表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
陰陽姫と平安の都  作者: 月森あいら
5/9

第四章

 安倍吉昌が、記録に残して、曰く。

『一条院 寛弘三年 四月二日 癸酉方向 夜以降 騎官中 有大客星 如蛍惑』

 この年の四月二日。夏になったばかりのこの季節に、火星のごとき大きな流星があったのだという。それを見た者、話に聞いた者は皆驚き、仰天し、なにかの異変ではないかと恐れたということだ。

「客星、ですって……?」

 真赭は、その気配に驚いて飛び起きた。十二月将のうちのふたりの兄弟、大吉と小吉は直接その目で見たと言うし、兄を亡くした双子の片割れ、傳送はその気配に脅え石の奥に隠れていたという。

(だって、すごく怖かったんだもん……)

 石にしがみついて隠れていた傳送は、今にも泣きそうな声でそう言った。今はもう陽が昇っていて、そのような不吉なことがあったなどとは思えない。しかし客星の残した気配は色濃くあって、息をするのも苦しいと感じてしまう。

(ものすごく、大きなものが近づいてきて……少しでも体を動かしたら見つかって、食われちゃいそうだったんだもん)

 今もまだその恐怖が去らないのか、震えながら傳送は続ける。真赭は、右手首に腕輪を嵌めて藤壺の西の対の簀子にいる。晴れ渡った空を、眺めている。

(すごい力だったんだよ。客星の放つ力が引っ張ってきて。ちゃんと掴まってないと、吸い込まれちゃいそうで)

 ぶるり、と身を震わせて傳送は言う。そしてまだ聞こえるという客星の悲鳴の残響を恐れ、耳に手を置いて小さく丸くなってしまって出てこない。

(怖い……怖いよ)

 傳送の小さな声を、皆が聞いていた。傳送がそれだけ脅えるのもわかる。あれは確かに、すさまじい力を放っていた。その気配に真赭が慌てて外に出たとき、見えたのは天に箒で掃いた痕をつけたような客星の尾。色は濁った白で、それを見た者をすべてなぎ倒さん勢いで遠く、艮の方向に流れていった。

(客星は、因果を呼ぶ……)

 ごくりと固唾を呑みながら、真赭はつぶやいた。

(五年前も、客星が走ったわ。あのときは、これほど大きくなかった……気づかなかった者も多かったもの。それでも、あれだけの大きな疫病の流行があったのよ)

 そのとき、真赭はまだ十歳を越したばかりだった。その流行り病で両親を喪い、孤児になった。藤壺中宮が後ろ見を引き受けてくれていなかったら、ここにこうしていることはできなかっただろう。

(そうでなくても、内裏の火事だの穢れが蔓延ったりだの……よくないことが続いているわ。それらもすべて、あの客星のせいだというの?)

 花畑の物の怪のことを思い出す。あれは何か、素晴らしいことが起こると言っていた。それはこの客星なのか。今までにない災厄を振りまこうというのか。

(まったく無関係だとは、言えまい?)

 そう言ったのは、太乙だった。彼はいつもどおり冷静沈着に見えるけれど、内心は動揺しているのかもしれない。

(なにか、禍なるものが都に生まれようとしている……あの客星は、それを予言した。都人の心に、不安が生まれる。それが、また新たな因果を呼ぶ)

 太乙の言葉に、真赭はぶるりと震えた。傳送はただでさえ怖がっているものをすっかり脅えてしまって、石の奥に入り込んだまま出てこない。

(こら、傳送。なにかがあれば、俺たちが出なくちゃいけないんだぞ? そんなに怖がっていてどうする)

 傳送をたしなめたのは、従魁だった。その赤い髪をふわりと揺らし、傳送に話しかける。

(だめだよ……だって、怖いんだもの。怖くて怖くて、働くどころじゃないよ……)

(従魁。傳送を責めないであげて)

 真赭に言えるのは、その程度のことだった。

(怖いもの……、気持ちはわかるわ。わたしだって、怖い……)

 こうやって弱音が吐けるのも、相手が十二月将たちだからだ。ほかの者には、聞かせられない。星を見て占うのが陰陽師の仕事なのだから、その陰陽師が星を怖がっているなんて。祖父に聞かれれば、叱られるかもしれない。

(……飛英は、どう思ったのかしら)

 この場にはいない、協力者のことを思う。飛英の名を出すと、太乙がむっと眉をしかめたのがわかった。しかしその意味はわからなくて、真赭は首を傾げる。

(飛英は、陰陽師じゃないけれど……あれだけの大きな客星ですもの、気づかなかったはずがないわ)

(訊いてみれば?)

 どこか呑気な声でそう言ったのは、勝光だ。

(あいつなら、なにかほかの考えを持っているかもしれない。なにか客星について、知ってるかもしれない)

(そう、ね……)

 飛英は、普段はどこに住んでいるのか。真赭の危機には必ず助けてくれるのだけれど、どこから現れるのかはわからない。真赭から連絡を取ることはできないのだ。

「……飛英?」

 そっと、ささやきかけてみた。しかし答えはない。

(飛英がいないということは、それほど心配するようなことではない……?)

(今は、かも知れぬぞ)

 言ったのは、神后だった。誇り高い彼の、金色の髪が揺れる。

(まだ、ことが起きるまでは行っておらぬ……しかし、あれだけの客星だったのだ。なにごともないというわけがあるまい。飛英も、ころあいを見計らっているのだろう)

(そうね……、そうよね)

 真赭は、腰を上げた。部屋の隅、二階厨子に向かう。

(真赭、なにするの?)

 河魁が、そう問うてきた。神后と同じ金色の髪を持つとはいえ、彼の髪はやや淡い。その髪をさらりと揺らしながら。河魁は小さな声で尋ねる。

(算木で占って、見てみようと思って。陰陽寮のほうでももうやっているとは思うけれど、わたしの目で、見ておきたいから)

 ああ、と皆が同調する。占いに入る体勢を整えようとした、そのとき。

「もし……。真赭さま」

 衣擦れの音がした。真赭がはっと振り返ると、そこには裳唐衣の女房がいて、真赭に丁寧に頭を下げている。

「中宮さまがお呼びです」

「……はい」

 さすがの中宮も、心配を隠せないのだろう。この迎えが、昨夜の客星に関してのことであるのはほぼ間違いがなかった。真赭は立ち上がる。

 女房について、藤壺の母屋(もや)に入った。身分高い女性は部屋の奥から出てこないものなのに、中宮は驚くほど端近に出ていて、御簾越しに空を見上げている。

「真赭」

 振り返った中宮は、不安に彩られた表情をしていた。しかし真赭を見ると、少し安心したようだった。にっこりと、いつもの笑みを浮かべている。

「よく来てくれたわ」

 中宮は言った。真赭が近づくと、手招きしてもっと近くに寄るようにという。そして、ふい、とその表情を曇らせた。

「知っているわね……、昨夜の、客星のこと」

「はい」

 中宮は、憂える心を隠しもしない。真赭を前にしてそのような表情をするということは、真赭を陰陽師として信頼しているのだ。

 中宮が、不安がっている。だから真赭が不安を見せてはいけない。祖父の名に賭けても、陰陽師として中宮を安心させなくてはいけない。

「あれを、どう見ている? 客星はいったい、なにを連れてきたのかしら……?」

「畏れながら、中宮さま」

 中宮の前にひざまずき、手を突いて真赭は言った。

「それを今、占おうとしたところでございます。凶兆を示すことは間違いがございませんが、なにが起こるのか知っておけば、予防策になることでしょうから」

「まぁ、じゃあわたくしは、おまえの邪魔をしてしまったのね」

 口に手を当てて、中宮は笑った。その明るい笑い声に、ほっとさせられる。いえ、と首を振りながら、真赭も唇の端を持ち上げた。

「陰陽寮のほうでも、大騒ぎのようよ。祓いの儀をやるだとか、清めの祭をやるだとか……そこでね、真赭」

 中宮は、真赭に向き直った。きりっと引き締まった表情に、真赭の心も引き締まる。

「わたくし、御法をしようと思うの」

「客星の不吉を祓うのですか? 中宮さま、御自ら?」

 こくり、と中宮はうなずく。真赭は、はっと息を呑んだ。

「いずれ国の母になる、わたくし……中宮であるわたくしの御法なら、効き目もあるんじゃないかしらって。そのようなことを、思ったのだけれどね……」

「それは、尊いお考えでございます……!」

 真赭は、思わず身を乗り出した。中宮の言うとおり、力ある者の行う業には、そうでない者がするよりももっと大きな効果がある。

 中宮は、この日本のもっとも尊い女性だ。そんな彼女の営む仏法には、確かに客星の不吉さを拭うだけの効果があるに違いなかった。

 しかし同様にそれは、このたびの客星がどれほど不吉なものであるか知らしめているということでもある。中宮ほどの身分の者が動くというのは、それだけあの客星が凶兆であったということでもあった。

「そう? そう思う? 出過ぎた真似かとも思ったのだけれども」

「いいえ! とんでもございません!」

 髪が揺れるほど、真赭は首を横に振った。

「中宮さまがそうお考えであるのならば、わたしたちといたしましても心強いかぎりでございます。ぜひ、わたしにもお手伝いさせてくださいませ!」

「もちろんよ、真赭」

 にっこりと笑って、中宮は言った。

「あなたには、期待しているわ。なんといっても、安倍晴明の孫娘……その者の助力があるということは、それだけこの御法には重い意味があるということなのだから」

(ふぅん。昼間っから酒を飲んでいるばかりの女じゃ、なかったんだな)

 真赭の胸のうちに響いたのは、勝光の声だ。

(真赭を呼びつけてはおしゃべりに興じることしかしない女だと思ったら、そうではなかったってことか)

(まぁ、勝光。それ、中宮さまに直接言える?)

 真赭は、勝光を睨みつけるようにする。勝光は、にやりと笑って肩をすくめた。

(中宮さまは、ただ理由なく中宮の地位におられるわけじゃないわ。それだけの素質のあるかただからこそ、主上も数多いお妃さまの中でも特に信頼し、中宮にお上げになっているのだもの。……そりゃ)

 そこで真赭は言葉を切って、小さく咳払いをした。

(昼間からお酒をお飲みになることも、あるけれど)

 真赭の胸中に、笑いが起こる。真赭は肩をすくめながら、再び中宮に向かって頭を下げた。

「して、どのような儀を行われるおつもりでしょう? わたしの力の及ぶかぎり、お手伝いさせていただきたく思いますが」

「その相談に、おまえを呼んだの」

 再び、御簾越しに空を見上げながら中宮は言った。

「相談に乗ってくれるわね? 本来なら、陰陽寮の者を呼ぶところだけれど、帝は帝で、陰陽寮の者たちを使って儀を執り行うおつもりらしいから、わたくしたちはわたくしたちで、女人のできることをしましょうよ」

「ええ……素晴らしいお考えです!」

 勢い込んで、真赭は声を上げた。

「さすが、中宮さまです。わたし、御法を行うことなんて思いもしなかったですから……」

「わたくしも、さすがに自ら御法を執り行うようなことは、大仰かとも思ったのだけれど」

 どこか照れたように、中宮は言った。

「でも、さすがにあの客星を直接見てはね。あの客星が、なんの影響も及ぼさないわけがない。あの客星は、確かに災いの徴だわ」

 中宮の言葉に、真赭もぎゅっと唇を噛みしめる。こくりと頷き、黒い髪が白い頬をすべる。

「人心が、どれほど乱れているかと思うと……早く、御仏のお力に縋らなければ。御仏に、皆を安堵させていただくようにとお願いしなければ」

 勝光の言葉をたしなめた真赭ではある。しかし実際に中宮が、このような表情をすることなど考えもしなかった。まるで思い詰めるような中宮の顔は、真赭に身の引き締まるような思いを抱かせる。

「手伝ってちょうだいね」

 真赭は、どのような表情をしていたのだろう。中宮は、励ますようににっこりと真赭に微笑みかけた。真赭はうなずき、自らにも気合いを入れる。



 その夜も、また夢を見た。花畑の夢だ。花々は、今までの夢よりもさらに見事に咲き誇り、しかし真赭は花の美しさを堪能している余裕はなかった。

「また、あなたね」

 くすくす、くすくす、と粘着質の笑い声が聞こえる。勢いよくその方向を向いても、誰もいない。ただこちらに向けられた、鋭い視線を感じるばかりである。

「なんのために、わたしの夢枕に立つの……? それに、このお花!」

 くすくす、くすくす。視線の主は笑いながら、真赭のまわりを駆けているようだ。その姿が目に映らないもどかしさに真赭は唇を噛んで、その姿を追おうとした。

「中宮さまの夢にも出てきたわね? なんなの……何が目的なの?」

『目的?』

 視線の主は、ふと笑い声を止めた。

『言っただろう、あたしはこの後宮を妬みと嫉みでいっぱいにしてやるんだよ……皆が争い、憎み合い、呪を掛け合う……素晴らしい世界にね!』

「そんなの、素晴らしくなんかないわ!」

 地団駄を踏んで、真赭は言った。

「そんな、わけのわからないこと……だいたい、あなたは誰なの? 何者なの?」

『あたしは、あたしさ』

 視線の主は歌うように声をあげ、真赭の目の前に立つ。見えないはずのその手が、見えるような気がした。

『あの子は、神仏の守りが強くて近づけない……今は、まだ』

 そう言って、声の主はぐっと息を呑んだ。

「今は、まだ?」

 真赭は顔をしかめる。それではこの物の怪は、何らかの力を手に入れて、さらなる脅威になることを望んでいるというのか。

「ぐぅ……っ!」

 見えない手に、首を絞められる。息苦しさに、真赭は相手の手を振りほどこうとするのだけど、凄まじい力に抵抗することができない。

「や、めて……」

『ここでおまえを殺してしまうのも悪くはない』

 笑いながら、視線の主は言う。

『けど、残念ながら、あたしはまだ充分に力を得ていない』

 重ねて悔しそうに、彼女はそう続けた。

『でもね……あたしにとって、最高の舞台がすぐそこにある。そこであたしはますます力を得て……おまえなど、ひと捻りさ』

「は、っ……!」

 いきなり咽喉から手を離されて、花畑の中に突き飛ばされた。

「きゃ、っ……!」

 あたりに、女の甲高い声が広がる。頭の中をかき回されそうな、けたたましい笑い声だ。

『あんたはそうやって、地面に這いつくばっているのが似合いさ! そうやって、あたしが何をするのか見ておいで!』

「そんな……!」

 笑い声とともに、声は薄くなっていく。姿の見えないその『何か』に振り回されて、真赭は疲弊とともに花畑の中に転がっていた。



 中宮の催する御法は、四月の十日に執り行われた。

 特に中宮の信を得ている阿闍梨が、修法を執り行う。土を積み平らにした修法の蓮華壇には、五宝――金、銀、瑠璃、真珠、琥珀。五香――沈、白檀、丁字、鬱金、龍悩。五薬――赤前、人参、茯苓、石菖蒲、天門冬。五穀――稲、大麦、小麦、大豆、小豆。

 この二十種を、瓶に入れて供用する。宝は最尊無上を表し、香は不浄を祓う。薬は消災、穀は穀物種子の代表として、修法に用いるのだ。

 仏に捧げる供物は、六種供養といわれる。六種とは、閼伽、塗香、華鬘、焼香、飯食、燈明であり、これらは仙薬として修法に用いられる。

 修法壇には、法器が置かれる。宝冠、金剛杵、宝剣弓箭、念珠、宝棒、宝戟、輪、明鏡、法螺、柄香爐景罄、散杖、宝扇。並べられた法器は、どれもが心を込められ磨かれたもので、それらを用意した中宮の思いが仏に通じないということはないと思われた。

 御法は、紫宸殿の前にて行われた。すでに花の散った桜と、今を盛りに花をつける橘。そこに置かれた修法壇を囲んで、幾重にも人の輪ができている。

 それを、真赭は宜陽殿の端に立って見ていた。無位無冠の身では御法に参加することなど許されないものの、中宮の特別の計らいで、そこにいることが許されたのだ。

(ほぉ……)

 蓮華壇を見て、声を上げたのは太乙だった。

(これをすべて、あの中宮が配したものだとなると、なかなかに仏法に通じていると言わねばなるまいな)

(どうしておまえたちは、中宮さまに対しての評価が低いの)

 そうは言いながらも、十二月将たちが中宮を軽く見る理由はわかっている。中宮は立派な人物ではあるが、立派な者にとて寛ぎたいときはある。その相手にいつも真赭を選ぶものだから、真赭とともにいる十二月将たちの目には、自堕落な中宮ばかりが映るのだ。

(ほら、あの薫り高い沈香など……並ひと通りの者に、あのようなものは用意できまい)

 そう言ったのは、神后だ。彼を感心させるなどなかなかないこと、真赭は自分のしたことではないのに、自慢したい思いに駆られる。

(でしょう? 中宮さまは、すごい御方なんだから)

 胸を張る真赭に、にっこりと微笑みかけたのは登明だ。

(それは、そうでしょう。素晴らしい一面と、のらくらとした一面と。いくつもの面があってこそ、人は人として成り立つのですからね)

(登明……、あなた、言うことがどうにも皮肉だわ)

 憤慨して、真赭は言う。

(もっと、素直に褒められないの? のらくらって……中宮さまの女房たちが聞いたら、怒るわよ)

(しかし、中宮自身は笑うだろうな)

 そう答えたのは、従魁だ。それに、功曹がうなずいている。

(それだけの徳がある者だと、私は見ているぞ。だからこそ、これだけの御法が行えるのだろう)

(それは、私も思ってたわ)

 従魁と功曹の会話に、なおもくすくすと笑っているのは登明だ。彼の女と見まごうばかりの見かけからは、そのような皮肉を言うようには感じられないのに。人の痛いところを突いてくるのが、彼なのだ。

(飛英は……、いないわよね)

 真赭は、あたりを見まわした。夜の闇の中でしか咲かない花のように、闇に紛れて動くのが彼だ。今回の御法には特段真赭の出番があるわけでもなく、しいては飛英のすることのないこの機会に、姿を現すとは思わなかった。

(あいつは、来ないだろう)

 そう言ったのは、太乙だ。なにか苦いものを噛んだような顔をしている。彼はいつも、特に飛英のことになるとこういう表情をする。

(ねぇ……)

 それはなぜかと、問おうとした。しかしその前に、声がかかる。

(……ほら、読経が始まる)

 そう言って、皆の意識を蓮華壇に移したのは大冲だ。彼の冷静な声が真赭の中に響く。真赭も、しつらえられた壇に目を向けた。

「唵、縛薩羅、薩怛縛、吽」

 阿闍梨が、低く真言を唱える。それに続いて居並ぶ僧侶たちが上げる読経が響きはじめ、真赭は深く呼吸をしながら目を閉じ、それを聞いていた。

(……ん?)

 異変があったのは、読経も半ばをさしかかったときだった。

(なに……?)

 真赭は、目を開ける。蓮華壇の上に置かれた法器が、かちかちと音を立てて揺らぎ始めたのだ。

(なに……いったい、どうしたの?)

(……物の怪だ)

 低い声でそう言ったのは、大冲だった。

 御法を囲む者たちが、声を上げる。見開いた真赭の目にも、壇の上でゆらりと揺れる、大きな白い人影が見えた。

「なんだ、あれは……!」

「物の怪か……!」

 見えない者にも、その異様さは感じられるらしい。あたりは騒ぎに包まれた。阿闍梨をはじめとした僧侶たちはさすがに驚くこともなく読経を続けているが、阿闍梨の額から汗がひと粒流れ落ちたのを、真赭は見た。

(何者……?)

(わからぬ。まだ、様子を……)

 ぎゃあああ、という悲鳴とともに、白い人影は空中でのたうった。それは蛇のようにうねりながら空を切り、真赭のいる宜陽殿のほうにやってくる。

(な、なに!?)

 思わず真赭は、右手の人差し指と中指を揃えて伸ばし、口もとに置いた。唇を指の節に当てながら、白い影を目を見開いて見る。

 あたりには、人の悲鳴がこだました。御簾越しに御法を見ていた女房たちも、殿舎の中で立ち騒いでいる。

 白い影は、空を舞うようにしながら身をのたうたせ、真赭に向かってきている――間違いなく、真赭をめがけて飛んでいるのだ。

「臨……」

 真赭は、九字を唱えようとした。揃えた指で空中を一閃し、しかしそこで、真赭の手は止まる。

「女人……?」

 白い影は、女のものだった。近づいて見れば、長くて黒い、艶やかな髪。花筏紋を織り出した茜色の袿。そしてなによりも、目鼻立ちの整った美しい姿が、真赭の目を惹く。

「こ、……れ、って……」

 感覚を覚えている。花畑の物の怪の気配を感じる。真赭の背に、大きく震えが走った。

「この、感じ……っ……」

 以前、生き霊と化した麗景殿女御を鎮めたことがあった。あのときの、情念。怨みの感覚。恐らく花畑の物の怪が糸を引いている――真赭の体はそのときのことをしっかりと覚えていて、立て続けに怖気が全身を走る。

「許さぬ……、ゆる、さぬ……!」

 耳を、恨めしげな声が走る。その声にも、真赭の体はぞくぞくと震えた。

「ち、が……う……」

 掠れた声で、真赭は言った。九字を唱えようと伸ばした指が、小刻みに震える。

「生き霊……じゃない、っ……!」

 はっ、と息を呑んだのは、十二月将のうちの誰だっただろうか。

「あのとき、とは……違う!」

 そう思ったのには、理由があった。受ける感覚は、麗景殿女御の生き霊から感じたものと同様――しかし今受けている気には、ここではないどこかに引きずられていきそうな――違う時間の支配する世界に送り込まれてしまいそうな、そのような奇妙な感覚があったのだ。

「死霊……!」

 よく見れば花筏紋の袿は、その織りも模様も、あまりにも古風だった。現在では昔の流行しか知らない老婆ばかりが着ているもののようで、しかしその姿には、しっくりと似合っていた。

 女性の死霊は、まっすぐに真赭のもとに飛んできた。髪を振り乱し目を見開き、それでもその美貌のほどははっきりと感じられる。だからこそ、今の姿があまりにも哀れでならないのだ。

「……大冲!」

 真赭は叫んだ。しかし返事はない。大冲はなにも言わずに右手の人差し指を立てて左手で包み、左の人差し指を鉤のように折る智拳印を結び、声を上げた。

(多律、多勃律、婆羅勃律、拓頡迷迷迷迷、怛羅散淡、烏鹽毘、莎訶!)

 大冲の声は、どこまでも冷静だ。それがあたりに広がり、花筏紋の女性が苦しげな叫びを上げる。怨敵、諸魔降伏のための真言は、もとはたおやかな貴婦人であっただろう彼女には強すぎるらしく、花筏紋の女は、顔を覆って呻き始めた。

「だめよ……まだ、調伏しちゃ! ……従魁! 河魁!」

(おうっ!)

(はいっ!)

 見かけはまったく違うが、兄弟であるふたりが揃って返事をする。それぞれは違う印相を結んだが、兄弟の口から出たのは同じ真言だった。

(阿車阿車、牟尼牟尼、摩訶牟尼牟尼、奥尼休休、摩訶那迦休休、闘伽那知呼!)

 ふたりの声は、見事に唱和した。赤の髪に金の髪、青い瞳に緑の瞳。剛胆な従魁と河魁。まったく違う特徴を持ってはいても、さすが兄弟、と感心したくなるような最良の重なり合いかただった。

(阿伽那知多那知、阿吒阿吒、那吒那吒、留豆、留豆、休休豆留、希泥希泥希泥、郁仇摩仇摩、仇摩、仇摩、唏梨唏梨唏梨、唏梨、尼利、尼利、摩訶尼利莎訶!)

 兄弟の声が、重なって絡み合う。それが形を持って空を飛び、幽鬼の女性を包み込んだ。

 続けて兄弟は、五芒星を描く。それが、物の怪の額に赤い痕をつけた。ふたりの指が、その中央に点を置く。

 目の前の女の表情が、少し柔らかくなった。訴えるような表情で、真赭を見つめている。

「御方、さま……」

 真赭は、思わず語りかけた。ひどく痩せてはいるが、その目の輝きは隠せない。それは、年月を経た思いが純粋なものに変化したがあるがゆえかのようだった。彼女がその目を見開くのは、その気持ちを真赭にわかってもらおうとでもいうようでもあった。

「どうしたのですか……?」

 真赭は真言ではなく、直接言葉で語りかけた。真赭の前に降り立った女性は、まだふわふわと白い靄に覆われているようでしっかりとした形を成してはいなかったが、その唇が紅に彩られて赤いことが印象に残った。

「わらわ、の……」

 女は、口を開く。ゆっくりと、嘆くような声を絞り出した。

「帝は、わらわのものじゃ……、帝は、わらわひとりの御方じゃ……」

 どきり、と真赭の胸が鳴った。女の綴ったのは、真赭の知らない感情だ。ただひとりの者を追い求め、愛し、愛に破れた女のなれの果てなのだ。

「御方さまは……どちらの、御方なのですか?」

 震える声を抑えて、真赭は尋ねた。女はうつろな、それでいて輝く瞳を見開く。その目は奇妙に鳶色がかっていて、それがよけいにその姿に異様な印象を与えているのだ。

「わらわは……、雷鳴壺に御殿を賜る……更衣じゃ……」

(雷鳴壺更衣……)

 真赭は、ごくりと息を呑んだ。雷鳴壺は、長い間誰も住んではいない。庭園にある霹靂の木が落雷を受けて焼けてから、誰ともなしに足を運ぶことがなくなった場所だ。そこを住まいとする更衣とは。

 ゆらり、と女が体を揺らす。彼女を包む靄は合わせて揺れ、彼女が幽鬼であることを間違いようもなく示している。

「帝が……御子までなした、わらわを……お見捨てになるなど……」

 いったいどれほどの昔から、内裏に取り憑いていた物の怪なのか。この物の怪が客星を呼んだのだろうか。しかし、それならなぜ今。雷鳴壺に住まう妃がいたのは、もう何十年、下手をすると百年以上も前の話なのに。

「そのようなこと、ありえぬ……あってはならぬ……。それなのに、帝のおいではない……新しく来た、梅壺女御ばかりを寵愛なさって……皇子を成した、このわらわを顧みず……!」

 その叫びは、以前麗景殿で聞いたものとよく似ている。後宮に渦巻く女の嘆きは、今も昔も変わらないということなのだろうか。

「帝……、ああ。主上……、ぇ……」

 幽鬼は、ゆらりと形を崩した。そのまま、どこに飛んでいこうというのか。彼女の言う、愛おしい帝を捜して、あてのない旅をするというのか。

(だめ……、行かせない!)

 長い間後宮に住み、取り憑いてきた物の怪だ。このまま放置してはどのような被害を及ぼすか知れない。先だっての麗景殿での事件も、きっとこの物の怪が関わっているのだ。彼女はすでに『雷鳴壺更衣』であった者ではなく、後宮に蔓延る怨み、妬みを一身に受け、凝り固まった悪意の凝縮された形なのだ。

(真赭、俺たちを出せ)

 功曹が、低い声で言う。真赭はうなずき、右手の腕輪に左手を乗せた。

「緊縛呪、解除!」

 真赭の右手首から、強烈な光が放たれる。それは見る者の目を焼き、物の怪でさえも驚いたように身を揺らした。

 その場には、十二人の男たちが現れた。装いも容姿もまったく違う、しかしひとつ言えるのは、それぞれが只人にはありえない、さまざまな色の光を放っているということだ。

 おお、と歓声が上がる。十二月将を初めて見た者たちの驚きの声だ。御簾のうちも、さぞや騒ぎになっていることだろう。

「功曹!」

 真赭は叫んだ。彼は、手にした矢をつがえてない弓を打ち鳴らす。邪気祓いの、鳴弦の儀だ。物の怪が、おお、と声を上げた。

「やめ……、やめ、よ……。そ、の……おと……」

「太乙……、今よ、お願い!」

 真赭がその名を叫ぶ前に、太乙は動いていた。彼は両手の指を水をすくうような形に揃える、地蔵鉢印を結んでいる。そのまま、彼は地蔵尊の愛敬調伏秘法の真言を叫んだ。

「唵、訶訶訶、微三摩曳、莎訶!」

 その呪は、何度も繰り返された。聞く者の耳にはただの繰り返しだっただろうが、ひとときのうちに太乙はそれを七万遍唱えている。

 物の怪は、身を捩って苦しみ続ける。功曹の鳴弦の音が鳴り響き、太乙の真言が広がり、それらを支えるように、ほかの十二月将が調伏の真言を重ねる。

 さまざまの仏にその調伏を願う真言が、あたりを包む。御法の場は、すっかり宜陽殿に移っていた。真赭と、十二月将と。その輪の中に、駆け込む姿があった。

「遅くなった」

「飛英!」

 人目に触れるのをいやがる彼だ。このように、大人数の目のあるところに現れるとは思わなかった。彼は真赭にはなにも言わず、ただ十三人の囲む物の怪に向かう。そして右手で、素早く五芒星を描いた。

 彼がその中央に点を突きつけたときだ。おおお、と悲鳴が上がる。雷鳴更衣の物の怪は、髪を振り乱して暴れた。しかしその姿は少しずつ薄くなっており、その(たま)の緒が切れかかっていることを示している。

「更衣さま……」

 そっと、真赭はささやきかけた。

「真言の、示す先に従って……御身を、楽に……」

「おお、お、おおっ!」

 しかし、長年さまよってきた物の怪だ。そう簡単に祓われはしないだろう。真赭は、懸命に語りかけた。

「もう、なにも考えなくてもいいのです。ただ、伝わってくる気に合わせて、御身を……そうすれば、そのような苦しみはなくなります」

「お……、お、お……」

 物の怪の叫びが、すこしずつ弱まってくる。真赭は、十二月将たちと飛英に、目で合図を送った。示し合わせたわけでもないのに、彼らの真言を唱える口は重なり合い、彼らすべてが同じ思いを送っているのだということがわかる。

「更衣さま、どうか、お気を楽に」

「おぅ、……っ、お……、ぉ……」

 物の怪を、この場に縛りつけているもの。何十年、何百年と根を張り巡らせてきた怨念。それが少しずつ、薄くなっている。物の怪をつなぎ止めている魂の緒が弱まっている。それが細く細く、蜘蛛の糸のようになったとき。

「唵っ!」

 その、ほんの一瞬の隙を逃さずに真赭は印相を組み、叫んだ。それはかつて雷鳴壺の霹靂の木に落ちたという雷のごとく、鋭く響いてあたりを裂いた。

 物の怪は、真赭の気合いの一閃以上に、大きな悲鳴を上げる。物の怪が声を上げると同時に、登明が手を伸ばした。

 彼は物の怪の中からなにかを引き出すようにして、その美貌が損なわれるくらいに、大きな口を開けた。なにかがその口の中に吸い込まれ、かき消えていく。

 物の怪の魂の緒が、ぷつりと切れたのを感じる。真赭は思わずよろめいて、その体を支えたのは飛英だった。

「あ、……っ……」

 真赭は一瞬飛英を見て、そして物の怪のほうに目を戻す。髪をかき乱して苦しむ物の怪は、その向こうにいる天剛と登明の姿が透けて見えるほど、薄くなっている。

「唵、訶訶訶、微三摩曳、莎訶……」

 先ほどは太乙が、大音声で叫んだ真言を、真赭は静かに唱える。同時に苦しんでいた物の怪が、顔を上げた。

 その顔は、先ほどまでの怨みの表情、怒りの表情、苦しみの表情とはまったく違っている。まるで別人かと思えるような、穏やかな顔だ。印象的な唇の赤さがなければ、誰かの意識が雷鳴壺更衣を乗っ取ったのではないかと思ってしまうくらいだ。

「ありがとう……」

 物の怪は、言った。その声も静かで、本来の彼女はそのような話しかたをするのだ、と思った。

「これで……長きに渡った苦しみから、解き放たれます」

 その姿は、まるで美貌の菩薩とされる薩羅薩伐底のごとくで、真赭は思わず見とれた。物の怪――すでに怨みの皮を脱ぎ捨て、天なる者として解脱しかかっているかつての雷鳴壺更衣は、言った。

「あなたがたにも……恵みがありますように。御仏の恩愛が、降り注ぎますように」

「……更衣さま」

 真赭たちが見とれる中、物の怪は消えた。紅い唇の印象を残して、目の前にはもうすでに、なにもなかったかのようだ。

 しかし、かすかに気配は感じる。まだ完全に解脱してはいない――百年もまだも降り積もり、客星においてようやっと姿を現した怨みだ。そう簡単に消えることはないのがわかる。

「あ、っ……」

 気づけば、真赭は飛英の腕の中で唖然としていた。まわりも痛いほどに静かで、皆がこの成り行きを見ていたのだということがわかる。

 鋭く刺さってくる視線に、気がついた。安倍吉平と、弟の吉昌だ。彼らの父――真赭の祖父が十二月将を真赭に与えたことが、彼らには不満であるらしい。しかも更衣の怨霊を、真赭とその十二月将たちで収めてしまったのだ。

(まずかった……かも)

 真赭は、きゅっと唇を噛んだ。しかし同時に、まだかの更衣の気配が残っているのだということが感じられる。

「まだ、更衣……は……」

「この場は、引こう」

 真赭の体を抱え上げた飛英が、口早に言った。

「皆を驚かせている。無駄に人目を引くのは、まずい」

「そ、うね……」

「十二月将を珠に戻せ。このまま、去る」

「うん」

 真赭は手をかざし、十二月将たちに向ける。と、彼らの姿はそれぞれがひとつの小さな珠となり、真赭の右腕に絡まった。おお、とまわりの者が揃って声を上げる。

「走るぞ。掴まっておけ」

 返事をする前に、飛英は走り出した。人ならぬ跳躍力を持つ彼だ、真赭を抱えたままでもやすやすと柱を蹴り屋根に上がり、内裏を駆ける。

 彼の腕に抱きかかえられたまま、真赭は後ろを顧みる。修法壇は乱れ、僧たちは皆唖然としている。阿闍梨さえもが、念珠を片手に童のような顔をして、真赭たちがいた宜陽殿のあたりを見やっているのだ。

(違う)

 飛英に抱えられたまま、真赭は胸を押さえた。

(あの客星によって姿を現したのは、あの更衣だけじゃ、ない)

 どきり、と真赭の胸が鳴った。あの日の夢を思い出したのだ。花畑にて真赭をとらえようとした、あの視線の主。そのおぞましい気配を、強く感じる。

(あの、花畑の物の怪。あれが更衣さまを操った。眠っていた魂を蘇らせた)

「真赭、あの客星の影響は、これだけではないぞ」

「あなたもそう思う? 飛英」

 不安に高鳴る胸を、真赭はぎゅっと押さえた。心の臓が、どくどくと激しく打っている。何しろ、あれだけ凄まじい客星だったのだ。花畑の物の怪もまた、より大きな力を得ていると考えて間違いはないだろう。

「むしろ、あの更衣など小物……後宮に住み着くもっと大きな存在の、一端に過ぎん」

「やっぱり……あの、お花畑の夢。あのときの、物の怪……!」

 飛英は答えなかった。ただじっと、嵐の去ったあとのような御法の舞台を眺めている。

「中宮さまが、お悩みになっていらっしゃること……あれだけではないというのね」

「狼の穢れや、雷鳴壺更衣の物の怪など、問題にはならない。その根もとにある、もっともっと大きな……」

 不安が胸をよぎる。真赭はぎゅっと飛英に抱きついた。そんな真赭をなだめるように飛英は抱える腕に力を込めて、大内裏の外へと飛び去った。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ