<52> 忘却の夜 (3日目) -3-
「ナナエ様!」
不意によろけたナナエを見て、マリーが小さく声を上げた。
しかしすぐにマリーは安心した様に短く息を吐く。
バランスを崩して前のめりになったナナエの体はしっかりとマリーの兄、トゥーゼリアの腕によって支えられていたからだ。
「ちょービビった……」
よろけた当の本人のナナエもホッとした様にトゥーゼリアの腕にしがみついて体勢を立て直す。
トゥーゼリアがナナエを支えなければ、階段を転げ落ちていたところなのだ。
本人も、見ていたマリーも”肝を冷やす”という言葉がピッタリな程驚いた。
「気が済みましたか?」
しっかりとナナエを支えながらもトゥーゼリアが静かに問うと、ナナエは少しバツが悪そうに笑った。
元気なふりをして朝から動き回っていたものの、ナナエは体のだるさをずっと解消できずにいた。
それどころか時間が経てば経つほど、その怠さは増し、歩くのすら億劫に感じてきている。
自分の体の異変に気づきながらも、何かに急かされるようにナナエは動き回っていた。
そうして、ふと気を抜いた拍子に足の力が抜けた。
それをまるで見透かしてでもいたかのように。”気が済んだか?”とトゥーゼリアは問うたのだ。
「無理を、しすぎです」
「あはは……そう……なのかな。」
「部屋に戻りましょう」
トゥーゼリアは少しだけ体を屈めると掬い上げるようにナナエを抱き上げた。
それにナナエはおとなしく従った。
気づかせないように振る舞っていたつもりが、トゥーゼリアにはとっくに気づかれていたことを知って、表情はバツが悪そうな微妙な表情のままだ。
「私の中の種。あれって本当になくなったのかな」
トゥーゼリアの腕の中に大人しく収まりながら、ナナエがそう独り言ちるとトゥーゼリアは何か考え込む様にそのまま立ち止まった。
その様子に首をかしげながらも、マリーは口を開く。
「私はナナエ様の胸にあった魔核が落ちるとこをはっきり見ましたよ?その落ちた魔核もルーデンス様が回収して魔導研究所に送られたと聞いたんですけど……」
「……種が体の中から消えたことを確認できる方法がありません」
マリーが話し終らないうちにトゥーゼリアが発した言葉に、ナナエは一瞬だけ肩を震わせて不安げな瞳でトゥーゼリアを見上げる。
そんなナナエの視線を返す様に向けられたトゥーゼリアの顔はいつもと同じ無表情ではあった。
が、明らかに言葉を慎重に選んだそのトゥーゼリアの様子と気づかわし気な視線を見て、ナナエは逃げるようにスッとそ視線を反らす。
ナナエは確信してしまったのだ。
自分の中に種が残っているということを。
「何言ってるの?兄さん。ちゃんと取って貰うとこ見たじゃない」
不安そうなナナエの顔を見て、マリーは憤慨したようにトゥーゼリアに抗議をした。
そのマリーを制す様にトゥーゼリアは睨む。
そこでマリーは初めて自分の失言に気が付いた。
「……”取って貰った”って、誰に?」
マリーに失言を聞き流さずにナナエはそれを聞き返した。
その表情は真剣そのものだ。
彼女の存在をナナエに知らせない様にルーデンスからも再三念を押されていたというのに、トゥーゼリアの言葉の真意を問いただすためについ口にしてしまったのだ。
第三者の存在を。
「……得体の知れない娘です」
観念したようにトゥーゼリアが息を吐きながら静かに告げる。
個々で下手にごまかしても、エナの存在を知られた時のようにナナエが納得するまで追及されるのは目に見えていたからだ。
その言葉を聞くと、ナナエは少し眉をひそめて見せた。
「それって、”自称神”な女の子?」
半信半疑な様子でナナエがト尋ねると、トゥーゼリアの瞼が僅かに見開いた。
「会ったのですか?」
「うん。部屋で意識失う前に。でもそれなら種は無くなったんじゃないかな……確か助けたいって言われたし……」
ナナエの言葉にトゥーゼリアは何か考え込むように視線を斜め下に落とした。
「ねぇ」
そんなトゥーゼリアの顔をナナエは腕の中から見上げる。
トゥーゼリアは少しの間逡巡した様に視線を彷徨わせ、そして覚悟を決めたようにナナエと視線を合わせる。
「何があったの?……ううん、何か”賭け”をしたんじゃないの?」
「はい」
予想外にすんなりと認めたトゥーゼリアにナナエは少し驚いて口元を少し指先で少し弄びながら考え込む。
あの少女の存在を隠していたのには何か理由があった筈で。
そしてトゥーゼリアがこうやってそのことを口にしたのにも理由がある筈で。
そこまで考えてナナエはその理由が決して良い物ではない事を推察する。
「賭けの内容は何?ちゃんと教えて。あの少女と誰がどんな”賭け”をしたのか」
「それは……」
「駄目です!ルーデンス様に言っては駄目と言われてます」
口を開こうとしたトゥーゼリアの言葉を止めるようにマリーが声を上げた。
トゥーゼリアはそんなマリーに一瞬呆れた視線を投げかける。
「うん、わかった。ルディが”賭け”をしたんだね」
「……なんでそれを」
驚愕とした表情でマリーが呟くと、今度はトゥーゼリアとナナエ、2人からの呆れた視線が向けられた。
「トゥーヤ、兄としてもうちょっと教育すべきじゃ……」
「申し訳ありません」
「えっ?えっ?なんでナナエ様も兄さんも呆れた顔してるの?」
狼狽えるマリーを残念な子を見るように2人が生温かく見つめる。
「申し訳ありません。尋問には耐えられるように育ってきたはずなのですが……」
「ちょっと突けば秘密が駄々漏れなんだけど」
「ど、ど、どういうことですか?」
「まぁ、こんなとこで立ち話もなんだし。部屋に戻りましょ」
ナナエがそう促すと、トゥーゼリアは小さく頷いてきた道を引き返し始める。
その後をマリーが首をかしげながらちょこちょことついて歩く。
そんなマリーの姿をトゥーヤの体越しに見ながら、ナナエは楽しそうに少しだけ口元を緩めた。
―7日の間に愛し子の魂を引き戻し、お主がお主だと認識できるまでに回復させよ。
この契約を結べば、即座にわれの力にて愛し子に巣食うおぞましい虫を取り除こう―
部屋に戻り、寝台で体を休めながら聞いた話に、ナナエはくっきりと眉間にしわを刻ませた。
「なんか引っかかる……」
腕組をして首をひねるナナエにトゥーゼリアは静かにお茶を差し出した。
それを何も言わずに黙って受け取り、カップを右手で持ち上げ、左手を軽く添えながら少しだけ口に含む。
「あ、おいし……これ何のお茶?」
「乾燥リムと桃を入れたラトーナの花茶です」
「これ好きだなぁ。甘酸っぱくておいしい」
「私もその花茶大好きですよ。美味しいですよねぇ」
息を少し吹きかけながら、再びナナエはカップに唇を寄せる。
コクリと飲み込むと、温かいお茶が喉元を過ぎホッとした暖かさに包まれた。
鼻から抜ける甘い果物の香りと、優しい花の香りに気持ちが落ち着くのをナナエは感じた。
「それにしても、念入りって感じだよね」
感心した様に言うナナエに、マリーは不思議そうに首をかしげて見せた。
ナナエは軽く目を閉じて深く息を吸った。
花茶の香りを楽しんでいると言った様子だ。
「私も会った時、魔種を取ってくれるって言ってた」
そして瞼を開けるとやおら真剣な顔で見て口を開く。
「ルディにも、賭けをするなら魔種を取ると言った。それって、魔種を取ることは決定事項だったって感じじゃない?その理由が欲しかった、そう言う事なのかな?……私はそう思うんだけど」
「そうは思いません」
ナナエの推察に即答でもするかのようにトゥーゼリアはきっぱりと否を唱えた。
その言葉に不快を表すでもなく、ナナエは問いかける様にトゥーゼリアを見上げる。
トゥーゼリアもそのナナエの様子に小さく頷いて見せて再び口を開く。
「ってことは魔種を取ることがおまけで、賭けをすることが目的だった?」
「魔種を取ることも、賭けも決定事項だったのではないのでしょうか」
「……で、そもそも何で掛けをしたの?」
その余りにもストレートすぎる問いに少しだけトゥーゼリアが言い淀む気配をナナエは感じた。
だが、トゥーゼリアは隠す気は無い様で、少しだけ緊張した面持ちで手にした花茶のティーポットに視線を落とした。
「ナナエ様の命を繋ぐために」
それは、裏を返せば、ルーデンスがその賭けに乗らなければナナエが死んでいたことを指していた。
その事実を突き付けられ、ナナエはぎゅっとカップを包む手に力を入れた。
そして先程聞かされた賭けの内容、それを思い出して少しだけ手が震える。
自覚は全くないが、自分はルーデンスをルーデンスだと認識できていない。
それはつまり、このままだとルーデンスが賭けに負けると言う事。
聞きたくはないが、聞かなければいけない事に気付いた。
それを聞かないで逃げるのはとても卑怯なことだとナナエは思った。
「……賭けに失敗したら?対価は何?」
「ルーデンス様の命です」
サラリと告げられた事実に、ナナエは血の気が引いた思いがした。
ルーデンスやマリー達が賭けの存在を黙っていたという事で、賭けの対価が重要な物であったことはナナエでも想像できた。
だが、命の対価が命など……自分の命にそこまでの価値をナナエは見出せなかった。
「な……んで?いくら何でもそんな対価馬鹿げてる」
「拒否権はありませんでした。むしろルーデンス様の命を摘む事は決定事項でした。それを賭けの対価にすることで命を繋いだのです」
「……何で黙ってたの?」
「知らなくても問題ないと判断しました」
「じゃあ、なんで話す気になったの?」
「知らなければいけないと思ったからです」
ナナエがルーデンスを認識できている間は告げる必要が無かった。
だが、認識できなくなった今、ナナエには積極的にルーデンスと関わろうと言う気が何故かなくなっていた。
それはつまり、ナナエがルーデンスの命をそうと知らず放棄したという事で。
「ルディは、ルディをルディじゃないって私が言った時、どんな気持ちで聞いていたんだろう」
ナナエはボソリと呟いた。
胸が苦しくて自然と涙が込み上げてきた。
悲しがってる場合じゃないと頭ではわかっているのに、ルーデンスの気持ちを思うと胸が苦しくて仕方が無かった。
彼はナナエの為に政務を放り出して何度もナナエを助けようとしてくれた。
何時でもナナエの心配をして、ナナエが傷つけば代わりに怒って。
ナナエが頑張ればちゃんと気づいて褒めて。
ナナエが泣けば抱きしめて慰め、ナナエがわがままを言えば困った笑顔をしながらも付き合ってくれた。
魔力が足りないナナエにあれほどの大量の魔力を消費して、青い顔をしながらも「ナナエに嫌われたくない」と真っ直ぐに話してくれた。
そんな彼の顔が酷くぼんやりとしていて思い出すことが出来ない。
その事実が一層ナナエの心を苛んだ。
ルーデンスと思えないあの青年は、ルーデンスではないと拒絶するナナエに恨み言すら言わず、何かを強要することもなく部屋を出て行った。
目の前で、自分の命を繋ぐことを放棄をされたにも関わらず、だ。
その余りにも気高い魂に胸が締め付けられる思いがした。
「……話すな、と、言ったでしょう」
驚いて泣いたままナナエ声の方にが顔を向けると、部屋の入り口には見慣れた筈の、見知らぬ困ったような笑顔があった。
ナナエは何も言えずに唇を引き結んだまま涙をこぼす。
それを見ると、ルーデンスはやれやれと言った風体で小さくため息を吐くと優雅に歩いて近づき、ナナエの涙を拭おうと手を伸ばした。
それは、ナナエ自身も意識したわけではなかった。
しかし、ルーデンスがその指を頬に近づけた瞬間、思わずナナエは怯える様に肩をピクリと動かしてしまった。
それだけだった。
その瞬間、ルーデンスの指はピタリと止まり、その指を握りこむようにして引き戻し、力なく下におろした。
「……ちがっ」
「王都に戻ります」
慌てて弁明しようとしたナナエの言葉に被せるようにしてルーデンスは言葉を紡いだ。
はっきりとナナエは気づいた。
このルーデンスだと名乗る彼を酷く傷つけてしまった事を。
「お前たちだけもきちんと護衛できますね?」
トゥーゼリアとマリーに向けて何事もなかったように告げる。
そのままルーデンスはマリーとルーデンスに2,3言いつけると、ルーデンスを傷つけてしまった事に傷ついて、呆然と彼を見上げていたナナエに再び視線を戻した。
そうして、再び困ったような笑顔を微かに浮かべると寝台の横に跪くと強くカップを握りしめ白くなったナナエの手にそっと己の手を重ね、まるであやすかのようにポンポンと叩いて見せた。
「1日ここを空けます。心配しないで大丈夫ですよ」
何が大丈夫な物か。
そう叫んでしまえればよかった。
弱音一つ吐くことなくルーデンスは立ち上がる。
そんな彼にナナエは何も言葉がかけれなかった。
叫んでしまえば、彼の気高い魂を貶めることになるのだから。
彼は振り返ることもせずに部屋を出て行った。
何も言えずにナナエはただただ涙を流すことしかできなかった。




