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<38> 恋情と誓い

「気持ち、悪い……」


ナナエは少し体を丸めるようにしてうつ伏せ気味に横たわり、手でムカムカする胃の上を軽く押さえた。

先程からこうして、何度もナナエは弱音を吐く。

苦しさで涙腺は緩み、その辛さの原因が自分の浅慮さから来ていると自覚させられて黙る。

その背中を、トゥーヤが黙って優しく擦る。

先程までに怒りを露わにしていたのが、嘘のような無表情さだ。


ここ何日かナナエは、起きている時間を殆ど使って魔種除去薬の作成に勤しんでいた。

通常なら人体実験はモラル的にどーのだの、安全確認できていない投薬は危険だなどと問題が山積だっただろうが、とにかく時間が無い。

モラルも何も、自分自身を使うのだから問題は無いはずだ、とナナエは割り切った。

除去剤を作れなければ死ぬ。それだけだ。


とは言っても、ナナエもあまり危険なものには手を出せずに居た。


だからトゥーヤも黙認して居た。

それでナナエの気が済むなら、と。


魔種の現物を少し削って使ってみたりとか、とりあえず効きそうな物をナナエはあらかた試してみた。

少し強い作用の薬とかも。

それでも全く効果はなかった。


ナナエは焦っていたのだ。


ナナエの鎖骨のすぐ下、ちょうど胸元の辺りが、こぶし大に少しだけ皮膚が盛り上がっている。

シャルから聞いていた魔種の進行の最終段階に近づいているのは紛れも無い事実のように思えた。


間に合わない。このままでは死ぬ。


それをトゥーヤに知らせるわけにもいかなかった。

馬鹿なこと、それはナナエにも分かっていたのだ。

それでも、可能性が捨て切れなかった。

あの時、キーツは冗談として受け取っただろう。

除草剤を飲むなんて自殺するようなものだからだ。


でも、ナナエにしてみれば。

可能性のあるものを馬鹿なこととして切り捨てるわけにはいかなかった。

もちろん、元居た世界のものならば試してみようとは思わなかっただろう。


だがここは異世界だ。


除草剤も何もかも、全て草や木の根といった自然物から出来ている。

その成分をきちんと把握し、毒となるものの解毒剤も作ってから試したのだ。


その結果。


幾つ目かの試薬でナナエは派手に意識を失った。

飲んだのはそれよりもだいぶ前であった筈なのに、食事の最中に突然意識を失ったのだ。

その派手な音で慌ててキーツとトゥーヤが寝室に入れば、床には食事や食器が散乱していて、ナナエ自身は上半身が寝台からずり落ちた様な形で意識を失っていた。


すぐに意識は取り戻したものの、体は冷たく、指先の震えが止まらない。

そして激しい嘔吐感と頭痛に苛まれ身動きが取れないで居る。

あらかじめ用意してあった解毒剤をすぐに飲みはしたものの、吐き気は一向に治まる気配は無かった。

ただただ、吐き気の波が治まるのを耐え忍ぶしかないのだ。


ナナエが飲んだものを聞いた時、トゥーヤは珍しく怒りを露わにした。

黙ったまま部屋に置いてある調剤器具を薙ぎ払うようにして叩き落し、全てを壊してしまったのだ。

あまつさえ、ナナエが大事にしている薬学の本まで破り捨てようとした。

危うい所でキーツが取り戻さなければ、その本も器具と同じ運命をたどっていただろう。


本を取り戻したキーツと、彼のその行動に更に腹を立てたトゥーヤとが幾ばくか睨みあった後、シャルの嗜めでようやくトゥーヤはいつものように戻った。

シャルの嗜めで、というのは語弊があるかもしれない。

正確には”指摘”だ。


”それは今、苦しんでいるナナエ様を放ってまでする事ですか?”と。


その言葉にハッとした様にトゥーヤは表情をなくした。

割れた調剤器具などを手早く片付け、寝室を整えるとシャルに2、3指示を与え、キーツを追い払うように自室での待機を言い渡した。

その命令にキーツは不快感を露わにしたが、キーツ自身もナナエの前で揉める事を避けたかったのか、シャルに促されるようにして一緒に部屋を出て行く。

それからトゥーヤは寝台横の椅子に静かに座った。

表情はいつもと変わらず無いものの、その顔色は微かに青ざめているようにも見える。

それでも時折、ナナエが漏らす泣き言を黙って聞き入れながら、水を飲ませたり、背を擦ったりと黙々とこなした。


「……怒ってる?」


そう、背後のトゥーヤを気にしながら言ったナナエの顔面は蒼白で、唇は紫がかっている。

体温が下がっているのだろうと、トゥーヤは毛布を肩口まで引き上げた。

黙ったままで居るトゥーヤを不安に思ったのか、ナナエは体をひねり、トゥーヤのほうに向き直るようにして寝返りをした。

そうして再び口を開く。


「トゥーヤ、怒ってる?」

「……呆れています」


何か返事をしなければ納得しそうもないナナエに、トゥーヤは諦めたように返事を返した。


怒っていないかと言えば嘘になっただろう。

しかし、それはナナエに対してではないのだ。

そうさせてしまったトゥーヤ自身に、なのだ。


セレンと面と向かって対立の立場を表すのに躊躇して先延ばしにしてきた。

エナとの婚姻に乗り気になれず先延ばしにしてきた。

その間、ナナエは死の恐怖におびえていたというのを頭の隅に追いやってしまいそうになっていた。

ナナエを助けたいと思う一方で、自分の意思に反して成さねばならぬことに尻込みをしたのだ。

自分勝手な愚かなトゥーヤ自身が腹立たしくてならなかった。


トゥーヤが尻込みをしていたせいで、ナナエが無茶をした。


ナナエの性格を考えれば予想がついた筈だ。

死の恐怖におびえながらも、トゥーヤに条件を飲むなと言った。

すぐに意固地になるナナエの事だ。

条件を飲むなと言った手前、自分で何とかしようと焦っていたはずだ。

ぐずぐずしていたトゥーヤがナナエに無茶をさせたのだ。


「もう、無茶はしないでください」


静かに言ったトゥーヤに対して、相変わらず青ざめた顔のままで、ナナエは小さく首を振った。

ナナエの唇は固く引き結ばれ、その瞳には迷いがない。


「帰るときはみんな一緒じゃないと嫌なの」


その言葉は、トゥーヤの本心でもある。

ずっとナナエと共にあること。

トゥーヤは誰よりもそう願って止まなかったはずだ。


だが、もう遅いのだ。

どちらに転んでも共にあることは叶わない。


ナナエの強い意志を感じさせる表情に、ほんの少しの怯えを誤魔化し切れないように涙が一筋伝った。

トゥーヤはそれを軽く親指で拭う。


「あんな条件、飲まないで」

「……できません」


ナナエの言葉にトゥーヤは戸惑った様に一瞬息を飲み、それでもゆっくりと左右に首を振った。

その言葉にナナエは眉間に深くしわを寄せ、瞼をきつく閉じる。


「本当に嫌なの」


今にも泣き出してしまいそうな、ぐらついた気持ちを誤魔化すように、ナナエは毛布の裾を引き寄せ、ギュッと握りながらそう言った。



死ぬのが怖い。死にたくない。

トゥーヤと一緒にいたい。

みんなと一緒に楽しく過ごしたい。


――その願いはそんなに贅沢なことだろうか?


「トゥーヤが嫌なことをする必要なんて無い」


自分を見捨てて良いと言えれば、どんなに楽だっただろう。

それでも死ぬのが恐かった。

自分の為に犠牲になってくれと言える様ならば、どんなに楽だっただろう。

それでもトゥーヤが離れていくのが恐かった。

だから、どちらも選ばないし、どちらも選べない。


「……私は」


顔を歪めて目を固く閉じ黙り込むナナエに、トゥーヤがその重い口を開いた。

それを、ナナエは瞼を閉じたまま耳を傾ける。


「嫌ではありません」


そのトゥーヤの一言に、ナナエはビクリと肩を震わせた。

セレンを殺すのも、エナと婚姻を結ぶのも、なんでもない事だと続けて言い放ったのだ。


「嘘」

「嘘ではありません」


睨むようにしてナナエがトゥーヤを見ても、トゥーヤは眉一つ動かさずに淡々と答える。

本心ではない。

それは言ったトゥーヤ自身が良く知っている。

だが、それが最良なのだ。


「嘘でしょ?私、わかるから」


ナナエは毛布に添えられていたトゥーヤの左手の袖を引くようにして握り締める。

その手を軽く上から包むようにしてトゥーヤの右手が重ねられた。


「ナナエ様以外、必要ありませんので」


あの日、ナテルに向ってトゥーヤが言い放った言葉をナナエは再び聞いた。

その言葉こそがトゥーヤの本心なのだ。


「それは、私の気持ちなんかいらないってことでしょう」


責めるように刺々しい口調が思わずナナエのクチから零れた。

それでもトゥーヤは少しも表情を変えず、ただ静かな瞳でナナエを見つめ返す。


「私は物じゃないのに」


悔しそうに眉を歪めながら、ナナエがポツリと言った。

その言葉で、思った以上にナナエを深く傷つけていることに気づいて、トゥーヤの瞳がかすかに揺らいだ。


「ナナエ様を物だと思ったことはありません」

「嘘」

「嘘ではありません」

「だって、私の気持ちなんていらないって言ったじゃない」

「ナナエ様の無事が最優先なだけです。場合によって考慮しないと言うだけです。ナナエ様の感情も、私の感情も、そして私の……」


そこまで言いかけて、トゥーヤはハッとしたように口を噤んだ。


――そうだ。必要ないのだ。ナナエ様の気持ちも、トゥーヤの気持ちも、未来も、命も。


それを言ってどうしようというのだろう。

ナナエを余計に苦しませるだけではないのか。


両手でナナエの手を包み込み、そっと額に当てる。

急に口を噤んだトゥーヤを訝しがる様に、ナナエはその静かな瞳を覗き込んだ。


「ナナエ様以外、必要ありません」


吐き出すように、そう再び言った。

真意を問うようなナナエの瞳から逃げるように瞼を閉じる。


――今なら、許されるだろうか。


ナナエと主従関係が無い今、それならば言ってもいいのだろうか。

どうせ叶わぬもの。

言ってしまえば、きっと踏ん切りがつく。


「……ナナエ様を、お慕いしています」


トゥーヤの良すぎる耳は、ナナエの息の飲む音をはっきりと捉えた。

その音がトゥーヤに後悔の念を否応も無く沸き起こさせる。

言えば困らせるのをトゥーヤは分かっていた。

それでも。

トゥーヤはその気持ちを伝えておきたかったのだ。

自分という存在が無くなる前に。

忘れないで欲しいからだ。

女々しいと思われてても構わない。

ナナエの行くその未来の先に続く道を、振り返ればかすかに痕跡の残る存在があったと記憶に留めて欲しいのだ。


その沈黙に堪えかねて薄く瞼を開ければ、想像通りの困ったようなナナエの顔があった。

相変わらず顔色は悪く蒼白で、苦しそうだ。

そんな時に、つけこむように言う自分の卑劣さに、トゥーヤは反吐が出るような苦々しさを感じた。


「……私、トゥーヤの気持ち、応えられないと思う。トゥーヤが悪いんじゃなくて。ただ、私がそう言うの信じきることが出来ないから」


言葉を慎重に選びながら、ナナエは困った様に笑った。

それにつられたように、トゥーヤも僅かに口元を緩める。


「知っています。ずっとお傍に居ましたから」


そう言うとナナエは少しだけ悲しそうにシーツに視線を落とした。

人の気持ちを信じきることが出来ないことに、一番傷ついているのはナナエだ。

それもトゥーヤは良く知っていた。


「私の浅ましい恋慕の情など無視なさってくださって良いのです」

「……良くないよ」

「主従関係があろうがなかろうが、私はナナエ様に忠誠を誓います。ファルカ家の忠誠は絶対なのです。ナナエ様の心がどこにあろうと、私の身がどこにあろうと、一生その誓いは破られません」

「…………」

「それだけは信じてください。それが私のファルカ家としての誇りなのですから」


トゥーヤが右手で軽くナナエの髪を撫でると、ナナエは軽く目を閉じた。

なんと言っていいのかわからないのだろう。


「安心してください。何があろうと、ナナエ様を守ります」


その言葉にまるで返事をするかように、トゥーヤの左手が微かにキュッと握られた。





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