<50> 忘却の夜 (3日目) -1-
「なるほど」
ニヤリと口の片端を上げて笑って見せるルーデンスに、ナナエはビクリと肩を震わせた。
ナナエが思わず後ずさり、トゥーゼリアを盾にでもするように背後に隠れると、一瞬ルーデンスの眉がピクリと跳ねあがり、うっすらと額に青筋が見えるようであった。
「そうきましたか」
憎々し気に、そして吐き捨てるようにルーデンスが言うのを、ナナエは幾分怯えたような目で見つめている。
「ナナエ様、お茶を入れますのでお掛けになられては?」
そんな二人の様子に幾分困惑気味なトゥーゼリアがそう促してみるも、ナナエはひきつった顔で微妙な笑い方をしたまま動こうとしない。
「ナナエ様?」
「いや、あの、トゥーヤ。だからあの人、誰?」
「誰も何も、ルーデンス様ですが」
「いやいやいや!違うじゃん!どう見ても違うじゃん!」
「何を遊んでいるんです?」
「だから違うじゃん!」
ナナエの言いたいことがはっきりと理解できず、トゥーゼリアは少しだけ眉をひそめたまま背後のナナエを肩越しに見る。
するとナナエは明らかに苛立ったようにトゥーゼリアを軽く睨み、背中を拳で軽くトンっと叩いた。
「あのね!ルディはあんなんじゃないから!」
そうまるで宣言するかのように、ナナエは強く言い放った。
その言葉には一切の遊びが混じっていないように見える。
だからこそ、トゥーゼリアは困惑を深めた。
だが、ルーデンスの方はそうではなかったようだ。
物知り顔で先程から表情を崩さず、笑みを浮かべたまま事の成り行きを楽しんでいるようなそぶりさえ見える。
「では、ルーデンスと言う者はどういうものだと?」
軽く身を乗り出して頬杖を付きながら聞くルーデンスに、ナナエは再びビクリと反応しながら少しだけトゥーゼリアの背後から顔を覗かせて睨み返す。
間に挟まれたトゥーゼリアは判断が付かずにナナエの言動を見守るよりほかになかった。
「ルディはね、もっとこう、”ハハン。やれるものならやってご覧なさい”ってな感じ全開で、ちょっといけ好かないけど、取りあえずイケメンだし。権力はあるし。頑固で融通効かないけど優しいとこもあるし。強引で手段を選ばなくて、ずる賢くて、嫌味なんだけど、妙に律儀だったりするし。顔色がネギみたいで不健康でヒョロヒョロに見えるけど実は脱いだら凄いんです的な感じで、強いし。いつも偉そうで、セクハラな自称紳士だけど、結構不器用な馬鹿なのよ!」
ナナエがビシィィィっと指先をルーデンスに突き付けると、先程まで楽しむそぶりを見せていたルーデンスがすっかりその顔から笑みを消し、頭を抱えて小さく嘆息した。
「なるほど」
そんなナナエの語るルーデンス像をまるで後押しするかのようにトゥーゼリアが頷く。
すると、ルーデンスは忌々し気にチロリとトゥーゼリアに視線を移し一睨みした。
「どうよ」
フンっと鼻息荒く、腰に手を当て胸を張ったナナエに、ルーデンスは視線を戻し、再び嘆息した。
「どうよ、といわれても。あなたが私をルーデンスではないとする証言が一つも立証できないと理解できているのかどうか」
「な、なによそれは」
「あなたは私を知らないのでしょう?あなたの主観で構成された内面の話をされても、あなたが私を知らないと言う以上、私の内面があなたの言わんとする所の人物の主観で構築された内面と言う物とどうやって違うと言うことを、一体どう立証すると言うのです?」
「えっ?は?……えっ??」
「そもそも、あなたが主張するその内面の人物がルーデンスであると言うこともどうやって立証するのですか?それが立証できなければ、そもそもこの話も無意味ですが」
「えっ?えっ?」
半分からかうような響きで、ポンポンと次から次に放たれる言葉にナナエは目を点にして狼狽した。
まるで言葉遊びのような理論の羅列に思考が追い付かずに戸惑うよりほかになかったのだ。
「人物像などというものは、語る人の主観で構築されたものであって、決して不変のものではありません。語る人、語る立場によって違うもの。そんな不誠実な物が証拠になりえるかどうか。と、言えばわかりますかね?」
ルーデンスはニヤニヤと口の端を上げながら、ゆっくり優雅に足を組み替えた。
その不遜な態度にナナエはぐぬぬぬと唇を噛みながら睨む。
「で、私がルーデンスではないとする理由を改めて問いましょうか」
手を軽く腹の上で組み顎を少し上げて、ふんぞり返ると言う言葉がピッタリとあてはまりそうなほどの態度でルーデンスが問うと、ナナエは拳をブルブルと震わせながら強く握りこんだ。
そうしてワナワナとひとしきり肩を震わせた後、ひきつった笑顔をルーデンスに向けた。
「だったら、あなたが自分はルディだと言う証拠はどこにあるのかしら?」
意趣返しのつもりで嫌味っぽくナナエはルーデンスに問いかける。
すると、ルーデンスは誰が見ても明らかな程馬鹿にしたように鼻でフッと笑った。
「私が立証する必要がどこにあるのかわかりませんね。違うと言っているのがナナエ、あなた一人な以上、立証する必要があるのはあなただけな訳ですが」
「ぐぬぬぬぬ……」
「まぁ、いいでしょう。大サービスです。私が私だとする理由を聞きたい訳ですね」
「そ、そうよ」
噛みつくようにナナエが言うと、ルーデンスは芝居がかったようににこやかに両手を広げて見せた。
「簡単なことです。私が私をルーデンスだと主張しているからです」
「は?」
「あなたが私を否定しようとも私が私をルーデンスだと主張している以上、私はルーデンスなのです」
「何言ってんのよ。それこそ、あなたの主観じゃないの」
「ふむ、ではあなたは誰ですか?あなたがあなただと主張したのは誰が最初なんでしょうね」
「へ?」
ナナエの主張が尤もだとでもいうように、ルーデンスは真面目腐った顔で頷いて見せる。
そうして放たれた問いかけに、ナナエは窮してしまった。
ここでナナエが自分をナナエだと言うことは簡単である。
だが、それを言った途端、その証拠を求められたら?
結局、自称ルーデンスの言う事を肯定しなければならないのが目に見えているからだ。
「意外と理解が早かったようですね」
感心したように言ったルーデンスをナナエはキッと睨みつけた。
ナナエが答えに窮するのを知って居て問いたと言うことに悔しさを覚えたからだ。
「まぁ、これぐらいにしておきましょうか。邪魔しました。戻ります」
大きなため息を一つ吐いた後、ルーデンスは立ち上がるとナナエの返事も待たずに部屋を出た。
閉められた背後のドアの向こうでは、ナナエが癇癪を起して何やらドアに向かった投げている音と、悔しそうな声が聞こえた。
「煙に巻かれた気分ですよ」
ルーデンスの背後にそっと戻ってきたヒュージィンは軽く首をひねりながら主に問う。
それを不機嫌オーラ全開の主人はジロリと睨んで見せた。
「ただの詭弁だからですよ。私がナナエに求められたのは、ナナエが知って居るルーデンスと私が同一人物であることの証明です。それを、私がルーデンスという名前であると言う主張・証明をすることで論点をすり替えました」
淡々とした口調で、一気にそう言い切ると、ヒュージィンは困ったように頭をポリポリと掻いた。
「あーつまり、あれですか。陛下は忘れられていることに腹を立てて悔しがらせたかったわけですか」
「言葉が過ぎます。……そもそも、名前など意味のないものですからね。私の名前が何であろうと私が私であることに変わりはない。私が私であると思うからこそ、私なのです」
「やれやれ、新しい主はまるで哲学者のようなことをおっしゃる。どうも小難しくてまいります」
「……これぐらいで音を上げるようでは、我が国一の根性悪文官と渡り合えませんよ」
そう言ってルーデンスは嫌なことを思い出したかのような微妙な表情をしてみせた。
苦虫をかみつぶしたような、というのは正にこのような表情なのだろう。
エーゼルを離れてからと言う物、半日と間を開けずに使い魔を頻繁によこし、説教を垂れるあの小うるさい民間出の文官を思い出してしまったからなのは間違いがない。
「それよりも」
それまでカツカツと音が鳴りそうなほど苛立ったような足音をさせていたルーデンスは、ピタリと足を止めて考え込む様に手を顎に置いた。
それに倣い、ヒュージィンも足を止め押し黙り、その言葉の続きを待つ。
「昨日の時点では、ナナエは私をルーデンスだと認識できていました。そして、今日、ナナエは私を認識できなかった。しかし、ルーデンスという人物を忘れているわけではない」
「……そのようで」
「その切っ掛けとからくりを解明する必要と、私をルーデンスだと認めさせる必要がある。そういうことか……」
そう言い、ルーデンスは逡巡するように視線を斜め下に落として数秒考え込むような表情をしてみせたが、すぐさまその意志の強そうな光を瞳に湛えて視線を上げた。
「とにかく、情報が足りません。マリーに少しでも変だと思ったことはすべて報告させなさい」
「承りました」
「それと、あの小うるさい文官の知恵も借りた方が良いかもしれませんね」
再び苦虫を噛み潰したような顔をしながら、ルーデンスは再び自室へ向かって歩みだした。




