<40> 油断
運が良かった、と言うべきなのだろうか。
ファルカ家次期当主のトゥーゼリア、エナの弟君であるシャル様、そして得体の知れないあのワーキャットの男。その3人共がこの娘の側に居ないというのは滅多にあることではなかった。
もし、その内の誰か一人でも傍を離れずにいたならば、イェリア家の計画が水泡に帰していただろう。
コルレは珍しく幾分青ざめた顔でナナエの体をさっと毛布で包むと、すぐさま抱き上げた。
このまま連れ去ってしまえば問題はない。あとは如何様にでもやりようはある。
異変を悟られぬよう、普段と変わらぬ足取りになるようにと気を付けつつ、そのまま部屋を出た。
祈るような気持ちで、ともすれば聞こえてしまいそうなほどに早鐘を打っている心臓を”落ち着け!”と叱咤しながら廊下を移動する。
この腕の中にある娘を慕う者どもにかち合わぬよう、祈るような気持ちで歩みを進めた。
ふと、少し先の階下で、あのワーキャットとシャル様の話声が聞こえた気がした。
ぐずぐずしてはいられない。
気付かれる前に運び出さねばならない。
走り出したくなる気持ちを抑え込み、コルレはすぐ近くの己の居室に音を立てぬよう静かに身を滑り込ませた。
この部屋から1階への抜け道があるのだ。あの2人には決して気付かれぬよう、事を運ばねばならない。
エナのためには上手くやる必要があった。
まず部屋に入って最初にすることは、香を焚くこと。
娘の体を床にそっと横たえ、備蓄してある香木の枝を取り出したのち小皿の上に数本置き、そこへ火をつけたマッチを落とす。
枝の端に着火したのを確認後マッチの火をフッと吹き消した。
そして次は、音を立てぬようにベッドの下にある窪みに手を伸ばす。
手探りで冷たい感触を捜し、棒状のものを30度右へひねった。
すると、丁度で窓の下の部分の壁が静かに横へ開き、ぽっかりと黒い口を開ける。
それを確認し、コルレは今度は娘の体を肩に担ぎあげると、その口の中に身を投じた。
足元への軽い衝撃とわずかな肩の重みを気にしつつ、暗闇の中再び手探りで冷たい感触を捜し、ひねる。
それだけで、頭上にあった出窓下の壁が音もなく元に戻った。
担ぎ上げていた娘の体を再び抱きかかえなおすと、暗闇に覆われた隠し通路の中を、コルレはソロソロと気を付けながら進む。
細心の注意を払わねばならない。
こめかみに汗がジワリと伝う。
――失敗は許されない。
コルレが失敗すれば、あの男、トゥーゼリアは躊躇なくエナを殺すだろう。
そんなこと、させてなるものか。
「何か、おかしくねぇか?」
あと数メートルでナナエの部屋に到着しようかというところで、シャルを制すようにキーツはそう言った。
その表情はいつもの気安いものではなく、幾分強張り、目つきも鋭い。
キーツの言葉に促されるようにして、シャルも周りを警戒して気配を探った。
だが、シャルには不審者らしきものの気配は感じられない。
怪訝な顔で見やれば、キーツもまた訝しげに眉間にしわを寄せた後、眼を細めて、まるで左右を確認するかのように顔をゆっくりと振った。
「特に、おかしい所は感じないですけど?」
「いや、おかしい」
疑問を投げかけたシャルに、キーツは今度はそうはっきりと断言した。
顎に手を当て、今来た方向を振り返り、睨むようにして見つめている。
「何がおかしいか、はっきりと言えばいいじゃないですか。面倒くさい」
「……微かにだけど、姫さんの匂いがするんだよ」
「は?」
ナナエの居る館で、ナナエの居る部屋の間近で、何を突然言い出すのか、とシャルはより一層怪訝な顔でキーツを見上げた。
だが、キーツの方は至って真面目で、その表情は冴えない。
「当たり前のことでしょう?」
シャルがそう言うと、今度はキーツの方が”何言ってんだ、コイツ”と、言った表情になった。
その表情にシャルもカチンときて不機嫌も露わにキーツに向き直る。
「何か?」
「……だから、姫さんの匂いがするんだよ」
「いつもするでしょう?」
「ああっ、もう。これだから犬は嫌なんだよ」
そう言うと、キーツはイラついた様に頭をガシガシと掻き毟った。
「俺は犬ほど嗅覚すぐれちゃいねーからな。今の状態の姫さんの匂いは部屋に入らなきゃわかんねぇ」
「まぁ、確かに猫は色々と劣っていますしね」
サラリと嫌味で返すシャルを軽く睨みながら、キーツは続けて口を開いた。
「つまり、だ。その”俺”が”この廊下”で、”姫さんの匂い”を感知できる。そして、あの根暗猫は外出中というのは姫さんも俺たちも知っている。おまけに、だ。姫さんには出歩くほどの体力はないし、俺たちも席を外していた。……俺が言っていること、わかるか?」
捲し立てるように一気にそう言うと、シャルは一気に表情をなくしたようにゴクリと息を飲み、目をわずかに見開いた。
それも一瞬の事で、鼻を2,3度ひくつかせたかと思うと腹立ちまぎれに近くの壁を後ろ手に強く打ち付ける。
「……舐めたマネ、するじゃないか」
ボソリと呟いたシャルの言葉に同意するように、キーツの表情も険しくなる。
ナナエの部屋に行ったところで、恐らくナナエは居ないであろうことは予測するのに十分であった。
シャルはワーキャットよりも匂いに敏感なワードッグだからこそ”匂い”がすることに安心しきっていたのだ。
その匂いの強弱が問題である事が念頭から外れていた。
かと言って、今更匂いの強弱など問題にしている場合でもない。
既にナナエが連れ去られていることは明白なのだから。
取り戻すしかないのだ。
悔しさではらわたが煮えくり返る思いだった。
(また、だ。またトゥーゼリア様の居ない時にナナエ様をお守りすることが出来なかった)
微かなナナエの匂いはコルレの部屋へと続いている。このまま匂いの元であるコルレの部屋へ赴き、問いただすのは簡単だ。
だが、コルレもあっさりと居場所を吐くわけがない。
その上、ナナエの匂いはコルレの部屋でかき消されたようになっていた。
正確には、別の強い匂いによって上書きされているのだ。
コルレの部屋から漂ってくる香木の香り。
この匂いに紛れたナナエの匂いを嗅ぎ分けるのは難しい。
元気であった頃ならまだしも、今のナナエの匂いならことさら難しいのだ。
おそらく不可能に近いだろう。
ナナエの命を人質に取っているのだから。カズルの行動は把握済みだから。とコルレをノーマークにしてきた付けが回ったのだ。
母親の言いつけもある以上、エナとカズルがナナエに手を出すことはないと、たかをくくっていたのだ。
ナナエが部屋に大人しくいる限り、トゥーゼリアが父親の威に逆らわない限り、今の状態が変わらないと思い込んでいたのだ。
地団駄を踏みたくなるような気持ちをこらえながら、シャルは親指の爪を強く噛んだ。
トゥーゼリアの信頼にも、ナナエの信頼にも応えきれない無能の自分に腹が立ってしょうがなかった。
大分間が空いてしまっていますが、40話UPです。
不定期ですが更新はします。
誤字脱字や、設定忘れ等情けないミスはこっそり指摘してくだされば嬉しいです。




