序章
ざざっ、と風が吹いて、あたりの空気を桜色に染めた。
真赭は小さな声を上げて、目を覆う。強い風は一瞬で、真赭の白い水干の袖を大きく揺らし、元結くくりの髪を広げただけで済んだ。
「わ……、びっくり、した……」
強い風が舞い上がらせたのは、無数の桜の花びらだ。春の、暖かい大気。それが人の体と心を安らがせてくれるこの季節、これほど強い風も珍しい。
「みんな、大丈夫?」
真赭は、声をかけた。彼女が話しかけているのは、その細い手首に嵌まっている腕輪だ。端から見ればなにをしているのかと訝しがられる光景だろうけれど、真赭は気にせずにっこりと微笑む。
「そう、ならいいの」
腕輪は珠を連ねて作ってあった。黒、白、赤に青。間に透明な石をつなぎ合わせたそれは、十二の珠でできている。
また風が吹いたけれど、今度は気にならないほどのそよ風だ。真赭は前を見据えると、また歩き始めた。
「まぁ、真赭。今日はどこへ?」
「美味しいお菓子があるのよ、食べていかない?」
「ありがとうございます!」
かけられた声に、真赭は手を上げて応えた。
「今日は、桐壺更衣さまのところなんです。夢見が悪いとおっしゃっていて。夢占と、祓いをさせていただくので」
「そう、頑張ってね」
「帰りに寄りなさいな。お菓子を置いておいてあげるわ」
ありがとう、と真赭はまた礼を言う。真赭が歩いているのは、藤壺の前だ。声をかけてきたのは御簾の間からその姿が見える女房たちだけれども、菓子を用意してくれたのは藤壺中宮だろう。
「中宮さまに、また寄らせていただくと言っておいていただけますか?」
「もちろんよ。わたくしたちも、楽しみにしているわ」
また、と手を振りながら真赭は言った。藤壺を抜け、登花殿、貞観殿の裏を渡って、桐壺へ。その間にも、あちこちの御簾の向こうから声をかけられた。
そのひとつひとつに応えながら、真赭は歩いた。また、ふいに風が吹く。それに水干の袖を揺らされながら、真赭は空を見上げる。抜けるような、青空。
「……お祖父さまが、亡くなられたときみたいだわ」
(そうだな)
返ってきた答えに、うなずいて。真赭は先を急いだ。