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陰陽姫と平安の都  作者: 月森あいら
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第三章

 夢見が悪い、との使いが来たのは、藤壺中宮からだった。

 真赭は、ひとりで藤壺の隅に部屋を与えられている。十二月将は普段は腕輪に封じ込めてあるし、飛英はどこに住まっていてどうやって真赭と合流する頃合いを見計らっているのか、真赭には謎である。

 真赭はひとりでいるところに、女童(めのわらわ)の持ってきた文を受け取った。中宮の乳母であり藤壺の雑役のすべての頂点に立っている、弁少将(べんのしょうしょう)という者からの文である。

(中宮さまが、お悩みなんだって……)

(ほぅ、あの麗人が?)

 どこか好色に聞こえる声でそう言ったのは、勝光だ。こら、と彼をたしなめる声がする。

(あの御方に限って、夢などに悩まされることがあるとは思わなかったが)

(この、後宮だぞ?)

 そう言い交わすのは、神后と功曹だ。真赭は読んだ文をたたみながら、それを聞いていた。

(女たちの嫉妬と怨みが渦巻く場所だ。いくら中宮が気丈でも、防ぎきれないものもあろう?)

(それに、本当に病かもしれないし)

 首を傾げながらそう言うのは、小吉だ。兄の大吉とともに、いたずらをする隙がないかとでもいうようにきょろきょろとあたりを見まわしている。

(もうすぐ、夏になるだろう? 桜も、みんな花を落として。季節の変わり目って、体を悪くしやすいっていうじゃないか)

(本当にただの病なら、典薬寮にお話が行くでしょう)

 同じ藤壺とはいえ、後宮は広い。中宮の住まう場所までの廊を歩いて行きながら、真赭は言った。

(わたしにお文が来たってことは、中宮さまは物の怪かなにか……そのせいだと思っていらっしゃるのよ。わたしを必要とされるのならば、一刻も早くお邪魔しないと)

(俺は、ただの病だと思うけどなぁ)

(あの中宮に限って、お心弱りなど……)

(どういう意味よ、失礼ね)

 胸中で大吉、小吉のふたりを叱りながら、真赭は歩く。

(お心弱りすることだって、当然あるわ。中宮さまには、そうでなくても辛労の種が多いのだから)

(男色家の、息子のことか?)

 からかうように、勝光が言った。真赭が内心赤くなるのを、楽しげに見ている。

(下らんことを言うな)

 そんな勝光を、太乙が咎めた。

(つまらないことを勘ぐるな。あの春宮がどうあれ、真赭には関係のないことなのだから)

(まぁ……、関係があるというか、ないというか)

 勝光は、ぽりぽりと頬を掻く。その間にも真赭の足は急ぎ中宮の住まいに向かい、取り次ぎの女房に声をかけた。

「中宮さまが、御帳台にいらっしゃるようにとおっしゃっておられます」

「この昼間から、御帳台……?」

 寝床から出てこられないということは、中宮は本当に悪いのだ。真赭は焦燥する。塗籠の中に案内される間も、気が急いて仕方がない。

「中宮さま……」

 垂れた帳の向こうに、声をかける。すると、帳が左右に引かれる。中には、小袖姿で横になっている中宮がいる。

「ああ……、来てくれたのね」

「中宮さま、それほどにお悪いのですか?」

 ふっ、と中宮はため息をつく。それが過日、夢占を行なった桐壺更衣のようで、真赭はどきりとする。

「いえ……、悪いということはないのよ。ただ、なんだかとてもだるくて、起き上がることができないだけ」

「典薬寮の皆さまには、お会いになったのですか?」

「いいえ」

 中宮は、はっきりとそう言った。昼間から帳台の中で、小袖姿でいる者とは思えない声音だ。真赭は、はっと目を見開く。

「これは、病ではないわ。物の怪が……なにかが、わたくしに取り憑いています」

 そのまま真赭は、固唾を呑んだ。これほどはっきりと断言する者も珍しいが、それもこの中宮のことであれば、彼女らしいと納得できる。

「物の怪……。お心当たりが、おありなのですか?」

 身を固くして、真赭は尋ねた。女房の手を借りて起き上がりながら、中宮は言った。

「誰かに、恨まれている……ええ、そういう心当たりなら、あります」

 ここでこう言い切ってしまえるのも、中宮らしいと言えた。

「でも、最近見る夢はそうではないの。むしろ、優しく柔らかく……わたくしを誘っているような夢なの」

「誘うとは……どちらへ?」

 夢占を行なう陰陽師の表情になって、真赭は尋ねた。体を起こした中宮は、じっと真赭を見た。

 その目は澄んで、美しい。黒目と白目の均衡はちょうどよく、吉相である。このような彼女が、なにゆえに悩んでいるというのか。

「お花畑」

 ぽつりと、中宮が言った。どきり、と真赭の胸が大きく鳴る。

「お花畑……ですか……?」

「たくさんの花が咲いている、きれいなところよ……誰かがわたくしの手を取って、行こうと言うの。わたくしはお花畑に足を踏み入れかけて、そこでいつも夢が途切れるのだわ」

 一気にそう言って、中宮はため息をつく。心底疲れたようなその吐息は、先日会ったときにはないものだった。

 何よりも、花畑だ。後宮に取り憑いている大きな物の怪に、夢で出会ったときのことを真赭は忘れていない。その夢もまた、花畑でのことだった。

「その夢は、いつから……?」

 震える声で、真赭は尋ねた。

「七曜の巡り、くらい前からかしら」

 また息をつきながら、中宮は言う。

「前、おまえに会ったときには、夢は見ていたけれどこれほどではなかったの。だけど、七曜の巡りが過ぎるころから急に、目覚めるのが難しくなって……今日は、このざまよ」

 自分を嘲笑うような声を上げた中宮は、真赭の知っている中宮ではなかった。このかたのためになりたい、役に立ちたい、という気持ちが、体の奥から湧き上がってくる。

(夢のもとを探れ、真赭)

 心中に響いた声は、太乙のものだった。こくり、と真赭はうなずく。

(花畑の夢、というのも偶然ではない……どこかに凶兆があるはずだ。それを探せ。手伝ってやるから)

(……うん)

 真赭は目を閉じる。小さな声で、つぶやいた。

「唵、婆鶏陀那莫」

 ふっ、と意識がどこかに持って行かれそうになった。真赭はそれに逆らわず、呪を唱えた自分を呼ぶ、その衝動に身を委ねる。

(……お花畑……)

 自分の夢も含めて、それは奇妙な話ではあった。沼の中や深い森、そのような現実においても気味の悪い場所に呼ばれるならともかく、中宮は花畑に呼ばれたというのだ。そこから悪い連想をする者はないだろう。

(どういうことなのかしら……?)

 真赭の意識は、どこかに連れて行かれる。未申の方向、陰明門の方向。そこに確かに、なにかがある。真赭は、はっと目を見開いた。

「真赭……、なにかわかったの?」

 中宮が、眉をひそめてそう尋ねてくる。真赭は彼女を見て、うなずいた。

「陰明門です。そこに、なにか穢れがあるはず……」

 中宮はうなずき、まわりの女房を呼ぶ。彼女たちは中宮の耳打ちに首肯して、衣擦れの音とともに去って行く。

「見に行かせたわ。すぐに戻ってくるでしょう」

「それが、中宮さまのお悩みの原因だと、いいのですけれど」

 しかしいくら夏の気候の中だとはいえ、陰明門のまわりに花畑などあっただろうか。それとも花畑は、なにかの暗示なのか。自分の夢と重ね合わせて、真赭はそのようなことを考える。

 ややあって、人の足音がした。そっとささやき交わされる言葉は、中宮のもとにも届いた。

「穢れがあったそうよ」

 眉根を寄せて、中宮は言った。

「陰明門のかたわらに、狼の死骸があったそうなの。腐って……蛆がたくさん湧いていたと言うわ」

 ひっ、とかたわらの女房が声を上げた。そういう気味の悪いことを、平気で言えてしまうのがこの中宮という人物なのだけれど。

「それが、わたくしの夢の原因かしら? そのせいで、わたくしは枕も上がらなくなってしまったというの?」

「……わかりません」

 呻くように、真赭は答えた。

「狼の死骸も、穢れの原因だと思います。けれど、それだけであるのか……中宮さまのごらんになった、お花畑というのがなんなのか……わからなくて」

 真赭は、小さくなってそう言った。

「とりあえず、わたくしは安心していいのかしら?」

 狼の死骸がひとまずの原因だと知った中宮は、安堵したようだった。そうやって安心を得ることも、病の平癒には必要である。中宮が心安らかになったのだと思えば、その花畑の夢もただの夢、気にすることはないと言えるのかもしれないけれど。

 しかし真赭は、花畑の夢で明らかに脅威に出会っている。中宮の見た夢の花畑と、真赭の夢は違うのだろうか。それとも同じ物の怪の仕業なのだろうか。

「はい……」

 中宮を不安にしないように、ひとまず自分の夢のことは忘れるようにした。

「ひとまずの憂いは取り除かれたと思います。狼のことが、中宮さまの夢に影響を与えていたと思いますので」

(でも、それだけじゃない)

 膝の上で、ぎゅっと手を握りしめて真赭は思った。

(なにか……なにか、中宮さまをお悩ませするものが、あるはず)

 ねぇ、と心の声で、問いかけた。

(どう思う……? 狼の死骸と、お花畑と。やっぱりお花畑は、あの物の怪と関係あると思うのだけれど)

(恐らくそれらは、それぞれが中宮に悪夢を見せていたのだと思う)

 厳めしい声でそう言ったのは、太乙だった。

(そのふたつは、別個のものだ。狼の死骸を取り除くことでひとつの穢れは消え……しかし花畑のほうは、真赭の見た夢と関係あるのだろう)

(やっぱり……そうよね。あの、物の怪)

 真赭は、唇を噛む。中宮に悪夢を見せていたものは、やはりあの、後宮を狙っているという物の怪なのだ。しかしどうすれば祓うことができるのだろう。

「真赭。どうしてそのような顔をしているの?」

 女房に小袿を着せかけられながら、中宮が言った。

「なにか、ほかにも気になることが……?」

「え、あ……、いえ……」

 真赭は、懸命に笑みを作った。中宮は、そんな真赭に眉根を寄せる。

「いいえ。お花畑の夢は、またのちに占います。今のわたしには……わからないから」

「焦らなくてもいいのよ」

 起き上がる元気が出たらしい中宮は、優しい微笑みとともに、そう言う。

「また、見たら言うわ。だから、急ぐことはないのよ?」

「ええ……はい」

 うなずきながらも、真赭はもどかしくてたまらない。中宮の夢――花畑の謎を解きたくて、仕方がない。

(お祖父さまなら、このようなとき……すぐにわかったのかしら)

 胸のうちで、真赭は独り言つ。

(中宮さまのお悩みも、すぐに解いて差し上げられたのかしら? お祖父さま……お祖父さまさえ、いらっしゃれば)

(おまえは、おまえだ)

 心の中で、声が響く。太乙の声だ。

(晴明のことなど、気にするものではない。おまえは確かに陰陽師だ)

 先日、清彰に『陰陽師の真似ごと』と言われたことを差して、太乙はそう言ったのだろうか。ならば、太乙にしてはずいぶんと気が利いた台詞だと言わねばならないだろう。

(おまえは、おまえの速度で伸びていけばいい。祖父のことなど、関係がない)

(そうよね……。うん)

 かすかにうなずきながら、真赭は胸に右手を胸に当てた。腕輪の珠となって連なっている、十二人の感情すべてが流れ込んでくるような気がする。

「久しぶりに、見せてちょうだい」

 帳台から離れ、小袿姿で脇息にもたれかかった中宮は言った。

「おまえの、十二月将たち。わたくしを、喜ばせてはくれないこと?」

「まぁ、十二月将たちが見られるんですの?」

 かたわらの、年若い女房が声を上げた。

「見たいですわ、ぜひ見せてくださいませ!」

「わたくしも、見たいわ。以前見たのはいつだったかしら?」

(……私は、出ぬ)

 女房たちの騒ぎを前にして、呻くように言ったのは神后だった。

(なにがあっても、出ぬ。いいな、真赭)

(えー、俺たちは騒がれたいけどなぁ。気分いいじゃないか、なぁ?)

 勝光が、なにを企んでいるのか、にやにやとしながらそう言った。

(そうだな、女房たちに騒がれるのも悪くないな)

(えぇ、俺も俺も!)

 真赭の胸のうちで騒ぐ十二月将たちに、真赭は苦笑するしかない。一方では女房たちが騒ぎ、どちらについていいものか迷う。

 そんな光景を、中宮は脇息に身をもたせかけながら、笑って見ていた。



 夜夜中(よるよなか)。真赭は床に横になって、眠ろうとしている。まわりには女房たちが、同様に健やかな寝息を立てていた。

 聞こえてくる寝息に聞き入っていると、真赭も夢の世界に引き込まれていく。はっと気がついたとき真赭は、あの花畑の中にいた。

(わたしは、夢の中にいる)

 うまくあの夢の中に入り込めたようだ。真赭は深呼吸をする。慎重にまわりを見まわして、いつも感じる悪意のある気配がないかどうかを探って行く。

(どこにいるの……あなた。それとも、姿を現さないつもりかしら)

 じわり、と緊張が全身を貫く。しかしどこに目を向けても咲き誇る花以外はなく、真赭から意図的に夢の中に入っても、会えるものではないのかもしれない。

(わたしは、ここにいるわ。出てこないの?)

 はっ、と真赭は振り返った。背後に何かの気配を感じたように思ったのだ。しかし目の前には何もなく、しかし何かがいる、という感覚がはっきりとしている。

「あなた……いったい何を企んでいるの?」

『企む、とは』

 甲高い笑い声が響いた。しかしその姿はない。それでも何かが現れたことを真赭の神経ははっきりと感じ、全身を緊張させた。

『あたしは、あたしのしたいようにしているだけだ。あんたも、あたしの手のひらの上で踊っているにすぎないんだよ』

 でも、と声が震えるのを抑えながら真赭は言った。

「でも、こうやってわたしの夢に出てくる……その意図はなんなの。何か、わたしに言いたいことがあるんでしょう?」

『言いたいこと、ねぇ……』

 姿の見えない物の怪は、くすくすと真赭を嘲笑う。その気配が近づいてきて、いきなり耳に声が注がれた。

『おまえみたいな、感覚の鋭い娘は嫌いだ』

 真赭はびくっとして、振り返ったけれど誰もいない。しかし背後から肩を押さえられている感覚が、はっきりとあるのだ。

『おまえのなすことを、すべて無にしてやる。おまえがどんなに頑張っても、あたしの前ではなんでもないことなんだって、見せつけてやる』

(呪を……!)

 目に見えない相手が、こうして近づいてきている間に調伏を――そうは思うものの、しかしうまく印が結べない。呪も口から出てこない。頭に焼きついているはずのことを、まるですっかり忘れてしまったかのようだ。

『おまえなんか、何もできない……ただの小娘なんだよ。そのことを、体で感じるといい!』

 そう言って相手は、真赭の背を強く叩いた。

「きゃあ、っ」

 真赭は花畑の中に突っ伏してしまう。そんな真赭に、物の怪は甲高い声で笑うのだ。

『もうすぐ、素晴らしいことが起こる。あたしはそれを、心待ちにしてるんだ』

「素晴らしい、こと……?」

 小さな真赭のささやきに、物の怪は彼女を見たようだった。視線にぞくりとさせられながら、真赭は言葉を繰り返した。

『そう、素晴らしいこと。あたしがあたしの力を、目覚めさせられる……』

 歌うように、物の怪は言った。それはいったい、なんなのだろう。しかし物の怪を問いただす前に、夢はふつりと途切れてしまった。

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