<45> 取引
「ナナエ様が死んだって言ったのはルーデンス様じゃないですか!」
マリーはまるで飛びつくようにしてルーデンスの前に詰め寄った。
その様子がよほどおかしかったのだろう。
ルーデンスはくつくつと声を漏らし苦笑してみせた。
「私は、あくまで彼らの見解を話しただけですよ。彼らは”ナナエが死んだ”と認識したからこそ、彼女の身を隠した。これは違えようのない事実でしょう」
「でも、生きているんですよね?」
「もちろん」
ルーデンスがそう断言して口の端を上げると、マリーは「よかったぁ……」と呟きながら、目に滲んだ涙をぬぐった。
「ただし。正確には”まだ死に瀕している状態”っと言う事であるのは間違いないはずです」
その言葉に再びトゥーゼリアとマリーの表情に緊張が走った。
”まだ”ということは”いずれ”がやってくることを示唆している。
それが分からぬ訳はない。
「やはり魔種が……」
「恐らくは」
端的に答えるルーデンスに、トゥーゼリアは苦しげに眉根を寄せた。
ナナエが生きているということは、もちろん喜ばしいことだった。
しかしそれは、問題が少しだけ先送りになっただけ。
未だ、何も解決はしていない、という事実が分かっただけなのだ。
「じゃあ、どうするんですか、ルーデンス様?ナナエ様はこのまま死んでしまうの……?」
半ば自分に問いかけるように肩を落とすマリーを横目で見ながら、トゥーゼリアは唇を噛んだ。
結局のところ、ナナエを取り戻そうが取り戻すまいが、彼女は死ぬのだ。
オラグーンとバドゥーシの争いに巻き込まれ、そしてファルカとイェリアの争いの贄となって。
その発端は護衛の任を任されていたトゥーゼリアが、ナナエの側を離れたことに起因している。
全てはそこに行きつくのだ。
何度も何度も、トゥーゼリアの身を襲った後悔の念が荒れ狂う波のようにその身を苛んでいた。
「死なせません。死ぬのは許しません」
ルーデンスの決意に満ちたような言葉がまるで合図であったかのように、その時トゥーゼリアは左耳をピクリと震わせた。
彼の恐ろしく感度のいい耳は、息を殺す様にして足音も立てずにこの部屋へと忍び寄ってくる、何者かの衣擦れの音を間違いなく拾っていた。
何も言わずに部屋のドアの陰へとなる場所へと移動したトゥーゼリアを習うようにして、マリーも長椅子の影へとその小さい身を滑り込ませる。
そのまま気配を完全に絶つと、その部屋はまるで、最初からルーデンスとエナしか居なかったような雰囲気に包まれた。
その様子を確認すると、ルーデンスは口角を少し上げ、ゆっくりとエナへと近づいた。
エナはというとビクリと肩を震わせ、身をよじり少しでもルーデンスから離れようと這うようにして後ずさる。
その努力もむなしく、エナはドレスの胸元を吊し上げでもするかのように乱暴に引き起こされ、短くうめき声をあげた。
そんな様子を気にも介さず、ルーデンスは半ば突き飛ばす様にしてエナを長椅子に座らせる。
そうして、腰の剣をおもむろに抜くと、まるで玩具で遊ぶような退屈そうな風体で長椅子の肘掛けに軽く腰を掛けた。
「喜びなさい。助け、になるかどうかはわかりませんが、あなたのお迎えが来たようです」
ルーデンスの言葉にエナは瞬間期待に満ちた表情になった。
が、すぐさま彼女の横で酷薄とした笑みを浮かべる人形のような男の存在、そしてファルカ家の兄妹の存在を思い出したのか眉根を少し寄せ、視線を足元へと彷徨わせる。
エナが囚われたとして、まずこの3人にあっさりと打ち勝つことのできる者の存在をエナは思い浮かべることが出来なかったのだ。
当主である父、もしくは弟のシャルであったならば…と一瞬頭の隅を掠めたが、その2人が来ることはまずあり得ない。
イェリアの当主は出来の悪い娘のために危険を冒すような馬鹿な人間ではないし、シャルはそもそもファルカ側についてしまっている。
今この場所に危険と分かってて来るような人間。
それの人物が彼らよりも秀でたものではないことは容易に想像が出来ていた。
――――コンコン。
やや遠慮がちに叩かれたドアの音を聞き、エナは眉根を寄せて目を閉じ、俯き、ルーデンスは軽く顎を上げスッと目を細めた。
それは、これから訪れることを全てわかっているようなそんな冷めた表情で、側に居たマリーでさえもその不気味さに一抹の不安を覚えたようだった。
「……失礼、します」
有に一呼吸はおいて、ある種の決意を帯びたようなしっかりとした声と共に、今度は間を置かずその人物は室内へとあらわれた。
その男は温和そうな顔立ちに、微かにひきつった薄笑いを張り付けながらも緊張を隠しきれない様子だった。
「エナ様を、離しては頂けないでしょうか」
「この状況で、この場へ現れ、その発言。敬意を表しましょう」
言葉とは全く違い、馬鹿にしたような面持ちで話すルーデンスに、コルレはにわかに口元を引き結び、唇を噛んだ。何が策が合ってここへ来たわけではない。
ただ、エナを助けなければならないと、その思いだけでやってきたのだ。
「ナナエ様はいらっしゃいません」
「この部屋には、でしょう?」
「体調が急変されたので、急ぎ町医者の元へお連れしています」
そう言うや否や、長椅子の影に居たマリーが飛び出す様にしてコルレの前へ歩み寄り、彼が避ける間もなくその華奢な手の甲でコルレの右頬を強く打った。
怒りに任せて、という言葉がまさにピッタリだと言うように、マリーの眉はいささか吊り上がり、その怒りを抑えようとしてるかのごとくゆっくりと息を吐きながら打ち放した手を握りしめるようにして下へおろす。
「茶番はもうたくさん。直ぐにナナエ様の元へ案内しなさい」
微かに震えるような激情を抑えた目と声でマリーはコルレと対峙した。
その様子にエナは視線を向けることなく、眉根を寄せたまま俯いたままだ。
「エナ様を離してください」
マリーの出現にも驚かず、そして微動だにせず発せられた言葉に、畳みかけるようにして再度コルレの頬が強く打たれた。
一見か弱い少女のようななりで、その一撃は想像以上に早く、重い。避けないのではなく、避けれないと言ったところがコルレの本音だ。
そもそも、ファルカ家一族の足元にも及べるような実力が無いことを、彼自身が知っている。
だからこそ、ただの少女にしか見えないマリーにすら、コルレは抵抗しようとも思わなかった。
思ったところで、どうにもならないからだ。
下手に抵抗したところで自分の命、エナの命を危険にさらすだけなのだ。
瞬間、水を打ったようにしんとなっていた部屋に、ルーデンスの低い笑い声くつくつと広がった。
見れば、ルーデンスは軽く首を回す様にしてから、ニヤリと笑い、さも目の前のコルレの必死さをあざ笑うようにニヤリと笑って見せる。
「ナナエの元へ案内しなさい。もちろん、ナナエの生死は問いません」
ルーデンスの言葉に、わずかにコルレはたじろぎ、落ち着きがなく視線を漂わせた。
その表情は少し青ざめ、何か言葉を発しようと僅かに開いた唇はすぐに再び固く結ばれる。
コルレの瞳がゆっくりとエナの方へ向けられると、それに気づいたのか、エナは力なく首を横に振った。
それは、ナナエの居場所を教えるべきではないという意味なのか、もう駄目だという意味なのか判断が出来ず、コルレはじっとエナを見つめ、眉根を寄せる。
「この女に、魔種を飲ませました。そして、お前たちが何をどう勘違いしたのか知りませんが、ナナエは死んでいない。……そこにこの女の命を救う何かがあるとしたら?」
酷薄とした笑みを崩さずルーデンスがそう静かに言うと、コルレはにわかには信じがたいように目を見開いてルーデンスを呆然と見やった。
そうしてすぐ思い出したかのように再びエナへと視線を落とす。
エナは相も変わらず目を伏せたままだったが、小さく頷いたようだった。
一瞬息を飲み、コルレはかぶりを強く振ると、意を決したように強い瞳でルーデンスを睨んだ。
「ナナエ様の元へご案内いたしましょう。ですが、エナ様は、どうか、こちらに」
一言一言区切って強調するようにコルレが言い、ルーデンスはそれに満足したかのように頷いた。




