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陰陽姫と平安の都  作者: 月森あいら
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第一章

 かつて、陰陽師の中の陰陽師、と称えられた人物がいた。

 陰陽師でありながら、従四位という身分を与えられたことからもその実力のほどが知れる。その人物は安倍晴明という名で、一年前に没した。

 安倍晴明には、息子がふたりいた。吉平と吉昌という彼らは、現在それぞれが陰陽寮の重鎮として、都を護る使命に仕えている。

 しかし一説に――安倍晴明にはもうひとり、息子がいたというのだ。

 その名は、天雲孝允(あまぐものたかよし)。五年前の流行り病によってすでに鬼籍に入っている孝允は、やはり同じころに亡くなったある女房を妻にしており、ふたりの間には一子があった。

 天雲真赭。その子は、そう呼ばれている。



「更衣さまに、お取り次ぎを」

 凜とした声で、真赭は御簾越しに声をかけた。座っている回廊からは、躑躅の前栽が見える。この局の主は躑躅がもっとも美しい季節、初夏を愛する者だということが推測できる。

「天雲真赭がまいりました」

「お通りなさい」

 真赭に応えた女房は、訝しい者を見るような目で、こちらを見やった。

「はい。失礼いたします」

 真赭は、そのような視線に慣れている。藤壺の女房たちのように親しげな者たちもあれば、真赭の力を気味が悪いと言う者もある。

 それも仕方がないことだと、真赭は思っていた。なにしろ、真赭は少女で――女ながらに陰陽師としての力を持つ者も稀ならば、無位無冠の身でこうやって後宮を自由に歩く許可を与えられているのも稀なことなのだから。

「天雲真赭が来たの?」

 柔らかい声がする。それに応えるのは、別の女房だ。扇で半分顔を隠しながらも、好奇心いっぱいの表情で真赭を見ている。

「はい、遅くなりました」

「よい……こちらへ」

 その声には、なにかに脅えたような、なにかを恐れているような色が混じっている。御簾ごしに見える桐壺更衣は痩せて、顔色の悪い女性だった。それはもとからの容姿でもあろうけれど、聞いていた心労は真赭が思っていたよりもひどいらしい。

(更衣さまのご容態は、ずいぶん悪いみたいね)

 更衣は、帝の妃の中でももっとも低い身分である。後宮の妃たちの位は後ろ盾になる実家の勢力で決まることが多いが、目の前の桐壺更衣の里内裏はすでにない。頼るべき実家がないということは、後宮の中でも立場が弱いことを示している。

(なんなら、俺たちが出ようか?)

 わくわくとした心を隠さない声が、真赭の耳に届く。

(俺たちが出れば、物の怪のひとつやふたつ……)

(ここは、後宮よ)

 その声を、真赭は心に響かせた言葉で押さえる。

(あなたたちを昼間から、極力出さないようにって。中宮さまもそうおっしゃっているのだから)

(でも、なぁ)

 つまらなそうに、その声が言う。

(最近、俺たちの出番がないんだから)

(少しくらい、遊ばせてくれてもいいんじゃないか?)

(遊ぶとか言わない!)

 重なったふたつの声に、真赭は応えた。

(あなたたちの力を借りるときは、そう言うから。少し、おとなしくしていて)

「真赭、いらっしゃい」

 通された先には、やつれた様子の女性がいる。瞼を伏せていた小袿姿の桐壺更衣は、ゆっくりと目を開いて真赭を見た。白目の目立つ瞳だ。それが肉づきの薄い顔と相まって、もともとの美しさを損なっていた。

「よく来てくれたわ。最近、どうにも寝つきが悪くて……」

 ふっ、と疲れたような吐息がその唇から洩れる。同情を誘われて、真赭も思わず眉根を寄せた。

「眠ったと思ったら、おかしな夢ばかり見るの。夢のせいで眠ることができないのか、眠れないから夢を見るのか……」

 更衣は再び、苦しげなため息をつく。

「おまえに、見てもらいたいと思ったの。おまえになら、わたくしの悩みの原因がわかると思ったものだから」

「さようですか……」

 応えながら、真赭は視線を上げる。じっと更衣の瞳を見つめた。

「畏れながら……更衣さま。どのような夢をごらんになっているのか、お教え願えますか?」

「ああ……」

 真赭の見つめる更衣の目が、また細められる。

「蝶がね、飛ぶの」

 ぱちり、と真赭はまばたきをする。そのような真赭の反応など目に入らないらしく、ただ夢の告げる恐ろしさに震える更衣は続ける。

「たくさんの蝶が……もう、まわりが見えないくらい、わたくしを囲んで蝶が飛ぶのよ。ええ、蝶は美しいわ……けれど、ああもたくさんいると……気味が悪くて」

「蝶の夢は、凶兆と申します」

 静かに、真赭は言った。ざわり、と女房たちが声を上げるのが聞こえた。

「万事が定まらない予兆と……。更衣さま」

 なおも、じっと更衣を見つめながら真赭は言う。

「なにごとか、お心を決めかねていることがおありなのでは? そのお心が、夢に出ているのだと思いますが」

「まぁ……」

 更衣の目が、見開かれる。白目がちの、端の赤い目もまた凶相だ、と真赭は思った。

「やはり、おまえはなにもかもお見通しなのね」

「いいえ。わたしはただ、更衣さまのお心にあることを申し上げているに過ぎません」

 ふぅ、とまたため息がこぼれる。

「姫の……わたくしの、二の宮の」

 更衣所生の娘、女二の宮のことである。真赭はまたまばたきをして、更衣の顔に浮かぶものを見定めようとした。

「御身が、案じられてならないの。内親王は結婚しないのが通例とはいえ……わたくしの身のうえになにかがあれば、宮には頼りにされるかたがいらっしゃらないのですもの」

「女二の宮さまの、ご結婚を?」

「ええ。主上は、わたくしの心次第だとおっしゃってくださったけれど……わたくしには、どうにも決めかねて」

 その優柔不断さが、凶相に現れ夢に現れるのだ、と真赭は言わなかった。

「ですが、更衣さまにおかれましては、もうお心をお決めになっているのでしょう?」

 その代わりに、明るい声でそう言った。更衣は、はっと目を見開く。

「ただ、迷っていらっしゃるだけだと。蝶の夢は定まらぬ未来を示しているとはいえ、更衣さまがお決めになったことを貫くにおいては、吉と見ます」

「わたくしが思うようにしてよいと?」

 はい、と真赭は目を伏せた。心の中で、問いかける。

(そうでしょう? 更衣さまの考えていらっしゃることが、正しいのよね?)

(そなたがそう見たのなら、そうであろう?)

 その者の持つ誇り高さが表れているような声が、胸のうちに響く。

(すでにわかっていることを、こうやって後押ししてもらわなければ確信できぬとは……その心の曖昧さが、私には不安だな)

 顔には出さず、心のうちだけで真赭は笑った。

神后(しんごう)。あなたなら、そう言うでしょうね)

(私だけではない。皆に、問うてみろ)

 真赭は目を細めて、更衣への視線を意識する。その表情から、なにかがぱらりと落ちたように思った。

(皆も、そう思う?)

 肯定の返事が、いくつも胸のうちに響く。

「そう言ってもらえて……ああ、ここから、なにか悪いものが出て行ったようよ」

 そう言いながら、更衣は自らの胸に手を置く。真赭は微笑み、うなずいた。

「まさしく、そのとおりでございましょう。悪いものは、更衣さまの御身から出ていきました。あとは、お心のままになさるだけです」

「ありがとう」

 このたび更衣のついたため息は、安堵ゆえのそれだった。

「おかげで、心を決めることができました……今夜は、よく眠れそうだわ」

「なによりでございます」

 真赭は、頭を下げた。切り揃えられた前髪が、はらりと揺れる。

「あれをお持ち」

 更衣は、かたわらの女房にそう言った。女房はうなずき、更衣の言葉を別の女房に伝える。やがて真赭の目の前に置かれたのは、高坏に載せられた麻袋だった。

「真赭。これは、このたびの礼よ。お持ちなさい」

「ありがたき幸せです……とは申せ」

 ひとつ、小さな咳払いをして真赭は続けた。

「わたしはすでに、いただくものはいただいております。こうやって後宮の皆さまがたにお仕えする、俸禄でございます」

「それでは、わたくしの気が済まないのだもの」

 まるで駄々っ子のように、更衣は言った。

「わたくしの言うことを聞いてちょうだい。持っていて邪魔になるものでもないでしょう?」

(どうする?)

(もらっておけよ。更衣の言うとおり、邪魔になるものじゃない)

 太い声が、胸の中に響く。そうだ、と呼応する声もある。

「……それでは、お言葉に甘えまして」

 真赭は、丁寧に更衣にひれ伏した。そして手を出し、麻袋を取る。

(わっ……、重い)

(桐壺更衣は、すでに里内裏もない身のうえだと思ったが?)

 なにかあったとき戻る、実家といえる場所。それさえもないというのは、なんとも気の毒なことだと言えた。

(それだけ、お悩みが深かったということだ)

 心のうちに聞こえる声の中でも、もっとも沁み渡るように響く声が、言った。

(そして、その悩みを真赭が解いてくれると確信していたから、こうやって用意していたのだろう)

 真赭は少し目を閉じて、その声を聞いた。そして再び更衣に視線を向ける。

「お心のままになさるが、吉と。今の更衣さまのお顔には、そう出ております」

「ありがとう」

 このわずかの間にも、更衣の凶相が変わったのがわかる。まさしく安堵の心が顔に出ているのだ。

「おまえの力は、どこから生まれるものなの?」

 更衣は、不思議そうな顔をして言った。

「特別な者しか操れない、不可思議な妖術なの? それとも……」

「陰陽道は、学問です。更衣さま」

 居住まいを正して、真赭は言った。

「呪も、祓いも、その道を勉学した者が体得できるものです。決してどこからかやってくる不思議な力ではありません」

 そうなの? と、更衣は首をかしげる。

「ではおまえは、ずいぶんと学問をしたわけね。若いのに、感心だこと」

「いえ……そんな、ことは」

 素直な更衣の褒め言葉に、真赭は恐縮してしまった。いいえ、と更衣は言って、じっと真赭を見る。

「そうでなければ、わたくしの夢占などできないでしょう? 藤壺中宮さまは、ずいぶんとおまえを買っているらしいし」

「……恐縮です。畏れ多い」

 そう言って真赭は、軽く首を振った。そして改めて、更衣に頭を下げる。

「では、わたしはこれにて」

「もう行ってしまうの?」

 せっかくの晴れた顔を濁らせて、更衣は言った。

「もう少し、お話をさせてちょうだい? ようやっと来てくれたのですもの。こういう機会でもないと、あなたとゆっくりお話しする時間などないわ」

「それでは……」

 このまま更衣が、また不安に取り込まれるようなことがあってはならない。凶夢を見るくらいならまだいいけれど、不安に澱む心を好む物の怪などに憑かれては、面倒なことになる。

「わたしなどが、お話相手になりますものでしょうか」

「ま、謙遜だわ」

 口もとに手を当てて、更衣は笑った。

「後宮には、あなたがなくてはならないというのに。かの安倍の御方が、あなたに十二の将を遺したというのは本当?」

「さようにございます」

 真赭は、そっと手を差し出した。腕輪の嵌まった、右手だ。

「十二月将たちは、わたしの式神にございます。普段は、こちらに封じております」

「どうして封じてしまうの?」

 更衣は、首を傾げた。

「そうしなくてはならないものなの? それとも、あえてそうしているの?」

「あえて、です」

 胸のうちに聞こえる不満の言葉を無視して、真赭は言った。

「なにしろ、乱暴者が多いので」

 真赭がそう言うと、痛みを伴うくらいの大声が胸を貫く。

(誰が乱暴者だよ、誰が!)

(そうやって、大声を上げるあたりが乱暴なのだ)

 その叫びをたしなめる者がある。彼らが真赭のうちで賑やかに怒鳴り、叫んでは話し始めたのを聞き、真赭はため息をついた。

「なんなら、お目にかけましょうか?」

 真赭は、更衣に向かってそう言った。本来なら、そうやって見せもののようにするものではない。しかしこうすることで少しでも、悪夢に取り憑かれている更衣を慰めることができるのなら構わないと思ったのだ。

 しゃらりと、真赭は腕輪を鳴らす。これから起こることがなんなのか、興味を惹かれたのだろう。更衣は目を見開き、女房たちもかすかなざわめきを洩らした。

「緊縛呪、解除」

 小さくつぶやいた真赭の右腕に、光が集まる。それは一拍置いて、弾けるようにあたりに広がった。

 光に驚いて、目を閉じていた者もいただろう。しかしその者が目を開けたとき、真赭の後ろに座する、十二人の男たちを見て驚いたはずだ。

「こちらが、我が祖父……安倍晴明から譲り受けました、十二月将でございます」

「ま、ぁ……」

 驚く更衣の前、居並んだ男たちは揃って頭を下げる。

「神后」

 ゆっくりと会釈したのは、衣冠束帯の美丈夫である。金の髪に青い瞳をしており、十二月将の中でも、特に目立つ存在だ。

大吉(だいきち)小吉(しょうきち)

「よろしくっ!」

 揃って頭を下げたのは、銀色の髪に水色の目という、神后よりも目立つかも知れない容姿をしている。彼らは互いに視線を向け合い、まわりを見まわしてはにやにやとしていた。真赭は、彼らが腕輪かから解放されたことでなにかまたいたずらを始めるのではないかと、冷や冷やしている。

功曹(こうそう)

 濃茶の髪に、黒い瞳。闕腋袍(けってきのほう)を身にまとい、巻纓冠(けんえいのかんむり)(おいかけ)の姿も凜々しい彼は、丁寧に更衣に頭を下げた。

大冲(たいちゅう)

 こちらは、束帯姿の色の白い男性だ。水色の髪と銀色の瞳と、神后や大吉小吉ほどではないがやはり目立つ容姿の彼は、なにも言わなかった。ただ、慇懃に頭を下げただけだった

天剛(てんごう)

「よろしくお願いいたします」

 大柄な彼は、黒髪に茶色がかった目と、真赭たちとあまり変わりがない。その代わりにどっしりとした、迫力ある男性だった。

太乙(たいおつ)

 銀色の髪に、青い瞳。同じ銀色でも、大吉小吉よりも幾分色味が淡く、輝いて見えるときがある。陰陽師のように白い袍をまとった彼は目をすがめ、更衣の前でも気後れしていないことがわかる毅然とした態度でその場に座っていた。

 この太乙が、真赭の胸に一番沁み入る声を出す。真赭が彼の声を聞きつけるのが最も早いものだから。自然と、十二月将たちのまとめ役となっている。

勝光(しょうせん)

 こちらは、一見落ち着いた大人――と見せかけて、実のところ大吉小吉も敵わないほどのいたずら者だ。茶色の髪に茶色の目、という容姿だ。その瞳がくるくる動くのに、なにを企んでいるのかとこちらもまた、真赭を心配させる存在だった。

傳送(てんそう)

 黒髪に、黒い目。十二月将の中にあっても目立たない彼は、いつもどこか、おどおどとしている。今もきちんと座ってはいるものの落ち着かなく、きょろきょろとあたりを窺っているようだ。

 傳送には、双子の兄がいた。ふたりは肩でつながり、三本の腕を共有する双子だった。しかし半身の兄が死に、ふたりは切り離された。兄の死を自分のせいだと思っていることが傳送をおどおどと、自信なげに見せている。

従魁(じゅうかい)

 こちらは対照的に、明るく覇気のある青年だ。赤い髪に青の瞳はともすれば均衡悪く醜く見えてしまうのかも知れないけれど、従魁の明るさがその危ういぎりぎりの線を押さえている。快活で、功曹と同じく武官の姿をしている。

河魁(かかい)

 彼は、従魁の弟である。大吉小吉のふたりが見分けがつかないほどにそっくりであるのに比べ、河魁は兄とはまったく似ていない。傳送ほどではないもののやはり人見知りが激しくて、兄の従魁の影に隠れるようにしている彼は、真赭と同じ白い水干姿だ。

登明(とうみょう)

 真赭がそう言い、彼はしゃらりと衣擦れの音を立てて会釈をした。背を覆う長い髪は白、更衣を見て微笑んだ目は紅。その身を直衣に包んでいるのが不思議なくらい、たおやかだ。否、むしろ直衣を着ているからこそ、男装の麗人のように見目にいいけれど、れっきとした男性である。しかしその所作には、いつも見とれてしまう。

「この者たちが、わたしが祖父から譲り受けた、十二月将です」

「そうなの……」

 更衣は、目の前に居並んだ男性たちに目を白黒させている。それは、ほかの女房たちも同様だ。基本的には男子禁制の後宮において、これだけの人数の男性が集うことなどめったにない。

(だから中宮さまは、あなたたちを出すなとおっしゃってたのよ)

 胸のうちで、真赭は膨れて見せた。

(ほら、皆さまがた、みんな驚いて……。泡を吹きそうになっているかたもいらっしゃるじゃないの)

(おまえが、更衣さまにお目にかけると言ったんじゃないか)

 従魁が、赤い髪をかき上げながら心の中の声を飛ばしてくる。

(俺たちは、知らない。おまえがしろと言ったことをするだけだ)

(それは、そうだけれど……)

 更衣も女房たちも、目を丸くしている。どうしたものかと、真赭は焦る。

「お目にふさわしくなければ、また封印を戻しますけれど……」

「い、いいえっ!」

 叫んだのは、女房のひとりだ。葡萄染(えびぞめ)の襲をまとっている。

「どうぞ、その御方たちにはそのままに……」

「お、お酒などいかがですか? 苦手なかたには、菓子もありますわよ」

 その場が、一気に十二月将の歓待の雰囲気に盛り上がる。皆が立ち菓子だ酒だと用意をする中、更衣は薄く微笑んで、脇息に身を寄せていた。

「更衣さま……よろしいのですか?」

 昼間から騒ぐようなことになって、いいのだろうか。しかもそれが自分の従者たちを歓待するものとあっては、真赭もさすがに慌ててしまう。

「いいのよ」

 夢の悩みが晴れたせいか、穏やかな微笑みで更衣は言った。

「皆も……騒げるときには騒ぎたいのよ。わたくしはときめいているでもないし、皆毎日、退屈しているのだから」

(あ……)

 更衣が、自らをときめいていないと評するのは、確かにそのとおりだ。しかし本人の口からそれが出るのは、聞いていてなんともせつないことではあった。

 菓子を、酒を振る舞われる十二月将たちを見る。ある者ははしゃぎ、ある者は静かに。彼らは少しでも、その賑わいに花を添えようとしているようだった。



 桐壺を出たのは、そろそろ申の刻、というころだった。夕方になり、陽も陰り始めている。

 真赭は、再び腕輪に封じた十二月将とともに歩いている。そこに、そっと後ろからささやきかける者があった。

「真赭。麗景殿だ」

飛英(ひえい)……」

 振り向かずに、真赭は応える。

「鬼が、出る。それが、桐壺更衣をも悩ませていたんだ。とりものは、今夜」

 低い声は、それだけを言って消えた。真赭は、表情を硬くする。

「麗景殿女御さまは、なんともないのかしら」

 そう口に出した真赭への答えは、胸のうちに響く。

(ともすれば、麗景殿女御が黒幕かも知れんな)

(ああ。桐壺を妬んだとも考えられる)

(……そんな)

 真赭は、眉をひそめた。しかしそのようなことは後宮には日常茶飯事、後宮どころか、都の内外にも呪いは常に飛び交っているのだ。

(しかし、そうやって桐壺を妬ませたのも、また物の怪)

(どこからやってきたのか、怨みが怨みを呼び……大きく膨らんだ百鬼夜行になることも考えられる)

(百鬼夜行!)

 心のうちで、真赭は叫ぶ。彼女の足は藤壺に向いているのだけれど、その足を止めてしまったくらいだ。

(そんな、恐ろしいこと……)

(だから、飛英は調べてくると言ったのだ)

 響いた声は、太乙のものだ。彼の声はややもすれば冷たいのに、不思議と胸のうちに沁み渡る感覚がある。

(あの者でなければわからぬこともあろう。なにせ、狐の血を引く男なのだ。そのくらいの嗅覚なら、働いても当然であろう?)

(おや、太乙が飛英を認めるなんて、珍しいこと)

 くすくすと笑いながらそう言ったのは、登明だ。彼が、その女人と見まごうばかりの顔に笑みを浮かべているさまが、視覚ではなく感覚で、真赭には感じられた。

(認めているわけではない。ただ、あれの母が半人半妖であったことは知っているだろうが。あの者自身の手柄ではない、引いた血の問題だ)

 飛英の母であり、真赭の祖母であった人は、葵葛(あおいかずら)の君と呼ばれていた。飛英を生むと同時に亡くなったという彼女は、その母が狐の化生であったという。

(血を引いても、実力を発揮できない者はたくさんいるでしょう……太乙も、そういう主を持ってもどかしい思いをしたこともあるでしょうに)

(……昔のことは、覚えていない)

 むすっとした声音で、太乙が言う。真赭も思わず、くすくすと笑った。

「……あ」

 藤壺への道すがら、貞観殿の裏を通りかかったときだ。玄輝門の向こうを歩いている人物と、目が合った。

「安倍……吉平さま」

 真赭は、ぺこりと頭を下げる。彼は幾人かの従者を連れていて、彼らは一様に真赭を訝しげな目で見たが、もっとも表情をゆがめたのは、安倍吉平だった。

「また後宮で、これ見よがしに小技を披露してきたのか?」

 その言葉に、思わずむっと眉を寄せる。しかしここでよけいなことを言えば藪蛇だと感じて、真赭は頭を下げたままだ。

「……まったく、我が父もとんだ者を見込んだことだ」

 吉平は、白いものが混じり始めた髭を生やした顎を反らせた。ふん、と真赭を見やる。

「女の身で、陰陽道など……外法陰陽師が」

 その嘲りに、真赭はびくりと体を震わせた。しかし顔を上げてしまうと吉平と目が合い、自分がどのような言葉を口にしてしまうかわからなかったので、黙って顔を下げたままだ。

「十二月将を、後宮の見せものにしおって。そのようなことのために、父上はおまえに十二月将を譲ったのではないわ」

「見せものに、など……」

 つい、言葉が口から出た。反射的に顔を上げてしまい、まるで奇妙なものを見ているような吉平と目が合った。

「ただ後宮の皆さまの、つれづれのお慰めに、と思っているだけです」

「あれらは、女人の慰めにするようなものではないわ」

 ぴしゃりと、吉平は言い放った。

「なんのために使うかもわかっておらぬ者に……なんとも、惜しいことよ」

 吉平は、真赭の手を見やった。もちろん、そこに嵌まっている腕輪を見たのだ。

「父上も、かの世で嘆いておられることだろうよ。おまえなど……孝允の娘なぞに、いったいなんの力があるというのだ」

(ねぇ、こいつ、やっつけちゃっていい?)

 大吉の声が、胸の奥に響いた。吉平を見上げたまま、真赭はだめよ、と胸の奥でささやく。

(真赭が、晴明の秘蔵っ子だったのを妬んでるんだよ)

(おまえの才は、私たちが一番よくわかっている)

 太乙の声がする。いつもどおりの沁みとおる彼の声は、真赭を安らがせてくれた。

(このような男の言うことに、惑わされるではない。おまえはおまえだ、自信を持っていろ)

(う、ん……)

 太乙の声に心中深くうなずいて、真赭は吉平を見た。吉平は、なにかにたじろぐような表情を見せる。

「まったく……このような外法陰陽師をお使いになる、中宮のお気が知れぬ」

 言い捨てるようにそう言って、吉平はきびすを返した。彼と従者たちの姿が見えなくなるまで真赭は頭を下げて見送り、顔を上げるとひとつため息をついた。

(外法陰陽師、だって)

 くすくすと、小吉が笑う。

(外法者にだって、優れた者は多い……真赭は、その筆頭だ。それなのに、宮廷陰陽師のどこが偉いのだ?)

 憤慨した声でそう言うのは、従魁だった。彼が、なぁ? と同意を求めたのは弟の河魁らしかったが、その返事は聞こえなかった。

(少なくとも、後宮で女御や更衣の力になっているのは、明らかに真赭だぞ。後宮のことにまで目を配らなくてもいいぶん、宮廷陰陽師は楽をしているのにな)

 不平を隠さないのは、天剛だ。確かに彼のまっすぐな気性は、吉平の反応とそりが合わないだろう。

(だって、それがわたしの仕事だから)

 胸を張って、真赭は前を向く。

(俸禄をいただいて、やっている仕事よ。なんと言われようと、怯むことなんてない)

(はは、それでこそ真赭だ)

 肩を、ぽんと叩かれたような気がした。実際は腕輪に封じ込めてあるからそのようなことはないのだけれど、そうやって真赭を慰めてくれるのは功曹だろう。

(頑張る。まずは……今夜の、物の怪退治だわ)

 ふわり、と踊った風が真赭の白い水干の裾を揺らす。その風にも慰められたような気がして、真赭は微笑んでうなずいた。



 飛英が言っていたのは、麗景殿だった。

 麗景殿には、名門中の名門、藤原の姫である女御が住んでいる。しかし子はなく、同じ藤原の血を引きながら中宮にまで登った藤壺や、姫宮とはいえ子をなしている桐壺を恨むことがあっても、おかしくはない。

(麗景殿女御さまには、以前夢占をさせていただいたけれど……)

 透垣の向こうから、麗景殿を見つめながら真赭が言う。麗景殿の庭には大きな桜の木がある。花といえば梅、そうではなく桜を植えさせる麗景殿女御の趣味は、なかなかに高雅だと真赭は思っている。

(そのときには、人を恨むような御方ではないと思ったのだけれど)

(それさえも、物の怪のせいだということもある)

 涼しい声でそう言うのは、神后だ。彼の凜とした声を聞くと、身がぴしりと引き締まるように感じる。

(麗景殿が物の怪に憑かれているのなら、やっかいだ。それに気づいたのなら、飛英を褒めてやらなくてはならないな……)

 いかにもそうしたくないという口調で太乙がそう言ったので、真赭は笑う。笑いながらも、透垣の向こうから目を離すことはない。

「真赭」

 そっと、声がかけられた。突然声をかけられても驚くことのないようにと、潜められた声は飛英のものだ。

「なにか、異常はあった?」

「いや、まだ……しかし、今夜は寅の日。悪日だ」

 うん、と、真赭はうなずいた。

「穢れが、もっとも出やすい……もしくは、こちらから呼び出してみるか?」

「物の怪じゃないほうがいい……ってよりも、物の怪のほうが、まだましなのよね」

 真赭は指先で、頬のあたりをかりかりと掻いた。

「麗景殿女御さまが、単に物の怪に取り憑かれている、だけだと、いいんだけど……」

(それでも、物の怪を呼び寄せた心弱り……怨みも考えられる)

 太乙の声が、沁み渡る響きで耳を通っていく。ふぅ、と真赭はため息をついた。

(怨み、かぁ……)

 真赭は、思わず天を仰ぐ。夜の星々が美しい。しかしその星の運行が人間の心に変化を及ぼし、それが怨みや妬みに変わっていくのだ。

(どうして、他人を嫉んだり恨んだり……そういうこと、あるのかしらね?)

 ふっ、と太乙が笑うのが、胸の奥に響く。

(おまえには、わからぬ感情か? その目で、日々怨みを見ておきながら)

(それって、どういう意味?)

 自分が、人の心の機微を感じ取れないわがまま者に思えて、真赭は唇を尖らせた。また、太乙が笑った。

(晴明の息子たちだよ。どちらも、おまえを嫉んでいる……嫉妬しているのだ)

(吉平さまと、吉昌さま?)

 真赭は、思わずまわりを見まわした。確かに物の怪退治なら、彼らのほうが名手だ。本来なら、彼らに依頼が行くような仕事なのに。

(嫉妬されるようなことなんて……。お祖父さまからあなたたちを受け継ぐまで、ろくに調伏もできなかったのに?)

(私たちが、おまえを認めたのだ。道具を手に入れられるということは、それだけの実力があるということだ。私たちは、おまえの道具。もちろん、きちんと使いこなせていればの話だが)

(真赭には、ちゃんと使いこなせてると思うけど?)

 この場に似合わぬ、呑気な声で言ったのは大吉だ。太乙が、大吉を睨みつけるのが感じられる。

(特に、俺たち不満はねぇもん。こうやって、真赭と一緒にいられて……)

「来る」

 飛英が、密かな声でそう言った。真赭も、腕輪に封じられた十二人も、すべてが麗景殿の方向に意識を集中する。

「……あ、れ……」

 麗景殿の簀子に、人が現れた。篝火は焚かれているとはいえ、暗がりのこと。それが誰かともおぼつかない。

「変なの……、顔、が……」

「面をかぶっている」

 静かな声でそう言ったのは、飛英だった。彼は、真赭の真後ろにいる。篝火の届かないこの場所に立っている彼の気配は、これだけ近づかれてもなかなかわからなかった。

「あれは……陵王の面だ」

 思わず真赭は、声を上げてしまう。しかし面の主は真赭の声には気づかなかったようで、そのまま簀子で舞い始めた。

 顔は、陵王の面をかぶっている。しかし格好は小袿姿で、その不均衡さが薄暗い中、不気味に見える。

「陵王……」

 かつて、大陸には北斉という国があった。その国の将軍であった蘭陵王は、面をつけて戦いに挑んだという。それは、あまりにも秀麗な顔を隠すためだったとも、逆にふた目と見られない醜悪な(おもて)をしていたからだという説もある。

 そのことからも、陵王の舞は本心を隠して偽りを生きるということも意味している。陵王の面をつけ、舞う女人――その胸の奥には、鬱憤が澱んでいるのだろう。それが、物の怪の正体なのか。

「……いくわ!」

 真赭が、潜めた声でそう告げた。飛英も、腕輪に封じられた十二月将たちも、大きくうなずいた。真赭は素早く、印相を結ぶ。

「高天原爾神留座須神魯岐神魯美乃命以天皇御祖神伊邪那岐命筑紫乃日向之橘乃……」

 真赭は、天津祝詞を唱える。その声が、あたりに響いた。陵王の面の女は、こちらを見ている。その下には、驚きの表情があるのだろう。

「緊縛呪、解除!」

 大きな声で、真赭は叫ぶ。それに呼応するように、腕輪が光った。と、そこには十二人の男たちが現れる。

「……小戸乃阿波岐原爾御禊祓比給比之時爾生座留祓戸大神等諸乃枉事罪穢乎……」

 印相を結んで、真赭の祝詞に続けたのは太乙だった。直衣姿の彼の銀色の髪は、篝火を浴びてきらきらと美しく光る。

「祓比賜弊清米賜閉登申須能由乎天津神國津神八百萬乃神等共爾平介久安介久……」

 両手を組み、人差し指を立てて重ねたのは神后だ。彼の髪といえばまばゆく金色に輝いて、その姿は真赭に勇気を与えてくれる。

 陵王の面の女は、苦しみ始めた。舞の足を止めてその場にうずくまり、おお、おお、とまるで獣のような声を上げる。

「今よ……、功曹!」

「御免!」

 手にした刀を振り上げた功曹は、陵王の面の女に飛びかかる。その刀は女を一閃し――しかし、傷を負わせたわけではない。

 功曹の刀は、女の体の真ん中にきれいに一筋を焼きつけた。ぱかり、と面が割れる。その下に現れた顔に、真赭はため息をついた。

「……麗景殿女御さま……」

 確かに、それは思っていた女性(にょしょう)だった。いつも御簾のうちにいて、姿を見せることもないはずの身分高き女性が、簀子で舞を舞うなど。

「おお、おお……口惜しや……」

 あらわになった顔を、女御は覆った。それは顔を見られることへの恥でもあっただろうし、功曹の一閃がその体にではない、心を覆うものを切りつけたことで本心が剥き出しになったことからかも知れなかった。

「口惜しや……、あの女、あの女!」

 女御は、震える声でそう言った。その姿を、篝火が照らす。

「主上のお心を独り占めする、あの女……!」

 どきり、と真赭の胸が鳴った。やはり寵愛が及ばないことを悲嘆して、物の怪に取り憑かれたか自らが物の怪と化したか――。

「許せぬ……、ゆる、せ、ぬ……!」

 顔を覆ったまま、女御は呻く。

「子をなしたばかりではなく、帝の寵愛をも独り占めに……」

(誰のこと?)

 腕輪から解放されても、心の声は通じ合う。真赭は、十二月将たちに語りかけた。

(桐壺更衣さまのこと……? でも、帝の寵愛、って……?)

(ばか、藤壺中宮のことだ)

 頬を張ってくるような声でそう言ったのは、大冲だ。彼の冷静な声が、頭に響く。

(藤壺中宮は、守りの神の力が強いからな……麗景殿女御は中宮に取り憑こうとして叶わず、代わりにやはり子のある桐壺に向かったのだ)

 それでは、やはり女御は自ら物の怪と化したのだ。その魂から悪い気を抜かなければ、今度は誰に取り憑くかわからない。そして女御自身、その身も魂も、すべてが物の怪となってしまうかもしれない。

 ぞくり、と怖気が真赭の背を這う。それは、呻く女御の苦しみ――嫉妬が彼女の身をあのようにしてしまっているのを、まざまざと見ているからだ。

 女御の呻きが、大きくなった。女房たちが起き出してくる。さすがにこれだけの騒ぎになれば、気づかないというわけにもいかないのだろう。

「女御さま……」

「だめ……!」

 真赭は、思わず叫んだ。ひとりの女房が女御に駆け寄り、その身を抱き起こそうとしたからだ。

「だめ、目を見ちゃ!」

 女御は顔を上げる。肩を抱く女房を見たかと思うと、かっと目を見開いた。

「きゃぁ――っ、……!」

 女房が、悲鳴を上げた。そのまま、女房はがくりと倒れてしまう。真赭にはその体から抜けた魂が見え、同時に女御の体から離れようとしている魂が、女房のそれを食らおうとしているのも見えた。

「従魁、河魁! お願いっ!」

 兄弟が、揃って返事をする。彼らは身を翻して離れ逃げ行く女御の魂を掴み、今にも食らわんとしていた女房の魂から引き離した。

「なにを……しやる……!」

「天地玄妙神変神通力!」

 従魁と河魁が、同時にそう叫んだ。彼らの手は、やはり同時に(くう)に五芒星を描き、その中央に指を突き立てる。

 女御と女房、それぞれの魂はその身に戻った。しかし再び、抜け出すことがあってはいけない。

「臨兵斗者皆陣裂在前!」

 真赭はそう叫ぶと、素早く九字を切る。そうやって女たちの魂を元つ身に縛りつけておきながら、印相を結んだまま真赭は叫ぶ。

「太乙!」

 返事はなかった。しかし彼が素早く動き、魂を封じ込める(しゅ)を唱えたことがわかった。

 太乙の唱える呪が終わったか終わらないか、という刹那。真赭の横を駆け抜けた影があった。飛英だ。彼は女御の前に膝を突くと、その額に五芒星を描く。

 女御は呻きながら、簀子の上に完全に倒れ伏せた。従魁がその背を押さえているのは、魂をさらに強く縛りつけるためだ。しかしその指の間から、するりと逃げようとするものがある。

「登明!」

 ぐわん、とあたりの大気が歪むような感覚がある。真赭の目の前には、大きく口を開けた登明がいる。

 そのような大口を開けていても美貌のほどが崩れないのは、さすがだ。彼はあたりの大気すべてを呑み込んでしまうような呼吸をし、すると女御の体から抜け出そうとしているものも引き寄せられる。それをひと飲みにして、麗しい姿は口を閉じた。

 登明は、紅を塗ったように紅い唇を、ぺろりと舐めた。女御の中にあった悪い気を食べたのだ。登明は、満足そうに微笑んでいる。

「相変わらず、悪食だなぁ……」

 呻いたのは功曹だ。彼も刀を構えて、この魂調伏の一部始終を見やっている。

「うん……あのきれいな顔が、悪い気を好むだなんて。誰も思わないわよね」

 思わず、真赭も同調した。しかし倒れていた女御がゆっくりと起き上がったのに、また身構える。

 乱れた髪の間から、白い顔が見えた。その額には飛英の描いた五芒星を浮き上がらせながらも、その顔は真赭のよく知っている麗景殿女御のものだ。

「……わたくし、は……」

 女御は、驚いたようにまわりを見まわしている。彼女の魂から、悪い気を抜くことに成功したと見届けた真赭は、女御のもとに駆け寄った。

「ご気分はいかがですか、女御さま」

 女御は、なにがあったのか、まったく理解していない様子だった。しきりにあたりを見まわし、かたわらに割れた陵王の面があるのを見て首を傾げている。

「わたくしは……なにを?」

「悪い気が、抜けたのです」

 にっこりと微笑んで見せながら、真赭は言った。

「もう、大丈夫です。悪いものは消えましたから」

「……そうなの?」

 いったい女御の身のうえに、なにがあったのか。真赭はあえてそれを説明しなかったし、十二月将も飛英も、思いは同じであるようだった。

「はい。まだ、夜は深うございます。どうぞ、御帳台に戻っておやすみください」

 女御は、童のようにうなずいた。女御の魂に襲われかけた女房も、ほかの女房の手を借りて起き上がる。

「なにも、ございませんでした……なにも、おかしなことは」

 自分に言い聞かせるように、真赭は言った。まわりの皆もうなずき、それでも女御は、まだ不安そうな顔をしている。

「女御さまに、ついてあげてください。おやすみになっている間も、どなたかが起きて、付き添って」

 女御の中の怨念は登明が食らってしまったとはいえ、なにがきっかけで再び生まれるとも限らない。女房たちは、不安げな顔でうなずいた。

「行きましょう」

 きびすを返し、真赭は言う。彼女が大きく手を振ると、十二月将たちが消えていく。その右腕には再び腕輪が現れた。

「俺は、これで」

 真赭の耳もとに、そうささやきかけたのは飛英だった。彼は現れたときと同じように、大気にかき消えるようにいなくなってしまう。

「……飛英のほうが、式神みたい」

 あっという間に姿を消してしまった飛英には、その言葉はもう届かないだろう。麗景殿の庭園を抜けた真赭は、独りごちた。

「どうやって、あんなふうに気配が消せるのかしらね? 不思議だわ」

(それは、ほら。飛英は、狐の血を引くし)

 答えたのは、再び胸の奥に響く声。大人の声ながらいたずらめいた。勝光のものだ。

(そういう者にしかできない、技みたいなものがあるんだよ)

(狐の血を引いてるっていうのは、わたしも同じなんだけど)

 心の中で、真赭はそう言った。

(飛英のお母さまが、わたしのお祖母さまなんだから。お祖母さまは、葵葛の君と言い伝えられる狐との半人半妖で、後宮にもいろいろな伝説を残した御方。その血は、わたしも受け継いでいるはずだけど?)

(それよりも、真赭には陰陽師としての血が濃い)

 言ったのは、太乙だ。胸に広がる言葉に、そうだね、と真赭はうなずいた。

(でも、お祖母さまは……)

 そんな真赭を案じて、飛英を守り役につけたのだ。飛英は、真赭を守るようにとの母の命を第一に動いている。

(そんなにわたし、頼りないかしら?)

(おまえの祖母、葵葛の君が亡くなったとき、おまえはまだ生まれていなかった。自分の死後、生まれるおまえのことを……心配するのも無理はない)

(それにしたって……、飛英は生真面目だから。お祖母さまの遺言にいつまでも縛られているのは、よくないことだと思うんだけど)

 真赭が言うと、くすくすと笑う者がある。

(なによ、大冲)

(飛英が、母の命ゆえのみにておまえを守っていると思っているのか?)

(……どういう意味?)

 真赭は思わず、眉をしかめた。しかし大冲は、そう言ったきり沈黙を守ってしまう。さらに問いかけても答えは返ってこなくて、真赭はもどかしい思いをした。



 藤壺の西の対が、真赭の寝床である。

 身分ある者は帳台の中で眠るけれど、女房たちや身分なき者は床に直接横になる。真赭はいつも、西の対の丑寅の方向に当たる場所で眠っていた。

 薄手の袿を引き寄せて眠っていた真赭は、自分が夢を見ていることに気がついた。

(わたしは今、夢の中にいる)

 そういう自覚のある夢は、多くはない。そしてこれが夢であるということを自覚するとき、それには確かに意味があるのだ。

(また……ここ)

 真赭はあたりを見回した。赤に青、緑に黄色と色とりどりだと思ったのは、ここが花畑だからだ。真赭の膝あたりまでの高さの、さまざまな花が咲いている。ふわりと風が吹いて、いい薫りが漂ってきた。

(また、お花畑の夢……なぜ)

 花畑にいる夢を見るのは初めてではない。それに夢なのだから、この場の雰囲気に身を委ねてしまってもいいのかもしれない。しかし真赭はそのような気になれなかった。どこかで誰かが、真赭を見つめている。しかも好意的な視線ではない――真赭はぶるりと、身を振るった。

 あたりを見回して、視線の主を探そうとした。しかし目に映るのは花ばかりで、目的のものは見つからない。いつもなら、ここで夢が覚めるのだけれど。

(誰が、わたしを見ているの)

 真赭は、花をかきわけて前に進んだ。花畑はどこまでも続いていて、果てが見えない。徐々に真赭は、恐怖を覚え始めた。

(確かに、誰かに見られているのに。いったいどこにいるの?)

 一歩一歩、ゆっくりと歩く。何歩めかに足を出したとき、真赭は足を踏み外して転んでしまった。

「きゃ、っ!」

『あははははは!』

 突然、あたりに響き渡る笑い声がある。真赭はぎょっとしてあたりを見回した。

『愉快だこと! 陰陽師だなんだと気取っている娘には、ちょうどいいお灸だよ!』

「だ、誰!」

 真赭は思わず声を上げ、まわりを見やる。笑い声の主も視線の正体もわからないけれど、しかしこの夢は真赭への敵意で作られている――そのことを理解して、ぞっとした。

「誰なの……出てきなさいよ」

『ちょっとばかり物の怪祓いができるくらいで、調子に乗ってるんじゃないよ!』

 厳しい声で、そう言われた。真赭はびくりと肩を震わせる。

「調子になんて、乗ってないわ……」

 真赭の声は、少しかすれていた。言葉通り調子になど乗っていないつもりだったけれど、人の目から見ればそう見えるのか。そのことを気にしながらあたりを窺っていると、視線の感覚はますます強くなる。

『おまえの祓ってきた物の怪など、小物ばかり……自分が後宮を守っているなんて、勘違いはしないことだね!』

 視線の主は、真赭に悪意を隠さない。人の悪意というものは、それだけで攻撃的な武器になる。しかもここは視線の主の手の内だ。向けられる悪意に真赭は、少しずつ疲弊してきた。

『あたしは、おまえを認めない』

 声は厳しく、真赭の胸を貫いた。

『おまえが陰陽道を身につけるまでは、後宮はあたしのものだった。ここの女たちは、あたしの思うがままに妬み、羨み苦しんで……あたしを喜ばせるんだよ!』

「そ、んな……こと」

 視線の主が勢いを得れば得るほど、真赭の疲労は強くなっていく。はぁ、はぁ、と息を吐きながら、真赭は言った。

「させないわ。わたしは、皆さまのお役に立つの。それがわたしの仕事だもの……!」

『思い上がって!』

 きつい調子で、視線の主が言う。

『後宮はあたしのもの……女たちの苦しみは、あたしの好物!』

 声はひときわ大きくなって、真赭は頭を殴られたようにくらりとした。頭を押さえて、どこにあるかわからないながらも、視線のもとをきっと睨みつける。

『その邪魔はさせない。あたしはもっと力を得て……後宮の女たちを苦しませ続けるんだ!』

「させない……!」

 頭を押さえて、精いっぱいの声で真赭は言った。しかしつのる悪意に心が耐えきれなくなって、真赭は花畑の中に倒れ込んでしまった。

(どうして、お花畑なのかしら……?)

 意識が遠くなるのを感じながら、真赭はそう考えた。

(後宮の方々を苦しませるなんて……そんなことを考えるような者がいるには、ふさわしくない……)

 それ以上、真赭はものを考えることができなかった。夢は終わり、真赭の意識は暗い淵の中に落ちていく。



 はっ、と息をついて、真赭は目覚めた。目を開けてみると、まだ暗い。

 体を起こしてまわりを見れば、女房たちはまだ眠っている。しかし真赭は再び眠る気になれなくて、まわりを起こさないように起き上がると、渡廊に出て高欄に寄りかかった。

(どうした、真赭)

 真赭は自分の腕を見る。色とりどりの腕輪の石から、伝わってくる声がある。

(うん……おかしな夢を見たの)

(夢か)

 この声は、太乙だ。彼の顔を思い浮かべながら、真赭は胸の奥でささやいた。

(この後宮に、何か……大きな物の怪がいる。それがわたしの仕事を気に入らなくて、後宮のかたがたの苦しみをもっと大きくしてやるとか……そういうことを言ってきたの)

(後宮に住み着く、物の怪か)

 太乙は、ふっとため息をついた。

(物の怪なら、ここにもたくさんいる。しかしおまえの夢の中にまで入ってこられるとは、相当な力を持つ物の怪だな)

(そう……それが、気がかりで)

 真赭も、太乙につられたように息をついた。

(麗景殿女御さまのことも……あの物の怪が操っていたことなんじゃないかって、思うの)

(それは、充分にありうるな)

 太乙は、ゆっくりと頷いた。

(それを調伏することができたら、後宮で物の怪騒ぎが起きることもないのかもしれない……しかし力が強ければ強いほど、身を隠すすべも心得ている)

 真赭は、きゅっと唇を噛んだ。

(あの物の怪を封じられたら、後宮の皆さまが苦しむこともなくなる……)

 先ほど、妬み嫉みに苦しむ女たちを見たばかりだ。花畑の物の怪を調伏することであのようなことがなくなるのなら、願ったりというところなのだけれど。

(でも、普段はいったいどこにいるのか……探り出して、封じることができたらいいのに)

(これほどに、人の多い場所だ)

 真赭を慰めるように、太乙は言った。

(物の怪が隠れる場所など、いくらでもある……焦るな。ゆっくりと、探り出せ)

(……うん)

 真赭は頷いて、腕飾りを見る。ほかの石もまたたいて、真赭を力づけてくれているようだった。



 真赭が、藤壺中宮の前に出たのは、麗景殿女御の事件の、翌日だった。

「わたくしを放っておいて、どこに遊びに行っていたの?」

 藤壺中宮は、後宮の中でもっとも身分の高い女性だ。しかしそれを鼻にかけることはなく、真赭にもまるで友人のように接してくる。

「いえ……、放っておいたわけでも、遊んでいたわけでもないのですが」

 御簾をかけることもしないで直接対面しているのは、ふたりの間の気軽さゆえである。中宮は、その美しい顔にいたずらめいた表情を走らせて、言った。

「また、物の怪退治? あなたには、わたくしだけを守っていてほしいのに」

「そういうわけにもまいりません」

 困惑しながら、真赭は言った。あたりには、黒方が薫っている。中宮の好む焚きものの薫りだ。真赭も好きな薫りだけれど、その薫りが好きなのか、それとも中宮の漂わせている薫りだから好きなのかは、わからなかった。

「わたしは……後宮の平安を守るようにと、仰せつかっておりますから……」

「だから、そう言っているのじゃないの」

 まるでわがままな子供のように、中宮は言う。

「わたくしの藤壺は、後宮ではないというの? ほかのお妃がたのほうが、大切だというのね?」

 いえ、と真赭は言葉に詰まる。そんな真赭に、中宮は意地の悪い笑みを向けた。

「わたくしを退屈させたら、主上に言いつけるわよ? 真赭はしっかり役目を果たしていない、ってね。あなたの俸禄も、少なくしちゃうから」

「あの……、それは……」

 真赭はますますまごついた。そんな彼女に、中宮は明るい声を向ける。

「そうやって、おまえが困っているのを見るのが楽しいわ」

 まったく、すでに十八にもなる子がある女性とは思えない、いたずら好きで朗らかな性質の持ち主である。だからこそ、四十歳に手が届く年齢になっても、帝の寵愛が薄れないのだろうとは思うけれど。

「……中宮さまは、意地悪です」

 少し拗ねた口調で、真赭は言った。

「わたしが、中宮さまを第一に考えていることはご存じでしょう? それに、中宮さまは神仏の守りがお強いから……わたしがあれこれと言うことはないのです」

「本当かしら?」

 小袿姿の中宮は、けだるげに脇息にもたれかかりながら言った。

「あなたがほかのお妃に浮気している間に、わたくしが物の怪に襲われてしまえばどうするのよ?」

「そんな……浮気、だなんて」

 この中宮を前にすると、真赭はどうしても調子が出ない。中宮は少年のような快活さで、また媼のような意地の悪さで、真赭を困惑させる。

「まぁ、いいわ」

 真赭が縮こまってしまったのを目に、くすくすと中宮は笑う。

(……ん?)

 その目に、わずかに憂いのようなものを感じたのは気のせいだっただろうか。いつも明るく快活な中宮が、どこか疲れたような、けだるげな様子を見せている。

(どうかしら……太乙)

(今のところは、なにもおかしな気配はないようだが)

 落ち着いた声で、太乙は言った。

(しかし……なにかよくないものがやってくるという気配は、ある。今朝方の、麗景殿の影響が後宮に残っているのやもしれん)

 そして太乙は、懸念することがあるかのように、じっと真赭を見つめてくる。

(あの、花畑の視線の主もな。夢と侮るなかれ……何か大きな、凄まじい力だ)

(うん、気をつける)

 真赭は、表情を引き締めた。そんな彼女に気づいてか否か、中宮はやや疲れたような、それでいていつもの晴れやかさで言った。

「今日は、ここにいてくれるのでしょう? あなたの好きな索餅(さくべい)を用意してあるのよ」

「わっ!」

 索餅、と聞いて真赭は思わず笑顔になって声を上げた。小麦と米の粉を練って、細長くねじった菓子だ。唐菓子はなかなかに高価なので、そうしょっちゅう口に入るものではない。

「ほら、その顔」

 今度は声を上げて、中宮は笑う。

「あなたのそのかわいらしい顔が見たくて、用意したのだもの。ほら、持ってきておあげなさい。早く」

 中宮は、かたわらの女房にそう促した。奥で、いくつもの衣擦れの音がする。

「で? このたびは、どこに行っていたの?」

「桐壺と……麗景殿です」

 隠すことでもあるまい。それに、この中宮のことだ。いずれどこからか聞きつけてくるはずなのだから、秘密にしていたと責められるのも本意ではない。

「桐壺更衣さまと、麗景殿女御さまが、本調子ではいらっしゃらないと?」

「はぁ……」

 しかし麗景殿女御が、藤壺中宮を呪っていた。その怨みが桐壺更衣に向かった。その挙げ句の物の怪騒ぎということを、果たして当の中宮の耳に入れてもいいものか。

「ですが、お加減のほうはもうよろしいと思います。その……処置は、施しましたから」

「陰陽師の、本領発揮というところね」

 索餅をはじめとした、さまざまな唐菓子、果物が運ばれてくる。そのいい薫りに、真赭はくんと鼻を鳴らした。

「……わたしのことを、陰陽師というのは……」

 正しくないのではないでしょうか、と真赭は続けようとした。陰陽師と呼ばれるのは安倍吉平や吉昌のような、宮廷陰陽師を言うのだから。

 あら、と中宮は目を見開いて首を傾げた。

「そうじゃないの? 神仏の力を借りて物の怪や呪いを叩き伏せ、さらには十二月将まで召し使う……そういう者を、陰陽師とは言わないの?」

「ですが……」

「また、吉平や吉昌あたりに、なにかを言われたの?」

 思わず、どきりとしてしまう。真赭が目を見開くと、菓子を手にした中宮が、にこりと笑った。

「わたくしから、言っておきましょうか? 真赭は、主上も信頼しておいでの陰陽師だって。位や官位など、関係ないわ。こうやって、後宮の平和を守ってくれているのですもの」

 言葉に詰まる真赭に、中宮はにっこりと笑いかける。そして手にした扇で、真赭のほうを指す。中宮は「おあがりなさい」と菓子を並べた高坏を差した。

「いただきます」

 さっそく、好きな索餅に手を伸ばす。かりかりとした食感が、味に花を添えてくれる。甘さが、口の中に広がる。

「本当に幸せそうに食べるわね、あなたは」

 そんな真赭を見ながら、中宮は目を細める。

「あなたがいれば、なにも不安はないのだけれどね。だから、ほかのお妃さまがたもおまえを頼りにするのはわかるのだけれど……」

 ふっと、中宮は目を伏せる。その表情に、やはり疲れたような色が見えたのは気のせいだっただろうか。真赭は菓子のことを忘れて、中宮を見た。

「おまえがいてくれないと、安心して眠れないの。おまえが……この藤壺のどこかで眠っている、という確信がないと、どうしても夢見が悪いわ」

「そんな……。悪い夢をごらんになったのですか?」

 どきりとして、真赭は胸を押さえる。麗景殿女御の呪いは、夢という形で桐壺更衣に降りかかったけれど。祓ったはずの麗景殿女御の怨みは、やはり藤壺中宮にも及んでいたのだろうか。だから中宮は、けだるい様子を隠さないのだろうか。

(どういうことなのかしら……?)

 顔には出さず、真赭は胸の奥だけで首を傾げた。今まで藤壺には感じなかった懸念だ。桐壺のように、物の怪騒ぎでも起こるというのだろうか。あの、花畑での視線。あの物の怪に会ったことは、こののち後宮に起こる困難を示しているのではないだろうか。

「そんな顔、しないで」

 表には出さなかったつもりなのに、いったい真赭はどのような表情をしていたのか。中宮は、明るく笑った。

「悪い夢を見たというのではないのよ。ただ昨日の夜は、おまえが祓いのために留守にするというから……同じ屋根の下におまえがいないと思うと、心細くて仕方がなかったの」

「それは……申し訳ございません」

 口の中の菓子を呑み込んで、真赭は慌てて頭を下げた。そんな真赭を、中宮は笑みとともに見つめている。

「……おまえが、本当にわたくしの娘だったらいいのに」

 ため息とともに、中宮は言った。

「おまえは、小染(こそめ)式部の娘だし。だから、母代わりとして気にしているつもりだけれど……それでも、こういうとき。やっぱり本当の娘じゃないのね、と思うの」

 真赭の母は、小染式部という名で藤壺中宮に仕えていた。出産後も宮仕えを続け、真赭はこの藤壺で大きくなったのだ。

「中宮さま……」

 この明るく華やかな中宮が、このような表情を見せるのは珍しい。本当に、昨日の夜は心細かったのだろう。

「わたし、恐れながら中宮さまを母さまと思っております。本当の母以上に、お母さまだと思っております!」

 真赭は声を張り上げた。中宮は、少し驚いたように真赭を見た。

「あの、わたし……できるだけ、藤壺にいるようにします。ですから、そのようなお顔をなさらないでください」

「そう? なら、菓子で釣った甲斐もあるということかしら」

 くすくすと、中宮は笑う。こういう表情を見せられると、心細くて眠れなかったというのが嘘のようだけれど、それでもやはり不安だったのだと思うのだ。同時に中宮を取り巻く陰の気も、失せてはいない。

「釣ったんですか、わたしを」

「ええ、そうよ。菓子も御膳も飲みものも、わたくしくらいおまえのことを知っている者はいないと思うの」

 女房が、瓶子と杯を持ってきた。真赭は、思わず眉をしかめてしまう。

「まだ、酉の刻にもなっていませんものを……」

 今はまだ、夜ともいえない時間である。酒を呷るにはまだ早すぎるのではないだろうか。

「いいじゃないの、今日はなにもお勤めがないもの」

 のんびりとした口調で、中宮は言った。杯に注がれたのは白く濁った酒で、それに甘葛を溶かし込んだものを中宮はことのほか好んでいる。

「おまえを肴に、飲むことにするわ。あら、釣った魚を肴にするなんて、わたくしもなかなかではなくて?」

「は……」

 真赭は何度もまばたきしてしまう。そんな真赭の表情に、中宮は笑った。

「本当に、おまえがわたしの娘だったらいいのに」

 ひとくち酒を飲んで、ふぅと中宮は吐息をついた。

「あなたが、清彰(きよあき)の妃だったらいいのに」

「ぶっ」

 かじっていた菓子を噴き出しそうになって、真赭は慌てた。

「どうしたの?」

 真赭がなぜ慌てたのか、中宮はわかっていないようだ。否、それも中宮の、真赭をからかうための演技なのかもしれないけれど。

「そのようなこと……おっしゃらないでくださいませ」

「どうして? おまえをわたくしの娘にするには、それが一番いい方法じゃない」

「で、すが……」

 中宮に見つめられて、菓子も咽喉を通らなくなってしまう。真赭は、何度も咳払いをした。

「そのようなこと……清彰さまのご意向を、伺わなくてはいけないではありませんか」

「あの子に、否やがあるとは思えないけれどね」

 杯を傾けながら、中宮は言う。

「あの子は、とてもおまえを気に入ってるじゃない? まぁ……それを素直に言い出せないあたりが、あの子の悪いところなのだけれど」

 中宮は、少し愁いを帯びた表情を見せた。

 清彰とは、中宮の生んだ一の宮で、現在の春宮である。しかし彼は、なにかと真赭に対して意地が悪く――とは言っても、子供のような意地悪ばかりなのだけれど――真赭と折り合いがいいとは言えないのである。

「……わたしのことを気に入ってくださっていたら、あのようなことはおっしゃらないと思いますけれど?」

「まぁ、あの子が言うことなんて、気にしなくていいのよ」

 ひらひらと手を振って、中宮は言った。

「まだまだ、子供なのだから。あの年になっても、とわたくしは歯がゆいけれどね」

 そう言って、中宮は酒を飲む。濃い酒精と甘い甘葛の匂いが漂って、真赭も酔ってしまいそうになる。

「まったく、春宮ともあろう者が、あんなに子供っぽいなんて。この間も、闘鶏なんかをやって。それで負けてしまったものだから、いい面の皮よ」

「闘鶏……」

 鶏同士を戦わせる闘鶏は、京の賤なる者の間で流行っている遊びだ。それを宮中に持ち込むとは、大胆なことをするものである。

「それを、主上もお許しになったのですか。まさか、内裏でやったわけじゃないですよね?」

「その、まさかよ」

 新しい杯を注がせながら、中宮は言う。

「しかも、清涼殿のお庭でやったのだわ。主上が見たいと仰せられるものだから」

「主上まで……」

 主上――帝に、直接お目にかかったことはない。しかし中宮のように快活な女性を寵愛し、清彰のような野放図な青年を春宮にするのである。その性質のほどは、自ずと窺うことができた。

「それは、ずいぶんと大胆ですね」

「ええ。まぁ……楽しくなかったとは言わないけれどね」

 杯に口をつけた中宮に、真赭は驚いた。どんどん進む中宮の酒の量にではなく、その言葉に、である。

「中宮さまも、ごらんになったんですか?」

「だって、このような機会。めったにあるものじゃないわ。ああ、もちろん、御簾のうちでおとなしくしてはおいたけれど」

「……あたりまえです」

 中宮という、今はこの日の(ひのもと)で最高峰の位にある女性が、御簾越しとはいえ闘鶏を鑑賞するとは。真赭は呆れて声も出ない。

 しばらく、唖然としていた。索餅を手にしても、口に運ぶということを忘れている。

「清彰さまは、確実に中宮さまのお血を引いていらっしゃいますね」

「まぁ、どういうこと?」

 中宮が、心外なことを聞いたとでもいうように目を見開いた。真赭は、ため息とともにつぶやく。

「そのままの意味です。どう考えても、清彰さまは中宮さまの御子であられます」

「清彰がああであるのは、わたくしのせいだとでも言いたいの?」

「せい、というか、仕方のないことなのだと、悟りました」

 まぁ、と中宮は楽しげに笑った。

「悟ったですって? おまえのような、小さな娘が?」

「もう、十六です」

 中宮の笑いが嘲笑に聞こえて、むっと真赭は唇を尖らせた。

「小さな娘ではありません。尊き身のかたがたみたいに裳着などやってはいないですけれど、これでも頼りにしてくださるかただっているんですよ」

「そりゃ、後宮の女君は、皆おまえを頼りにしているわよ」

 酒の杯を傾けながら、中宮は言った。

「でも、おまえはわたくしのものよ。わたくしが呼べば、すぐに来なくてはならないの。わたくしの命令を、第一に聞かなくてはならないの」

 中宮は、少し酔っているのかもしれなかった。歌うようにそう言って、また杯を乾す。

「おまえは、小染式部の娘で……わたくしの娘でも、あるのだから」

「……はい」

 中宮の疲れた様子は、その立場の重みゆえでもあるのではないかと思った。これほど快活で、どのようなときにも楽しみを見つけ出す明るさがあるとはいえ、やはり国でもっとも高い身分とは、辛労の絶えないことも多いのだろう。真赭は、それを想像することしかできないけれど。

「わたしは、中宮さまの、娘です」

 目を細めた中宮の前、ひれ伏して真赭は言った。

「生みの母を亡くしている今、わたしにとっては第一の御方と思っております」

「そう言ってくれると、嬉しいわ」

 中宮は、そう言って杯の端を舐めた。

「あとは、清彰とおまえの婚姻を取り結ぶだけね」

「あの、それは……」

 いきなり話がとんでもないところに行ってしまった。真赭は慌て、そんな真赭に中宮は笑う。

「今度、主上に申し上げてみるわ。あの子は、なぜかいやがって妃を迎えようとしないのだもの。春宮の身分に、ふさわしくないこと。男色の趣味でもあるのかと、疑っちゃうわ」

「だ……」

 中宮の口から洩れたとんでもない言葉に、真赭はますます焦燥する。同性で愛を交わす者たちがいることを知らないわけではないけれど、真赭の知っている人物がそうであるかもしれないと聞かされて、落ち着いていられるものでもない。

「あの、だ……、男色、って……。清彰さまが……?」

 どもりながら真赭が言うと、中宮はくすくすと笑う。まわりの女房たちも、揃って楽しげな笑い声を上げていた。

「ともすれば、よ。そうでも思わないと、あの子が妃を迎えたがらない理由がわからないのだもの」

「は、ぁ……」

 菓子を食べることもすっかり忘れて、真赭は唖然としている。そんな真赭を楽しそうに見ながら、中宮はまた杯を乾した。



 春宮、清彰と出くわしたのは、藤壺から清涼殿に出る渡廊でのことだった。

「……あ」

「あ」

 思わず、大きな目を開けて彼を見てしまう。二藍の直衣をまとっている清彰を、別段特別視するつもりはないけれど、このかたが世にいう男色家なのか、と思うと、つい興味津々で凝視してしまう。

「なんだ、真赭」

「い、え……」

 真赭は、よほど熱心に清彰を見つめていたのか。清彰は、訝しげな顔をして真赭に声をかけてきた。

「相変わらず、陰陽師の真似ごとなんかやっているのか」

 真赭の水干姿を、頭の上からつま先までじっと見やって、清彰は言った。

「女のくせに、水干なんか着て。どうせなら、色っぽく袿でも重ねて着てみろよ。髪だってそんなに短くて、みっともない」

 はっ、と呆れた吐息をつく清彰を前に、真赭は「はぁ」と答えるばかりだ。真赭にしてみれば、水干も短い髪も、好きでやっているのだ。重ね袿を身にまとい、几帳の中ばかりで暮らしている姫君たちはどれほど窮屈だろうか、と思ってしまうほどなのだ。

「これは……お祖父さま。安倍晴明が、わたしが陰陽師として働くのにいい格好だと、見繕ってくれたものです。髪も、祖父が切ってくれました」

 けっ、と清彰は吐き捨てるような声を上げた。

「陰陽師、か。安倍晴明、だと……?」

 清彰が、軽蔑を隠しもしない表情で言った。

「おまえの技なんか、どうせ愚にもつかない技なんだろう? そうでないというなら、ほら、そこにいる蛙でもつぶしてみろ」

 彼が指さしたのは庭先の小さな池で、そこには雨蛙が一匹、蓮の葉の上に乗っていた。これからの自分の運命など知るよしもなく、のんびりしているように見える。

「手を使ってではないぞ? なにか、おまえの技でつぶしてみるんだ」

 清彰がこのような嫌がらせを言うのもいつものことだけれども、なにしろ今の真赭は目の前の彼が『男色家』であることに興味を隠せない。なおも目を見開いて、清彰を見つめてしまう。

 そんな真赭に、清彰は少したじろいだ。

「どうしたんだ? できないんだったら、そう言え。特別の慈悲で、許してやる」

「は、ぁ……」

 清彰が妃を迎えることに興味がないのは、母の藤壺中宮をはじめとして美女たちに囲まれているからだろうか。そのようなことを、真赭は考えた。姉宮たちも揃って美しく、見事に裳唐衣を着こなす貴婦人ばかりだ。

 同様に、今上帝の後宮も美女ばかりである。凶相の出ていた桐壺更衣さえも、悩みさえなくなれば目をみはるほどの美女だ。そうやって美女たちを垣間見る機会などいくらでもある。だから美女を見飽きて、男色に向かったのかと真赭は考えた。父帝の後宮に興味を示せば、それはそれで問題だろうけれど、

「おい、真赭」

「ひぁ……、っ、はいっ!」

 思わず、大きな声を上げてしまう。清彰は、いささか苛立っているようだ。

「あの蛙を、つぶせるかと尋ねているんだ。つぶせないのなら、おまえを陰陽師としては認めない」

 なぜ、蛙をつぶすことが陰陽師の資格と関係があるのかは不明だが、いらいらとし始めた清彰は、本当に蛙をつぶして見せないと解放してくれなさそうだった。

「あの蛙を、つぶすのですか?」

「さっきから、そう言っているだろう。早くやれ」

「ですが……罪もないものを。かわいそうです」

「ふふん」

 清彰は、勝ち誇ったような顔をした。

「ということは、できないのだな? 安倍晴明の孫だというのは、偽りか。おまえは実力もないのにそれを謀って母上を、主上さえを騙しているというわけか」

「主上を謀るなんて、そんな……!」

「じゃあ、やって見せろ」

 頑なに、清彰は言う。真赭はため息をつくと、右手で印相を組んだ。人差し指と中指を揃え、それを剣に見立てて引き抜くような動作をする。

「呪式神、幻視、急急如律令」

 真赭が小さくそう口にしたとたん、蓮の葉の上の蛙が、つぶれた。びちゃりと内臓が飛び散り、清彰の頬についた。

「うわ……、あ、ああっ!」

 清彰は情けない声を上げた。袖で拭くのもためらわれるらしい。真赭は懐紙を一枚取り出し、清彰の頬を拭ってやる。

「これで、よろしいでしょうか?」

「お、ま……っ……」

 言葉を失って、清彰は慌てている。しばらく口をぱくぱくさせたあと、勢いをつけてきびすを返した。

「覚えてろよ……、真赭!」

 彼の、去り際の台詞はそれだった。真赭は、ぽかんと清彰を見送る。

「なんだったのかしら……? 清彰さまは」

(おまえをからかってやろうと思って、かえってからかわれたんだよ)

 真赭の胸のうちで、くすくすと楽しそうに笑うのは天剛だ。

(別にわたしは、清彰さまをからかってなんかいないけれど……)

(そうやってとぼけているところが、あいつをからかったことになるんだ)

 天剛に、勝光が同調する。ふたりの賑やかな笑い声が、真赭の胸に満ちた。

(……そういうものなの?)

(おまえは、そのままでいい)

 そう言ったのは、笑っていない太乙だ。彼の唇には嘲笑が浮かんでいる。

(気づかぬのなら、それがいい。そんなおまえを、中宮も皆、愛しているのだからな)

(……ふぅん?)

 そういうものなのか、と首を傾げて真赭は歩き始める。庭先の池の蓮の葉の上では先ほどと変わらず、小さな蛙が、けろり、とのどかな鳴き声を上げた。

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