<36> 理不尽なモノ
あれから、ナナエの部屋で紹介を受けた後、”ナナエの侍従として屋敷に住まわせる事を提案する”と言う名目でキーツはトゥーヤに連れ出された。
その強引な態度に不可解な感情を覚えながらも、キーツは大人しく従ったのだ。
そして、部屋から出てナナエの部屋からある程度離れたところで、トゥーヤは足を止め、くるりと振り返った。
そうして突然、キーツの顔を手の甲で打ったのだ。
避ける暇など与えられもしなかった。
殺気も何もなく、その突然の動きがキーツには読めなかったし、躱せなかったのだ。
キーツが顔を打たれてバランスを崩したのを見透かしたように、鳩尾に膝が入り、反動で身を丸めた首の後ろににきつく組んだ両手が振り下ろされ、叩きつけられるようにして地べたを這った。
その一連の動作を、キーツはまるでお手本のように綺麗に受けたのだ。
キーツの体が反応するよりも早く、容赦なく全て叩き込まれたが為に。
そうして、トゥーヤは何も言わず、無表情のまま、その冷たい目でキーツを見下ろした。
「なに、するんだよ。トゥーヤ」
思い切り睨みながらキーツは体を起こそうと、床についた手に力を込める。
しかし、その手の甲をトゥーヤの靴底が強く踏みつけた。
「あなたに、その名前で呼ぶことを許可した覚えはありません」
手の甲をグリッと踏みつけ、そのままつま先でキーツの肩を蹴り上げる。
キーツはされるがままに呻いて、仰向けに転がった。
それをやはり冷たい瞳が見下ろしている。
「……ナナエ様が許そうと、私は許しません」
何の事を指しているのかは明白だ。
あの夜会の日のことをトゥーヤは言っているのだ。
そして、その後のことも。
シャルだけでなく、トゥーヤからしても、今、ここにこうして過ごさなければならなかった理由が、その原因が、目の前にあると思っているからだ。
「あなたがナナエ様の側に居るだけで虫唾が走る」
全く感情が篭っていないような声の調子で、淡々とそう告げる。
しかし、その言葉には嫌悪の感情が込められていることは明白だ。
「……そんなご大層な事言える立場かよ。同じ穴の狢だろ。人の手駒になって反吐が出るようなことをするのはさ」
キーツは再び攻撃を加えられないように警戒しながら体を起こした。
トゥーヤはキーツのその言葉に、はっきりとわかるほど眉をピクリと動かし、一層冷たい目でキーツを見据える。
そうして嵌めなおしでもするかのようにグッと手袋の端を引き、拳を握り締めるような感じで指を動かす。
「私が私の主の元に居るのは当然です」
「……あんたはもう姫さんの従者じゃないだろ」
そう言ったとたんに、再びキーツの顔をトゥーヤが打った。
だが、キーツは今度は打たれてもバランスを崩すことなく、すぐに後ろに飛びのく。
「なにキレてんだよ」
「性質の悪い害虫を駆除しようとしただけです」
その表情や声は既に感情の篭らないものに戻ってはいたが、その瞳の奥には怒りの炎が灯ったような、そんな雰囲気を感じ、キーツの背中を冷たいものが伝った。
ナナエが自分の体の状態について気づいていることを告げられても、トゥーヤは眉をピクリとも動かさなかった。
トゥーヤの行動を止めるナナエの言葉にも決して首を縦に振らず、自分の考えを曲げなかった。
結局ナナエを怒らせて、それを宥め賺そうとするキーツを、無理やり引きずるようにして一緒に退出したのだ。
挙句にこれだ。
煽ったキーツもキーツだが、トゥーヤは明らかにキーツに理不尽な怒りをぶつけている。
それも酷く乱暴なやり方で。
「ナナエ様がお呼びになってますよ」
キーツとトゥーヤの間に割り込むようにして、シャルの姿が現れた。
まるで、少年に庇われている様な形だ。
相変わらず、気配も感じさせないその少年に、キーツは思わず舌打ちをする。
「トゥーゼリア様とどうしてもお話がしたいそうです。……彼のことは、僕が父に許可を貰ってきますので」
チラリと背後のキーツに目をやりながら、シャルは言った。
キーツからしてみれば腹に据えかねるものが無いこともなかったが、打たれた体がいたむのも事実だった。
それなりの腕だと自負していた自分が、こうもあっさりと叩きのめされるとは思ってもおらず、キーツは少なからず自尊心も傷ついている。
このままむやみに煽り続ければ、今以上にキーツが痛い目を見るのも分かりきっていた。
キーツは口惜しくはあったが、下唇をそっと噛み、堪える。
トゥーヤの方はというと、”ナナエ”と言う言葉にピクリと反応をし、黙って頷く。
そして、キーツのことなどまるで忘れてしまったかのように、すぐさま踵を返すようにして来た道を戻っていった。
その余裕のある態度に、キーツはますます腹が立ってしょうがない。
「いけ好かない男だな」
ボソリとキーツがそう言うと、今度はシャルが振り向き様に鳩尾に拳を叩き込んだ。
容赦など全く無い。
辛うじて呻き声を上げずに、キーツは鳩尾を抱えるようにして押さえた。
「殺されなかっただけでも、ありがたいと思いなよ。めちゃくちゃ手加減してもらってたじゃないか」
「してねぇだろ」
「してたよ。最初からずっと」
「……最初から見てたなら止めろよ」
「なんで?」
そういってシャルは訝しげに視線を返す。
理由が全く分からないと言った感じで、小首まで傾げてみせる。
「……じゃあ、何で今止めたんだよ」
「ナナエ様を余りお待たせできないからね。起きていられる時間はそんなに長く無いから」
その言葉と表情に苦しげなものが混ざる。
先程、ナナエの目の前で全てを吐露したシャルは、一族のしたこと、それを未然に知って止めることが出来なかったことを激しく悔いていた。
ナナエはそんなシャルを当然のような顔で許し、「大丈夫だから」と、笑った。
何が大丈夫なものか。
シャルもキーツも口にこそは出さなかったが、そのやり場の無い怒りをどうすれば良いかわからなかった。
キーツもシャルと同じように悔いていたのだ。
もしあの時、ウィリナではなくナナエを強引にでも連れて行ったのであれば。
もしあの時、ウィリナの同乗を止めさせていたのであれば。
もしあの時、無理やりにでも陛下と一緒に帰らせていたのであれば。
もしあの時、キーツがウィリナの願いを聞き入れなかったら。
あのお人好しの娘を窮地に立たせることなどなかった筈だ。
恩を仇で返すとは、真にこのことだった。
ナナエはキーツの無体な行動を許し、その命を助け、キーツの心の望むままにウィリナを許し、助けた。
それらの行動は全て、ナナエを窮地に追いやる一因となって行ったと言うのに。
シャルやトゥーヤが言わなくても分かっているのだ。
ナナエが今、命の危険に晒されているのは、ウィリナとキーツを助けた結果だということは。
シャルは既に半分諦めているような節があった。
手を尽くしたが無理だ、と。
そしてトゥーヤも。
敵に寝返るしかナナエを助ける術が無いと諦めてしまっている。
ナナエとキーツだけが詳しくそのモノを知らない。
だからこそ希望を捨てきれないのかもしれない。
まだ手段は残されているはず。
まだ何かできるはず。
諦めるわけには行かない。
キーツは派手に動けないナナエの手足になると決めたのだ。
借りは必ず返す。
それは、プラスの意味でナナエに対して。
そして、マイナスの意味で、ここに追いやったソミナ公爵に、そしてエナに、だ。
ソミナ公爵がウィリナに怪我を負わせ、それに便乗して、エナがナナエを死の淵に追いやろうとしている。
――必ず後悔させてやる。
キーツがそう強く心に誓うに十分な仕打ちだった。
ナナエを従わせるダシに使われたまま大人しくしていられるわけがなかった。
「父にあなたの事、許可をもらってきます。部屋も用意させますからしばらく大人しくしててください」
ため息を一つ吐き、シャルは踵を返して階段を下りていく。
そんなシャルと入れ替わるようにして、階下から上がってくるエナの姿があった。
シャルはチロリとキーツに目くばせをした後何も言わずに去っていく。
――上手くやれ、……そういうことか。
血が少し滲んだ口端を、親指で軽く拭い、キーツは笑みを浮かべた。
「ああ!エナさん!ご無事だったんですね!」
イェリア家には酷く不釣り合いな明るい声が頭の上から降ってきて、エナは戸惑った様に顔を上げた。
その視線の先、階段上のフロアにはここに居るはずのない、見知った顔があり、思わず困惑の表情になる。
「……キーツ様」
「ナナエ様と一緒に逃げられてからずっと探していたんですよ。ご無事でなにより」
目の前のワーキャット族の男はニコニコと笑みを絶やさずにエナの前に立った。
この男は、確かエーゼル国王の従者だった筈だ。
それが何故ここに。
あの場所からここまでの長い道のりの痕跡は、綺麗に消してきたはずだ。
それともナナエが呼び寄せたのだろうか。
いや、あの状態でおいそれと外と連絡が取れるとは思えない。
かと言って、今の状況を考えても無闇やたらにシャルやトゥーゼリアが呼び寄せるとも考えづらかった。
「……よくここがお分かりになりましたわね」
「ええ、痕跡をたどるのはホント大変でしたよ。危険から逃れるためとはいえ女性二人で行かせてしまって、とても後悔していたんですよ」
「まぁ、ご心配ありがとうございます。命からがらここまで来たんです。ですが、ナナエ様が体調を崩されてしまって……」
「そうみたいですね。先程シャル様にお願いして、ナナエ様のお身体が回復するまで私も置いていただけるよう、こちらのご主人とお話していただく事になってるんですよ」
「まぁ、そうでしたの。きっと国王陛下もご心配なされてますわね?ご連絡も入れず申し訳ありませんでした。私の方から陛下にご連絡させていただきますね」
ここへエーゼル国王に踏み込まれでもしたらたまったものじゃない。
かと言って、この男を確実に排除できるかどうかはエナの実力では怪しい所だ。
言い知れぬ不安にエナが半歩後ずさった時、背後に立った誰かにぶつかった。
「コルレ……」
エナはその顔を見て安堵する。
コルレはエナの肩にそっと支えるようにして手を添えると、前に進み出た。
「キーツ様のお部屋は私が用意いたしましょう」
「ああ、エナさんの弟さん、でしたっけ?よろしくお願いします」
人好きのする屈託のない微笑みを向けて、キーツが握手を求めるようにコルレに手を差し出した。
それをコルレは躊躇もせず握り返し軽く頭を下げる。
「ナナエ様のお近くの部屋にまだ空きがありますので。そちらにご案内いたしましょう。足りないものはすぐにご用意させていただきます。こちらへ」
そう言ってコルレは廊下の奥へ手を差し向けた。




