<43> 報復
今回は分けるタイミングを逃したため無駄に長いです。
先週分と合わせた2週分と思ってください。
「……っく」
右腕を後ろにひねり上げられ、エナはその上半身を叩きつけるようにして床に押さえつけられた。
突然のことにエナは全く対応できず、苦しさから逃れるように低くうめき声をあげる。
エナの身の自由を奪った者、それは見なくともすぐそばで感じる匂いですぐに分かった。
キーツだ。
逃れようと動かした左腕もそのままひねり上げられる。
フェミニストな彼がここまで乱暴にエナを扱うことは予想外ではあったが、それだけナナエの身を隠したことに腹を立てているのに違いないのだろうとエナは思った。
「質問に答えなければ殺します」
仄かな薔薇の香りと共に突然降ってわいたような気配に、エナはいささか驚いてビクリと一瞬体を強張らせる。
背後でエナを押さえつけている者、キーツとは違う誰かの影が唐突にエナの前に現れてそう言ったのだ。
唇から囁くように低い声音で発せられた言葉に、エナは背筋に冷たいものを感じ、ぎこちなく顔を上げる。
その声の主は、確かにエナにも見覚えがあった。
だが、以前村で見たことのあった、あの時の雰囲気とはまるで違っていた。
不躾にも、思わずそんな彼の顔をまじまじと見てしまうほどに違っていたのだ。
ナナエに向けられていたあの優しげな表情や、村人たちを惹きつけて止まない存在感の強さ。
そんな彼しか見たことがなかったエナにとってそれがあの時の彼と同一人物であるのか、にわかには信じがたかった。
何故なら、その声と気配からはひしひしと底の知れない殺気を感じさせ、優しさなど微塵もなく、ただそこには畏怖の感情を覚えずにはいられない程の底恐ろしい男にしか見えなかったからだ。
チラリとエナが横目で部屋の入り口を見やれば、いつの間にか扉は固く閉ざされている。
いつの間に……っとエナは警戒を怠っていた自分を恨んだ。
自室に1歩、足を踏み入れただけだった。
その一瞬であっという間に組み敷かれたのだ。
「夜這いにしては随分と乱暴ですわね。そう言うのがお好きなのかしら?」
苦痛のため僅かに顔を歪ませながらもそうエナが毒づくと、彼女を押さえつける腕の力が一層強くなった。
そうして、見せしめかのように強くひねり上げられた右腕が嫌な音を立てた。
恐らく折れたのだろう。
その激しい痛みにエナはより一層顔を歪め、呻いた。
「俺を煽っても無駄だよ。さっさと姫さんの居所を吐いた方が身のためだと思うけど?」
キーツはいつもと変わらぬ軽い調子で「あ、これ忠告ね?」と言葉をつづける。
そんなエナとキーツのやり取りをも何の表情も浮かべずにただただ、その灰色の瞳はエナを見下ろしていた。
「さぁ?何のことだか……」
全てを言い終わらぬうちに、肩に強い衝撃を受け、エナは息をつまらせた。
右肩が酷く痛み、肩を覆っていたはずの服が少しばかり破れている。
「あっぶねぇ……。陛下、俺に当たったらどうするんですか」
「この程度の攻撃を読めぬ様な無能なら一緒に蹴られてしまえばいいだけです」
呑気な口調のキーツの抗議を、ルーデンスは酷薄とした笑みを浮かべながら答えた。
そこで初めて、エナは自分の右肩がルーデンスの足によって蹴り上げられたのだと知る。
綺麗な顔と優雅な物腰、薄い笑みを張り付けた無表情さとはかけ離れた行動には不気味さすら感じさせた。
それでもエナは気丈にも顔を少し上げ、ルーデンスに訴えかけるように言う。
「……か弱い女の身に酷いなさり様ですわ」
エナのその言葉に何故か背後の男がくつくつと声を殺して笑った。
幾分不愉快に感じながらも、エナは更に言い募ろうとして、今度は左肩に強い衝撃が走る。
確認するまでもない。
今度は左肩を蹴り上げられたのだ。
気の遠くなりそうな痛みに耐えながらも、この状況を打開する方法を模索する。
このままでは確実に殺されてしまう。
そうエナに思わせるだけの気迫がルーデンスにはあった。
「仕方が無かったのですわ。お父様の命には従わなければなりませんし、私には抗えるような力もありません。誓って私はナナエ様には一切危害を加えてはおりませんわ。ただここへ連れてきただけ。それだけです」
許しを乞うようにエナが言うと、ルーデンスは1歩エナに近づき片膝を落とした。
そうして見たこともないような華やかな笑顔を浮かべ、その顔を少しエナに近づける。
「なるほど。確かに貴族の子女ともなれば一家の長の言葉には逆らえませんしね。それは大変失礼をいたしました。か弱い、何の力をもお持ちでない女性にすることではありませんでしたね」
そう言ってルーデンスは先程己で蹴り上げたエナの右肩を優しく撫でた。
その指先の冷たさに戸惑いを覚えつつも、この状況から脱することが出来そうな気配にエナは少しだけ安堵する。
ルーデンスが軽く手を振ると、それを合図にしたかのようにエナの拘束が解かれた。
右腕は折れ、両肩に強い蹴りを受け、力が入らずにいるエナをキーツが手を添えて立たせる。
チラリとキーツを見やれば、何故か彼は珍しく浮かない表情で斜め下の床に視線を落としていた。
「私も少々興奮しすぎたようです。少し落ち着きましょうか」
テーブルに置かれていたワインをグラスに注ぐと、ルーデンスはそれを一気に飲み干す。
そうして再びワインを並々と注ぐと、そのグラスをエナに差し出した。
「あなたも、どうぞ?生憎グラスは一つしかありませんからもうしわけ無いですが」
そのグラスを受け取ろうとして手を伸ばした瞬間、腕に強い痛みが走った。
利き腕を折られているのにうっかりとその手を伸ばしてしまったのだ。
余りの痛みに少し呻いて、エナは手を引き戻した。
「ああ、すみません。大分痛むようですね……飲ませて差し上げましょうか」
「……え?」
そう言うが早いか、ルーデンスは再びグラスを煽るとグラスを捨てた。
そのままエナに数歩歩み寄り、エナの髪を鷲掴みにするようにして上を向かせ、口づけたのだ。
それを逃れるように身をよじろうとすると、顎にはもう片方の手が置かれ、押しやろうとした腕は再びキーツによって拘束された。
無理やり流し込まれたワインを吐き出そうともがけばもがくほど、拘束は強まり、掴まれた髪と顎はビクともしない。
そうして後ろへと強く引かれた髪に、顎を強く上へ突き出すような姿勢の苦しさ、そして腕の激しい痛みに耐えきれず、エナはそのワインを嚥下した。
その様子を確認すると、ルーデンスは酷く冷めた表情で彼女を見ながら体を離す。
そしてポケットから取り出した絹のハンカチで乱暴に口を拭うと、それを忌々しげに投げ捨てた。
「何を……飲ませたの……」
嚥下したワインの中に異物があったのをエナは気付いていた。
心なしか青ざめた表情で呟くように尋ねるエナを、ルーデンスは一瞥する。
「滋養の付く薬です。危害、など加えていませんよ」
危害という部分をやけに強調したその言葉に、エナは目を見開き、キーツの拘束を解こうと狂った様に身をよじった。
その危害という言葉が指す意味は明白だ。
エナがナナエにしたこと、そのままの意味。
滋養の付く薬だと、エナ自身がそう言ってナナエに飲ませたのだ。
あの忌まわしい種を。
「いけ好かないあの執事のように大人しく脅迫されるとでも思っていましたか?ナナエを盾にするのならお前たちはエーゼルをも敵にすると気付くべきだったのです。いえ、むしろ……」
そこまで言ってルーデンスは苦い表情をして口を閉ざした。
ナナエを害するということは、世界に牙をむくのと同じこと。
自分自身に唾を吐くのと同じことだと。
そう言ってしまえれば良かった。
何があっても生かさなければいけない存在なのだ、彼女は。
彼女自身がそうと望まなくとも、だ。
そのようなことを軽々しく口にできないこともルーデンスにはわかっていた。
「私が来るのはわかりきっていたことでしょう?キーツがここへたどり着いた時点で、お前たちはここを引き払うべきだった」
幼子にでも諭す様に淡々とルーデンスは言う。
だが、そうは言いつつも彼らがルーデンスが来るわけがないと踏んでいたのはわかっていた。
何しろエーゼルは今、権威主義との内紛でたかが小娘一人にかまけている様な状況ではなかったからだ。
彼らの誤算は、ナナエに手を出してしまったこと。
そして、今のエーゼルにはニケという有能な男がいたこと。
それに尽きる。
しかし、そんなルーデンスの言葉はエナの耳には入っていないようだった。
エナは半狂乱で何とか飲み込んだものを吐き出そうと身をよじったりせき込んだりと暴れている。
――それほど恐ろしく感じているモノを、平然とした顔でナナエに飲ませたのだ。この女は。
そう思うとルーデンスはこの女を今すぐこの場で斬り殺してしまいたい気持ちに駆られた。
それでも、冷静になる様に自分に言い聞かせ、キーツに指示をしてエナを身動きが取れないよう縛り、猿轡を噛ませて床に転がす。
するとエナは絶望したように涙を流しながら力なく床を見つめていた。
「だから俺、言ったじゃん。素直に言った方が身のためだって」
バツが悪そうにエナの側にしゃがみ込み、キーツがボソッと言った。
キーツはルーデンスがやろうとしていることを知っていた。
だからこそ必要以上にエナを痛めつけ、それにエナが屈してくれるのを期待した。
エナの腕を折ったのは彼なりの優しさだったのだ。
腕一本と命。
秤にかけるのならどちらを選ぶのかは目に見えている。
見知った仲であるが故の情けであった。
キーツはため息を一つ吐くと立ち上がり、部屋の窓を開けた。
すぐさまするりと小さい影が飛び込んでくる。
「ルーデンス様、それで?ナナエ様はどこなんです?」
入ってくるなり矢継ぎ早に質問を飛ばす少女の肩を、キーツは落ち着かせるようにポンポンと叩いた。
そんな少女の様子にルーデンスも少しだけ表情を緩め苦笑する。
「マリー、落ち着いてください。彼女が吐かないことは予測済みの事でしょう」
そうルーデンスが窘めると、マリーはガッカリとしたように耳を下げる。
その余りの可愛らしさにキーツは少しばかり口元が緩むのを感じた。
「キーツ」
そんなキーツを知ってか知らずか、再び真剣な表情でルーデンスはキーツを呼んだ。
キーツも表情を硬いものにするとルーデンスの前へと歩み寄り、膝を折る。
何かを命じられることはほぼ分かっていた。
そう言う約束になっているのだ。
ルーデンスがこの館に訪れ、キーツに伝えたこと。
それはキーツを激しく動揺させた。
そんな中、彼は言ったのだ。
――お前が望むのならば、ソミナ公爵の首をやろう。ただし、今後私の命に逆らうことは許さない。
その言葉だけで十分だった。
ウィリナを苦しめたあの男に復讐できるのなら。
ナナエを襲ったこと、ルーデンスの配下となったにも拘らずナナエではなくウィリナを助けたこと。
本来なら、王族への反逆の罪ともとられかねない彼を、ルーデンスは不問にした。
キーツを捕縛するのでも殺すのでもなく、あまつさえ貴族への復讐の機会を与えてやろうというのだ。
ルーデンスの命に逆らおうなどと、今のキーツには到底考えられなかった。
「バドゥーシとその娘を殺しなさい。確実に」
「……」
その命令の内容にいささか驚きながらも、キーツは頷いた。
てっきりイェリア家の者を殺せと命じられるかと思っていたからだ。
「あの父娘がいる限りナナエの安寧は得られない。……オラグーンの王子に恩を売っておくのもいいでしょう」
「おぉ~流石ルーデンス様、男前です!」
感心したようにマリーが無邪気にパチパチと手を叩く。
ナナエを取り戻すために自分も働くのだと思っていた分、キーツは少しだけ拍子抜けした。
「ナナエの事は気にする必要はありません。私がいます」
「承知、致しました」
「手早く終わらせて戻ってくるといいでしょう。きっとそのころにはすべて終わっています」
その言葉にキーツは再び頷き、開け放たれたままだった窓から外へと軽やかに飛ぶ。
そうして、そのまま足音もさせずに地面に飛び降りると、そのまま夜の闇へと姿をくらましたのだ。
「流石猫、っと言ったところですね」
何の感慨もなさそうに窓の外を見やりながらポツリとルーデンスは言う。
それでも、それなりに彼がキーツを信頼していることはマリーにも十分見て取れた。
「いいんですか?国王陛下ともあろう者が供を一人も連れないなんて不用心じゃありません?」
そんな彼に数歩歩み寄りながらも、マリーは顎に人差し指を当て、芝居がかった調子で聞いた。
「もし、私がこの場でルーデンス様を襲ったら?私はあくまでオラグーンの人間ですもの」
ちょっと首を傾げ可愛らしく笑いながら言ってみると、ルーデンスは一瞬だけポカンとした顔をし、そして直ぐに面白そうに、そして、困ったように笑った。
「いや、まぁ……試してみるのも構わないですが、ね。マリー、君は一度私を襲った事があったと、記憶していますが」
エーゼルの王城でワインを滴らせたルーデンスを着替えを手伝うメイドに紛れて襲ったのは、マリーにとっても記憶に新しいと言えなくもない。
その時に、ルーデンス自身の手により、あっという間に捕まったなんてこともあったかもしれないと思い返す。
「正直、今私を倒せる人間がいるとは思えませんね」
サラリとそう言ってのけるルーデンスに、マリーは少しだけ頬を膨らませて抗議した。
「兄さんがいますもん!兄さんは誰よりも強いし、負けたのなんて見たことないです」
そう言うとルーデンスは嫌なものでも思い出したように眉をひそめながら少しだけ口の端を上げて笑った。
「……まぁ少しは面白い戦いができるかもしれませんね。あの犬なら。ですが、私が勝ちますよ」
まるでそれが最初から決まっていた決定事項であるかのように言うルーデンスに、マリーはますます頬を膨らませた。
マリーもルーデンスが並はずれて強いということは身をもって知っていた。
細身の王家の優男と侮っていたせいもあるが、マリーがほんのかすり傷さえ負わせずに負けたのはトゥーゼリア以外では初めてだったのだ。
それほどルーデンスの力は圧倒していた。
だが、トゥーゼリアの強さは桁違いなのだ。
負けることなど天地がひっくり返っても考えられない。
そう考えながらマリーが憮然とした面持ちでいると、不意に何かを思い出したようにルーデンスの目が少しだけ柔らかく細められた。
「私を殺せるものがいるとすれば。それは恐らく、神かナナエだけでしょう。まぁ、お前もそう言いそうですが」
そう言って相変わらず開け放たれたままの窓へとルーデンスが視線を投げる。
すると、音もなく黒い影が現れたのだ。
「兄さん!」
その影の正体を見るなり、マリーの顔がパッと明るくなった。
その白い手袋に幾ばくかの赤い染みを纏わせたトゥーゼリアはチラリとエナを見た後、厳しい表情でルーデンスを睨んだ。
「どういうことですか。こんな事をすればナナエ様が……」
「いっそ憐れに思えてくるほど頭が固いですね。お前は」
トゥーゼリアの抗議の言葉を遮る様にルーデンスが言い放つ。
するとその言葉に苛立ちを覚えたのか、トゥーゼリアの眉がピクリと動いた。
その様子を満足気に見ながら、ルーデンスはソファーに静かに腰を下ろし、足を組んだ。
「今、ナナエの身柄が部屋に無いことはもうわかっている筈です」
「それがなんだというのです」
「ナナエをお前たちの目の前から隠さねばならない理由など少し頭を巡らせれば容易い筈ですが?」
「それは私が何時までも決断できないからの見せしめで……」
「違います。ナナエが死んだからです」
「なっ……!」
まるで事務報告でもするかように淡々と告げられた内容に、声を上げて息を飲んだのはマリーだった。
トゥーゼリア自身はそのことを薄々感じていた筈だ。
だからこそ青ざめた顔をしながらも否定を出来ずにいる。
「トゥーゼリアに対する脅しにするなら、弱っていく様を見せるのが一番効果が高い。お前の決断が遅いからこうなるんだと責め立ててやればいい。……そう、それはナナエが生きていないと成立しない脅しです」
「ですが……」
「そのナナエをお前の目の前から連れ去った。それが指し示すのことはたった一つ。目の前に置いておいては人質の意味をなさなくなってしまったからに他ならない」
ルーデンスが両の手を組み膝へ置き、その灰色の瞳を軽く伏せると、マリーは力を失った様にその場へとへたり込んだ。
トゥーゼリアはといえば、否定したくてもしきれない現実を目の前に突き付けられた様に、こぶしを強く握りしめているだけだ。
「時に、トゥーゼリア。お前の身体にアイビーの葉の痣はありませんか?」
その言葉にトゥーゼリアは僅かに眉根を寄せ右手で軽く左の鎖骨の下あたりを服の上から押さえた。
はっきりといつできたのかは定かではない。
最初はただどこかにぶつけたのだろうと思っていた。
うっすらと出来ていた痣はだんだんと黒みを帯び、いつの間にかその形がはっきりとアイビーの葉の形をとっていた。
しかし、常に襟を詰めた服装をしていたトゥーゼリアのこの痣の事を知っているものが居たことは不可解この上ない。
そんな困惑した雰囲気のトゥーゼリアをルーデンスは面白くなさそうに見た。
「そこに、あるのですね。……では、それは今もそこにありますか?」
不愉快そうに。それでも、期待するかのようにルーデンスはトゥーゼリアに問う。
やるべきことが沢山あったトゥーゼリアはここ最近はそんな痣のことなどすっかり忘れていた。
襟元のタイをスルッと外すと、シャツのボタンを2つほど外し、左手でぐっとその胸元を露わにする。
すると、そこには確かにその痣が存在していた。
ただ、酷く薄くなっている。
アイビーの葉の輪郭が少しぼやけてしまってもいた。
その痣を確認するとルーデンスはおもむろに己の服の裾を捲り上げた。
腹筋の浮かぶその右腹にはトゥーゼリアと全く同じ痣が浮かんでいる。
トゥーゼリアと同じようにその痣もまた薄く、輪郭がぼやけていた。
それをまるで愛おしむ様にルーデンスは一撫ですると、ニヤリと笑って見せたのだ。
ルーデンスはそのまま直ぐに服の裾を下し、乱れを整えると、すっと立ち上がった。
そうして、楽しげに手首を擦って見せた。
「では、ナナエを助けに行きましょうか」
その言葉に、今度はマリーが唖然とする番だった。




