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<44> 決別



 物言わぬ肉塊へと成り果てたカズルの死体に、シャルは近くにあったテーブルクロスを引き剥がし被せた。

眩く感じられるほどの白さを持った布は、瞬く間に赤色の染みが広がり、その大きさを増す。


 拍子抜けするほど、あっけなかった。


 今のシャルの気持ちを一言でいうならば、それは”落胆”という感情が最も近いだろう。

自分が何に対してもっとも落胆しているのかも、シャルにはよくわからなかった。


 それは余りにも弱すぎる兄に対しての落胆なのか。

それとも、ここまで弱い兄を次期当主に据えているイェリアの家への落胆なのか。

はたまた、この状況に置かれた自分の境遇へのものなのか。


「こんなことで、僕ががイェリアの人間だと自覚するなんて、キツイな」


 シャルはため息を吐くように呟いた。

身内の生死に、さほど心を揺らさない自分が、おぞましくもあり、そして汚らわしいとさえ感じる。

そして、それがイェリアの者に共通する事象であることも、シャルはよく知っていた。


 最初からこうしていればよかったのだ。


 身内だなんだのと縛られて、守らなければいけないものを蔑ろにした。

それがシャルの落ち度であったことは言うまでもない。


 テーブルクロスの端で血塗れたナイフを丁寧に拭う。


 ナイフが綺麗になった所で、自分のしたことは何一つ変わっていないというのに、何故か少しだけ心が軽くなるような、そんな錯覚を覚えた。


 ちらりと横目でテーブルクロスの赤く染まった部分を見た。

所々、余りの血の量に水たまりのごとく溜まっている血がある。

もう生きてはいないと知っていながらも、何度も確認してしまう。


 任務で殺しをした時には、一度確認した後は振り返ることすらなかったシャルにとっては非常に珍しいことではあった。

それだけなにか引っかかるものがあったのだろう。

いや、それは彼にとっては、初めて感じる”死”への戸惑いであったのかもしれなかった。

その肉塊を確認するたびに、もう後には戻れないんだとシャルはその目に、心に、教え込んでいるようでもあった。








 ルーデンスがイェリアの館にやってきたのは、今から一刻ほど前の事だった。



 あの時、キーツとシャルの2人は、もぬけの殻となったナナエの部屋で、やり場のない思いを抱いていた。

連れ去られたナナエを案じ、そして連れ去られたという事実が”示唆していること”に絶望を感じ始めていたのだ。

半ば途方に暮れるようにして、シャルはベッド脇の椅子に片膝を抱え込むような格好で座り、キーツはと言えば、珍しく顔から表情をなくしてただ物思いにふける様に窓際に立って外を眺めていた。

 幾ばくかの沈黙ののち、キーツはふとイェリアの邸宅門の前から見知った顔が邸宅を見上げているのに気が付いたのだ。


「陛下……」


 反射的にその窓を開け、キーツは狐につままれたようにいる筈のない主の姿を、窓から身を乗り出す様にして見た。

その視線に気が付いたのか、邸宅の前に居た人物はゆっくりと優雅にキーツの方へと顔を向けたのだ。

そして、ほんの一瞬ニヤリと口の端を上げたかと思うと、次の瞬間には、その人物は部屋の中へとその姿を現していた。


「……何、してるんですか。陛下」


 陛下と呼ばれた青年、ルーデンスは窓際にあった一人掛けのソファにゆっくりと深く腰を沈めると、肘掛けに手を置き、足を組み、その両の手を腹の前で軽く組んだ。

その姿は悠然としていて、悲壮に満ちていた2人とは全く対照的でもあったほどだ。


「ナナエを迎えに来ました」

「……もう、いません」


 自分自身であの事実を確認するかのように、そして絞り出す様にしてキーツが発した言葉に、ルーデンスは組んだ手を解き、つまらなさそうに頬杖をついた。


「ナナエはどこです?」

「ここに居ました。が、連れ去られました。……恐らくもう生きてはいない筈です」


 キーツが苦々しげにそう告げると、ルーデンスは「ふむ」と一言小さく頷き、軽く瞳を伏せた。

その姿に焦りや悲しみと言ったものはまるで浮かんでいない。


「それで?」


 先を促す様に続けられた言葉に、キーツは戸惑った様に、そして半分助けを求めるようにシャルを見た。

だが、シャルも同じようにして困惑の表情を浮かべている。

その2人をルーデンスは飽きれたように冷めた表情で見ながら小さくため息を吐いた。


「まずは、何故こうなったのか。そして、何故こんなところでお前たちが無為に時間を過ごしているのかを問わねばならないと?」


 小馬鹿にしたようなルーデンスの物言いに、キーツは俯いて黙り込み、シャルは柳眉を釣り上げてルーデンスをにらんだ。

魔種という恐ろしい存在にナナエが苛まれてきたことも知らず、ナナエが今にでもその命を絶やしそうな状態であったことも知らず。

自分の身でなく、トゥーゼリアやキーツまでもがどれほどナナエの為に心を砕き、その身を案じ、どんな気持ちで死の恐怖におびえて不安の中に居たのかも知らずに発せられたその言葉を、シャルはどうしても許すことが出来ずにいた。


「何もお知りにならないくせに」


 シャルらしからぬ低く発せられたその言葉に、ルーデンスは「ほぅ、それで?」と幾分顎を上げて答えた。

そのルーデンスの態度に、シャルはますます激昂したようにカツカツと音を立ててルーデンスの前に歩み寄る。

そして、手に握りこんでいたいくつもの魔種をルーデンスに向かって激しく投げつけたのだ。

ルーデンスはそれを避けようとも、払おうともせずに、その表情を一つも変えることなく悠然と構えている。

ただ一人、キーツだけが青ざめてシャルの前に立って出、急いで膝を折った。


「申し訳ありません、陛下」


 シャルの代わりに首を垂れるキーツに、ルーデンスは軽く頷いて見せる。

その態度に余計に腹を立てたのか、シャルが更に詰め寄ろうとするのを、キーツが腕を伸ばして押しとどめた。


「お前たちはナナエの命を諦めた、と?」


 その言葉に、キーツは驚いたようにルーデンスを凝視し、シャルは己を恥じたようにさっと頬に朱を混じらせた。


「さて、聞きましょうか。何がどうなって、今の状況にあるのか」


 再び軽く両手を組み腹の前に置くと、ルーデンスは見るものが凍えるような冷たい微笑を浮かべて見せていた。












 あの後、キーツから事の成り行きを全て聞き終えたルーデンスは、シャルに短くこう言った。


「こちらにつくか、あちらにのこるか。決めなさい」


 それは、イェリアの者として残るか、それともイェリアの者と敵対するかを決めろと言う酷くシンプルなものだった。

シャルの意見は初めから決まっている。

尊敬するトゥーゼリアと共に歩む。

それだけだ。


 それはルーデンスに問われるようなことでもないし、答えてやる義理もない。


 心の片隅ではそう思っているというのに、何故かシャルは答えなければいけないような気にさせられた。

有無を言わせぬ口調と、従わなければならないと感じさせる威圧感、それに飲まれてしまった。

いや、ただ単に。

目の前で静かに口の端を微妙に上げてるだけの、薄い笑いを張り付けた青年のその笑みが怖かったのかもしれない。


「こちらに」


 一言、そうシャルが答えるとルーデンスはチラリと見下す様にその目を細めて見せ、「ほぅ?」と呟きその笑みを消した。

その瞳はシャルの気持ちを訝るような眼差しで、少しその身を乗り出した。


「では、あなたの兄、両親を殺しなさい」

「陛下、それは……!」


 ルーデンスの言葉を遮るようにして声を上げたのは、シャルではなくキーツだった。

それを不服に思ったのか柳眉をいささか釣り上げて、ルーデンスはキーツを見る。

その視線に一瞬怯みつつも、キーツはまるでシャルをルーデンスから隠すかのようにルーデンスの前に立った。


「恐れながら陛下。シャルは未だ年端もいかない子供です。それは余りにも酷なご命令だと」

「……僕は、子供じゃない」

「子供だろ!」


 子ども扱いされたことに腹を立て、異論を唱えたシャルをキーツが一喝する。

その勢いにシャルは思わず開きかけた口を閉じた。

ヘラヘラしたいつもの雰囲気とは違うキーツに驚いたというのが純粋なところだ。


「殺せとお命じになるなら、俺がやります。シャルが出るまでもない」


 キーツは自分の胸を平手でたたくようにしてルーデンスに名乗りを上げる。

それをルーデンスは不快そうにギロリと一睨みしたのち、眉間にしわを寄せて瞼を軽く閉じた。


「キーツ。私が許可するまでその口を開くことは許しません」

「ですが……!」

「子供には酷だと?」


 確認するようにルーデンスがそう尋ねると、キーツはコクンと首を小さく縦に振った。

が、それを見るなりルーデンスはフンっと鼻を鳴らして笑ったのだ。


「私が彼の年には、私に仇なす親族は女子供に至るまでこの手で全て斬り殺しましたが?」


 それを聞いて、キーツはハッとしたように己の口を片手で覆うようにして押さえた。

エーゼルで育った彼は知っているのだ。いや、エーゼルで知らぬものはいないのだ。


 残虐非道な少年王の話を。


 反逆を企てた親族、その妻や幼き子供まで全て斬り捨て、実の父親である国王までも弑逆したという黒い噂のあったあの少年王が、この目の前にいる青年なのだ。


「シャル、お前は気づいてる筈です。お前の親族は立つ側を間違えた。これからどうなるのか。どうすればいいのか。お前が出来ぬと言うのなら、私が殺すまで。もちろん、お前を含めて」


 ゾクリと背筋に走るものを感じて、シャルはごくりと息を飲んだ。

目の前に居る青年が、その瞳が。

既にシャルの心臓を握りつぶそうとしているかのように感じたのだ。


「どちらにしてもお前の家は、もうオラグーンにあることを許されない。もう後ろには道はない」


 淡々と告げられる事実にシャルはただ黙ってうなずいた。

オラグーン王家に当主である父親が反旗を翻した以上、バドゥーシ側が勝たなければイェリアはどうあがいても咎を負う事、誹りを受けることは免れないだろう。

少し前ならまだ勝機はあったかもしれない。

しかし、今バドゥーシの周りにいた貴族連中が次々とその手を引いているのもシャルは知っている。

その余りにも素早い手の引き方にシャルの父親が苦々しい顔をしているのだ。

率先してバドゥーシ側についていた輩どもが一斉に、裏で手を組んででもいるかのように手を引いた。

それはトゥーゼリアが王族派を少しずつ殺していくよりも静かに進められ、突然波が引いたように、鮮やかさを感じる程の素早さだった。

 どちらにしろ、もうイェリアの運命は決まっていた。

滅びる運命でしかない。


「シャル。お前はエーゼルでイェリアの当主を名乗るがいい」

「なにを……」

「お前は、謀反の罪で大人しく殺されるつもりですか?」


 そう、イェリアは既に詰みの状態なのだ。

この場で生き残ろうが、その罪は重い。

今日この場で死ぬか、いずれ罪人として斬られるかの違いだ。


「お前が望めば、トゥーゼリアと共にエーゼルで召し抱えます」

「トゥーゼリア様も……?」

「オラグーンの王子たっての願いですからね。他国の者ならば簡単に追及はできませんし、裁けない」

「セレン王子様の?」

「あの王子も甘いですね。私ならばとっくに殺している所です。トゥーゼリアと共に罪人としてその命を落とすか。それとも、以前と同じ生活をエーゼルで続けるか。さぁ、選ぶといい」


 ルーデンスが提示したそれは正に”選択の余地はない”と確認していただけなのだ。

トゥーゼリア自身にこの問いを投げかければ、間違いなく彼は処刑されることを、その死を、選んだだろう。

だが、その問いが投げかけられたのはシャルにだ。

シャルがトゥーゼリアの死を、己の死を望むわけがない。

やはり、選択の余地はないのだ。


「とは言っても。……ファルカ家当主、ヒュージィンは既にエーゼルに忠誠を誓っているのですが、ね」


 したり顔で呟くルーデンスを苦々しく思いながらも、シャルはその場で膝を折って見せた。









 カズルの部屋を静かに後にすると、シャルはゆったりとした足取りで階下へと向かう。

下には客間、書斎、談話室、調理場、それに召使いたちの部屋がある。

シャルの父親は恐らく書斎、母親は談話室に居るであろうことは予想はついていた。

出来るだけ静かに終わらせたい。

シャルが望むのはそれだけだった。

トゥーゼリアのように、使用人に気付かせることもなく、できれば、これから死ぬ2人が何事をも感じ取る前に終わらせたい。

母の事を思うと少しだけ胸が痛んだが、どちらにしろもう引き返せない。

あの2人は殺さねばならないし、やらかしたことには責任を取るべきだ。


 その命を持って。


 その罪深き命を刈り取る仕事は、シャルにとってうってつけの役目と言わざるを得ない。

あのようなおぞましい種を知るものは、居なくなって然るべきなのだ。


 ふと、シャルはエナの事を思い出した。

唯一手を出すなと言われた親族、それがエナだ。

ルーデンスはエナをどうするつもりなのだろうか。

無事に、とは行くはずは無い。

エナの所業を考えれば当然だ。


 手を出すな、と言われたからには、エナを殺すつもりはないのだろうかと一瞬考えた。

だがそんなことを言いつつも、ルーデンスの瞳に、微かに暗い炎がくすぶっていたのをシャルは知っている。

恐らく、今は無事であろうとも、その後の事はわからない。

いや、恐らくその先、なんてものはないのかもしれない。


 本当にルーデンスの言う通りだったのだ。





イェリアは敵にする相手を間違えたのだ。





インフルが流行り始めておりますので、皆様もお気を付けください。

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