35.アイディンティティー・クライシス
咲希が背中を向け、船首の方へ歩いていく。
ワンピースから伸びた形いいふくらはぎと、黄色いミュールが遠のいていく。
視界が二重にぼやけ、斜めに傾いだ。
船酔いで意識が朦朧となっているのではない。
叫んで呼び止めたい気持ちを、飲みこんでこらえた。
ダメだ。
いまは咲希に打ち明けるべきではない。
まじりっけなしの絶望に羽交い絞めにされても、交野はあえてひとりで耐えることを選んだのだ。
いやでも猿葬現場を直視するよう巻きこまれたとはいえ、この運命だけは咲希を巻きこむべきではないと思った。
しかしながら、遅かれ早かれ巻きこんでしまうことになるだろうが、それまでなんらかの対策を考えなくては……。
交野はふるえる右手をあげ、掌を返した。
生きている実感はある。だが、あまりにもあやふやだ。
あの男はおれを殺さなかった。それこそ魚でもさばくように思いっきり、事務的に、いくらでも料理できたはずだ。
納骨堂から交野だけ戻らなかったとしても、たくみに嘘をついて咲希たちをまるめこんだかもしれない。
平泉は口が達者だし、アカデミー賞顔負けの演技派だ。
にもかかわらず見逃してくれた。その理由に感謝したいというよりも、平泉と交わした約束を考えると、将来に対する暗澹たる思いで、めまいを憶えた。




