37.「なんてことだ。選ばれちまったのか」
二人は海岸沿いをまわり、一枚岩の猿葬現場へと続く原生林へと向かった。
なだらかな坂をのぼると、すぐに猿たちが出迎えてくれた。
「猿どもはおまえを認めつつある。おれは長年、こいつらを世話してきたからわかる。猿は猿葬師の世代交代が近づいていることを見抜いてる」
そこかしこの杉の大木には猿が群がり、声をひそめて二人を見おろしていた。
本州のニホンザルとは異なり、毛が黒っぽく強そうで、毒々しいほど顔が赤かった。栃木県日光のそれとくらべ、ひどくユーモアを欠いており、険わしい表情をしている。薄明りのなか、数えきれないほどの一対の眼だけが宙に浮かんでいた。
そのうち一匹の子猿がするすると幹をおりてきて、かなり高いところから跳躍して平泉の肩につかまった。子猿は喉をならして喜んでいる。
平泉はなれた様子で子猿をあやした。しだいにその猿は、警戒しながら無垢な眼で交野を見つめた。
すると意を決し、交野の肩に飛び移ってきた。
なにぶん猿との接触は初めてだったので、一瞬とまどった。ためしに人差し指をさし出すと、母親の乳首に見立て口にふくみ、嬉々とした表情で甘噛みした。
思わず笑みがこぼれた。
「かわいいもんだろ、ええ?」と、平泉が笑いながら言った。
「そうだな。まんざら悪くない」
「こいつらは猿葬師には従順だ。見た目はよろしくないが、付き合ってるうちに愛着がわいてくる」
ひとしきり指をなめまわしていた子猿だったが、そのうち本気で歯を立てた。皮膚を突き破る鈍い音がしそうなほどの噛まれ方だった。
交野はうめいて、猿をふり払った。
子猿は藪の上に着地し、全身の毛を逆立たせながら、もとの大木をかけあがっていった。太い枝でうずくまっていた母猿の背中にしがみついた。母猿は怒りの剣幕で牙をむき、エアーブローガンの発射音みたいな息を吐いた。
「くそッ、やられた……」
「噛まれたのか。どれ、見せてみろ」
交野は指の噛み痕から盛りあがってくる血の滴をしぼり出した。
「まさか、狂犬病にかかるってことないよな?」
「猿は狂犬病のウイルスなんか、もっちゃいない」
「狂犬病じゃないにせよ、なんらかの雑菌が入ったかも」
交野は傷口を吸い、唾を吐いた。
そのときだった。
愉快そうな笑い声が頭上でした。同時に、いたるところからペチペチペチという音が散発的に鳴り響いた。
見あげると、なんと猿たちが手を叩いているのだ。まるで祝福するかのように……。
交野はめまいがした。心なしか、猿たちの表情がやわらいで見えた。
赤く視界が螺旋状にまわった。うそだ、こんなのあり得ない……。
「驚いた。まちがいあるめえ」と、平泉は満面の笑みを浮かべ、交野の背中をどやした。「いまこそ、おまえは洗礼を受けた。おめえが次期猿葬師にふさわしい人間なんだ」
交野はうめいた。
「なんてことだ。選ばれちまったのか」交野にも否定しようがない実感があった。濡れた毛布のような絶望感にくるまれるようだった。
「これでおれは、めでたく引退できるってわけだな」と、平泉は晴れ晴れした口調で言った。
了
※参考文献
『妖怪談義』柳田國男 講談社学術文庫
『日本の奇祭』合田一道 青弓社
他




