23.岩見 重太郎の狒々退治伝説
ところで狒々とはいかなる存在なのか、余談だが補足しておかなければなるまい。
その昔、野里(現大阪市西淀川区)は、別名『泣き村』とも呼ばれ、中津川(のちに淀川に統合された)が氾濫するたびに田畑がやられて作物が育たず、村人は悲惨な暮らしを強いられていた。
祈祷師に占ってみたところ、これより毎年きまった日に、無垢の娘を神に捧げよ、との託宣がくだった。
村人は恐れながらも、それで村が救われるならと承知した。
村の主だった者が集まり、弓に白羽の矢をつがえて空に放った。矢は一軒の家に突き刺さった。矢が当たった家から、泣く泣く娘を神のもとにさし出さねばならないのだ。
深夜、選ばれた娘は美しく着飾れたうえ唐櫃に入れられ、野里の住吉神社の境内に置き去りにされた。
すると、翌朝には唐櫃が破られて、なかの娘の姿はなく、供え物も食い散らかされていた。
人身御供が神の怒りを鎮めたものか、ふしぎとその年の野里は雨風も少なく、中津川も暴れることなく豊作にめぐまれたのだった。
こうして人身御供をくり返していた七年目に、武者修行中の岩見 重太郎(安土桃山時代から江戸前期にかけて活躍した剣の達人。秀吉につかえたが、一六一五年の大坂夏の陣において、伊達 政宗の家臣、片倉 重綱の軍勢と戦うも、河内の道明寺で討ち死)が泣き村を訪れ、この話を耳にした。
不憫に思った重太郎は、ことの真相を確かめるべく、娘の衣装をまとって唐櫃に入り、夜の神社で待ち伏せした。
はたして、深夜に現れたのは荒ぶる神ではない。妖猿の権化、狒々どもにすぎなかったのだ。
重太郎はすかさず飛び出て、大太刀をふるい、みごと狒々どもを打ち倒した。
――そのなかで、ほうほうの体で重太郎の剣から逃れた一匹が、猿噛み島に落ち延びたのだ。
狒々は古来、日本に伝播する妖怪だ。猿を大型にした姿をしており、年老いた猿が妖怪変化するともいわれている。柳田 国男の著書『妖怪談義』によると、獰猛な性格で、人間を見つけると唇がまくれて、眼まで覆ってしまうほどの形相で大笑いするという。
著書では天和三(一六八三)年に越後国(新潟県)に体長四尺八寸(約一四五センチ)、正徳四(一七一四)年には伊豆で七尺八寸(約二三六センチ)の、謎の大猿がじっさいに捕らえられた記録が残されている。
また近年ではアメリカ人の動物学者エドワード・S・モースが、東京の大森貝塚を見つけた際に、大きな猿のような骨を発掘。我が国の古い文献から大型の猿を記したものがあるか調査したところ、狒々の伝承に行き当たり、この謎の骨こそ狒々のものかもしれないとして結論づけた。




