第二章
陽の光の、降り落ちる眩しい昼。
朱雀門を出た真赭は、大宮大路を歩いていた。
幼いころから、通い慣れた道だ。内裏に住んでいる身ではあるものの、真赭の遊び場は主に西京の市だった。東市のほうが店も多いし人もたくさんで賑やかなのだけれど、真赭は西市の雰囲気が好きだった。
東京は比較的裕福な層が暮らしている。主だった大臣たちの邸宅も東京にある。対して西京は貧しい賤の者たちの住む場所とされているけれど、真赭は西京のほうが活気があると感じている。言い値で買わせようとする店主と、値切る客との攻防、子供だと侮っていれば、まんまと大の大人が騙されてしまう緊張感。
もっとも西京は湿っぽくて、じめじめしているのが難点ではあったけれど。
「あ、見て! 瓜よ!」
真赭は、隣に歩く男に話しかけた。蘇芳の直衣を着ているのは、神后。揃いの薄青の水干を身につけているのは、大吉小吉の兄弟。功曹は落ち着いた藍色の狩衣をまとっている。
大冲は彼の瞳のように、銀色に光る直衣を身につけている。天剛はやはり彼の瞳のような鳶色の狩衣だし、陰陽師のように真っ白な浄衣をまとっているのは太乙だ。
勝光は、大の大人には似合わないと思われる白の水干だけれど、彼の大きな体を包むのにほかにはないであろうほどに似合っているのはなぜなのだろう。
傳送は、まるで葬儀に向かうような袴も同様の真っ黒の狩衣。従魁に河魁は、これまた揃いの薄紅の水干。登明は、一見まるで女性のように菖蒲の襲の直衣を着て、後宮の女君たちも敵わないほどに静かに上品に歩いている。
真赭が西京を好むのは、道行く人が金に銀、赤に水色にとさまざまな彩りで、あまりに異様な、ひと目して只人ではないとわかる真赭の従者たちを特別扱いしないところだ。
それは真赭が幼いころ、まだ祖父から譲られる前の十二月将たちと連れだって歩いていたからだということもあるし、西京には彼らのように、黒髪黒目ではない、やはり金や銀の髪や瞳を持った。西の国からやってきた者たちがいくらかいることにも関係するだろう。
「ああ、真赭。ひとつ、食べていくか?」
きれいな緑の瓜を指さした真赭に、店主が抜け目なく声をかける。真赭は太乙を仰ぎ見て、彼がまなざしだけでうなずいたのに顔を輝かせた。
「うん! ちょうだい!」
瓜はぱかりとふたつに割られた。みずみずしい中身があらわになると、真赭の口の中には唾がたまった。店主は手早く種を取ってくれて、真赭と、手を伸ばしてきた勝光。そして「俺も俺も!」とねだってきた大吉と小吉、功曹と天剛の六人の手に、半分に割られた瓜が収まった。
「太乙は? いらないの? 神后は?」
彼らはそのようなものを好まないと知ってはいたが、念のため真赭は尋ねてみる。太乙は興味なさそうに首を振ったし、神后は、まるでそのようなものが存在していることなど気づいてもいないかのようにそっぽを向いている。
「登明は?」
「私は、瓜なんて食べませんよ」
にやり、と笑って登明は言った。
「汁で、手や口のまわりがべたべたになるじゃありませんか。ほら、真赭。あなたは女の子なのに、そんなふうにだらしなくして」
登明は懐から懐紙を取り出し、真赭の口のまわりをぐいぐいと拭く。その力は思いのほか強くて、真赭は騒ぎ立てた。
「登明、口! わたしの口、取れる!」
「口が取れるはずがないじゃありませんか」
口を拭かれながらちらりと見ると、目が合った。真っ黒な瞳は、じっと真赭の手の中にある瓜を見つめている。
「傳送も食べるわよね。従魁も、河魁も?」
黒い瞳が、ぱっと輝く。真赭は微笑みながら、店主にもうふたつ瓜を注文した。
「半分、余っちゃう。ねぇ、太乙。食べてよ?」
「なぜ私に食べさせるのだ……」
不平を言いながらも太乙は受け取り、普段の上品さからは想像できないような大口を開けて、瓜を食べる。それを、真赭はぽかんと見た。
「……なんだ」
「そんなに美味しそうに食べるのに、どうして断ったりするのよ」
「別に、美味くはない。食えなくもないというだけだ」
冷ややかにそう言い捨てて、なおも太乙は瓜を食む。しゃくしゃくと涼しげな音が立つのは耳に心地よくて、真赭はにやりと唇の端を持ち上げた。
「素直じゃないの」
「なに? なんだ?」
真赭も瓜を食べながらだったから、聞こえなかったらしい。聞き返す太乙に「別に」と言って、真赭は先を歩き出す。
「……あら?」
視線の向こうに、騒がしい一角が見えた。そこは酒の小店で、壺を抱えた粗末ななりの男と、店主らしい男が言い争っている。
「なにかしら、行きましょう?」
「おまえは……」
呆れたように、神后が額に手を当てた。
「首を突っ込むなっていうの? でもそんなのじゃ、面白いものを見逃しちゃうわ!」
「あれのどこが、面白いものだ」
神后の呆れた表情をちらりと見上げ、そのまま真赭は瓜を片手に走った。太吉や小吉、勝光に従魁、河魁の兄弟も走る。
「俺は、置いてあったからいただこうとしただけだ!」
「店に並べようとして、いったん置いただけだ。盗っ人にくれてやるために置いてあったわけじゃない!」
「なになに、なんなの?」
ふたりの男の騒ぎを、遠巻きに囲んで見ている者たちが大勢いる。真赭は、せっかく拭いてもらった口のまわりをまた瓜の汁だらけにして、覗き込んだ。
「あの男が、置いてあった酒の壺を持っていこうとしたんだよ」
「置いてあったから、持っていこうとしたんだって。でも店の主は、店先に並べるために置いてあったので、盗っ人に持っていかせるためじゃないって」
「まぁ……道理は通ってるわね」
しゃくしゃくと瓜を囓りながら、真赭はうなずいた。
「でも、店の主の言うことが正しいんじゃないの? 酒の壺なんて重いもの、並べる前にそこらへんに置いてあったって不思議じゃないし、それを勝手に持っていったら、それは泥棒でしょう?」
「しかし、どっちも譲ろうとしないんだな」
浅葱の直垂の男が、面白いものを見るかのように酒の店の先を眺めている。
「確かに、名前が書いてあるわけじゃないし。置いてあるものを勘違いして持っていった、って言ったって、道理がないわけじゃないだよ」
「さぁ、どっちが勝つか。見ものだな」
青の直垂の男が、あからさまににやにやと店のほうを見やっている。
「俺は、店主が勝つと思うけどな」
「いいや、盗っ人はそのつもりで持っていこうとしてるんだから。うっかりなんて言い訳だ。どんなふうに言いくるめたって、持っていくつもりでいるよ」
瓜を片手に、真赭は一歩を踏み出した。まわりの者が、ざわりとして真赭を見る。
「ちょっと、あなたたち!」
真赭、と背後で呼びかける者の声がした。自分を呼ぶのは太乙の声だと思ったけれど、真赭はもうあとには引けなかった。
「このようなところで、喧嘩なんてよくないわ。あなた、店の前にあるものを勝手に持っていっちゃいけないでしょう?」
突然娘に割り込まれて、男ふたりはあっけにとられたようだ。ぽかん、と真赭を見やっている。
「あなたも、うかうかしていちゃいけないわよ。市なんて、いろいろな人が来るんだから。置き忘れを持って行かれたって、仕方がないわよ」
「なんだ、おまえ……」
ふたりは、声を揃えた。真赭は片手を腰に置き、片手には瓜を持って立っている。
「どちらが悪いとも、どちらが正しいとも言えないわ。でもそのお酒は店のものだし、そのことはまわりの皆が見て知っているの。さ、お酒を返して。ばかなことで言い争うのは、やめなさい?」
「おまえ……」
つかみかかるように、真赭の水干の襟を掴んだのは店主のほうだった。酒壺を抱えた男も、真赭を睨みつけるようにしている。
「よけいなこと、するな!」
「きゃ……、な、なに、……っ!」
功曹が、とっさに腰に佩いた刀を抜こうとしたのがわかる。真赭はそれを目で制し、すると功曹の黒い目が少しだけ緊張をほどく。しかし彼の手は刀の柄に置かれたまま、真赭は店主に口をふさがれた。
「客寄せの、演技だったのに!」
「え、……?」
思わぬ言葉を聞かされて、真赭は目を丸くした。そんな真赭を、店主は忌々しげに見る。
「ああやって騒ぎを起こして、客を呼び寄せる作戦だったんだよ! ああいうことをしたら、目立つだろう? 酒の店なんて、市にはいっぱいあるんだから。ああやって客に印象づける作戦だったのに、邪魔しやがって!」
「え、ええっ……」
酒壺を持った男も、真赭を睨んでいる。ここに至ってようやく、真赭は自分がよけいな真似をしたのだということを自覚した。
「なんなの、それ……」
「それが、大人の世界ってもんだよ、お嬢ちゃん」
酒壺を持った男が近づいてきて、にやりと笑った。
「大人の世界はな、お嬢ちゃんの知らないことでできてるんだ。お嬢ちゃんも、あんな派手な一団引き連れて、訳ありげだが……」
言いながら、酒壺の男は顎先で十二月将たちを差す。
「俺たちにも、俺たちの生き方ってものがあるんだよ。俺はこういう役目をもらって、銭をいただく。店主は、こうやって目立って酒を売って銭を稼ぐ。そんなふうにできている世の中だって、あるんだよ」
「……そう、なの……」
店主は、真赭の口から手を離した。いきなり解放されて、真赭はけほけほと咳き込む。
「真赭……!」
飛んできたのは、傳送だった。よろけた真赭を、小柄な彼が支えてくれる。いつもおとなしくて、いるかいないかわからないような彼が駆け寄ってきてくれたことに、真赭は驚いた。
「傳送……ごめんね。心配かけて」
「怪我とか、してない?」
「大丈夫よ」
顔を上げると、店を取り囲んでいた者たちが三々五々と散っていく。店の前は閑散としてしまい、残っているのは真赭と十二月将ばかりになった。
「ちぇっ……」
店の主が、舌打ちをする。
「せっかく、客を呼べると思ったのによ。お嬢ちゃんのおかげで、台なしだ」
「ごめんなさい……」
真赭としては、市で騒ぎなどいけないと思って口を出したことだったのに。しかしそれが店の邪魔をしてしまったばかりではなく、店主に稼がせる機会も失わせてしまったなんて。
まったく、とぶつぶつ言いながら店を開ける支度を始めた店主から離れ、真赭はひとつため息をついた。
「どうしたんだ、真赭?」
「ううん……、ただ、わたし。よけいなことしちゃったみたいで」
「よけいなこと?」
真赭は、顔を上げた。目が合ったのは、太乙だ。彼の青い瞳が、じっと真赭を見ている。聞かずともすべてをわかっているとでもいうようなその瞳に吸い込まれそうになり、真赭は慌てて顔を背けた。
「うん。わたし、よけいなことをしたの。変な正義感に駆られて、恥ずかしいことしちゃったわ」
「だって……真赭は、悪くないじゃないか!」
声を上げたのは、小吉だった。両手を振りまわして、不満を訴えているのがかわらしい。もっとも今の真赭には、それを『かわいらしい』と思う心の余裕はなかったのだけれど。
「こういうところ……わたしの悪い癖ね。ああいう場に、どうしても口を挟んじゃうの」
登明の、赤い瞳がじっと真赭を見ている。彼の目はすべてをわかっているというようで、そんな視線に晒されることに、真赭はますます恥じ入った。
「行こう、真赭」
真赭の手を取ったのは、河魁だった。彼の緑のまなざしが優しく注がれる。彼の指さしたのは、ひときわ賑わっている一団だった。
「ほら、あっちで猿芸をやってる。ほらほら、みんな集まってるよ」
「本当」
河魁の水干の、薄紅の裾が揺れるのを見ながら真赭はうなずいた。彼に手を握られて、伝わってくる温かさを感じながら、真赭は自然に笑顔になった。
□
真赭は、祖父に遺された何冊もの本を持っていた。すべてが陰陽道について書かれたもの、唐渡りの本を祖父が訳したものもあるし、祖父自身が著したものもある。
文机を前に、真赭は座っている。それぞれに円座が置いてあって、向かいに座っているのは神后だった。
「今日は、私聚百因縁集だったな」
真赭は、肩をすくめた。藤壺の西の対、そろそろ夏になろうという気持ちのいい陽射しの差す中、しかし真赭は居心地悪く座っている。
「ほら、ここからだ。読んでみろ」
「……泰山府君は唐仙道の総主神にして、北斗星の変化なり。しかるに、密教においては胎蔵界曼荼羅……」
真赭は、言葉に詰まった。神后が、いらだたしげに扇の先で文机を叩く。
「金剛部院、だ」
「金剛部院の南方の炎魔天のもとに侍し、炎摩王の罪を裁断するを記録するものなりと、これ唐の寿命主宰説と似たるものなり。経軌により見れば、炎摩后にあたれり……」
そこで、真赭は言葉を切った。顔を上げて神后を見ると、彼はまだまだと難しい顔をしてそこにいる。
「……形像は、肉色にして、左手に人頭杖を持ち、右手に筆を持ち、前に紙を展べ筆記を為す。勢いを呈す、その前に鬼あり、跪きて言上する姿勢を示す」
神后に怒られるのが怖くて、読み進める。しかしこれほどのいい天気の中、じっと座って学問をしているなど、真赭の性に合わない。西の対の庭先には、勝光や大吉、小吉がいる。早く来い、一緒に遊ぼう、と言わんばかりにこちらに視線を送ってきているものの、その前、遮るように縁に座っているのは太乙だ。
「真赭には、どうにも集中力が足りないな」
じろり、と真赭を睨んで神后は言う。真赭は、肩をすくめて小さくなった。
「外にいる者たちが、邪魔か? なんなら、あやつらは珠に封じればいい」
「ううん、それはいいの!」
真赭は、思わず声を上げてしまう。
「いてくれるだけで、心の支えになるから……いてくれるほうが、いいの」
神后は、太乙の背後で真赭の学習が終わるのを今か今かと待っているいたずら者たちを見やる。彼らは、揃って背を震わせた。
祖父が亡くなり、この十二月将たちを譲り受けたのは昨年の話だけれど、彼らと真赭のつきあいは長い。それこそ襁褓のころから十二月将たちは真赭を知っており、だからこそ、祖父の死後真赭を守る者たちとしての役目を引き受けたのだ。
「さぁ、続きを」
厳めしい声で、神后が促す。真赭は足を組み直し、再び目の前の書物に目を落とした。
「種字は別に定まれるものなし、三昧耶形もまた然り、印相は普印を用う」
真赭は、無意識のうちに両手をずらして重ねた。指の間に指を挟み込み、親指は右を上に押さえ込むようにする。
「いっさい、諸仏諸菩薩諸天に普く通ずる、金剛合掌なり」
神后が目を細めたのに、真赭はほっとする。今のところ、間違った読み方はしていないらしい。手を重ね合わせたまま、真赭は続ける。
「真言は、只怛囉、虞、鉢多、野、莎訶……」
真赭が、書いてあるその真言を読んだときだった。
「……え、っ……?」
ざわり、とあたりの空気がざわめく。真赭は、はっと顔を上げた。
「な、なに……っ……?」
さっと、太乙が立った。彼は床を踏み、両腕の袖で真赭を囲う。太乙に抱きしめられたような体勢のまま、真赭はそれを見た。
対の隅には、靄が上がっていた。隙間から洩れ出すそれは、一見小火かと思うようなものではあったが、同時に思わずひざまずいてしまいそうになる神々しさを孕んでいた。
「泰山府君……」
呻いたのは、神后だった。靄の中から現れたのは、年老いた老人にも若々しい青年にも見える不思議な人物で、その濃い緑の瞳が、じっと真赭を見つめている。
「我を召喚せしは、そなたか」
重々しい声が、響く。真赭は目を大きく開けたまま、泰山府君を見つめていた。
「陰陽道を修めし者。その目するところは、なんぞ」
「いえ……、わたし、は……」
ふるふると、真赭は首を振る。削いだ下がり端が、頬を叩いた。
「真言を、読んだだけで……あの、別に……」
神后が、眉をひそめる。彼は現れた泰山府君の前、ひれ伏したまま声を上げた。
「唵……!」
威厳のある、それでいて包み込むような神后の声に、泰山府君は今初めて神后に気づいたかのように目線を下ろした。
その姿は、徐々に薄れていく。現れたときと同じように靄に包まれ、まるで霧のように消えていく。
「は……、ぁ、っ……」
真赭は、思わず息をついた。あたりは再び陽が射して、真赭が真言を読む前の状態に戻る。
ただ、その場にある者は皆、瞠目していた。皆の注視を受けて、真赭は肩をすくめる。太乙は、そんな真赭を守るようになおも腕の中に包んでいた。
「まさか……、真言を読んだだけで、泰山府君を召喚するなど」
確かに真赭が読んだのは、泰山府君を呼び出すための真言だ。しかし真赭は、ただ読んだだけなのだ。召喚しようなどとは思ってもいなかった。
「真赭、そなたは」
神后の声はどこか呆れたようで、真赭はうつむいた。目の前には祖父の形見の書物があって、そこにはびっしりと文字が書かれていたけれど、もう読む気にはなれなかった。
「どこまで……晴明の血を色濃く持っているのか」
「そうなの?」
沈んだ声で、真赭は言った。
「だって……呼ぼうと思って呼んだわけじゃないわ。それなのに、召喚してしまうなんて……望む結果が得られないなんて、それはよくないことじゃないの?」
「それは、私には何とも言えぬが」
泰山府君の姿は、完全に消えた。神后ははっと息をつき、太乙は安堵したように、それでもあたりを注意深く見まわしてから、真赭にまわした腕をほどく。
「呼ぼうと思わぬのに現れるのが、才があるゆえなのかそうでないのか……判断が難しいところだ」
真赭は、ますますうつむいてしまう。神后をさえ困らせるとは、自分はいったい何者なのか――祖父が認めてくれ、十二月将まで与えてくれた才とは、善きものなのか悪しきものなのか。
「わたし……みんなに、迷惑ばかりかけてるわね」
ため息とともに、真赭はそう言った。その隣にぴょんと、飛びかかるように床を蹴ったのは小吉だった。
「迷惑なんてこと、ないよ! 真赭と一緒にいると、面白いことがいっぱいあって、飽きないよ!」
ありがとう、と真赭は小吉の銀色の髪を撫でた。彼は、撫でられた猫のように満足そうな顔をしている。
「そうそう、まさか書を読んだだけで、泰山府君たる御方が見られるとは思いませんでしたからね」
階を上がりながらそう言うのは、登明だ。彼の白銀の髪が、陽の光を反射して眩しい。
「さすがの晴明も、書を読んだだけで、ということはなかった」
かつて祖父の式神だった彼らは、どれほどの長い年月を生きているのだろう。八十歳を過ぎるまでの長生きをした祖父以上に長く生きているはずの彼らを驚かせ、呆れさせるとは。真赭は、ますます下を向いてしまう。
「……いや、それほどに見込みは大きい、ということだろう」
そう言った主に目を向けて、真赭ははっとした。太乙が、そのようなことを言うとは思わなかったからだ。
「うまく育てれば、晴明以上の才を発揮するやもしれん。それは、俺たちの腕次第ということにもなるが」
「ま、さか……」
声が震える。あの偉大な祖父を越えるなんて、たちの悪い冗談だとしか思えなかった。
「なんで、そんなこと言うの……」
真赭は、自分の声が震え始めるのを感じた。鼻の奥がつんと痛くなって、目の縁が熱くなっていく。
「おい、真赭……」
「わたし、なんて……ただの役立たずなんだわ」
ひくり、と咽喉を鳴らす。同時に、大粒の涙がこぼれ落ちた。
「こんな、みんなに迷惑をかけて……それなのに、どうしようもない落ちこぼれなんだわ、わたしは」
「おい。真赭らしくもない」
からかうような、その中にも真剣な色を孕んで大吉が言った。
「いつも、そんなふうに落ち込むやつだったか? はしゃいで、喜んでもおかしくないのに」
「……だって、わたし」
ぐすん、と真赭は洟を啜る。すっと、懐紙が手渡された。見れば、手の主は登明だ。
「泣きたいのなら、精いっぱいお泣きなさい」
にっこりと微笑んで、登明は言った。
「童のように泣けば、きっと気も治まりますよ」
「ありがとう……」
真赭は懐紙を受け取って、洟をかむ。それは緊迫感のない音となって、部屋中に響き渡った。
「市に、遊びに行こう」
そう言ったのは、大冲だった。真赭は、思わず彼を見つめる。
「猿や犬の芸でも見れば、気も晴れるだろう」
「……大冲?」
泣くのも忘れて、真赭は大冲を見つめてしまった。いつも冷徹で寒々しい印象さえ受ける彼が、そのようなことを言うとは思わなかったからだ。
「なんだ」
そう思っているのは、真赭だけではないらしい。その場の者が、揃って大冲を見ている。
「……いや、なんだ」
水色の髪をかき上げながら、大冲は言った。
「真赭の、気が晴れればいいと。そう思っただけなんだが」
「ありがとう……」
真赭の涙は、一滴こぼれただけで治まってしまった。
「もちろん、大冲も一緒に行ってくれるのよね?」
「ああ。猿でも犬でも、なんでもつきあってやろう」
どこか、突き放したような物言いをする。しかしそれが、彼の精いっぱいの優しさであることはわかっている。
そのような心を表にすることの苦手な大冲に、気を遣わせているのかと思うと申し訳ないような、それでいてめったにない特別な贈りものをもらったような気持ちにもなって、真赭はにっこりと微笑んだ。
「神后。わたし……市に行ってきてもいい?」
神后は、横目で真赭を見た。しかしすでに諦めたようなその目つきで、彼が了承してくれていることがわかった。
「行こう、真赭!」
小吉が手を引っ張ってくる。真赭はうなずいて立ち上がり、今まで守るように抱きしめていてくれた太乙を見る。
「太乙も。一緒に行きましょう?」
「……仕方のない」
言って、彼はため息をついた。彼も猿や犬の芸に興味がないわけではないのだということがわかって、真赭は思わず声を立てて笑ってしまった。
□
宵の薄闇の、庭の木陰。
すでに夜、酉の刻。後宮の門はすべてが閉ざされて、今から本格的な夜が来る。
真赭は、藤壺の北の対にいた。西北を望む高欄に腰を降ろし、だらしなく裸足をぶらぶらさせながら、夜に染まっていく空を眺めている。
「真赭」
声がかかったけれど、振り向かなかった。その主が太乙であることがわかっていたからだ。
「……みんなは?」
「夕餉をいただいている者や……酒の入っている者。眠り始めた者もいる」
「今日は、市ではしゃいじゃったものねぇ」
高欄に手を突き、真赭はほっと息をつく。空を仰ぐと、腰ほどまでの髪が夜風にさらさらと揺れた。
「小吉とか、傳送とか……もう寝てるんじゃない? 小吉は、猿に追い回されて大変だったし」
「おまえがけしかけるからだ」
太乙が、歩み寄ってくる。彼の衣から薫る、沈香がふわりとあたりに漂った。
「だって、小吉が猿の真似をするんだもん……あれは、猿のほうが怒ったのよ。わたしがけしかけたんじゃないわ」
「なにを言うか。あんなに楽しそうにしておいて」
真赭は、髪を揺らして太乙を振り返った。白い直衣の彼は、ともすれば陰陽師のようにも見える。紅の小袖が、目に眩しかった。
「楽しそうに見えた? わたし」
「ああ、このうえもなく、な」
よかった、と真赭は息をついた。
「だって、わたしに元気がなくなっちゃうと、十二月将のみんなにもなくなっちゃうでしょう? そんなの、わたしがいやだもの。だから、元気よくするの」
「で? 泰山府君の件はもう心が晴れたのか?」
ずばりと核心を突いてくる太乙に、真赭はうなだれる。夜の風が、髪を揺らす。
「わたしには、陰陽道を使う者としての才がないのかしら?」
「その言葉、陰陽寮で学ぶ者たちに、聞かせてやりたいが」
真赭の、すぐ横に立った太乙は言った。沈香が、濃く薫る。
「だって……必要なときに呼び出せて、それ以外はちゃんと力を制することができるのが、優秀な陰陽師よ? わたしは、陰陽師ではないけれど。でも、制御くらいはできなくちゃいけないと思うのに」
「ほぉ、なかなか自分のことがよくわかっているじゃないか」
いつもの、皮肉な調子で太乙は言った。彼の、彼らしい態度に真赭は笑い、ため息をついてまた空を見る。
「物の怪を封じるときも、十二月将のみんなに頼りきりで……わたし、ひとりじゃなにもできないと思う」
「晴明とて、そうだった」
単なる事実を述べるかのように、淡々と太乙は言う。
「それどころか、私たちが指示を出してやらなくてはいけないこともあったぞ? おまえの、その年齢のころには」
「お祖父さまが、十六歳のとき……?」
祖父は、十歳になるかならずで百鬼夜行が見えたという。一度試しに、百鬼夜行が通るというあわわの辻に立ってみたけれど、真赭はそのようなものを見たことがない。
「死んでから、名はさらに上がったらしいけれどな。私たちからすると、晴明もおまえも、大差ない」
「それが、いいことなのか悪いことなのか……」
再びの、ため息。まだ淡いながら、星のちりばめられた夜空を見つめて真赭は言う。
「ときどき、わたし……ここにいていいのかと思うときがあるわ」
足をぶらぶらさせながら、真赭は言った。
「無位無冠で、陰陽師ですらなくて……そんなわたしが、中宮さまのご厚意に甘えて、こうやって住まわせてもらっていいのかって」
「おまえは、後宮の役に立っているではないか」
叱るような、太乙の声。真赭は、きゅっと肩をすくめた。
「おまえがいなければ、後宮は今ごろ有象無象の巣窟になっているだろうよ。晴明が、おまえを中宮に預けたのは賢明な判断だった。おまえの歳と性別では、陰陽寮の者たちは黙っておらぬだろうし……」
ふっ、と、太乙も息を吐く。
「ここは、おまえがいていい場所なのだ。おまえには、守るべきものがある。そのことがわかっていて、晴明もおまえを中宮に預けたのだ」
「ここ……以外には?」
宵の暗がりの中、密やかに響く声で真赭は言った。
「たとえば、西市の中。猪隈小路や堀川小路……そんなところに住んで、民間陰陽師をやるのは? 夢占とか、暦読みとか……そういうことを、銭をもらってやるの」
「おまえがそうしたいというのなら、私は特に止めはしないが」
さして驚いたふうもなく、太乙は言った。
「私たちは、おまえについていくだけだ」
「それは、お祖父さまの命だから?」
高欄に掴まったまま大きく背中を反らして、上下反対に目に映る太乙を見た。彼は少し眉をひそめる。
「そのような格好。中宮のだらしない癖が移ったのではないか?」
「あら、中宮さまは、素敵な御方よ」
背中が痛くなるまでそんな格好をして、そして真赭は勢いよく高欄から降りた。腰までしかない短い髪が、さらりと揺れる。
「中宮さまがいらっしゃるから、私は後宮にいられるんだわ。お祖父さまも亡くなって、お父さまも、お母さまも。誰もいないわたしを、大切にしてくださるんだもの」
「おい、孝允の話はするなと言っただろうが」
太乙の眉根が、ますます潜められた。太乙のそのような表情を見て、真赭はくすくすと笑う。
「そうね……お父さまは、わたしを嫌いでいらしたから」
「孝允は、おまえの才を嫉んでいたのだ」
めったに感情のこもることのない太乙の口調に、怒りが混じる。
「だから、おまえを母親に……小染に預けっぱなしにして。小染にも、宮仕えの任があったというのに」
「才ったって、自分で制御することもできない才よ?」
真赭は、太乙の隣に立った。頭ひとつ分以上背の高い彼を見上げ、背伸びをして少しでも彼の視線に追いつこうとする。
「おい、転ぶぞ。そんなに背伸びをしては」
「大丈夫……、よ、っ……っ」
そう言いながら、真赭は均衡を崩して倒れそうになってしまった。その腰を、太乙が抱える。まるで昼間、泰山府君を呼び出してしまったときのような格好になった。
あのときは自分のしでかしたことで頭がいっぱいだったけれど、今は遠くからの物音が聞こえるだけの、静かな夜だ。
「ご、めん……なさい」
「だから、転ぶと言ったのだ」
太乙は、真赭を抱えた腕を放さない。その腕にぎゅっと抱きしめられて、真赭はあわあわと慌ててしまう。
「太乙……、もう大丈夫だから」
「いや、おまえは目を離すと、なにをしでかすかしれない」
叱るように、それでいて両の腕で真赭を抱いたまま、太乙は言うのだ。
「まったく、危なっかしい……喧嘩には割って入るわ、曲芸の猿をけしかけるわ」
「あれ、は……喧嘩じゃなかったし、猿をからかっていたのもわたしだけじゃないわ」
「だから、危なっかしいというのだ」
太乙の口調は、怒っているようだ。それでいて、抱きしめた腕は離さない。まるでそうやって拘束しておかないと、真赭がどこかに行ってしまうと危惧しているかのようだ。
「おまえは……とことん、目が離せない」
「わたしって……迷惑?」
迷惑をかけていることは、充分知っている。それでいてそのように自分を卑下するようなことを言ってしまったのは、太乙の腕のぬくもり――伝わってくる力の優しさに、甘えたくなったからかもしれない。
「迷惑、だと?」
太乙の口もとが、ぴくりと引きつる。まるで登明が、あの美貌にも似合わない毒舌を吐くときのようだと思った。
「迷惑は、かけられているな。確かに」
「……太乙」
容赦ない言葉に、思わず声を洩らしてしまう。そんな真赭の目を見やり、太乙は微笑む。彼がそのような表情をすることは本当に珍しかったので、真赭は思わず目を見開いて、太乙を見つめた。
「しかし……その迷惑が、いやではないのだ」
真赭を見つめていた目が、すっと逸らされる。彼の青い瞳が、澄んでいてとてもきれいだと思った。
「おまえにかけられる迷惑なら、喜んで受けよう……おまえがしたいというのなら、ここを出て民間陰陽師にでも、なんでもなってやろう。猿や犬の調教師でも構わないぞ?」
「……太乙。どこまで本気?」
その光景を、想像した。神后や太乙が、犬や猿を追っている姿。口上爽やかに、見せものをする姿。
「ぷっ……、……」
思わず噴き出してしまい、すると太乙が目を細めた。まるでいとけない童を見たような、優しい表情だ。
「おまえは、そうやって笑っていろ」
真赭を抱きしめたまま、太乙は言った。
「私が……私たちが、おまえを守っていてやろう。晴明の遺言だからではない。私たちがしたいから、そうするのだ」
「……ありがとう」
太乙の腕の中で、真赭は目を見開く。彼に抱きしめられたまま、その揺らめく青い瞳を見つめて。
ふたりは、そこに立ちすくんでいた。対の奥から勝光の陽気な声がかかって、酒に誘われるまで。ふたりはじっと、そうしていた。