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<56> 混乱の朝 (5日目)    -1-

 うっすらと空が白み始めた頃、トゥーゼリアはゆっくりと瞼を開き、いつものように寝台から体を起こした。幾分ボーっとした頭を覚醒すべく、指で挟み込むようにして眉間を数回揉む。ふと、すぐそばにあった人の気配に困惑気味に視線を移すと、そこには己が主と仰ぐ女性が気持ちよさそうに寝入っており、トゥーゼリアはギョッとしたように瞠目して口元に手を置いた。その顔は心なしか赤い。


「……マカロンエェ……」


 いい夢でも見ているのか、ナナエはふにゃりと口元を緩めながら寝返りを打った。そのナナエの夜着は乱れに乱れており、着ていると言うよりは腕にひっかけているといっても過言ではない状態だ。ほぼ、裸と言っても間違いではないだろう。そんなナナエの露わになった胸元には昨日トゥーゼリアが残したと思われる跡がくっきりと残っていた。

 有に30秒ほどパニックに陥ったように、ナナエを見たまま固まっていたトゥーゼリアは、窓の外から小鳥のさえずりが聞こえてくるとともに再起動して、バッっとナナエの夜着の前を合わせた。そうして、ナナエを起こさぬようにきちんと着なおさせると毛布を肩口まで引き上げる。その後、寝台より這い出て、己の着衣の乱れにも気づいて再び青ざめながら固まった。

 そうして気持ちよさそうに寝ているナナエをぎこちない首の動きで振り返り、彼女のその魔力が昨日よりも格段に回復している事、異常な体のだるさから己の魔力がガクッと減っている事に気が付いた。呆然としながらもトゥーゼリアはその状況から導き出される事実に考えが至ってしまい、微かに手が震えてしまう事を止められない。信じられないような気持ちで乱暴に己の着衣の乱れを直すと、トゥーゼリアは急いで部屋を出た。

 マリーにすら気付かれぬように細心の注意を払って気配を消し、己の部屋にたどり着くと、急いで部屋の鍵を閉めた。そのまま寝台のある部屋の隅まで行くと両手で顔を覆いしゃがみ込む。


「うぅぅ……」


 小さく低い呻き声の様なものを漏らし、トゥーゼリアは頭を抱えた。何がどうやって、どうしてあの流れに乗ってしまったのかいまいち思い出せない。だが、ナナエの胸元にあるあの跡は確実に己が残した自覚があるのだ。あの魔力の回復具合からしても、己の着衣の乱れや、ナナエの夜着の状態を見ても、トゥーゼリアがナナエと閨を共にしてしまった事は疑いようもないと思われた。しかも、薄っすらと曖昧ではあるが、ナナエを何度も抱きしめた記憶まである。

 ナナエは目を覚ました後、なんと思うのだろうか。確かにナナエはあの時トゥーゼリアに向かって魔力が欲しいと言っていた。が、どう見てもあの時のナナエは半分意識が無いようにも見えた。魔力が足りずに意識が朦朧としていたのではないのだろうか。お腹がすいたというのと同じレベルで言われた魔力が欲しいと言う言葉にすっかりのぼせて便乗してしまった自分が恥ずかしくなり、再び小さく呻いて顔を覆った手に力をこめる。


――コンコン。


 小さく控えめに鳴らされたドアを、トゥーゼリアはバッと顔を上げて振り返った。考え事に集中していたが為に、ドアの外の気配に気を配るのを忘れていたことに気付きヒヤリとしたが、その気配がマリーである事を瞬時に察してホッと胸をなでおろした。


「兄さん?」

「なんだ?」


 扉は開けずに声だけで返事をする。扉を開けてしまえば、マリーの事だ、トゥーゼリアの体に移ったナナエの香りをすぐに嗅ぎ分けてしまうだろう。この早朝にナナエの移り香を濃く残していれば、何があったのかを言いふらしているようなものである。それは己の自制心が全くないことを披露するのと変わらないわけで、半分意識のないナナエを自分の欲望に負けて抱いてしまったと恥ずかしげもなく言っているようなものだった。


「あ、起きてたんだ?この時間に部屋に居るのが珍しいなと思って」

「ああ。少しな」

「それじゃ、私ナナエ様を起こしてくるわね?」

「ああ……いや、もう少しお休みになられた方がいい」


 マリーに言われるまま頷きかけて、トゥーゼリアは慌てて否定の言葉を発した。折角マリーを誤魔化すために部屋の扉を開けずにいると言うのに、ナナエの側に行けば、ナナエにトゥーゼリアの移り香が濃く残っていることに気付かないわけがないからだ。ナナエがこのことをはっきりと覚えていて、そしてそれをもし彼女が不本意である考えたならば、なるべく知られてはいけないと思った。


「ナナエ様は私が見る。お前はエナ達を見てくれ」

「えぇ~……。仕方ないなぁ」


 マリーは渋々と言った形で了承すると、扉を離れて階段を下りて行った。その足音が離れていくのを確認して、トゥーゼリアは安心した様に首元に手を伸ばし、ボタンを外して緩める。兎も角、ナナエの香りを色濃く残すこの服を着替えてしまわねばならなかった。急いで服を脱ぎ、簡単に体を濡れた布で清める。そうして、ふと鏡に映った自分の首元に薄く歯形が残っているのに気づき、ガックリと項垂れた。
















「んんん~~~っ」


 大きく伸びをして、ナナエは寝台から体を起こした。昨日と違ってすこぶる調子が良い。大きなあくびを一つしながら肩を小さく回す。この分なら今日は1日歩き回っても平気じゃないかと思われるぐらいには身体が軽かった。昨日は辛かったのになぁ、とニコニコ顔で寝台から降りようとして、ふと自分の夜着の合わせ目が逆になっている事に気が付く。そして寝台の外へ足を延ばした中途半端な姿勢のまま、にこやかな笑みを顔に張り付けたまま、ナナエはピシリと硬直した。


「……ハハッ……まさかね。夢だよね」


 そう言ってナナエはひきつった笑いのまま、右手の人差し指で己の夜着の胸元を軽くひっかけて持ち上げ、覗き込んだ。そこにキスマークの存在を確認して、ナナエは再び硬直した。寝ぼけた頭をフル稼働させて、自分の記憶を探る。そうしてたどり着いた事実にナナエは耐えきれないように頭を抱えて後ろ向きにボスっと寝台へ体を投げ、そのままゴロゴロと左右に転がった。


「いやぁぁぁ~~ちょっとぉぉぉぉ嘘でしょぉぉぉぉぉ」


 微かに記憶がある。魔力が足りなくて、辛くて寝台に横になって。トゥーゼリアが近くに控えていてくれたこと。散らかったクッションを直そうとしてくれていた事。そのトゥーゼリアに、自分から抱きつき、魔力を強請って誘った事。その数々の記憶のピースが瞬時に頭の中で組み立てられる。夢かと思うぐらいぼんやりとはしていたが、それが事実であるとナナエの胸元のキスマークが物語っていた。


「ハハッ……こ、この短い期間で男を2人も襲うとは……やるな、私……」


 乾いた笑いを張り付けて、ナナエは頭を抱えながら呟いて体を起こした。半ば自棄になったような口調は否定できない。そうしてひとしきり小さく笑った後、再び頭を抱えてもんどりうつ様に勢いよく寝台に突っ伏して、ゴロゴロと転がる。


「どんな顔して居ればいいのよぉぉぉ」


 ついこの間ルーデンスとナナエが致してしまった事をみんな知って居る。だというのに、それから間を置くこともなく、トゥーゼリアを誘って致してしまっていたと言う事実。トゥーゼリアはどう思ったのだろう。節操がないはしたない女だと軽蔑しなかっただろうか。ルーデンスだってこのことを知ればなんて思うのだろう。そう考えると泣きたくなるような思いだった。


「そ、そうよ。かの有名なナポレオンだって言ってたじゃないの……」


 気を取り直したようにナナエは床におり、寝台の縁へ片足を掛け、サタデーナイトフィーバーよろしく右手の人差し指を高々と持ち上げる。


「偉い人は言いましたぁぁっ!過ぎたことで 心を煩わせるなぁぁぁっ!……ハハッ」


 力強く言ってはみたものの、やはり最後には自重した笑いが漏れるのを止めることはできなかった。






*******************







来客があったので食堂で、との連絡を受けてナナエが急いで食堂へと顔を出すと、そこにはナナエがよく見知った青年と少女、そして初対面の機嫌の悪そうな青年が居た。


「あれ、ナテル。どうしたの?っていうか、怪我したって聞いたけど大丈夫なの?」


 キョトンとした顔でナナエが声を掛ければナテルは眉尻を下げて苦笑して頷く。その左隣にはリーセッテがニコニコとした顔で座っていた。

 ナナエが席に着くと、マリーとトゥーゼリアが給仕をはじめ、テーブルに料理が並べられる。それをナナエがどうぞどうぞと言うのを合図にして食事が始まった。エーゼルの王宮に比べれば随分と質素な食事ではあったが、しっかりとした味の付いたものを食べるのは久しぶりだったせいか、ナナエにとってはとても豪華な食事に思えた。ナテルたちが来なければ今日も味の薄い病人食だったかもしれないことを考えると、ナナエは思わず頬が緩んでいるのを隠せないぐらい幸せを感じている。


「んで、どうしたのよ~?リッセちゃんまで一緒に」

「ルーデンス様の変わりなんですよ」

「リッセちゃんも一緒に?」

「あ、わたくしはお姉さまにナテル様との婚約が決まったのでご報告を!」

「そうなんだ?おめでとう!……ナテル頑張って!」


 胸の前で可愛らしくガッツポーズをとるリーセッテの可愛らしさにナナエはますます機嫌が上向きになる。取りあえず、早朝のあの、アレなソレは記憶の隅に押しやって後回しにすることにしていた。

 最初は混乱して慌ててどうしていいかオロオロしていたと言うのに、当の本人でもあるトゥーゼリアが何事もなかったように無表情な有能執事を通常運転していたので、わざわざその話をほじくり返すのが躊躇われたのだ。

 チロリと横目でトゥーゼリアを窺ってみても、トゥーゼリアはナナエの視線にも気付くことなく真面目に給仕をしている。ホッとする一方で少し寂しく思いつつ、再び視線をナテルたちに戻す。


「で、そちらの方は?」


 初対面の気難しそうな青年をちらりと見ながら、ナテルに説明を求めると、ナテルは何とも言えない情けない表情をして鼻の頭をポリポリと掻いた。


「あ~……えっと、こっちは最近文試に首席で合格して配属された平民出身の文官、ニケですよ」

「身分も弁えず同席させて頂いた無礼、ご容赦ください」


 ナテルの紹介と共に、ニケと呼ばれた青年はナナエに向かって小さく頭を下げた。と言うか、頭は下げていると言うのにちっとも謝っている雰囲気がないのはナナエの気のせいだろうか。言葉上はへりくだっているのにその視線には敵意にも似た何かを感じる。


「ええっと……いえ、気にしないでください。私も大した身分は持ってないですし」


 慌ててナナエが顔の前で手をパタパタとさせると、皆一様に黙り込んでしまう。その微妙な雰囲気にナナエも幾分元気をなくしてしまったようだった。訳の分からないうちに、アマークの王女という事になってはいるものの、ナナエにはその自覚などまるでないし、眉唾物だと半分思ってるぐらいなのだ。


「あー、うん。話題変えよっか!」

「そうですね」


 ナナエの苦し紛れの提案に間髪入れずに答えたのは以外にもニケであった。ナテルとリーセッテは相変わらず困ったような微妙でひきつった笑顔を浮かべており、ナナエのデリケートな家族事情にどこまで踏み込んでいいのか決めかねているようでもあった。しかし、ニケは全くその辺りの事は興味が無いと言った様子で相変わらず不機嫌そうな顔はして居る物の、この微妙な雰囲気を気にも留めていない様子だった。


「では、私から。魔種についてお伺いしたい」

「えっ?あ、うん。わかることなら答えるよ」


 魔種の話題がニケから出るのは意外ではあったが、その一言で室内の雰囲気ががらりと真面目な物へと変わった。気まずい思いをするよりはましだと、ナナエはすぐにその話題に喰いつく。それに、煮詰まっている魔種の対抗策になにかヒントになるようなものを彼から貰えるのではないかと期待もしていた。


 期待通り、というかニケはとても博識で、ナナエが知らないような事、考え方を幾通りも提示してみせた。ニケが話す幾通りもの薬草製剤の仕方はナナエの研究魂に火をつけるのには十分で、気が付くとナナエとニケはああでもない、こうでもないと魔種の駆除方法をお互いに提案してはその問題点を上げ、改良点を探す討論の場になってしまってした。しまいにはすっかり食事をとる手を止め、マリーに用意してもらった紙とペンで数十種類もの薬草や薬効のある鉱石・水に至るまで書き出し、その組み合わせ、調剤方法を論じ始めたのだ。


「それでは、除草成分の強いアミケラスの根を煮出し、蒸留させて粒状にしたものを混ぜてはどうでしょうか」

「いや、アミケラスは思ったより成分が強すぎて人体に使うには危険がありすぎるんじゃないかな」

「少量ならどうでしょうか?」

「あはは、無理無理。たった1mgほど混ぜただけで、私ぶっ倒れたもん」

「あははって……あなたはバカですか。まず動物に使って効果を確かめてから使うべきでしょうが。死ぬつもりですか」

「いや、死にたくないから飲んだんだけど」

「ハッ。鼻で笑えますね。駆除方法に頭を回すよりも、あなたには危機管理・学習能力等問題があるところに頭を回すべきでは?そもそも、信頼できるかどうかわからない人から出されたものをホイホイと口にするからそういう目に合うんでしょうが。そこからしてまず直していただかないと、ここを乗り越えてもまた疫病神のように陛下に厄をもたらすに決まっています。大体において周りの従者は何をしていたんですか。こんな幼児並みの危機管理の持ち主に、知らない人から物を貰っちゃいけませんって教え込むべきでしょう?この状態で野放しにするから皆が巻き込まれるのでしょうが。躾けられないなら首輪でつないで管理するぐらい当然でしょう?」


 と、討論していたはずなのにいつの間にかナナエの人格否定に走り始めたニケの言葉に、ナテルはやってしまった……と言った感じで頭を抱える。リーセッテは口元に手を当ててオロオロとナナエとニケを交互に見やっていた。


「ちょっと、ニケとかいうこの唐変木!なにちゃっかり人をディスってんのよ!何が首輪をつけて繋いでおけよ。そんなのはあんたの国やご主人様のお得意じゃない!私の周りには常識人ばっかりしかいないんだから。そんな変態常識持ち込まないでくれる??」

「……いま、あなた、陛下を侮辱しましたね?陛下は変態でも何でもありません。獣並みの知能には獣と同じく繋いで管理するなど当然の事でしょう?その常識にのっとった行動を褒めこそすれけなすことなどあり得ません」

「はぁ~?人を強引に誘拐して首輪付けるとか、変態以外の何物でもないでしょう??」

「確かにあなた如きを気に入って拐かすなど陛下の趣味には変態の領域に入って居る物もあるかもしれませんが、連れてきたあなたが獣並みの知能しか無ければ首輪をつけるのは当然でしょう?飼い主を覚えさせないといけないですからね」

「飼い主ぃぃ?それ、どんなプレイよ。ますます変態に足突っ込んでるじゃないのよ!」


 お互いの罵り合いのつもりが、いつの間にかルーデンスをディスる会になっていることに2人は気づいていない。その低レベルな言い争いに、リーセッテも諦めたようにこめかみに手を当て嘆息した。2人とも、というか特にニケは才能があり、賢者と言われるほどの高レベルの知識を持っていると言うのに、目の前で繰り広げられている舌戦、今まで見たこともないほどの低レベルさ加減だ。


――パンパン。


 その2人の下らない舌戦を止めたのは、相変わらず困った顔をしたナテルだった。高い位置で叩いた手をおずおずと戻すと「や、やめましょう?」と気まずげに言ってくる。それを見たナナエは流石に申し訳なくなり乗り出していた身を引き戻し、きちんと椅子に座りなおす。すると、ニケの方も幾分バツが悪そうにして、誤魔化す様に紅茶のカップを口に運んだ。


「ナナエ様、何か楽しい話をしましょう?食事時にふさわしそうな話を……」

「あはは……そうね。ん~……じゃあ、ニケ。雰囲気をぶち壊してくれたお詫びに何か面白い話を提供してよ」


 ナナエがそう言って水を向けると、ニケは明らさまに眉をひそめてカップをさらに戻した。


「不本意ですが、承知致しました。そうですね……昨晩は……」


――ガシャン!


ニケが話そうとした瞬間に大きな音が食堂に響き渡った。驚いてナナエがその音の方向を振り返ると、そこにはひっくり返した挙句割れて飛び散った使用済みの皿、そして明らかに躓いて転んだと言う感じのトゥーゼリアが居た。


「失礼いたしました」


 明らかに動揺していますと言った感じのトゥーゼリアは、慌てて割れた食器をかき集める。その様子からは普段の落ち着き払った雰囲気はみじんも感じられず、その顔は無表情ながらも幾分目元が赤いのは気のせいだろうか。どう見ても昨晩の事を思い出して動揺したと言いきってしまっても間違いはないだろう。その様子に、ナナエもトゥーゼリアから視線を外してあらぬ方向を眺める。


「ええっと、それで、ニケ。なんだったっけ?」


 ナナエが誤魔化す様に努めて明るくもう一度ニケに話を振ると、再びニケは眉間にしわを寄せたまま口を開いた。


「昨晩は、お楽しみでしたね」

「 」


 ピシリと凍る空気。皿の破片を拾いながら硬直するトゥーゼリア。キョトンとした顔でニケを見るマリーとナテルとリーセッテ。そしてナナエはおもむろにナイフを握るとひきつった笑みを顔に張り付けたまま

ゆっくりと立ち上がった。



 このあと、ナナエとニケの戦いが舌戦(物理)に発展したのは言うまでもない。





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