪用するかしれないんだもの)

(それを止める術には、自信がないと?)

(……今のわたしには、無理だわ)

 自分で言っておいて、がくりとした。まったく、情けないことかぎりなしだ。それでも安倍晴明の孫か、狐の霊力を受け継いで生まれてきた者かと、自分を叱咤したくなる。

(私たちは、おまえのすることに従う)

 冷静な声でそう言ったのは、大冲だった。

(今の私たちの主は、おまえだ。そのおまえの命になら、従おう)

(ありがとう……大冲)

 ふっ、と真赭は息をついた。そうやって心中で会話していることを知ってか知らずか、中宮は頬づえを突いて真赭を見やっていた。

「かの更衣の魂鎮めのおりには、あなたの十二月将たちも見られるのかしらね?」

「……できるだけ、そうはならないように努めたいとは思いますが」

「わたくしは、見てみたいけれどね」

 言って、中宮は微笑んだ。

 今ここで、十二月将を出せと言いたければ、言える立場だ。なにしろ彼女は中宮なのであり、真赭は無位無冠の、ただの子供だ。しかしそのように権力を振りかざさないこと、相手のいやがることをしないあたりが、彼女の中宮たるゆえんなのだろう。

「機会があったら、見せてちょうだい? 御法の儀のとき、御簾越しに見たけれど……なかなかに見目麗しい者ども揃いじゃないの」

「中宮さま、そのようなお口を」

 かたわらの女房がたしなめる。中宮は声を立てて笑いながら、真赭のほうをちらりと見た。

「あなたは、幸せね、真赭」

 ぽつりと、つぶやくように中宮は言った。

「そのように、守ってくれる者があって。あなたの身を第一に考えてくれる者が、それほどにたくさんいて」

「わたしを守ってくださるのは、中宮さまも一緒です……!」

 真赭は、思わず身を乗り出した。中宮は、驚いたように真赭を見る。

「わたしは、中宮さまのご加護でここにおります。帝と、中宮さまが……わたしを藤壺に住まわせてくださり、後宮の警衛にと使ってくださるから、ここにいられて……俸禄までいただいていて」

「あなたは、欲がないわね」

 袖で口もとを隠しながら、けらけらと中宮は笑う。

「それならばそれで、位がほしいとか、俸禄をあげてほしいとか……そういう欲は、ないの?」

「……充分にいただいておりますから」

 真赭はその場にひざまずき、頭を下げた。

「両親も、祖父母も……血縁の薄いわたしがここにいられるのは、すべては帝と中宮さまのお慈悲と……それがわたしの、すべてでございます」

「まぁ、かわいらしい子」

 笑いながら、中宮は言う。

「これ、誰か。真赭に、菓子をおあげ」

「いえ、中宮さま……」

 いくら中宮が、後ろ盾のしっかりしている妃であるとしても、唐菓子は高価である。それほど頻繁に馳走になるわけにはいかないと、真赭は思わず首を振った。

「わたしは、結構でございますので」

「まぁ、そう言わないで」

 中宮は、しゅんとした顔をする。その機嫌を損ねてしまったかと真赭は慌てるが、すぐに中宮は、明るい表情に戻った。

「おまえに菓子を食べさせるのは、わたくしの楽しみなのだもの。ああ、索餅はあって? 歓喜団もあれば、なおいいわ」

 もちろん、真赭も菓子が嫌いではない。見るだけで口の中が潤ってくる菓子を見ていると、つい手を伸ばしたくなる。

「どうぞ、遠慮なく」

 笑いながら、中宮が言う。

「おまえが菓子を食べているのを見るのが、大好きなのだもの。おまえは、本当に幸せそうに食べるから」

「ありがとうございます……」

 それは果たして褒め言葉なのか、自分は褒められているのかと疑問に思いながらも菓子に手を伸ばし、揚げた油の旨みが口の中に広がるのをしみじみと味わう。

「ほら、その顔」

 くすくすと、中宮は笑う。

「わたくしを、幸せにしてくれる顔だわ。おまえのそういう顔を見ているだけで、わたくしは幸せになれるの」

「安上がりな、幸せですね」

「まぁ、言うこと」

 声を立てて笑いながら、歓喜団のひとつを平らげた真赭に、中宮は勧める。

「さ、もっとお上がりなさい。あなたの好きな索餅も、結果もあるのだから」

「中宮さまも、ぜひ」

「もちろん、いただくわ……でも、こう暑いと、削り()に甘葛を駆けたもののほうがいいかもしれないわね」

「ご用意いたしましょうか?」

 かたわらの女房が、そう尋ねる。中宮がうなずきそうになったものだから、真赭は慌てた。

「そんなに、高価なもの……だめです、いけません!」

「まぁ、真赭は締まり屋だこと」

 そんな真赭の言葉もまた中宮の笑いを誘う。

 夏の一日は、そうやって過ぎていく。どんな懸念があろうとも、藤壺にいれば真赭のどんな悩みも、苦しみもすべてが晴れていくように思った。



 また、夢を見た。

 花畑の夢だ。以前見たときには真赭の膝くらいまでに伸びていた花々は、もう腰ほどの中さにまで大きくなっている。一面花が咲き乱れる光景は美しく、これが因縁のある光景でなければ、真赭も花を見て美しいと感嘆する心の余裕があっただろう。

(……どこにいるの?)

 しかし今の真赭は、花を愛でる気持ちなど浮かんではこない。ただあたりを見回して、視線の主を探す。懸命に目を凝らしていると、下卑た笑い声が聞こえた。

『あたしを探してるの?』

「あ、あ……あなたは、何者? どうして、わたしの夢に出てくるの」

『おや、わからないの?』

 視線の主は、さもおかしそうにくすくす笑った。

『どうして、おまえの夢に出てくるかって? 言っただろう、そりゃ目的はひとつしかない!』

 目の前の空間から、にゅるりと二本の腕が出てきた。それはいきなり真赭の咽喉を掴み、ぎゅうぎゅうと首を絞めてくる。

「や、ぁ……あ、ああっ!」

『おとなしくおし。あたしの手にかかって死ぬなんて、光栄なことだと思いな!』

 真赭は懸命に抗った。しかし手の力はますます強く、真赭は息ができない。意識が薄くなっていく。このまま夢の中で殺されてしまうのか、と思ったとき。

「真赭……!」

「太、乙……?」

 かすれた声で、真赭は彼の名を呼ぶ。今まで夢はたくさん見たけれど、十二月将が現れたことなど、一度もなかった。

「ど、うして……」

 太乙は、真赭の問いに答えなかった。彼は印相を組み、小さな声で呪を唱える。彼の声は小さくて、真赭には聞こえない。

『……ちっ』

 視線の主は、下卑た舌打ちをした。手が離れ、真赭の呼吸が戻ってくる。真赭は激しく咳き込みながら、花畑の中に転がった。

『今日は、ここまでにしておいてやろう』

 どこか苦しげに、視線の主は言った。太乙の呪が、効いたのだろう。

 今まであった、邪悪な気配が消えて行く。真赭は大きく息をついて、立ち上がった。

「ありがとう、太乙……」

「あれか。後宮に巣食う、物の怪の親玉は」

「うん、わたしもそう思う」

 太乙を見上げながら、真赭は言った。彼が来てくれなかったら、この夢の中で真赭は殺されてしまっていたかもしれないのだ。

「あれを祓うことができたら……後宮は、少しは住みやすい場所になると思うの」

「そうだな……しかしあの魂の緒は、やすやすとは切れない。この後宮に根を張っている、あまりにも厄介な存在だ」

「……そうね」

 眠気を感じる。真赭が目を閉じると、夢が薄くなっていくのが感じられた。太乙が消えていく。少しずつ消えていきながら、彼は遠いところから真赭を見守っているかのようだった。



 かの、雷鳴壺更衣の魂鎮めの祭が行われたのは、五月(さつき)ももう終わろうとしているころだった。

 愛宕(おたぎ)で行われた儀に参加した者は、少なかった。僧侶たちに、神衹官の者たちに陰陽寮の者たち。見物の者も内裏での御法のときほどはおらず、どこか閑散とした雰囲気の中、祭が始められる。

 真赭はその末席にいて、儀の進むのを見守っていた。

 行われたのは、調伏の法である。目の前の祭壇には降三世明王の像に香炉、燈台に鈴が並べられ、それを僧たちが囲む。

「蘇婆爾蘇婆、吽、縛曰羅、吽發吒」

 重々しい声が響く。真赭は目を閉じ、同じ真言を唱えながらかの更衣の成仏を祈った。

「唵、蘇婆爾蘇婆吽、蘗哩訶拏吽、蘗哩訶拏波耶吽、阿那野斛婆訶梵縛曰羅、吽泙吒」

 僧たちの唱和は、続く。真言は長々と述べられて、しかし更衣が姿を現すことはなかった。客星に引きずられて姿を現した怨霊だ、あのときも完全に解脱したわけではないことを真赭も知っている。これだけ僧たちが祈っても現れないとは、どういうことなのだろうか。

「……阿那野斛婆訶梵縛曰羅、吽泙吒」

 真赭は、小さな声で真言をつぶやいた。両手を重ね合わせる。小指を絡めて、目をつぶって静かに繰り返し、真言を唱える。

 あのときの光景が、思い出された。恐ろしい形相だった物の怪が、優しげな顔つきに変わったとき。荒々しい口調が、穏やかなものになったとき。優しく穏やかな姿こそが、更衣の本来のさまなのだ。

 麗景殿でのときといい、怨念というものは――特に、愛情が変化した情念というものは、美しい女性をあれほどに変えてしまう。

 真赭はそのことに、恐れを抱く。また自分がこの先、それほどの凄まじい愛に身をやつすことがあるのだろうかと考えた。

 そのようなことを思いながら、真言を唱えていたとき。おお、と上がった声に、真赭は、はっと目を見開いた。

「あ……」

 目に入ったのは、祭壇の上の白い影だ。ゆらり、と浮かんだのはかの更衣――茜色の、花筏紋の袿。静かに目を閉じている更衣は、以前見たときよりも穏やかな雰囲気に包まれている。

 更衣は、ゆっくりと目を開いた。そのまなざしは、まっすぐに真赭に向けられている。目が合って、真赭は、はっと目を見開いた。

「このような……」

 ゆっくりと、更衣は言った。ほかの者に聞こえているのかどうかはわからないけれど、真赭の耳には、はっきりと届いた。

「このような、祭を……してくれて、ありがとう。これで……あんな浅ましい姿をさらしたわらわも、来世への徳を積めるというもの……」

「ええ……」

 それでこそ、この儀を催した甲斐もある。真赭はうなずき、すると更衣がゆっくりとこちらに歩いてくる。

 まわりが、ざわりとざわめく。ということは、この場の者たちにも更衣の姿は見えているのだ。

 更衣は真赭のもとにまで歩いてくると、その手を差し出した。促されるままに真赭は手を出し、すると暖かい体温が伝わってくる――確かに、そう感じられた。

「あなたにも、功徳がありますように」

 更衣は、はっきりとそう言った。

「あなたの親切は、忘れません。来世(きたるよ)で……恩返しが、できますように……」

 その場は、しんと静まりかえっていた。更衣は真赭に向かって微笑み、きゅっと手を握りしめる。

 実体はないのに、どうして更衣の手の感覚やぬくもりを感じることができるのだろう。それが不思議で、同時に不思議ではない、それだけ更衣が真赭に親しみを覚えている証であると感じられた。

「わたしも……」

 心からあふれ出るままに、真赭は言った。

「更衣さまの、よき成仏を祈っております。更衣さまが、来世こそは幸せでいられますように……」

 更衣は目を細めた。真赭は、先ほどまで唱えていた真言を再び口にする。すると更衣の姿は徐々に薄くなっていき、手の感覚もぬくもりも、通り過ぎていく。

「あ……」

 完全に、更衣の気配はなくなった。それでも真赭は手を差し出したまま、更衣の消えていった先をぼんやりと見ていた。

 更衣の気配に重なって、新たな気配を感じる。新しいものではない、今までも馴染みのあったもの――こうしてある間にも、それは真赭の肌をぴりぴりと焼くようだ。それが後宮に住まっている、もっと大きなものの存在感なのだ。夢の中、花畑の視線の主――いったいそれはなんなのか。正体が見えないからこそ、真赭には気になって仕方がない。

(どうやったら……あの強い力の正体を見ることができるのかしら。どうやって祓えばいいのかしら)

 真赭の意識を奪ったのは、いきなり突き刺さってくるような怒声だった。

「おまえは……何者なのだ!」

 声が響いた。真赭は、はっとしてそちらを見る。

「我々が、あれほど祈念しても現れなかったものを……」

「あの物の怪は、おまえしか見えていなかったようではないか」

 声を上げるのは、僧侶たちに陰陽寮の者たち、神衹官の者たち。皆一様に、怒りに肩を震わせている。

「なぜおまえが、それほどの力を持っているのだ!」

「狐の力か? おまえの祖父も、祖母も……狐を親としていたと。その力のなせる技なのか?」

 次々に投げかけられる悪態に、真赭は目を見開くしかできない。真赭がなにも言わないことをいいことに、皆が怒りの声をぶつけてくる。

「おまえなどがこの場にあることが、そもそも間違っている!」

「いったい、どのような怪しき技にて物の怪と心を通じ合わせるのだ?」

 皆、一様に怒りの言葉を投げかけてくる。包み隠すこともない怒気を前に、真赭はたじろぎなにも言えない。

「どの寺にも、陰陽寮にも、神衹官にも属さぬ者が!」

 真赭の父ほどの年格好の僧が、叫んだ。

「おまえなど、怪しげな外法陰陽師と変わらぬわ!」

「……っ、……」

 真赭は思わず、息を呑んだ。怪しげな外法陰陽師――それは真赭がもっとも気に病んでいることであり――まさに、そのとおりであったからだ。

「外法陰陽師など、この場にいる資格はない!」

「どこなりと、行ってしまえ! この……穢らわしき者が!」

 真赭は、なにも言えなかった。ただ大きく目を見開いて、自分を罵る者たちを見つめていることしか、できなかった。



 藤壺に向かう廊で真赭は、はっと顔を上げた。

 知った姿が、高欄に身を預けて庭を見ていたのだ。なにがあるのだろう、と真赭も思わずそちらを見た。

 夏の宵にふさわしく、釣殿でうおが泳いでいるのが見える。真赭は足を止めた。

「真赭」

 釣殿を見やっていたのは、清彰だった。彼は真赭を見ると、にやりと笑う。

「いや、陰陽姫。私に、怪しげな技でも見せてくれないか」

 陰陽姫。その言葉に、真赭は眉をしかめた。胸中では、天剛が怒りの声を上げているのが聞こえる。

(なんだ、この男は……。真赭がいやがっているのを、知らないのか?)

(知ってるからこそ、言うんだよ)

「どうした、陰陽姫」

「……怪しげな技とおっしゃられても、わたしにはなにも」

「謙遜するな」

 釣殿に背を向けて、清彰は言った。高欄にもたれかかって腕を組み、さも楽しげに笑っている。

「おまえの技になら、どんな物の怪だって姿を現す……あらゆる怪異をねじ伏せることができるというじゃないか」

「そのようなことは、ありません」

「そう言うなよ」

 清彰は手を伸ばす。びくり、とわなないた真赭の顎を、彼は掴んだ。

「かの高名な、陰陽姫。私は、おまえの技を見たいんだよ」

(こいつ、前、蛙がつぶれたときのことを覚えてないのか?)

(懲りない人ですね……)

 勝光と登明が、それぞれそうつぶやいた。真赭はこの場を離れ、清彰から逃れようとしたけれど、清彰は今度は真赭の肩を掴んできた。ぐっと力を込められて、真赭は眉をしかめる。

「おい、陰陽姫。逃げるのか?」

 むっとした。しかし清彰の言葉に挑発されるようなことはしたくない――真赭は迷い、同時に右手首に熱が走ったのに気がついた。

「……太乙」

 珠への封印を自ら解いて、姿を現したのは太乙だった。彼は清彰と真赭の間に立ち、肩に置かれた清彰の手をはたき落とした。

「な、に……」

 突然現れた太乙に清彰は心底驚いたらしく、続きは言葉にならなかった。清彰はぱくぱくと陸に揚げられた魚のように口を動かし、そしてようやっと声を出す。

「おまえ……、どういうつもりだ!」

「どういうつもりも、なにも」

 太乙は、冷ややかにそう言った。聞いている者の耳が凍りそうな声だ。この暑いさなかでも、その冷たさははっきりと感じられた。

「主をお守りするために、私たちはいる。主がならず者に絡まれていれば、出てくるのは当然だと思うが?」

「なに……」

 はたかれた手を握り、清彰はしばらく呆然としていた。太乙は扇で口もとを隠し、青い瞳で清彰を見ている。

「ならず者、だと?」

「ああ。おまえは西市で、わざと人にぶつかりもの言いをつけるならず者と、変わりがない」

「おまえ……、私に、そのような口を……」

 ふん、と太乙は鼻で嘲笑う。真赭はといえばおろおろと、どうふたりを仲裁しようか戸惑っている。

「口が、どうしたと? 春宮の身分を笠に着て、無体なことを言う輩は……」

 太乙は、ぱちりと扇を慣らした。と清彰の足もとに、ぽんと青い火が現れる。

「な、なんだ……これっ!」

 清彰は、じたばたと四肢を跳ねさせる。しかし彼が暴れるほどに炎はますます大きく燃え上がり、清彰は懸命にそれを払おうとしていた。

「おい、これ……やめろ、こんなこと!」

「ならず者には、いい薬だ。そのまま、狐火とともに燃えてしまえ」

「太乙!」

 真赭は、思わず声を上げた。

「だめよ、こんなことしたら……あなたが咎められちゃう!」

「構わん。この男には、思い知らせてやらなければならないからな」

 でも、と言った真赭の視界で、清彰はなおも暴れている。しかし彼が動けば動くほど炎の勢いはより上がり、青い火に包まれた清彰の姿は、差し伸べた手だけしか見えなくなる。

「でもやっぱり、だめよ! 清彰さまに……なにかあれば、中宮さまが悲しまれるわ!」

 太乙は、眉をしかめた。潜めたまなざしで真赭を見ていたけれど、ひとつ息をつくと、また扇を鳴らす。すると青く燃え上がっていた炎は消え、そこにはひとりばたばたと暴れる清彰ばかりがいた。

「……あ?」

 真赭は、思わず噴き出した。炎が消えたことを知ったときの清彰の格好が、まるで曲芸師のようだったからだ。

「な、ぁ……っ……」

 自分の姿があまりにも間抜けだったことに気がついたのだろう。清彰は、顔を真っ赤にした。そしてぎろりと太乙を睨みつけると、どたどたと足音を立てて廊を行ってしまった。

「あんなこと、しなくていいのに」

「真赭が困っているのに、見過ごすことはできん」

 太乙は、真赭に背を見せたままそう言った。ちらりと真赭を見て、そしてしゅるり、と煙のように消えて。真赭の右腕の輪は、再び十二粒の珠が並んだ。

(あの春宮には、ちょうどいい脅しだったろうよ)

(太乙ばっかりかっこつけちゃって)

 真赭には、ほかの式神たちが笑ったりぼやいたりしているのが聞こえる。くすりと笑い、そのまま清彰のもたれていた高欄に近づいた。釣殿で魚が、ぱちゃりと跳ねる。

(ありがとう)

 そうつぶやいた真赭に、太乙はなにも言わなかった。珠の奥深くに気配を隠して、しかし真赭は、はっきりと太乙の存在を感じることができる。

 ふわり、と風が吹いた。涼を届けてくれるそれに髪を揺らした真赭は、そのまま高欄の上に座った。そして、釣殿を見ていた。



 真赭は、渡廊を歩いていた。

 藤壺の西の、自分の居場所へと帰るためである。歩いているところに、声がかかった。

「もし、天雲の」

 名字を呼ばれることは、そうない。真赭は振り返り、すると梅壺のほうから、ひらひらと、真赭を招いている手が見える。

「天雲、真赭。こちらに、いらっしゃいな」

 言葉は丁寧だけれど、何とはなしにむっとする物言いだった。もちろん、真赭は無位無冠なのだから、そのように言われるのは仕方がない。しかし、そのような相手と侮って気軽に声をかけてくる様子に、なにかしらいやなものを感じたのだ。

(でも……お応えしないわけにはいかないし)

 もっと身分の高い者に呼ばれているとでもいうのならともかく、今は急ぎの用などはない。言い訳をしても逃げてもいずれ呼ばれてしまうのなら、今応じてしまうのがいい。

(……用事は、十中八九、わたしの技とか、十二月将のことだろうけれど)

 こうやって呼ばれるのは、初めてではない。以前は十二月将を見たいと桐壺更衣にねだられた。ああやって直接関わり合いになることがなければ、後宮には真赭の存在を知らない者もあったのだ。しかし今では真赭の名は内裏、大内裏、都、中宮の言ったように下手をすれば都の外にまで響いている。

「こちらにおいで。早く、女御さまがお呼びよ」

 梅壺女御という人物に、真赭は会ったことがなかった。しかしこうやって人を呼びつける態度といい、言葉遣いといい、女房のそれは主人のそれだ。真赭の眉間には、皺が寄ってしまう。

(不愉快な思いをさせるかも)

 真赭は、胸のうちに語りかけた。

(いやな気持ちになることがあるかも……そうなったら、ごめんね)

(そのときは、真赭だって一緒だろう?)

 呑気な調子でそう言ったのは、小吉だ。

(いやなことなんて。別に、梅壺女御とやらが裸踊りをしてみろって言ったって、俺たちは別に構わないぞ)

(いや、さすがにそれはないでしょうけれど……)

 小吉たちは、真赭を励ましてくれているのだろう。先だっての愛宕での出来事以来、どうしても気分が高揚しない真赭を心配してくれているのだ。

(ごめんね、気を遣わせて)

 苦笑しながら真赭は、上げられた御簾の中に入った。

「あら、本当に天雲真赭なの?」

 甲高い声が大きく響く。その声が、きんと響いて真赭は思わず体を引きつらせた。

「本物を見られるなんて! いえ、わたくしも中宮さまの御法は見物していてよ。けれど、御簾越しでよく見えなかったし……いい場所は、中宮さまたちが取っておしまいになったのだもの。わたくしたちは、末席に侍ることしか許されなくて」

 中宮が主催の御法であったのだから、中宮やその女房たちがいい席を許されるのは当然である。それを不満げに言うのはどのような女御だろうと、真赭はかえって好奇心をそそられた。

「真赭どの、こちらへ」

 母ほどの年齢の女房、殿舎の奥へと真赭を招く。通された先は、梅壺という名に倣ったのだろうか、赤と浅紅に彩られていて、この季節には少し暑苦しいと感じられた。

「真赭、こっちにいらっしゃい」

 その奥で、脇息にもたれかかって手にした扇をひらひらさせている女性がいる。年は、真赭よりもふたつ三つ、年上だろうか。ぱっとした華やかな顔立ちで、人目を引くのは間違いない。

「おまえが、本当に天雲真赭?」

「さようにございます」

 真赭は、その前に丁寧に頭を下げた。梅壺女御は、真赭をじろじろと見た。この暑いのに、きちんと袿を重ねているのは感心だけれど、女房たちが真赭を呼んだときの態度のせいか、どうにも真赭は彼女に好意的になれない。

「まぁぁ、後宮に、このような者がいたなんてね!」

 手にした扇を、ぱたぱたとさせながら女御は言った。

 大きな瞳に、通った鼻筋。小さな唇と確かに美しい女御だけれど、どことなく品がないように思えるのは、季節に似合わない紅梅の襲をまとっているせいだろうか。

 それが梅壺の名にちなむのなら確かに洒落者であろうけれど、どうしても品のなさが拭えない。

「わたくしも、物の怪のひとつくらい見てみたいわ。おまえが、祓ってくれるのでしょう? そうすれば怖いものはないし、わたくしも珍しい体験ができるというものだわ!」

「お戯れを……」

 真赭は、苦笑とともに答えた。梅壺女御にいまいち品が感じられない理由に、思い至った。女御は、声が甲高いうえに早口なのである。貴婦人たる者、静かな声でひっそりとものを言うのが美徳とされるのに、こうやって大きな声を上げるのは、生まれ持った性質というものだろうか。

「まぁ、戯れなどではなくてよ。わたくしも物の怪を見てみたいし、それを祓うおまえの姿も見てみたいわ!」

「ご覧になるようなものではございません。お目の穢れになります」

「そのようなこと、構わないわ。穢れなんて恐れていたら、見たいものはなにも見られないわ! ねぇ、真赭。今度、おまえが物の怪祓いをするときは、わたくしも一緒に連れて行ってくれないこと?」

「いえ……、危険でございますし。女御さまともあろう御方をお連れするわけにはまいりません」

「そこを、どうにかしてちょうだい! おまえの言うことなら、中宮さまもお耳を貸されるというじゃないの。ぜひとも、わたしくを連れ行くお許しをもらってちょうだい?」

「そういうわけにはまいりません……」

 真赭は、困惑した。この場をいかに切り抜けようかと、内心汗をかきながら梅壺女御の前に座っている。

「ねぇ、次の祓いの日はいつなの? やはり夜? 物の怪が出るのは、夜だものね」

「そのようなことは……決まっているわけではないので……」

「早く、帝のお許しを得てちょうだいよ、次の物の怪祓いには、必ずわたくしを連れて行くこと。いいわね?」

 真赭に断りの余裕など与えない口早で、女御は言いつのる。すると女御のうしろから、そっと声をかけてくる者があった。

「もちろん、おまえを軽んじるようなことはしないわ。今日はね、絶対におまえをつかまえようと思って、用意してあるものがあるの」

 なにか、甘い匂いが漂った。中宮のもとで馳走になる菓子とは違うようだ。なんだろう、と首を傾げる真赭の前、出されたのは金碗(かなまり)に入った、削り氷だ。

「今日は、暑いでしょう? わたくし、これを食べようと思って用意していたの。もちろん、おまえのぶんもね。一緒にいただきましょう?」

 削り氷には、甘葛がかけてある。今日のような日にはもってこいだけれども、初対面の親しくもない相手に出すようなものではなかった。

「食べないの? 早くしないと、溶けてしまうわよ」

「え……、あ、はい……」

 これが中宮なら、いくら暑いからといって削り氷など出しはしないだろう。中宮なら、小餅か酒か。それを介して親しくなるという意味を込めてのものを出してくるだろう。

「早く、早く」

 女御にせっつかれ、真赭は匙を手に取る。氷は冷たくて気持ちよかったし、甘葛はちょうどいい量をかけてある。美味であることは間違いなかったけれど、しかし真赭は、どうしても違和感が拭えない。

「どう、美味しい?」

「はい……、ありがとうございます」

 にっこりと、女御は微笑んだ。確かに、愛すべき人物ではある。しかしあんなにだらしなくしていても中宮は中宮の威厳を保ちどこか緊張感があるのに対し、女御はまるで幼女のような、ただ愛くるしいという印象しか受けない。

「ねぇね、見せてくれないの?」

 金属の器に入った削り氷が半分ほどになったとき、女御は目を輝かせてそう問うてきた。

「はい……?」

「もう、鈍いわね!」

 焦れったそうに両手を振りまわしながら、女御は言った。

「おまえの、守護者たちのことよ! その腕輪に、封じてあるんでしょう? なかなかに、見目麗しい者ばかりだというじゃないの!」

 真赭は、思わず顔が引きつるのを懸命に堪えた。女御はそんな真赭には気づいてもいないようで、匙を振ってもどかしそうにしている。

「ぜひ、見せてちょうだい? ここに、呼び出せるのでしょう? 早く、早く!」

「ですが、あの者たちは女御さまにお目にかけるような者では……」

「なにを言っているの!」

 目を見開いて、女御は言った。

「身分とか、そういうものを気にしているの? それなら、わたくしが許すわ。わたくしがいいというのですもの、帝だって反対はなさらないわ」

 あの中宮と仲睦まじい帝である。確かにこの程度のことで怒ったりはしないだろう。真赭が恐れているのは、そのことではなかった。

 ただ、十二月将を見せものにしたくなかったのだ。以前、桐壺更衣に見せたときは、悪夢に取り憑かれた彼女の気散じになればいいと思った。しかし今の梅壺女御は、好奇心で見たがっているに過ぎない。そのような彼女の前に晒すには、どうしてもためらいがある。

「どうしたの? 帝のお怒りを恐れているのなら、わたくしが取りなしてあげるから」

「そういうわけではないのですが……」

 十二月将を見た女御が、どのように反応するのか。それが容易に想像できるだけに、真赭は匙を動かす手を止めて、悩んでしまう。

「これ、天雲真赭」

 そう言ったのは、女御のそばに控えている女房だ。

「女御さまのお言葉よ。どうして、おっしゃることを聞かないの」

「いえ……、あの。ですから、女御さまのお目汚しにならないかと……」

「目が穢れる? そんな、醜い者たちなの?」

 そんな女御の反応に、真赭の胸にうちで声を上げたのは従魁だ。

(醜いとは、聞き捨てならんな。ここは、ひとつ姿を見せて……)

(だめよ、従魁)

 真赭は、思わず彼を留めた。

(ここは、後宮。おまえたちをあまり出さないようにって、中宮さまからも言われているの……忘れたの?)

(しかし、この女御、これほどに私たちを見たがっているではないか)

 そう言ったのは、神后だ。彼がこのような局面で口を出すとは、珍しい。

(見せてやればいいではないか。なんの差し障りがあるのだ)

(そうだそうだ、俺たちだって、出たい!)

 じたばたと、童のように暴れるのは小吉だ。そんな彼の真似をするのは、勝光だった。

(女御を、驚かせてやろう)

 そのように言われては、真赭も諦めるしかない。彼女はふぅ、と吐息をつくと、右手を差し出した。しゃらん、と珠同士が触れ合って、女御は目を輝かせた。



 肩を落として、真赭は渡廊を歩いていた。

 すでに再び珠と変じ、真赭の右腕に絡まっている十二月将たちも、同様だ。

(なんだか……ものすごかったな、あの女御)

 疲弊した声で、そう言ったのは天剛だ。

(なんというか……女がかしましいとは、ああいうのを言うんだって……実感したよ)

 いつもなら、何ごとが起ころうとその場を楽しんでしまう大吉さえもが、疲れた声をしている。

 女御のはしゃぎっぷりは、すごかった。そんな主に仕えているというだけあって、女房たちも大騒ぎだった。十二月将たちは手を取られ目を覗き込まれ、雨あられと降る質問を投げかけられてすっかり疲弊してしまったようだ。

(やっぱり、あなたたちを出さないほうがよかったわね……)

 後悔しつつ、真赭が言う。ううん、と首を振ったのは、河魁だった。

(もし女御さまに嫌われたら、後宮にいにくいじゃないか。別に害になるわけでもなし、僕たちは、真赭の役に立ててよかったよ?)

(そう……?)

 藤壺との廊を行きながら、真赭は呻く。

(あなたが、そう言ってくれるのならいいのだけれど……でも、あんなふうに衣まで脱がされかけて)

(あの女御は、どうして女御などという地位にいるのかわからんな)

 ため息をついたのは、太乙だった。見かけ以上に、衣の中身も人間と同じなのかと、直衣の首上を引っ張られ、裾をめくられ、袴まで脱がされそうになったのだ。

 そのときの太乙の様子を思い出すと、思わず笑ってしまうのだけれど。しかし当の太乙は笑うどころではなかったし、ほかの者たちも皆似たような目に遭ったのだ。

(真赭の言うことを、聞いていればよかったな)

 勝光が、ぽつりとそうつぶやいた。

(俺たちを出したら、帝のお怒りに触れるとかなんとか言って……逃げていればよかった)

(ごめんね……)

 はぁ、と真赭はため息をつく。

(わたしが、女御さまをお止めしておけばよかったのだけれど……なにしろ、あの勢いだったものだから)

(いいえ、真赭は悪くないですよ)

 登明も、疲れた声をしている。女と見まごうばかりの彼は、式神がどのようなものか、という興味以上に、本当に男なのかとさんざんに好奇の視線を浴びたのだ。

(私たちが、出たいと言ったのですから……ええ、真赭は悪くありません……)

(登明、大丈夫?)

 身体的な疲労よりも、心の疲れのほうがひどいようだ。目の前にいれば、背でもさすってやりたいところだけれど、今の真赭は十二月将たちを腕輪に封じ、ひとりで廊を歩いている。

「まぁ……」

 ざわり、とまわりの空気が変わったのがわかった。目の前にあるのは、帝の住まう後涼殿に続く廊。垂れた御簾の向こうにいるのは、その後涼殿に詰める女房たちだろう。

「ごらんになって」

「……陰陽姫……」

 どきり、と胸が鳴る。聞こえてきた声が、決して好意的なものではなかったからだ。真赭はまわりを見回す。ここは後涼殿の敷地内で、今まで真赭はあまり足を踏み入れなかったところだ。

「中宮さまの御法を、めちゃくちゃにした子よ」

 どきり、と胸が鳴った。真赭は固唾を呑み、声のしたほうを見た。

 御簾が厚くかかっていて、姿は見えない。それでもたくさんの人の気配は確かに感じられて、真赭は身をこわばらせた。

「そう、せっかくのありがたい御法だったのに……すべて、あの子がかきまわしてしまって」

 真赭は胸に、手を置いた。中宮は、そのことを責めない。それどころか雷鳴壺更衣の怨念を晴らしたと、真赭を褒めてすらくれる。

(そのことに、甘えていちゃいけなかったんだ……)

 そのことに、今さらながらに気づいた。中宮がなにも非難めいたことを言わないから、自分の行動は正しかったのだと信じ込んでいた。しかし確かにあれは、中宮の面目をつぶしたも同じ。迷惑を被ったのは、阿闍梨や帝だけではなかったのだ。

「なにやら、妙な術を見せるとやら……」

「……陰陽寮にいるわけでもないのに、陰陽道を使って」

「わたしは、妖術だと聞いたわ」

「山に住む天狗の弟子だとか?」

 このまま進む勇気は、真赭にはなかった。さりとて引き返して、やっと抜け出してきた梅壺に逆戻りもごめんである。真赭は立ち止まり、すると御簾のうちから洩れ出てくるくすくす笑いが彼女を取り巻いた。

「ほら、ごらんなさい。女なのに、あんな短い髪で」

「水干なんて着て。恥ずかしくないのかしら?」

「なんでも、狐の血を引いているとか?」

「まぁ、気味の悪い。そのような者が昼間から後宮をうろついているなんて、どういうことなのかしら」

「なんでも、中宮さまのお気に入りだとか」

「中宮さまも、変わったところがおありになるから……」

「だから、あのような者を、召し使うのかしら?」

 くすくす、くすくす。その声ははっきりと聞こえるのに、姿は見えない。だからよけいに圧迫感を感じて、真赭は立ちすくんでしまう。

「ほら、あの右手」

「あそこに、式神を封じているのですって」

「式神なんて、物の怪のようなものなのでしょう?」

 真赭は、思わず袖の中に右手を隠した。あら、と御簾の向こうから声がする。

「隠してしまったわ」

「やはり、式神なんて怪しげなもの……本当なのね」

「……陰陽姫」

「後宮に入り込んで、なんのつもりなのかしら。わたしたちを、取り殺してしまうつもり?」

「まぁぁ、恐ろしい。そんな、気味悪くも恐ろしいものを、帝はどういうお考えで」

「妖術で、帝をもまやかしているのではなくて?」

「そのようなこと……畏れ多いにもほどがあるわ」

「誰か、あの者の正体を暴かなくては」

 梅壺でのことのほうが、ましだと思った。好奇の目で見られるのはいやだったけれど、このように人の口の端に上るのはさらに辛いことだった。

 真赭は足が動かせず、しかしまるで木の床がぐるぐるとまわっているような、そのまま倒れ込んでしまいそうな、奇妙な感覚にとらわれる。

「衣を脱がせてごらんなさい。きっと、狐のしっぽが出てくるわ」

「髪をほどいてごらんなさい。出てくるのは、狐の耳よ」

 くすくす、くすくす。笑い声が広がる。真赭は思わず、かたわらの高欄に縋りついた。

(大丈夫か)

 太乙の声が、胸の奥に響く。真赭は髪を揺らし、こくりと頷く。

(だい……じょう、ぶ)

 心の中でうめき声を上げながら、真赭は言った。

(このようなこと、あるとわかっていたのですもの)

 今までは、後宮においては藤壺からほとんど出ずに暮らしていた。呼ばれてほかの局に向かうときも、このようなあからさまな言葉を聞いたことはなかった。遊び場は内裏を飛び出して、都のあちこちに求めてきた。

 祖父が亡くなってからはその残した書物をひもとき、世話になっている藤壺に役立てるよう、苦心した。桐壺更衣のような、噂を聞きつけた者のたまの依頼があるときはそちらに出向いたものの、それ以外は藤壺から出ることもなかったのだ。

 だから、これほどの悪意に晒されるのは初めてだった。梅壺まで出てきたことを後悔したが、もう遅い。

「陰陽姫!」

 潜められた、しかしはっきりとした声が耳に届く。

「女でありながら、道士だなんて気味が悪い。女の陰陽師など、聞いたこともない」

「狐の血を持つ者など、後宮にあってはならないのに」

 だから、これほどあからさまに人の悪意に晒されたことは、なかった。真赭のことを知った者は、皆このように思うのか。このように、陰言(かげごと)を述べるものか。

「……陰陽姫!」

「陰陽姫……!」

「気味の悪い、狐との混血!」

 真赭は、その場にふらりと倒れ込む。しかし掴まった高欄のおかげで、ぺたりと床に座ってしまうだけで済んだ。

(真赭……、大丈夫か)

 心配そうな太乙の声に、かろうじてうなずく。真赭は自分を叱咤して、どうにか立ち上がった。

 そんな真赭の様子を、見ているのだろう。くすくす響く笑い声は、なおも続く。真赭の情けない姿を嘲笑う声が、幾重にも重ねられる。

(こんな……、こんな場所、だったなんて……)

 今まで知ることもなかった、後宮の本当の姿。それは真赭を傷つけ、苦しめ、惑わせるものだった。

 麗景殿女御の怨みや、かつての雷鳴壺更衣の怨念。それらのものを見てきたはずだったのに、それが自分に向けられるものになって初めて、罵られる辛さを知った。怨嗟の恐ろしさを知った。

(みんな……、みんなは、大丈夫なの?)

 胸の内に問いかける。十二月将たちが、皆心配して真赭を見守ってくれているのがわかる。あからさまな罵りの中にあって、彼らの存在だけが頼りだった。真赭は思わず、右腕を撫でる。連なった珠からは、ほのかな温みが感じられた。

(わたしは、大丈夫よ……。だって、全部本当のことだもの。狐の血を引いていることも、お祖父さまのことも……わたしが、陰陽姫だって言われるのも……)

(……真赭)

 そうつぶやいたのは、誰だったのか。真赭は、懸命に足に力を込めて立ち上がった。いまだに笑い声の響く廊を、一歩一歩、歩く。

(大丈夫……、大丈夫、だから……)

 歩きながら、真赭は自らを鼓舞するようにつぶやいた。

(こんなの……たいしたことない。きっと、お祖父さまも……お父さまも、同じ目に遭ってきた)

 そう思うと、少し力が湧いてくる。真赭は意識的に足に力を入れながら、藤壺の西の対に向かって歩く。

(お母さまも……お父さまと結ばれるには、大変な覚悟が必要だったはずだもの)

 母は、そのことを苦労話として話したわけではなかった。それでも家族や仲間の反対があったことは知っている。藤壺中宮の後押しがなければ、とても結婚できなかったであろうことも。

(わたしが、くじけちゃいけないの……)

 広がる笑い声。おぼつかない真赭の足を嘲笑う者。その中を、泳ぐように真赭は歩いた。足は頼りなく空気を踏んでいるようだったけれど、それでも懸命に、真赭は歩みを前に進める。嘲笑の波から、好奇の視線から逃れようと。

 どこまで歩き続ければいいのか、真赭にはわからなかった。



 くすくす、くすくす、と笑い声が聞こえる。

 真赭は、自分が夢の中にいることを自覚していた。笑い声は花畑の視線の主で、真赭をとらえ、殺してしまおうとしていることにも真赭は気がついていた。

「また、わたしを狙っているの?」

 背筋を伸ばし、花畑の中あたりに目線を巡らせながら、真赭はささやいた。

「わたしを殺して……後宮をめちゃくちゃにするつもりなの?」

『それも、いいね』

 声が聞こえてきて、ぎくっとした。振り返ると、背中に視線を受けていたことに気がついた。真赭は振り返ると、視線の主をじっと睨みつける。

『めちゃくちゃになれば、さぞかし楽しいことだろうね。そんなところも見てみたい……ああ、おまえにはやっぱり、死んでもらうしかないみたいだよ』

「そんなに簡単に、死なない」

 真赭はとっさに、印相を結んだ。呪を唱えようとして、しかし口が動かない。手も形をなすことができない。ついで物の怪に後ろから抱きつかれ、手が崩れてしまう。

『今日は、あいつらも来ないよ……結界を張っておいたからねぇ』

「あいつらって……十二月将?」

 視線の主は、そうだとも違うとも言わずに、真赭に抱きついている。それが気味悪く、真赭は力を込めて振り払った。

「もちろん、あの者たちは……わたしの助けになってくれているけれど。いないとわたしが何もできないというのは間違いよ!」

『だけどここは、あたしの場所だ』

 真赭に抱きついたまま、視線の主は言った。

「あんたの思うとおりにはいかないよ。あんたはここを浄化するつもりみたいだけど、あたしがそんなことさせないから」

 ふたりは少し、揉み合った。腕力に負け、真赭は仰向けに、花の中に埋もれてしまう。その姿は見えないけれど、何かの力が真赭の肩に手を置き、じっと見下ろしてきているのがわかる。

「やめて……離して!」

 真赭は体をひねって、視線の主の力から逃れようとする。何度かもがいているうちに手は外れ、真赭は傍らに転がった。

「あなたの思うとおりになんて、させない」

 はぁ、はぁと息を吐きながら真赭は叫んだ。

「後宮は、守ってみせる。中宮さまたちに……手出しなんて、させないんだから!」

 視線の主と少し距離を取り、真赭は素早く印相を結んだ。呪を唱えようとして、しかしやはり声が出ない。普通に話すことはできるのに、呪を唱えることができないのだ。

(夢の中だから)

 唇を噛みながら、真赭は思った。

(すべてはこの物の怪に……支配されているんだわ。牛耳られている……!)

『……中宮』

 どうすればいいのか、困惑する真赭の前、視線の主はそう呟いた。中宮に所縁のある人物なのか。もしくは中宮に恨みを持つ者。いずれにしても不思議な話ではなかった。人の上に立つ者は、どうしても人の妬みを買ってしまう。

「あなたは……何者なの」

 それでも、呪を唱える隙ができるかもしれない。身構えながら、真赭は言った。

「どうして中宮さまを苦しめるの。どうして、わたしの夢に出てくるの!」

『あんたが、後宮を守ろうなんて無駄に頑張ってるからさ』

 嘲るように、視線の主はそう言った。

『そんなことは無駄だ、後宮はあたしのものになる……そのことを教えておいてやらないと、おまえはあたしの邪魔をする』

「あたりまえだわ、あなたの思い通りにさせてたまるもんですか!」

 視線の主が、真赭に近づいてきたのがわかった。真赭はとっさに手を伸ばし、相手の体を掴む。胸もとを掴んだような感覚があって、視線の主がぐっと息を詰まらせるような音を立てた。

「中宮さまに……後宮に、手出しなんかさせないわ! あなたが、あなたを……自由にはさせないから!」

『できるものならば、してみるといいよ!』

 そんな真赭を嘲笑うように、視線の主は言った。

『あたしを止められるものならね……止めてみるといい!』

 そう言って相手は、けたたましく笑った。その笑い声はきんきんと真赭の頭の中に響いて、彼女はとっさに頭を押さえた。するり、と視線の主が逃げていく。それを追いかけようとして立ち上がったけれど、生い茂る花々に足を取られて真赭は転んでしまう。

『あーっははは、はは、ははは!』

 視線の主の気配が弱くなって、消えて行く。真赭はそのまま、その行く手を見送るしかなかった。



 目が覚める。また、花畑の物の怪の夢を見た。しかも物の怪は、中宮や後宮を狙うとはっきりと言ったのだ。

「そんなこと……させないから」

 真赭は呻いて、体を起こす。まだ朝まだき、眠っている者も多い。そんな中、真赭は気をつけて床を歩き、廊に出て高欄に身を預けて朝の空を見た。

「真赭」

「あ……おはよう、太乙」

 声をかけてきたのは、太乙だった。彼は実体を持って真赭の隣に立っていて、その姿に真赭は目をみはった。

「朝からこうやって、珠から出てくるの……珍しいわね」

「おまえの夢の波長を浴びて、のんびりしていられるわけはないからな」

 太乙はそう言うと、先ほどまで真赭が見やっていた、茜の空に目を向けた。

「……なんだ、あれは」

「わからないわ」

 そう言って、真赭は息を吐いた。

「ただ、わかっているのは、あれが中宮さまや後宮を狙っているということ。放っておいたら、どのような災厄が起きるかわからないってこと」

「それを、おまえが背負う必要があるのか」

 太乙の言葉は、冷ややかだった。真赭は彼を見上げる。同時に昨日、後涼殿の女房たちに心ない言葉を投げかけられたことを思い出す。

「あのような者たちをも、おまえは守ってやるというのか? おまえに、辛い思いをさせた者たちだぞ」

「……わたしは、後宮を守りたい」

 絞り出すように、真赭は言った。

「中宮さまをお守りしたいの。あんなこと言われて、何も感じていないわけじゃないけど……わたしは、守るわ」

「おまえがそう言うのなら、私たちに異議はない」

 太乙はそう言って、真赭を見つめる。視線が絡まって、真赭は少し恥ずかしくなってそっぽを向いてしまった。

「あれは、いったいどうやったら封じられるのかしら」

 独り言のようにそう言うと、太乙が首を傾げた。

「あれがいなくなれば、物の怪騒ぎとか……きっとあれが、後宮にはびこるものたちを支配しているのよ。そうとでも考えないと不思議なくらい、強い力の持ち主だった……」

「ああ、おまえの夢で、私たちもあれの力のほどはわかっている。きっと、おまえの言う通りだということもな」

「だからわたしは、負けてちゃいけないの」

 真赭は、ぐっと握りこぶしを作った。

「どんなことがあっても……耐えなくちゃ」

 そう言って、朝まだきの空を見上げる。ふと太乙を見やると、彼は厳しい顔をして真赭を見つめていた。

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