<33> 幕間 ニケの回想
執務室から出て、長い廊下を渡り、人気のない大きなバルコニーのある場所でニケは一息ついた。
急な展開についていけない。
それが本音だ。
頭では理解していても気持ちが追いつかないとはこういう事なのだ。
今までにも何度か経験したことあるその感覚は、いつもニケには不快な事実を思い出させる。
ルーデンスに興味を持ったその日のことは、はっきりと覚えている。
彼の即位の日に、初めて自国の王の顔を見た時からだ。
遠目では分かり辛かったが、彼に間違いないと思った。
その声を聞き、確信した。
少なくとも、即位する前には名前も知らなかったほど興味を惹かれなかった。
それは国民の誰もが同じだっただろう。
ただ、前国王の后、ルーデンスの生母がその王子と共に暗殺されかけ、王子だけ生き残ったと言う話は聞いたことがあったかもしれないというぐらいだ。
その時も、世継ぎの王子が生き残ったのは幸いだった、程度の話だったと思う。
王子の人となりや容姿などは全くもって噂にもならなかった。
王子自身が公の場に一切出て来なかったせいもあったとは思う。
元々、ニケ自身が王家に全くと言っていいほど興味を持たなかったのも原因なのかもしれない。
ニケは人よりもかなり秀でた子どもだった。
それゆえか、自分の能力、学を過信し、ニケには世の中の皆が馬鹿に見えた。
何故こんなことが分からないのだろう、何故無駄なことばかりするのだろう。
男も、女も。
大人も、子どもも。
親も、兄弟も。
この世には馬鹿が溢れている。
そう、思っていた。
この世の中には自分と同じレベルで話せる奴など居ない。
自分は”独り”なのだと思っていた。
それは悲しむべきことではなくて、誇れることだった。
愚かにも、自分がただ一人神から選ばれた子だと思ったのだ。
だが、ニケの生活環境はいいとはいえなかった。
7人も居る兄弟に囲まれ、両親は毎日あくせくと働き、そのニケの優れた部分に割く金など無かった。
ニケは8人兄弟の下から2番目だ。
上の姉2人は既に嫁に出ていた。
4人の兄のうち2人は妻子もちでも貧しく、子どもを弟たちに預けて働きに出ている。
残る2人はその日暮らしの日雇い労働人だ。
下の妹とニケはもっぱら子守りを担当していて、とてもじゃないが学校どころか勉強に時間を割く暇も殆ど無かった。
ニケが自由になる時間は両親が仕事から帰ってきた夕方から夕飯までのほんの1,2時間だけだったのだ。
それでも。
ニケは色々なものを目で見て吸収した。
そうすることしか楽しみが無かったからといっても過言ではない。
兄弟でただ一人、読み書きができ、金の勘定などの計算も得意だった。
幼い頃から神童と言われ、それはニケの大きすぎる自信の源になったのだ。
今ではもうどんなきっかけかは思い出せないが、そのころに出会ったのがキャリバだった。
ニケはその時たしか8歳だったと思う。
町外れの森の近くに引っ越してきた変わり者をニケはすぐに気に入った。
キャリバは、ニケが初めて見る”ニケよりも秀でた人物”だったからだ。
キャリバは自称学者で、ニケに色々なことを教えてくれた。
数学・外国語・物理・錬金術・魔法。
そのどれもが学校などに行くよりもはるかに高度で濃い内容に、ニケにはますます回りの人間が馬鹿に見えるようになった。
そんなニケに、キャリバは常に笑いながら言い続けた。
「周りが馬鹿に見えるのは、アナタが馬鹿だからよ。昔から言うじゃない?バカって言ったほうがバーカ!って」と。
キャリバは口が悪く、不快になることもしばしばあったが、その知識量の豊富さや学者と思えぬほどの自由奔放な明るさがとても魅力的だった。
あれはきっとニケの初恋だったのだろう。
そうして5年ほどの間ニケはキャリバからありとあらゆる知識を教わった。
まるで水を吸い取るスポンジの様に、ニケはその知識を吸収していく。
それが面白いと、キャリバは常々言っていた。
どこまで吸収できるのかの実験だ、とも。
だが、そんな毎日はある日唐突に終わった。
夕方、キャリバの家に行くと、明かりが灯っていなかった。
いつもならランプの柔らかい光が窓から零れている時間に、だ。
この時間にキャリバが事前に何も言わずに不在になるのは初めてのことだった。
不審に思いながらも、声を掛け、ノックをした。
返事はない。
留守なのかと思ったが、何となく帰りづらくて玄関脇の窓から少し中を覗いてみた。
そこで見たのだ。
キャリバの横たわる姿を。
あの後のことははっきりとは覚えていない。
近くの民家まで走っていって大人を呼びに行っただけだ。
大人たちが慌てて何人も走り回ったりしていたのを眺めていただけだ。
葬儀は近くに住む、優しげなおばさんが全てをやってくれた。
後から聞けば、キャリバから「自分は一人暮らしだから何かあったときはよろしく頼みます」といくばくかのお金を預かっていたと言う。
そしてそのおばさんから、一通の手紙をニケは貰った。
差出人はキャリバだ。
キャリバはまるで自分の死を予期していたかのように、そこには”遺言”らしきものが書かれていた。
語りかけてくるような、まるで遺言らしからぬ文体のその手紙には”全ての財産をニケに譲る”とあったのだ。
その最後には
【バカって言った方がバーカ!
分かったわね?たった一人の弟子に師匠が贈る最期の言葉、胸に刻みなさいよ?】
そう書かれていた。
涙が溢れて止まらなかった。
その日から、夕方から夕飯までの少しの間は、毎日キャリバの墓の前に居た。
大して面白くもない代わりばえのしない毎日の事をつらつらと墓に向って話す。
そして決まって帰る前には、墓に向って吐き捨てるように言うのだ。
「世の中皆バカばっかりだ」と。
そう言えば、どこからかひょっこりキャリバが現れてニケを叱ってくれると思ったからだ。
キャリバは死んだと分かっていたはずなのに。
そうして自宅に戻り、夕食を終えた後はキャリバの家へ行く。
そこで朝になるまで本を読んだり、勉強をしたりして過ごした。
その日課はそれからずっと続いた。
毎日毎日、もう逝ってしまった人の墓に行った。そして言った。
そして時々泣く。
たった一人の理解者をなくしてしまったと、その孤独に耐えかねて。
その日も、ニケは墓に向って言った。
「世の中皆バカばっかりだ」
「バカはお前だ」
突然掛けられた声に驚いて振り向けば、そこには酷くつまらなそうな顔をした美しい顔立ちの少年が居た。
身なりはよく、どう見ても貴族の子息といったいでたちだ。
自分の独白を聴かれた上に、その暴言にニケは眉をひそめ怒りを露わにした。
「立ち聞きとは、流石お貴族様のされることは違いますね」
これが大人の貴族相手に言ったとすれば殺されても文句は言えなかったかもしれない。
相手が年端もいかない少年だったからこそ、ニケは強気に出たのだ。
自分ならうまく丸め込める、そう思ったのだ。
「毎日毎日、飽きもせずに墓に来て。泣き言を言ってすがり付いて。……知っているのか?その下には腐った肉と骨があるだけだぞ」
その言い草に、ニケはカッとなり、墓に添えてあった花を少年に向けて投げつけた。
それを少年は避けるでもなく、されるがままになっている。
避けるのも面倒だといった感じだ。
「いや、知っているんだろう?」
少年は面白くなさそうに鼻を鳴らした。
上質な服には泥の汚れがつき、中途半端に引っかかった花がぶら下がっている。
それでも、それを払おうともしない。
「やはり、バカはお前だ」
そう一言また言った。
少年から逃げるようにして身を翻し、結局それ以来、墓への日参はやめた。
自分よりも年下の少年からバカにされたことに少なからずショックを受けたし、少年の言葉でやっと”キャリバはもう戻ってこない”と気づかされたからだ。
それからは暇な時間は全て学問に注いだ。
キャリバの残してくれた書物や文献を読み漁り、キャリバが綴ったレポートなども全て理解できるまで読み、叩き込んだ。
その分野は通常の学問だけでなく、商学から経済学、史学から神話学まで多岐にわたり様々だったが、それでもそれを覚えるまで全て読み込んだ。
キャリバが遺してくれたその数々の品は、ニケの力となりより所となっていた。
それから何年か過ぎてからだ。
相変わらず、他人がバカに見えるのは変わらなかったが、ニケは確実に大人になっていた。
どの職業についても、その上司である店主や上官とそりが合わず、ことごとく首になるという非常に面白くない日々。
そんなある日のことだった。
エーゼル国王突然の崩御に国中が騒然とした。
そうしてすぐにまだ年若き王子がその跡を継ぐ。
その戴冠式の日も、上司とそりが合わず首を言い渡されたニケがたまたま王城前広場を通りかかった。
酷く興奮した聴衆たちの間を縫うように掻き分けて、チラリとバルコニーを見上げる。
そこには上等な衣裳を纏った年若き少年王。
その少年王がバルコニーから平民へ御言葉をかけると言うありがたい式典の真っ最中だった。
「わが国の貴重なる宝である国民に告ぐ」
その姿、その声。
遠目ではあったがニケにははっきりと覚えがあった。
あの日、墓でニケを小馬鹿にしたあの少年だ。
思わずその姿を二度見してしまう。
以前会ったときよりもだいぶ背は伸びていたが、その顔立ちの美しさは変わらなかった。
ただ、酷く青ざめて見えるのは緊張しているからなのだろうか。
そしてふと気づく。
キャリバが亡くなったあの数日前。
前国王の后が亡くなっていた事を。
なぜ、ルーデンスが墓地にいたのか。
なぜ、ニケが墓に日参しているのを知っていたのか。
平民の墓は王家の墓の丘を取り囲むようにして立っている。
王家の墓に、母親の墓に来たのならあの墓地に居ても不思議は無いのだ。
そして、何故ニケが墓に日参しているのを知っていたのか。
答えは一つしかなかった。
――……知っているのか?その下には腐った肉と骨があるだけだぞ
あれは、ニケにではなく、自分自身に言っていたのではなかろうかと。
その日から度々少年王の噂が飛び交うようになった。
即位してからと言うもの、話題には事欠かない。
父王を暗殺した王族に連なるものたちは、なんの情けも掛けられずすべからく処刑された。
妻や子に至るまで、全てだ。
少しでも謀反の片鱗を見せたものも、無事でいたものは居なかった。
関わった使用人ですら多くは処分され、国外の使者であっても何かしら問題を起こせば厳しく処断された。
その少年らしからぬ冷徹さは数年も待たずに国外までに轟く程になる。
その傍ら、ルーデンスは商業にかなり力を注いでいた。
アクアマーケットが建設されたのはこのころだったはずだ。
それは長い建設期間だった。
それには莫大な国費を注ぎ、その建設や関わる責任者には全て貴族を排除していた。
そうやって国力を注ぎ込んだアクアマーケットは莫大な金を生み出すことになる。
その手腕にニケはキャリバを見た気がした。
性格からいえば恐らく正反対だろう。
キャリバは明るく優しく、全てを許容する懐の深さがあった。
ルーデンスは冷静で冷淡、全てを拒絶するような近寄りがたさがあった。
まぁ、今で言えばそれはただ上辺だけを見ていた思い込みだったとわかるのだが。
兎も角、そんなルーデンスの噂を聞くたびに興味がわいた。
そして、公の場で見るようになってどんどん、表情がなくなっていくのが気になった。
そんな風にして何年も過ぎ、ニケはその間ずっとルーデンスについての情報を仕入れていた。
ニケの妹からは、「お兄ちゃんって陛下のストーカーみたいだね……」と有難くないことを言われる毎日だ。
そんな風に過ごして、ルーデンスとあの墓場で出会ってから15年がたった。
ニケは29、ルーデンスは26。
その初冬の事だ。
エーゼル初の平民文官採用試験が行われることになった。
受験資格は2つ。
貴族でないこと。
そして、エーゼルに長らく住む者であること。
ニケにとってはまさに天の采配だった。
自分の才能を生かせ、あまつさえルーデンスと再び言葉を交わす機会が出来るかもしれないと考えたのだ。
もちろん、採用試験などニケにとっては赤子の手をひねるより容易い問題ばかりだった。
難しいとされた採用試験をほぼ満点の成績を収めて首席合格したのである。
ほぼ、と言ったのは一つだけニケにも苦手なものがあったからだ。
当然、というべきなのだろうか。
面接試験においては、その成績足るや否や散々なものだった。
知識の深くない貴族の面接官にその無知を思い知らせるという、大衆の面前で喧嘩を売る行為をし、その場で退場するように言われた。
というか、引きずり出された。
半ば諦めかけた時に、そんなニケを拾い上げたものがいた。
ルーデンスである。
貴族に歯向かおうが、多少性格に難があろうが、有能なものを燻らせているのは国にとっての損失であると、ニケを拾い上げてくれたのだ。
その彼の主張には一点の迷いもなく、その言葉を直接聞いた時には思わず心が震えた。
そして思い出した。
ルーデンスは初めて会った時も、平民であるニケを決して平民扱いをしなかったということを。
ニケが憎まれ口を叩いても怒らず、あまつさえ花と一緒に泥を投げ、その衣服を汚した時ですらルーデンスは怒らなかった。
彼こそ、王になるべくして王になった。
そう思った。
キャリバが死んで以来、他の人間はすべて馬鹿ばかりだと思っていた。
他人を認められずにいたニケが、初めて他人を認めたのだ。
ナナエという女がいるのは聞かされていた。
ニケが王宮に上がったのは1ヵ月半前。
上がってすぐに任された仕事は、ナテル王弟殿下の補佐で各地への菓子店の出店だった。
それも聞けば、全てとは言わないが、あの女のためだという。
あの女の出自は不明。
平民であるニケですら平気で側に置くルーデンスなのだから、その女の身分に対してはニケは何も思うところがなかった。
ただ、周りの文官たち、侍従達から聞いたそのナナエという女の所業を知れば知るほど、ルーデンスにはふさわしくないと思っていた。
――あの女は本当に陛下にとっても、この国にとっても疫病神です。
あの言葉に嘘偽りはない。
ニケは本気でそう思っている。
そしてルーデンスやアマークの王子から聞いた言葉、それを聞いた後ではますますそう思う。
もっと早く自分が他の誰よりもナナエという女に出会っていたのなら、確実にルーデンス、いやエーゼルには近づけさせなかった。
むしろ排除していたかもしれない。
全てが明るみになる前に。
奥歯をギリリと噛み締める。
ルーデンスが折に触れて”いずれはナテルのよき右腕になるように”と言う言葉の意味がやっと分かった。
その為の採用試験だったのだ。
己ならルーデンスのよき右腕になれる、そう思い、そしてそれを目指して受けた採用試験であったというのに。
ルーデンスは己を必要としていなかったことに悔しさを覚え、再び強く歯噛みする。
「ニケ殿」
掛けられた声に振り向けば、同じ平民上がりの文官が居た。
少しビクついた様なおどおどとした態度にはいささか腹が立つ。
「なんでしょう?」
「ソミナ公爵令嬢の私物をすべからく押収せよとは一体どういった事でございましょうか?陛下からは何も聞いておりませんし、ソミナ公爵からも激しい抗議が来ております」
「まぁ、来るでしょうね。その為にやってますから。この件に関しては陛下から一任されています。貴方は黙って指示に従ってください」
「ですが、意図も分からずにただ動くと言うのも……」
「なら考えればいいでしょう?私が何を考えているのか。その頭はお飾りですか?別に特段難しいことでもありませんし、必要だから押収しろと言ったまでです。押収しないまま権力に怯えてソミナ公爵に返還する無能な者なら、今すぐこの職から離れなさい。陛下にとって害にしかなりませんから。むろん、就職先なら斡旋してあげますよ?どこがいいですか?ああ、私の実家の皿洗いはいつでも募集していますよ」
畳み掛けるように捲くし立てると、男はたじろいだように視線を泳がせた。
同じ試験で同じように合格し、召抱えられ。
それでもこの体たらくだ。
ニケはこの1ヵ月半の間に確実に実力を認められ、ルーデンスの側に使えることができるようになったというのに、この男は未だに貴族出身の文官の小間使いのようなことをしている。
本当に世の中みなバカばっかりだ。
少し考えればわかることだ。
あの襲撃はナテル王弟殿下を狙っていたのは確実だ。
しかし、もう一人狙われた者が居る。
ソミナ公爵令嬢ウィリナだ。
ウィリナは何かをつかんでいたのだろう。
親である公爵にとってまずい何かを。
だからナテル王弟殿下にかこつけて一緒に狙われたのだ。
ウィリナ単体で狙えば疑惑が上がりやすいからだ。
恐らくウィリナ自身は半信半疑だったのだろう。
だから誰にも言わずに胸のうちに秘めていた。
たった一人、自分の信頼できる従者に会いに、わざわざあんな辺境くんだりまで出かけたのもそれが大きな原因だったかもしれない。
でなければ、3手に別れたナテル達のうち、ナナエにだけは追っ手が薄かった理由が説明できない。
本来ならば、出自不明の王の婚約者の方が、首謀者の娘よりも狙われて当然なのだから。
”皆殺し”と襲撃者たちは煽っていたとの報告は受けている。
が、それにしてはナナエへの追撃は薄い。
なのにウィリナにはナテルと同じだけの追撃があった。
それが全てを物語っている。
ウィリナにとっては安全の為にナテル王弟殿下との帰還を選んだのであろうが、それは逆だった。
王弟殿下と一緒に帰ることによって”巻き添えで死ぬ”という最高の舞台と脚本を作り上げて、提供してしまっただけなのだ。
城で保護してからのソミナ公爵の陳情は激しかった。
「娘の身が心配だ。是非連れて帰らせて欲しい」だの「最愛の娘の看病をしたい」だの空々しい台詞をルーデンスに述べ、回りにも吹聴していた。
その姿にはルーデンスもニケも呆れて笑うしかなかった。
連れ帰らせたならばすぐにでも、ウィリナの死が待っているのは明白だったのだから。
看病のあえなく死亡。なんて簡単なつまらないシナリオだろう。
もちろん、そんな事はさせるつもりが無かった。
大事な生き証人だ。
何があっても生かさねばならないと思っていた。
今朝、ウィリナは意識を取り戻した。
が、精神的なショックもあったのだろう。
口をパクパクさせても声が出なかった。
それはそうだ、今まで何不自由なく贅沢に育ってきた姫が、争いの渦中に置かれ、命を狙われ、周りの人間が傷つくのを間近で見た。
それは壮絶なる衝撃だっただろう。
すぐにでも色々と行動を起こしたいニケにとってそれは痛手ではあったが、ルーデンスの意向でしばらくの間は療養という方向性になっていた。
その数時間後のことである。
ウィリナが殺されたのは。
ルーデンスには報告していないことがある。
ウィリナはただ殺されたのではないと言うことを。
明らかに痛めつけられて死んだ。
ウィリナの部屋の惨状は酷いものだった。
声の出ない娘に、そうとは知らずに口を割らせるためにあらゆることをしたのだろう。
そのような真似が城内で行われたなどと、どうして報告できようか。
声の出ない喉で何度泣き叫んだだろうか。
それを思うと、何も考えずにビクビクと権力に震えている目の前の男に虫唾が走ってしょうがない。
ウィリナの死。
それはただ口封じするのではダメだったと言うことを示唆している。
ウィリナが何か証拠となるものを握っていたのは確実だ。
理由を疑われてもウィリナを単独で殺すと言うことをしなかったのは、それほど重要なものではなかったのかもしれない。
それでも、”綻びを生み出すような小さな何か”だから殺された。
その”何か”を探し出さねばならない。
出なければ、守りきれ無かったウィリナに顔向けなどできよう筈もない。
自分の娘にすら、あそこまで非情に出来るあの狡猾な男には早々と消えてもらわねばならないのだ。
ウィリナのこと。
ソミナ公爵のこと。
エーゼルのこと。
ナナエのこと。
ルーデンスのこと。
アマークのこと。
考えることは山ほどある。
ルーデンスのことも、このままにしておくつもりはない。
ニケはナテル王弟殿下に使えるために王城に上がったわけではない。
ルーデンスと共に拓く未来を確かめたいのだ。
その行く末を確かめたいのだ。
その為にも。
邪魔な石はさっさと砕いてしまわねばならない。
「ソミナ公爵は私が会ってご説明いたしましょう。まぁ、あの権威主義にどっぷり漬かった頭では私の言っていることを理解できるかどうかも怪しいですがね。そうと分かったらさっさと行動に移すことですね。ボタンの一つすら残さずに。いいですか?見落としがあったら、無能な貴方の首も落とされると覚悟なさい。この王城に上がったからには一切の妥協は平民出身の代表として私が許しません。さぁ、行きなさい!」
強い口調で男の後方を指差して言うと、男は一瞬瞳に剣呑とした光を湛え、そのまま頭を下げて身を翻した。
無能なくせにプライドばかり高い。
その後姿を飽きれたように見送り、鼻を鳴らす。
世の中みなバカばっかりだ。
ニケの足を引っ張ってばかりいる。
もっと使える駒が欲しい。
バカでも無能でもない誰かが。
「相変わらず、あなたはバカですね」
その声に振り返ると、文官がやってきたのとは正反対の方向からやってくるルーデンスの姿があった。
その台詞に15年前のことが再び瞬時に思い出された。
「ディレック様とのお話しはもういいのですか?それでしたら残りの執務を執り行って頂けなければ、皆が困りますが。それともまさか、私が居ないと机に向うこともお出来になりませんか?一国の王ともあろうものが見張りが居ないと真面目に執務に取組むことが出来ないとは仰らないですよね?いつも陛下を監視するゲイン様やナテル様が居ないとこんなにも大変だとありありとその大切さを感じましたよ」
「……口から生まれた、と言う言葉は貴方の為にある言葉ですね」
ルーデンスが面倒そうに眉をひそめる。
それをニケは勝ち誇ったように唇の端をあげて見返す。
決して自分はバカではない。
それをルーデンスにはいずれ認めさせなければならない。
「お褒め頂いて恐悦至極にございます。バカでは頭の回り、口の回りも遅い故、口が良く回るのはバカではない証拠でございます」
そう言ってバカ丁寧に頭を下げれば、頭の上から大仰なため息が降ってきた。
「あなたがバカだと言うことには何も代わりがありませんよ」
そう言ってルーデンスは苦笑した。




