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<32> 見えない線

手にした大きな麻袋を食堂のテーブルの上に投げ置く。

こんなものを長いこともっているのは不愉快でならない。

折角早々にとって来てやったと言うのに、当主は来客で対応中などと言う。


知ったことか。

お望みどおりの仕事はしてきてやった。


汚れた手袋もそのまま外し、麻袋に投げつける。

その成果にほくそえみながら、ワインでも傾ければいいのだ。


イライラした気持ちを隠そうともせず、トゥーヤは与えられた自室に足を運ぶ。

今日の仕事はもう終わりだ。

ならば、出来る限り長くナナエの側に控えよう。

それだけが、今のトゥーヤの心の拠り所だ。

顔を近くで見ることは叶わないだろうが、存在を近くで感じているだけでも十分だった。

兎も角、このささくれ立った心を、その存在を感じることで静めたかったのだ。


条件をすべてのみ、実行すれば、もうナナエの前に立つことなどできなくなるだろう。

仮にナナエがトゥーヤを許したとしても。

いや、人が良い娘だから、きっと悲しそうな顔をして、怒って、そして許すのだろう。

それでもきっと、トゥーヤ自身がトゥーヤを許せない。

ナナエを悲しませることがわかっていて、それでも自分の判断で勝手に動くのだから。

だからナナエには決してこの話はしない。

全てが終わった後も。

ナナエの許しを免罪符にして、のうのうと過ごすつもりはないし、イェリアに協力し、エナと婚姻を結ぶ以上、完全にナナエとは反対の位置に立たねばならないのだ。

恥ずかしげもなくそんな真似ができるわけがない。

だから、それまでの間だけでも、なるべく長く。

なるべく側に。



玄関ホールから階段を上がる。

上がったすぐ先でエナが待ち構えていたが、今は相手をしている気分ではない。

ジロリと睨んでやると一瞬だけ怖気付いたような表情を見せた。

が、すぐにそれは余裕の笑み変わる。

何をやったとしても、トゥーヤが逆らえないと踏んでいるのだろう。

手をひらひらと振り、艶然と笑いながらすれ違う様にして階段を下りて行った。

その姿に奥歯をかみしめ、唇を引き結ぶ。

いくら牙をむいて見せても、鎖の繋がれた犬に一体何ができるというのか。




自室の前を通り過ぎ、ナナエの部屋の前で立ち止まる。

気配は感じられない。

シャルの気配すらも感じられないと言うことは、ナナエは寝ているのだろうか。

以前はあれほど強かった魔力の香りも、魔種のせいか午前中に会った時は殆ど感じられなくなっていた。

人間であるならば全くわからないほどの香りしかない。

それだけ魔力を食われていると言うことなのだろう。

その存在の希薄さは酷くトゥーヤを不安にさせる。

己が主の存在の希薄さが、その命の希薄さを示しているように感じるのだ。

扉を開けてその存在を確認したい衝動に駆られるも、それをなんとか押しとどめる。


そうしてひとしきり扉の前で立ち尽くした後、己の部屋に戻るために身を翻した。




部屋の扉を開けるなり、僅かに強く香ったその香りにトゥーヤは眉をひそめる。

この部屋では香るはずのない、あの匂いだ。

部屋を出る前には、冷たさを湛えていたはずの暖炉には火がくべられていて、炎が揺らめき、仄かな温かさを室内へと提供している。

だが、その炎はとても弱々しい。

そして、匂いが香ってくる方向からは、明らかに人の気配がしていた。

そのことに戸惑いながらも、酷く心が浮き立つのは何故だろうか。

居室から続く寝室を覗けば、寝台の上にはまるで子どものように丸くなって寝息を立てているナナエが居た。


「なぜ……」


思わず口からそんな言葉が零れた。

昼に差しかかろうとしていたあの時、ナナエをかなり怒らせたはずだ。

顔も見たくないと言われた程だ。

側に居るなら死んでやるとも言っていた。

それが何故、トゥーヤの寝台の上で寝ているのか。


トゥーヤが思わずこぼした言葉に反応したのか、ナナエは眉間に少しだけ皺を寄せた。

そうして、包まっていたショールの前を掻き合わせるようにして縮こまる。

その動作にトゥーヤは我に返り、踵を返すようにして暖炉へ近づき薪をくべた。

ただでさえ熱があり、寝台の上での生活を余儀なくされている身だ。

トゥーヤならば耐えられるぐらいの肌寒さでも、ナナエには辛いだろう。

やや間をおいて炎は大きく燃え上がり、部屋が少しだけ暖かくなった様に感じる。

そして再び寝室の入口まで戻り、ナナエを見やりながらどうしたものかと思案した。


――近づくな。顔を見せるな。


そう言われてしまえば、何も出来ないのだ。

なのにトゥーヤの部屋で、トゥーヤの寝台を占拠している。

トゥーヤはただ黙って顎に手を沿え、困惑するしかなかった。










人の声が聞こえた気がした。

ぼんやりとした頭で考える。

あれは誰の声だっただろう。


最近は体がだるいせいか、寝起きが自覚できるほど悪い。

頭は起きているのに、なかなか瞼が開かない。

冬の寒さのせいもきっとあるのだろう。

首周りが妙に寒くて、包まっていたショールを前で引き合わせる。

すると、何かが急になくなった様に、瞼を閉じてても室内の柔らかい光を感じた。


その柔らかい光が、少しずつナナエの体を優しく目覚めさせようとしていた。

少し離れたところから何やら物音がして、ナナエに届く光が少しだけ明るさを増したようだ。

その眩しさに少しだけ眉をしかめて、ナナエはうっすらと瞼を開けた。

ナナエが寝ている場所からさほど遠くない部屋の入口付近に、もたれかかる様にして立っている人物が居る。

その背格好はナナエにはよく見覚えがあった。

ただ、向こう側だけが明るいせいか、影になりその顔が見て取れない。


「トゥーヤ?」


確認するように小さな声でそう呼ぶと、頭の上の耳がピクリと動いた。

けれどもその人影は歩み寄ろうとも、声を出そうともしない。

ただ、戸惑っているような雰囲気だけは伝わった。

その反応がもどかしくて、ナナエはのそりと体をゆっくり起こす。

相変わらず体が重い。

そのナナエの行動にも、その影は一瞬ピクリと肩を動かして、それでも迷った様に身じろぎをした末、やっぱりその場から動かなかった。


「なんで、黙ってるの?」


そう尋ねても返事はない。

しかし心なしか頭の上の耳がうな垂れたように見えた。


「返事して」


怒ったようにそう言うと、やや間をおいてから頼りなげな「はい」と言う声が聞こえた。

その答えに安心してナナエは少しだけ胸をなでおろした。


「話があるから、待ってた。トゥーヤ、こっち来て」


ナナエの言葉に許可を得たと取ったのか、トゥーヤが静かに寝台まで歩み寄ってくる。

そして、寝台のすぐ脇まで来ると、何を思ったのか跪いて俯いた。

その反応にナナエのほうが戸惑う。まるで一線を引かれた様な態度に、ちゃんと話そうと思った勇気が少しだけ萎んだ。


「普通にしてくれない?」

「……顔を見せるなと、言われましたので」

「ばっ……」


馬鹿じゃないの!と言おうとして、その言葉を慌てて飲み込む。

喧嘩しに来たわけじゃ無いのだ。

そもそもこういうことになった原因、そんな子供じみた罵倒をしたのはナナエ自身だ。

どちらが馬鹿かと言えば、確実にナナエの方だ。

馬鹿はナナエだ。


「……今日、私、酷いこと言ったよね」


ボソリとナナエがそう言うが、トゥーヤは微動だにせずそのままだ。

ともすれば挫けそうになる勇気を、ナナエは何とか鼓舞させる。

ここで挫けてしまったら、せっかくここまで来た、シャルに連れてきてもらった意味がないのだ。


「あんなこと、本当は思ってない。ごめんなさい」


震えそうになる声を気にしながら一気に言う。

それでも、トゥーヤはそのまま、顔を上げようともしない。

相も変わらず跪き、俯いたままだ。

その態度にいささか傷つきながらも、ナナエは言い繕うように言葉を重ねた。


「つい、言葉が出てしまっただけなの。あんなの本気じゃない」


それでもトゥーヤは動かない。

胸がズキリと痛んだ。

手を伸ばせば届く範囲にいるというのに、声が全く届いていないような感覚を覚える。


「ヤボラでのことも、全部謝りたかった。本当にごめんなさい」

「…………」

「心配もたくさんかけて、あちこち探させて、ごめんなさい」

「……心配など、しておりません。それが任務ですので」


やっと帰ってきた言葉の余りの内容に、ナナエは息を呑んだ。

急に壁を作られたような、そんな感じだ。

ナナエを拒絶しているといっても過言ではないその言葉に、ナナエは酷く狼狽えた。

謝れば許してもらえると思い込んでいたのだ。

トゥーヤだから、と。


「……許して、くれないの?」


かすれた声でトゥーヤに問う。

すると、トゥーヤは小さく静かに首を振った。


「許す、許さないと言える立場にございません」


それは明確な拒絶の言葉だった。

トゥーヤの方からナナエとの間に線を引いたのだ。

酷く胸が苦しく感じて、胸の前で両手を包み込むようにして握りこむ。


こんなことならば”許さない”と言われた方がましだった。

”許さない”というのはナナエの事を真剣に考え怒ったという証なのだから。

トゥーヤの言葉は、ナナエが真剣に考えたことですらどうでもいいと言っているようだった。

瞼をきつく閉じ、眉間にギュッと力を込める。


そうしないと、情けなく泣いてしまいそうだったから。


唇を引き結び、微かに震わせた後、瞼をゆっくりと開ける。

ここで挫けてしまったら、またやり直しだ。

以前みたいにトゥーヤに側に居てほしいと思っているのは本当なのだ。

それを伝えずにして終われない。


「トゥーヤ、こっちを見て」


固い声でそう言えば、トゥーヤはゆっくりと顔を上げた。

その顔には何の表情も浮かんでおらず、まるで初めて会った時のようなよそよそしい雰囲気を醸し出している。


「また前みたいに、側に居てほしい」


こわばった表情のまま、トゥーヤの目を直視しながらナナエは言う。

すると、トゥーヤの瞳は一瞬だけ迷う様に揺らぎ、すぐさまその視線は逃げるように床へと落とされた。


「お約束できかねます。私はもうナナエ様の専属従者ではございませんので。……この身はセレン王子様の預かりに戻っております」


トゥーヤのその言葉にナナエは下唇を強く噛んだ。

この結果を招いたのはナナエ自身だ。

拒絶されたからと言って、どうしてトゥーヤを責められよう。

最初に手を離したのはナナエの方なのだ。

自分からは平気で突き放しておいて、相手が突き放そうとしたらそれを許容できないのなんて自分勝手すぎるのだ。

ナナエに傷つく資格などない。

先に傷つけたのは自分の方からなのだから。


「約束……できなくてもいい。居れる時だけでいい。前みたいに。お願い」


予期せず涙が一粒零れた。

慌ててこぶしでぐっと拭う。


泣くのは卑怯だ。

自分が悪いのに、涙を流すことで相手に罪悪感を与える。

わかっているから、泣きたくなんかなかった。

今回の件で確実に非があるのはナナエの方なのだ。


「……承知いたしました」


十分すぎるほどの間をおいて、低い声がそう答えた。

それだけで十分だ。

これ以上泣いてしまわないように、ナナエは再びギュッと目を閉じる。


「ありがとう」


それだけ言うのが精いっぱいだった。


ショールをきつく引き寄せる。

そうすることで、おのれ自身を支えているような錯覚を起こせるから。

自分自身を抱きしめている気持ちになれるから。

崩れそうになる気持ちを今は支えなければいけなかった。

もうこれ以上、情けない自分になりたくない。


「自室にお戻りになるなら、お運びします」


トゥーヤの申し出にナナエは小さく頷いた。

スッと長く綺麗な指が背中に回される。

力強く抱き上げられ、そのまま身をゆだねる。

しっかりとした足取りがゆっくりと歩みを進めた。

気付かれない様に、歩みの揺れに身を任せているような風体を装いながらトゥーヤの胸にそっと顔を寄せる。

慣れ親しんだトゥーヤの匂い。

そして、少しの汗と、微かな鉄の匂いがした。





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