<54> 迷走の昼 (4日目) -2-
エーゼル随一の頭脳と誇ってもいいのではないかと思わせる新米文官ニケ。
平民でありながらも、そして登城まもなくでありながらもその頭脳一つで国王の側に控えるほどになった異才の文官である。
しかしその人格は恐ろしく破綻している。
そのため敵も多い。いや、むしろ敵の方が多い。
本人は気を使って歯に衣着せまくっているつもりである時でも、相手には嫌味に取られると言う卓越した話術の持ち主だ。
話せば話すほど敵が増えると言う特殊才能でも持っているのかもしれない。
そんな彼は、今までに見たこともないような満面の笑みを浮かべて立っていた。
彼の目の前には、彼が唯一主君と仰ぐエーゼル国王が椅子の背に体を預け優雅に座っている。
そのルーデンスの横には豪奢なベッドがあり、ナテルが半身を起こしながら眉尻を下げながら笑って見せた。
更にベッドを挟んで反対側にはナテルの婚約者である侯爵令嬢リーセッテがナテルの看護の為に控えている。
一見、穏やかな時間が流れていた。
「陛下はバカですか」
と、みせかけつつの軽い(?)ジャブ。
肘掛けに乗せた手に軽くこめかみを当て、ルーデンスはその言葉を軽く受け流す。
この程度で彼が怒りを露わにすれば、話が全く先に進まないと身をもって知っているからだ。
「政務を放り出して丸々2日以上連絡もせず城を空け、帰ってくるなり3日後に死ぬ予定?冗談もほどほどにして頂きたい」
「冗談ではありませんよ」
「ああ、そうでしょうね。ええ、良く存じておりますよ。嫌になるぐらいにね。で、わたくしめにどうしろと?陛下の代わりにこの首を差し出せと?ええ、ええ、いいですよ。構いませんとも。どうぞ、差し上げましょう。これでもう陛下の無理難題に頭を悩ませなくて済むようになると思えば安い物です。さぁ、どこで首を切り落としましょうか?何なら今すぐこの場でも構いませんが?剣はお持ちですか?わたくしめは残念なことに文官なもので、武器は所持していないのでございます。では、陛下。その剣をわたくしにお貸し下さい」
ルーデンスが口をはさむ間など全く与えず、ニケは一気にそう並べ立てる。
そのニケの表情にはありありと怒りが見て取れた。
ルーデンスは眉間に小さく皺を寄せたまま、ニケから視線を外す。
ニケが何故か登城した当初から並々ならぬ忠誠心をルーデンスに見せていたのを彼は知っていた。
だが、ルーデンスには何故ニケがそこまで彼に思い入れがあるのかわからない。
そもそもナテルの為にと用意した平民出身の才能ある文官だったはずだ。
その能力を発揮するために文官という地位があればニケはその能力を存分に発揮し、いずれはナテルの良き右腕になることを想定していた。
多少の……いや、かなりの性格の難はあるものの、逆の意味で性格に問題があるナテルとのセットなら決して国の為にマイナスにはならない。
そうルーデンスが踏んだはずなのに、ニケは異様と言っていいほどにルーデンスにこだわるのだ。
「その必要はありません。あくまで代償は国王の首と告げられていますしね。知恵を貸してほしいだけです。仮に失敗しても、ナテルがいる。問題はありません」
「……ナテル殿下に陛下の代わりが務まるとでも?」
ルーデンスの言葉にニケは驚くほど低い声で答える。
その声にルーデンスは訝しげに視線をニケへと戻した。
ナテルはと言えば、ニケの言葉に憤慨しているリーセッテを話の腰を折らないようにと必死に宥めている。
「そのためにあなたがいるでしょう」
「見くびらないで頂きたい。私の主を決めるのは私自身であって陛下ではありません」
「これは、これは。大きく出ましたね」
「お気に召さないのであれば、その剣で私の命を刈り取ればよろしいでしょう。今までも陛下はそうやって来たはずです」
王を王とも思わない言葉をニケはぴしゃりとルーデンスに叩きつけた。
そんなニケを眺めながら、ルーデンスは怒りを露わにするどころか、口の端を軽く上げて見せた。
「いいえ、気に入りましたよ」
挑戦的な、面白がるような瞳をニケに向ければ、ニケは苦虫を噛み潰したような何とも言えない表情をしてため息をついた。
「……ああ、もう。わかりました、わかりましたよ。確かに、陛下にこれ以上色ボケ街道突っ走られて国を転覆させられるよりは、ナテル殿下の方が幾分かはましかもしれませんね。あくまで幾分か、ですがね。兎も角。初恋にのぼせてうつつを抜かして、自身の命を危険にさらしてもニヤニヤしてる、ちょっとあり得ないほど頭のネジがぶっ飛んでるどこかの国王を助けるために微力ながら力を尽くすと約束しましょう。それでご満足ですか?」
「……待ちなさい。何ですか、その”初恋”とは」
先程まで余裕綽々といった風体のルーデンスはすっかりなりを潜め、肘掛けをつかむ様にして置かれた左手は爪が深く食い込んでおり、少し俯きながらぐっとくいしばられた歯からは【ギリリ】と今にも音がしそうだ。
そんなルーデンスの様子を気に留めるでもなく、ニケは涼しい顔で少しずり下がった眼鏡を中指で押し上げた。
「どこか間違いでもございましたか?歴代の王の誰よりも遅い婚期。蹴り飛ばした数々の釣書。陛下はご存じなんでしょうか?そもそも王族並びに貴族と言う物は13歳、14歳、その辺りで婚約、成人と共に婚姻をするものなのです。それこそ大貴族になればなるほどそれは顕著です。それは、陛下もご存じのとおり、血を絶やさぬことが必須であるからです。現にここにおられるリーセッテ様はこのお年で婚約なさっている。比べて陛下は御年26歳。どう考えても今期はとうに過ぎております。ここまで独り身を通せば、男色なのか、それとも不能なのかと国民の意識はそこへ向かっておりましたよ。数年前までその2択で国民の間で賭けが行われていたのは流石に陛下もご存じではないかもしれませんが。皆が陛下に気を使って、男色なのか不能なのかと面と向かって聞かないだけ幸せだと思ってください。で、やっと決まったガルニアの姫との婚約も舌先三寸で煙に巻き、無かったことにしたのは城下町でも有名な話でございます。ガルニアの姫の働きかけが無ければガルニアとの和平すらも危うかったのですよ?王太子の方は未だに憤慨なさっていると聞きますし。もちろん、陛下がその原因となるアマークの姫をひと月もの間囲っていたのも国民の間では公然の秘密となっております。陛下はお隠しになったつもりでいたかもしれませんが、今まで陛下のお傍を離れなかったナテル殿下が派手に街を連れまわり王家の書状付きで賓客対応している姫がいれば誰にでも想像がつくことです。国民は皆知って居ますよ?陛下にやっと春が訪れたと。お気づきになられませんでしたか?陛下の従者たちも国民も、皆が皆、生暖かい目で見守っていたのを」
立て板に水といった具合に、ぐぅの音も言わせぬ勢いでニケが言葉を紡ぐと、部屋の気温が一気にぐっと下がった感じがした。
見るとルーデンスが強く握った肘掛けが微妙に凍っている。
つまり、気温が下がった"気がした"のではなく、実際に気温が下がる程の冷気をルーデンスがはなっているのだ。
何も言葉を挟めずにただただ状況を見守っているナテルとリーセッテは幾分青ざめながら苦笑いを浮かべる。
ニケはと言えば、相も変わらずどこ吹く風と言った調子で澄ましていた。
「陛下、魔力の無駄遣いはお止めください。無駄遣いできる余裕など今の陛下にはないように見受けられますが?陛下から伺った話とその魔力の減り具合をみればどのように魔力を使ったのかは推察できますが。……まぁ、良かったですね?素人童貞ご卒業おめでとうございます。心よりお喜びを申し上げます」
「なっ……」
「ですから、今までこっそり手を出してたのは遊び慣れた令嬢だけだったでしょう?私の情報網を甘く見ないでいただきたいです。ああ、大丈夫ですよ。このことは極一部の者しか知りませんし。それとも、盛大に祝いの宴でも開いて差し上げましょうか。まぁ、一つ心配なことと言えば、素人娘相手に上手くいったのかどうか。今までは喜ばせてもらう方だけでしたでしょうから。もし宜しかったら、ご婦人を喜ばせる方法など、ご相談にでも乗りましょうか?このような方向で発揮させるのも甚だ不本意ではありますが、知識だけは陛下よりも豊富にございますから。僭越ながらその知識を披露させていただきましょうか?まずは、ですね……」
「わあああああああーーーーーーー」
突然発せられた奇声にニケが不愉快だと言うように眉をひそめ視線を向けると、そこには両手でリーセッテの耳をふさぎ、その小さな頭を腕の中に抱え込むようにしていたナテルがいた。
「ニケ、リッセ様がいらっしゃいますから!その手の話題はアウト!本気でアウト!」
「数年後にはいずれ実地でお知りになるはずですし、問題はないと思われますが?」
「お知りになりません!そんなの私が許しません!」
「……はぁ……リッセ様の婚約者は殿下でしょう?」
「リッセ様相手にそんな不埒な真似するわけがないでしょう!」
「あーはいはい、承知いたしましたよ、童貞殿下」
「ニケ!」
「失礼しました、王弟殿下」
「ニケ、あなたの謝罪にはついぞ誠意と言う物が見られませんね」
ビクリとするほど低い声にナテルが視線をルーデンスに向けると、そこには恐ろしいまでににこやかな笑顔を浮かべたルーデンスがいた。
ちなみに目は笑っていない。
「……そもそも陛下には謝罪しておりませんが。殿下への謝罪には誠意も敬意も籠めれなかった己の演技力の低さは不本意ですが、自覚はしております」
「演技なんだ?自覚してたんだ!」
半分泣きながらナテルはツッコミを入れた。
しかし、ニケもルーデンスもナテルの嘆きはスルーである。
そんなナテルを状況の把握できていないリーセッテはキョトンとした表情だ。
「数々の暴言を私には謝罪しないと?」
「謝罪するような内容をお話しした記憶がございませんが」
―――ヒュッ。
ニケが言葉を言いきらぬうちに鋭い氷の刃が彼を脅す様に頬を掠めて横切る。
頬に赤い線が細く走り、ニケはため息を一つ吐いて小さく肩をすくめた。
「私の知識がいらぬと申されるのでしたら、退散致しますよ」
ニヤリと笑って見せるニケをルーデンスは忌々し気に睨み、乱暴に椅子の背もたれに体重を預けた。
それを当然といった様子でニケは軽く目を伏せて小さく頷き再び中指で眼鏡を押し上げる。
「それで、お前はどう考えますか、ニケ」
不機嫌さを隠そうともせずルーデンスは頬杖をつく。
ニケはその言葉を受け「そうですね……」と一言漏らし、しばらく目を少し細め、顎に手を当てて沈思黙考する。
その間誰も言葉を発さず、窓の外のそよ風が揺らす微かな葉の音に耳を傾けているようだった。
そうして数分その時間が続いた後、ニケはおもむろに口を開いた。
その顔はニケらしからぬどこか不安気な様子がみてとれた。
ルーデンスは訝しげにその顔を観察するように見る。
「情報が少なすぎます。……陛下、記憶を視せて頂いても?」
ルーデンスはその言葉の意味を図りかねているのか、真意を探るかの様に目を細めてニケの瞳を見つめた。
そして優雅に足を組み替えてその膝に両手を組んで置くと少しだけ顎を上げニケを意志の強さを思わせる鋭い視線で見上げる。
「意味が図りかねます。過去を視るとはどういうことか、説明なさい」
「そのままの意味です。陛下の体験した、記憶したものを少し覗かせて頂くのです。正確な記憶を知りたい。それだけです。陛下が無意識下の内に必要が無いと思って切り捨てている情報の中にも大事な情報があるかもしれません。それを視たいのです」
「どうやって視ると言うのです」
「呪術です」
「呪術……」
"呪術"と言う言葉にルーデンスは軽く眉をひそめた。その言葉は王家の古書の一部に触れてはならぬものとして小さく記載されてあるのみだ。
一般的に魔力を持つものが使う魔法は、自然の理を知り、理の中に存在するものを増幅、または力を借りて魔力と共に転化して展開するモノ。
一方"呪術"は自然の理を捻じ伏せ、魔力を餌に展開するモノ。
自然の意志に逆らうモノとして、呪術自体はもう何百年もの間に存在を無いものとしてされてきた筈であった。
「私の師は博識な学者であり、呪術師でした。人からは賢者と呼ばれていたようですが、ね。私は彼女の残した全てを受け継いだのです。彼女の知る全ての知識と禁忌を」
ニケがそう静かに告げると、ルーデンスとリーセッテは僅かに目を見開いた。
ニケはその博識さから賢者の弟子ではないかと噂はされていた。
だが、そもそも賢者と言う物はその知識の深さ故、人を避け僻地で暮らすのが常とされていた。
その賢者の弟子、いや、賢者を継ぐ者が城下町で皿洗いをしていたなど、ましてや文試(文官試験)を受け王城に勤めているなどと誰が想像できたであろう。
ルーデンスに至っては賢者を継ぐ者をバカ呼ばわりしてたことを思い出し、何とも言えない微妙な気持ちになった。
「け、賢者様が町に住んでいたのですか……」
「町はずれに住んでおりました。私の師は少々変わり者でしてね」
リーセッテの思わず零した独り言に、あくまでも自分自身は変わり者ではないと言った風情で答えるニケに、ルーデンスとリーセッテは何も言えずに軽く視線をそらした。
賢者や魔法について理解の乏しいナテルだけがニケの言葉に感心した様に頷く。
「過去を視ることが出来るなんてすごく便利ですね、ルーデンス様!」
「そう……ですね」
複雑な感情を抱えつつも、少年のように呪術と言う物に興味津々で目を輝かせているナテルを前にしてルーデンスは言葉を濁した。
リーセッテもそんなナテルに微妙な笑顔を向ける。
「陛下のお許しが出るのであれば、ですがね。呪術は禁呪です。無理強いは致しません。もちろん陛下に危害が加わるものでもありません。ご心配なら誓いを立ててからでも構いません」
「その必要はありません」
淡々と話すニケの言葉を遮る様にルーデンスは言葉を紡いだ。
その瞳にはどこか挑戦的な光が宿っている。
その視線を受け、ニケもニヤリと口角を上げた。
「私に危害を加えることはない。その1点に置いてのみはあなたを信頼できると私は思っています。私はあなたを信じるに値するとした"私の目"を信じています」
「もちろん。私は陛下を支え守るために文試などと言う下らぬものを受けたのです。陛下が望むのであれば神にすら逆らってみせましょう」
「その割にはソミナ公爵捕縛には随分と難色を示していましたね?」
「……さて。お許しも出たことですし、視せていただきますか」
尊大な物言いで語るニケにルーデンスは半分呆れたようにチクリとツッコミを入れる。
が、ニケの方は何食わぬ顔をしてその話題をスルーした。
「ソミナ公爵はどうしたのです?」
「あのような小物、既に城の地下牢ですよ。幸いにも陛下から捏造を許可するという言質を得ておりましたので、思う存分捏造してやりました。まぁ、本人ですら捏造と気づいていないでしょうが。殿下襲撃に加担した貴族連中も全て一両日中には同じ運命です。ただ一つ心配があるとするならば……」
「なんです?」
「牢屋が足りるのか、の一点です」
「……少しやりすぎなのではないですか」
「"適当な理由をつけて襲撃に加担したもの全てをとらえて処分なさい"というご命令通りにしたまでです。取り潰しになるであろう公爵家、伯爵家、男爵家等々、領地の問題もありますし、後継の選出をお早めにお願い致します。一応身辺調査の上、適した者のリストは作成済みです」
悪びれもせずに言うニケにチロリと視線を投げ、ルーデンスは軽く額を抑えた。
ニケは優秀だ。優秀過ぎる。
流石は賢者の名を継ぐものと言ったところだろう。
ただし人格は(略
「では、始めましょうか。リーセッテ様、ご協力をお願い致します」
「ええっと、何をすればよろしいんですの?」
「陛下に催眠の魔法を軽くかけて頂きたいのです。過去視は対象者がリラックスしている状態でないと使用できません。でないと拒絶反応が起こりやすいのです。つまり、眠って頂くのが一番確実なのです」
「待ちなさい、なぜ、リーセッテ嬢に掛けさせるのです?あなたも魔法は使えるでしょうが」
ルーデンスが訝し気に問うとニケは深く息を吐いた。
「呪術を使うという事は全てにおいて捻じ伏せてきているという事です。つまり、魔法には嫌われているんですよ。まぁ、使えなくはないですが微調整が面倒ですし……なにより、元々リラックスさせる魔法は不得手なのですよ」
芝居がかった調子でニケが両手を降参だとでもいうように軽く上げた。
そのニケの言葉に得心が行ったと言った感じでルーデンスは頷く。
「なるほど。ではリーセッテ嬢、頼みましたよ」
ルーデンスがそう言うとリーセッテは胸の前で祈るように軽く手を組んだ後、ゆっくりと上半身をそらしながらその手を上へと持ち上げ、手を解きながら、そしてルーデンスの方に両手を差し出す様にしてゆっくりを下ろす。
するとキラキラとした粉と共に金木犀のような小さな花がパラパラと舞い落ちながら、泡のように弾けて消えた。
その光景に誘われるように、ルーデンスはスッと瞼を閉じる。
そうしてすぐに規則正しい静かな呼吸音が聞こえてきた。
「流石はそのお年で魔導研究院なんかの職員に抜擢されるだけはありますね。多少演出が派手で非常に無駄だとは思いますが、効果は概ねよしと言ったところでしょうか」
褒めているのか貶しているのか微妙なところではあったが、リーセッテは無事に役目を果たせたことに胸をなでおろす。
この流れが決まっていた事とはいえ、本当にうまくいくのかどうか不安でならなかったのだ。
「それでは殿下、今すぐそこをお退きください」
「え?」
ベッドに居るナテルに慇懃無礼に、そして高圧的に指示をする。
その真意をつかみ損ねてナテルはキョトンとした顔でニケを見返した。
「何を仰るのです。ナテル様は病床の身。動かすなどとんでもございませんわ」
「予定変更です。のんびり寝ている時間は終わりにしてください。陛下の為にも殿下には一緒に来て頂かなければなりません」
「え、あ、はい」
ニケの迫力に気圧される様にナテルはモゾモゾと体を動かしベッドから降りる。
それを確認するとニケはルーデンスに向かって指先で空を切る様に何回か動かすとルーデンスの腕を自分の肩に回し、脇の下に腕を差し入れてルーデンスを抱えた。
「軽量化を掛けたというのに、重いですね……」
意識の無いルーデンスを引きずるようにしてニケはすぐ横のベッドの脇に数歩移動すると、今度は「私は文官なのにっ……」っと恨みがましい捨て台詞を吐きながらルーデンスの体をベッドへと放り出した。
催眠の魔法がよく聞いているのか、体がベッドで大きくバウンドしたと言うのに目を覚ます気配もない。
「ああっ、ルーデンス様を乱暴に扱わないでください!」
「手伝いすらできない方は黙ってご覧になっててください」
抗議の声を上げたナテルの言葉にピシャリと釘をさす。
そして今度は投げ出されたままのルーデンスの脚を持ち上げ、ベッドの上に乱暴に乗せる。
ぶつくさと文句を言いながら、ルーデンスをベッドの上に体制を整えて寝かせると短く息を吐きながら中指で眼鏡を押し上げた。
その額にはうっすらと汗が浮かび、それは彼の肉体運動の不得手さを表していた。
そして軽く右手の2本指で宙に文字を書き、最後にルーデンスの眉間に押し当てる。
すると先程よりも深い眠りに誘われたようにルーデンスの呼吸がゆっくりと深い音に変わった。
「なにを、なさったのですか?」
「リーセッテ様の術式を捻じ伏せて強化致しました。これで明日の夜中までは目覚めないでしょう」
そう言うと今度はルーデンスの上着を脱がし始める。
慌ててナテルが止めると、ニケは煩わし気に髪をかき上げた。
「刻印を確認しないとなりません。そうご説明差し上げたはずですが。お忘れになりましたか?」
「ですが、今はリーセッテ様がいらっしゃるので……」
「男の裸程度で鈍るような決心なら迷惑です。今すぐお屋敷へお戻りください」
止めるナテルの言葉には従わず、ニケはルーデンスの上着の前を大きくはだけさせた。
そうしてわき腹にあるアイビーの刻印を見ると、難しい顔でその刻印を指でなぞる。
「消えかかってはいますが……未だ色濃く、アイビーの葉から蔦が伸びている……なるほど」
一人納得した様にニケは頷く。
見ればニケの言うようにルーデンスのわき腹にある刻印は端の方がぼんやりと輪郭がボヤけてはいる物の、色は 濃く、その葉の刻印からは胸の方へ向かってまるでルーデンスの体を這うように蔦が10㎝ほど伸びていた。
ルーデンスが幼い時にはその場所には何もなかったのをナテルはよく知って居た。
だからこそ、その異常さに気付く。
つい先日ルーデンス本人から話を聞いた時には葉の刻印と言う話だった。
蔦が伸びているなど聞いてはいないのだ。
まるで生きているかのようなその刻印に、背中にゾクリと冷たいものが走る。
刻印をじっくりと検分したのち、ニケは首筋に残る噛み傷にふと気づき今度は少し首をひねった。
だがすぐに興味をなくした様に視線を外す。
その後、他に異常は無いか軽く点検したのち、服を元通り着せなおす。
「リーセッテ様、例の物を」
ニケがそう言うとリーセッテはサイドテーブルの引き出しからそれを取り出し、ニケに渡す。
ニケはソレを受け取るとルーデンスへとそれを装着した。
そうして、その上を襟で覆い、最後のボタンをきっちりと嵌めた後、深く深呼吸を一つし、再び真剣な表情でルーデンスの寝顔を見つめた。
「取りあえず、視るだけは視ておきましょう。余計な仕事が増えましたが、ここで陛下を亡くす訳にはいかない」
そのニケの表情には普段は見せない様な必死さが見て取れた。
何かに負けまいとする気迫と共にニケは再び大きく深呼吸をする。
そして左手を軽くルーデンスの右のこめかみに当て、右手の二本指で宙に文字を書くように数回動かし、そのままその右手を今度は己の右のこめかみに当ててニケは瞼をぐっと閉じた。
――バチン!
大きな打音と共にニケの左手の甲に大きなミミズ腫れのような跡が浮かび上がる。
間を開けずに次は風切り音と共に左手の手首にまるで鋭利な刃物で切ったような傷が出来、血が滴った。
「ニケ様!」
思わずリーセッテは悲鳴を上げ口元を手で覆った。
その間も次々にニケの左手には様様な傷が増えていく。
「お止めください、ニケ様!怪我が……」
「集中力が乱れます。少しその口を閉じていていただけますかね。……ただの拒絶反応ですからご心配なさらないで結構。陛下の精神を捻じ伏せなければ視れないのは承知の上ですから。合意の上と言えども簡単に捻じ伏せられるような精神ならば、そもそも私はこの場に居なかったっ……っく!」
再び大きな打音と共にニケの左手の袖口が引き裂かれるように破かれた。
その袖口にはうっすらと血が滲んでいる。
ニケの額には脂汗が浮かび、その顔は苦悶の表情で彩られていた。
「陛下、望みのままに必ずアマークの姫を陛下に差し上げましょう。……だが決して一の王にはさせない」
決意表明でもするようにニケは力強く言い放った。
それをナテルは真剣な表情で見守る。
ニケの気持ちは、今一番ナテルの気持ちと近かしいものであった。
たとえルーデンスが王位を捨てるようなことがあったとしても、その命を手放すことをさせてはならないのだ。
ニケもナテルもルーデンスが王だから側に居ることを決めたのではない。
ルーデンスがルーデンスだから側に居るのだ。
風切り音と打音が入り乱れ、ニケの左手は徐々に血塗られていく。
それでもニケは決して手を放すことはなく、唯一主と仰ぐ彼の為に強い瞳で立ち向かう。
その姿にリーセッテは目をそらすことが出来ずにいた。




