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<34> 縮められない距離


エリザベスと呼ばれる国王の婚約者の真実の名前を明かされたのは、王城に戻ってすぐのことだった。

疲労の色が顔に濃く現れていた国王自身から告げられたのだ。

オラグーン王家に縁のある娘で、その争いに巻き込まれて命を狙われていることも。

その時にスッと血の気が引く感覚を覚えたのだ。

ナナエと言う名前。

襲撃の時、エナが口走っていた名前。

単なる聞き間違いだと思い、軽く流していた。

それが聞き間違いではなく、本当の名だと知った時、繋がった。

ナナエは確かに迎えに来て欲しいと言った。


ナナエはウィリナを助ける為に、そうと知りながら自らエナの手を取ったのだ。


あの時、キーツはナナエを優先させるのが仕事だと言いながらもウィリナを気に掛けていた。

それはきっとナナエにははっきりと分かったのだろう。

村が襲撃にあったときも、自分とは縁の薄い者たちを危険も顧みずに助けようとした娘だ。

キーツの本当の気持ちを知れば、それを看過することができる性格では無いことは良く知っていたはずなのに。

ナナエの申し出に甘えてしまった。

その結果がこれだ。


キーツにはなんとしてでもナナエを助け出さねばならない”借り”が出来てしまった。




ともすれば見落しそうなほどの僅かな痕跡をずっとたどって来ている。

その痕跡は余りにも少なくて、この道しるべが本当にナナエの元へと続いているのか?と言う不安が大きかった。

その道が指し示すことは、全くと言っていいほど民家や村、町に近づかない、決して楽とは言えない道のりだ。

たかだか3日野宿したぐらいで倒れる程、貧弱なナナエがこの行程を耐え切れるとは到底思えない。

本当にこの道でいいのか。本当にこの痕跡をたどっていいのか。

不安ばかりがよぎる。


だが、痕跡をたどり、方向もわからなくなるほど深い森を抜けた後で、そこがオラグーン国内だと認識した時、間違ってはいなかったのだという確信に似たものを得た。

人目を避けるようにしてエーゼル国内からオラグーン国内に来たということは、恐らく間違いないだろう。

ここまでほぼ休まずに来た。

目的地がどこだかはわからないが、大分距離を縮めているはずだ。

だんだんと痕跡をたどるのが容易くなってきているのがその証拠である。

古い痕跡ほど見つけ辛く、新しいものほど見つけやすい。

とは言っても、新しい痕跡ですらかなり前のものだが。


ナナエは無事だろうか。

まだ生きているだろうか。


最悪の結果が頭をよぎっては消え、不安になる。

それでもキーツは軽く頭を振り、その考えを振り払った。











シャルは目の前の光景にひっそりとため息をついた。

あの日以来、何となくナナエとトゥーゼリアの間に”遠慮”と言うものが出来てしまったようだった。

どこかお互いに一線を引き、以前のような阿吽の呼吸と言ったものが感じられない。

お互いがお互いに踏み込めずに、その違和感が度々現れる様を目にする羽目になる。


「薬湯です」


部屋の入口でコルレから受け取った薬湯を、トゥーゼリアがナナエの前まで持って行くと、ナナエは小さく頷き体を起こす。そうして何も言わずに静かに飲む。

トゥーゼリアはそれを静かに待ち、飲み終わるとそれを受け取り、片付けた。

時間が許す限り一緒に居ることは居る。

だが、ナナエは殆ど横になってうとうとしているし、トゥーゼリアもそれをただ黙って見守るだけだ。

そんな2人を見て、シャルは歯がゆく思うばかりだった。


あれほどまでに仲が良く、べったりと言っても過言ではなかったほど楽しそうに、信頼しあっているように見えた2人が、今は少しも楽しそうではない。

原因を作ったのはイェリア家だと言うことは言わずもがな。

その事実を常に目の前に突きつけられているようで、胸が苦しい。


結局、あの日。

部屋に忍び込んでみたは良いものの、収穫は魔種の現物のみだ。

除去法に関する全てのものが資料として存在しているのを確認できなかった。

その魔種を生み出した方法もそれを生み出している場所も、全てが巧妙に隠されているようだ。

こんなものを世に存在して良い訳がない。

脅すにしても殺すにしても、もっとスマートなやり方はいくらでもある。

わざわざこのおぞましい方法を選ぶ必要がない。

人を殺して得られる薬が人に効いたとて、それが何だと言うのか。

そんなのは間違っている。


「ナナエ様、昼食はどうなさいますか?」


トゥーゼリアの後方から静かに声を掛ける。

すると俯き加減だった顔を少し持ち上げてシャルを見た。

その表情は余り冴えない。


「ん……いいや。今は要らない」


微かに微笑みながらナナエは言った。

そうしてだるそうに窓の外を見やる。

ナナエは体力的にと言うよりも、明らかに精神的に参っているようだった。

食欲は元々減少傾向にはあったのだが、その僅かな食欲ですら湧かないほど無気力に近いのかもしれない。

ここ数日間で、ナナエは更に小さくなったように思う。

このままでは体が持たない。

トゥーゼリアにも分かっているはずだ。

能面のような無表情が常であるはずのその顔が、時折苦しそうに歪められる。


この状況を良としていないのはトゥーゼリアも同じだと言うことは言われなくてもわかる。

だがトゥーゼリアにはこの方法しか選べないのだ。


ナナエの為にセレンやナナエ達と逆の立場に立つ。

ナナエの為に、罪の無いものを殺し、いずれはセレン王子も殺すのだろう。

そしてナナエの為に好きでもない女と婚姻を結ぶ。

それを知れば、ナナエはきっと許さないだろう。

トゥーゼリアを、そしてそうさせた自分を。


トゥーゼリアに許されているのはそれまでの間、ただ側にいることだけだ。

トゥーゼリアがナナエの為にしていることを気づかれぬように踏み込ませず、いずれ来る別れが辛くならない様、必要以上に踏み込まない。

だが心が無いわけではないのだ。

だから苦しむ。


ナナエはどう思っているのだろう。


ナナエはトゥーゼリアのしていること、考えていること、それらを一切知らないはずだ。

ただ、怯えているように見える。

何に、と言われればトゥーゼリアに、と言うことになるのだろうか。

硬化しているトゥーゼリアの態度に驚き、戸惑い、そしてトゥーゼリアが離れていく予感に怯えているのではないのだろうか。

あれからと言うもの、以前のようにトゥーゼリアにわがままを言う姿は全く見なくなった。

トゥーゼリアに何かを言われても、小さく頷くだけだ。

火の消えたような、という表現がぴったり来る。

ただただ、従順にトゥーゼリアの言葉を聞く。


「何か少しお食べになったほうが宜しいのでは?」

「……うん」

「かゆでも持たせましょうか」

「うん、それでいい」


シャルが勧めてもうんと言わないが、トゥーゼリアが言えば大人しく従う。

それはまるで”うん”と言わなければならないと自分を追い詰めているように見て取れた。

従わねばトゥーゼリアが離れていってしまうのだと思い込みでもしているように。


そうして、トゥーゼリアがいくばくかの時間が過ぎ、彼が部屋を退出しようとすると、まるで捨てられた子どものような目をするのだ。


自分にもう少し力があれば。

こんな悲しい表情をさせることは無かった。

自分がイェリア家次期当主に生まれていたら、トゥーゼリアにもナナエにも辛い思いをさせるはずは無かった。

何故自分はこんなにも無力なのだろうと、シャルは下唇を強く噛む。

どんなに暗殺の技を誇ろうとも、今のシャルは無力な子どもとなんら変わりが無かったのだ。






少し離れた窓から中の様子を窺う。

比較的窓から近いところにある寝台にナナエがいるのがわかった。

遠目から見ても顔色が悪く、やつれている。

やはり体を壊しているのだろう。

あの行程ならば無理はない。

部屋の中には見知った顔がもう一つあった。

あの夜に会った手練れの少年だ。

そうしてもう一つ、見知らぬ、全く隙のない男。

敵か味方かはわからない。

あの少年が何も言わずに側にいるということを考えれば味方なのかもしれない。


だが、それにしてはナナエの様子がおかしい。

少年と話しているときは元気がないながらも表情がある。

しかし、その男と話しているときは真顔に戻るのだ。

こわばった顔でただ頷く。

本当に味方なのだろうか。

はっきりとわかるまではナナエ以外の者との接触は避けるべきか。


何度か男が居ないときに侵入を試みたが、その度にその男がナナエのいる部屋に舞い戻ってくる。

恐ろしく勘がいい男だ。

お陰でこうして半日以上も木の上の茂みの中である。

全く忌々しい限りだ。

そう思いながらも、キーツは思いがけずに口元が緩むのを感じた。

臥せってはいたがナナエの無事な姿を見て、少しだけ安心したのだ。

ともかく、今のところ無事ならば、焦らずじっくり機会を窺うしかない。

そして、ルーデンスの元へナナエを連れ帰らなければならないのだ。




ナナエの元へ入り込むチャンスは比較的すぐに訪れた。

あの男が外出したからだ。

馬で出て行くのを見送りながらナナエの部屋を窺う。

ちょうどいい事に少年も部屋におらず、ナナエは寝台で横になっているようだった。


木から屋根に伝い、ナナエの部屋のバルコニーに降り立つ。

換気の為か、バルコニーに続く窓は少しだけ開けられていた。

そこから身を滑らせるようにして音を立てずに中に入り込む。

やはり今、部屋にはナナエ一人だけのようだ。


寝台の側に近寄り、ナナエを覗き込む。

ナナエは既に眠りに入りかけているようで、キーツの気配には気づかない。

そのナナエを揺り起こそうとして、キーツはその手を止めた。

間近で見るとより一層ナナエの体調の悪さが窺えたからだ。

肌は青ざめていて艶が無く、毛布から出ている首周りは以前よりもずっと細く頼りなげだ。

鎖骨がその事実を強調するように浮かび上がっている。

この2週間でここまでになるほど、何があったと言うのだろうか。


「姫さん、おい、姫さんってば」


結局その体に触れるのが躊躇われ、声を掛けた。

するとすぐにナナエは薄く瞼を開け、その後、驚いたように一瞬だけ目を見開いた。


「……キーツ」

「迎えに来た」


キーツがそう言うと、ナナエは柔らかく笑った。

その表情に酷く安心する。


「どうなってんの?状況が良く分からないんだよね。姫さんの従者も一緒に今いるだろ?」


腕組をして首をかしげながら言うと、ナナエは笑いながら体を起こそうとした。

それに慌てて手を添えて助けてやり、再び、ナナエの余りにも細くなった肩に戸惑った。


「私も、よくわからないんだよね。なんでここに連れてこられたのか。でも、シャルもトゥーヤも居るし、危険ではない、のかな?」

「陛下が凄く心配してるぞ。……体調、悪いのか?」

「ん~……。野宿で体調崩して、そのままずっとこんな感じ。ルディには心配掛けちゃったね。連絡しないとなぁ」

「……なぁ、トゥーヤってあの根暗そうなワードッグの男?」


思い切ってナナエに尋ねて見ると、ナナエはおかしそうに吹き出した。

その表情には先程あの男と話していたような硬さはない。


「根暗かぁ。あはは、トゥーヤ、怒るよ?」

「兎も角。早く体治して陛下のところに帰るぞ」

「……治らないかもね」


悪戯っぽく笑いながらナナエが言った。

その言葉にキーツは眉をひそめ、ナナエを見返す。


「どういうことだよ?」

「わかんないけど。毒、飲まされたかも」

「……本当に?」

「確証はないよ。でもさ、これ見て」


ナナエは胸元の戸籍登録証をくるりと裏返してキーツに見せた。

そこにはナナエの名前、性別、年齢、そして職業が書いてある。


【職業:人質】と。


「これさー、笑えるよね。職業人質ってなにー?って感じ」

「毒って、心当たりがあるんだろ?姫さんの考え聞かせてよ」

「……人質にしては、見張りが付かないし、扉に鍵も掛けない。それってさ、逃げられないのが分かってる。治らないのが分かってるって事だよね。お医者様に診て貰っても居ないのに」

「……それで?」

「毒を飲まされたなら、解毒剤を飲まなければきっと治らない。毎日食事に混入されてるのも考えて少し絶食してみたりしたけど、症状は変わらないから、持続性のある毒なんだと思う。このままなら、死ぬかもね」


自嘲気味にそう笑った。

それでも、その瞳が微かに潤んでいるのは誤魔化しようがない。

その事実を認識して、間近に迫っているかもしれない死の恐怖を感じて、平然で居られる方がおかしいのだ。


「誰が味方か、そうじゃないか凄く迷ってる。……私を、誰に対しての人質に使っているのか、その対価は何なのか、分からない事だらけ。このままじゃいけないことは分かってるけど、どうしていいかわからないんだ」


そう言って、ナナエは涙を零した。

シャルとトゥーヤとが側に居るが、何故2人が何も言わないのか。

何故、この状態に甘んじたままで居るのか。

その疑問のせいで、2人を信じられない気持ちが芽生え始めてしまっていると弱音を吐いた。

人質であるはずなのに、それを知っているはずなのに、そのことにも、ナナエに盛られた毒にも一切触れない2人の考えが分からないと。

そして、何も知らされないのがとても寂しいと。


「キーツが……来てくれてよかった。誰にも相談できなくて……」


こぼれた涙を手の甲で乱暴に拭う。

ずっと不安だったのだろう。

あの日、ナナエのことであれほど怒っていたあの少年が、ナナエを裏切っているなどとは到底思えない。

ならば、ナナエには言えない何らかの事情があるはずだった。

それ黙っていることがナナエを更に不安にさせているのだろうと容易に考えが付く。


「姫さんには借りがあるからな。俺を使うといいよ。何でも言いな。なんでも聞いてやる」


ポンポンと頭を軽く叩くと、ナナエは顔を歪めたまま頷いた。



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