<28> イェリアとファルカ
ナナエの反応は予想の範囲内だった。
元々はナナエに苦言を呈するつもりでいた。
浅はかな行動を非難するつもりだったのだ。
しかし、シャルからその原因と思われるナナエの心情を聞かされてしまい、そうはいかなくなったのだ。
そして、今の状況も、それは大いに関係ある。
あの言葉は、傷つけるとわかっていながら言ったのだ。
ナナエを傷つけたくないから、傷つけるしかないのだ。
トゥーヤはナナエほど綺麗な人間を知らない。
それは美醜の問題でも性格の問題でも人間性の問題でもない。
純粋に彼女は汚れていないのだ。
人の悪意に染まったことがない。
そう言えばいいのだろうか。
ナナエは人の善意を信じすぎるのだ。
その裏にどんな思惑が隠されているのかと疑うこともしない。
だからこそ、自分のために誰かが手を汚すことを嫌い、それならば自分もと極端な思考に走る。
だが、甘い。
この世界では善と悪、好意と悪意で割り切れるものではないのだ。
ナナエの考え方でいけば、この先必ず行き詰る。
時には善悪関係なしに手を汚さねばならない時もあるだろう。
その時にナナエは耐えられるのだろうか。
答えは否だ。
関係がないのに謀反の渦中に置かれても不平を言わない。
自分を拐かした相手ですら、事が済めば恨みもせずに側に置く。
身の危険があった時には自分の非を嘆く。
騙す様にここへ連れてきたエナにすら悪感情を持った様子もない。
そのナナエに、自分の為に非の無い人物を害すということが耐えれるとは思えない。
そしてそんなことがこの先ないとは言い切れないのが現状だ。
ならば逃げ道を作ってやらねばならない。
気持ちの逃げ道を、だ。
ナナエには必要なのだ。
自分の意に反して動き、影の部分を担う人物が。
ナナエ自身がその事実を知った時に、”自分はそんなこと思っていないのに、自分以外の誰かが勝手にやってしまったから仕方がない”と気持ちが逃げれる理由にならなければいけない。
表立ってナナエを守り、心の支えになるのにはルーデンスがいる。
今までのいきさつを考えれば近づけるなどもっての他ではあるが、その地位と能力を考えれば、この先ナナエを守るのに利用する方が得策である。
それに。
ルーデンスがナナエを光の部分を支えるというのなら丁度いい。
自分は逆の部分から支えればいい。
元々、トゥーヤは闇の側の人間だ。
この役割配分はベストと言って過言ではない。
多少、ナナエを怒らせたり、傷つけたとしても、誰かがやらねばならないのなら。
そうやって側にいれるのならそれでいいのだ。
どうせ、ナナエの側に居ることができる時間はもうわずかしか残されていない。
その間の闇をすべて受け持つぐらい、なんてことはない。
先程。
ナナエを傷つけ、怒らせ、顔を見せるな、近づくなと言われはした。
しかし、随分と自惚れているとは思うが、ナナエはきっと自分を嫌ったりはしないだろう。
彼女はそういう性質の人間だから。
だからこそ、安心して闇の側に回れるのだ。
その立場が、嫌じゃないとか、辛くないとかと言えば嘘になる。
うまく立ち回れば、ルーデンスのように光の側に立ちながら闇をも上手くこなせるかもしれない。
しかし、それでは非効率なのだ。
いずれ歪が出る。
その歪が出たときに有無を言わせる何かがトゥーヤには無い。
だから闇の部分を受け持つのだ。
そして、それが。
トゥーヤが彼女の元にいられる大義名分になるのだ。
「納得されました?」
部屋から出てきたトゥーヤを待ち構えるようにして、廊下の角に立っていたエナが艶然と微笑みながらトゥーヤに声をかけた。
それにチロリと目を向けて、すぐに視線を外しその目の前を通り過ぎる。
今、見たくない顔のナンバー2といったところか。
「あのままなら、死にますわね」
後をついてくるようにして、微かに笑いの含んだ声でエナはトゥーヤに告げた。
言われなくてもわかっている。
あのままでいけば長くは持たないだろう。
仕掛けたという時期を聞いた上で考えれば、進行が遅すぎるくらいだ。
あの薬と、彼女の体質のおかげであるとしか言えない。
一刻も早く何とかしなければならない。
「これでも、同情はしておりますのよ?ですから、延命の薬を毎日届けて差し上げてますの。延ばすだけ、ですけどね。うふふふ」
ひねり殺してしまいたい衝動を抑えつつ、トゥーヤは軽く下唇を噛む。
ナナエは他の誰よりも被害者だ。
オラグーンの王子と出会ってしまったが故にその身を危険に晒されている。
身に覚えのないことで、痛くない腹を探られ、念のため、で命を狙われているのだ。
今回の結果も、ファルカ家が警戒を怠った故の結果だ。
イェリア家がファルカに永続的に絶対服従だと思い込んでいた、その気のゆるみが原因である。
イェリア家はバドゥーシに寝返った。
それを予測できなかった、察知できなかったのは、ファルカの当主、父の、そして次期当主であるトゥーヤの責任なのだ。
「さて、いつまで体力……いえ、魔力が持つのか、楽しみですわね?」
楽しそうな声を隠そうともせず、エナが言う。
エナは恐ろしくイェリアの気質を受け継いでいる。
表面上は大人しく、目立たず、笑いながら。
そうやって悪意も持たずに平然と嘘をつき、人を陥れ、殺す。
そんなイェリアの本質はファルカもわかっていたはずだ。
だからこそ、ファルカはイェリアの娘との婚姻で結びつきを強くしていた。
トゥーヤの母も祖母もイェリア家の人間だ。
トゥーヤがもっと早くエナとの結婚を決めていればこの事態は免れていたかもしれない。
二か月前、ナナエが森で襲われたあの日。
あれがイェリア家の最後の譲歩だったのだろう。
あの日、エナとの早急な婚姻を求められた。
オラグーン王家の情勢が不安定な今、結びつきを強めるべきだと。
それをトゥーヤはにべもなく追い返した。
誰とも結婚する気はないと。
あの時、”なぜ今だったのか”と裏の裏まで考えるべきだったのだ。
なぜ、あの後、ナナエだけではなくトゥーヤやマリーまでもが刺客に狙われたのかというのも。
ナナエの側に居る時ならば狙われても当然だったが、あの時は一緒にいなかった。
つまり、トゥーヤ自身、マリー自身があの時点で邪魔になったのだ。
イェリアはバドゥーシに敵対するオラグーン王家、そしてそれに組するファルカ家を排除の対象に加えたということに気付くべきだった。
身を隠すために移ったエーゼル。
あの場所からさほど遠くない場所にエナが住んでいたというのも本当に運が悪かった。
いや、イェリアからすれば流れはイェリアにあったと思っても仕方が無いほどのことだったのだ。
あまつさえ、ナナエという餌が自分から出向いてくれたのだから。
イェリアは非常に狡猾だった。
ナナエに過度な警戒をさせることなく、まんまとこの本拠地まで連れ込んだのだから。
「ああ、次期当主様じゃないですか。お着きになられてたんですね。ご無沙汰しております」
階段ホールまで出たところで、柔和な顔立ちの特徴のない男が慇懃無礼に声をかけた来た。
イェリア家次期当主だ。
名前は、忘れた。
覚える価値もないほど能力的に平凡な男だ。
それでもイェリア家は嫡男が継ぐ世襲制だ。時代遅れも甚だしい。
能力的にならシャルが抜きんでているのは誰もが知っていることだ。
信頼を置ける人物か否かという点においてもシャルのほうが抜きんでている。
イェリアに生まれたことが不思議なぐらいの出来のよさだ。
そのシャルを差し置いての次期当主が、コレというのはトゥーヤでなくともため息をつきたくなるところだ。
「なにか?」
ジロリと睨んでやると、男は大げさに思えるほどにたじろぐ。
それほど、トゥーヤと男には能力的な差があった。
トゥーヤが殺そうと思えば30秒と掛からないだろう。
彼はエナがくすりと笑うとバツが悪いように襟を正して咳払いを一つし、無駄に取り繕って見せた。
「姫のお加減はどうかと思いまして。ナナエ様、でしたか」
気を取り直したのか、ニヤニヤと笑いながら男が言う。
その名前を出すことで、優位に立てると踏んでいるのであろう。
浅はかな男である。
「なぜ私に聞くのですか」
怒気を孕んだ瞳で少し顎を挙げて睨んでやると、男はごくりとつばを飲み込む。
つくづく小物だ。
「あらぁ、トゥーゼリア様はご存じありませんでした?」
くすくすと笑いだしたのはエナだ。
トゥーヤの視線にも少しも怯んだ様子を見せない。
「兄様がナナエ様を気になさるのは当然ですわ。トゥーゼリア様の働き如何では、ナナエ様は兄様の妾として下げ渡される予定ですもの。死ぬまでの短い間、ですけど」
そう言ってエナが高笑いをしてみせる。
イェリアの狙いは的確だった。
ファルカ家を簡単に排除できないとすぐさま理解したイェリアはナナエに狙いを絞った。
ナナエに狙いをつけることで、バドゥーシの意にも沿い、ファルカを下に置ける足がかりになると踏んだのだ。
「身の程をわきまえていただきたいですね」
「うふふ、立場をわきまえたほうがいいのはトゥーゼリア様ですわ。いつでも死んで頂けるのに」
ナナエを餌にすればトゥーヤが従わざるを得ないと心得ているようにエナは挑発する。
そのエナに隠れるようにして、勢いづいた男が口を開いた。
「なかなかの女性らしいではないですか。近いうちに味見でもさせていただきましょうかね?」
「まぁ、お兄様。それはいい案ですわね?ナナエ様を助けることにもつながりますし」
エナがそれをさらに増長させるように高らかに笑う。
ぎりりと歯噛みをし、トゥーヤは壁に強くこぶしを打ち付けた。
男はビクリと一瞬身震いをした後、青い顔で口を閉じる。
エナは、と言えば面白くなさそうに横目でトゥーヤを見た。
「事実を言っただけですわ。トゥーゼリア様ができないのなら兄がやって差し上げようという親切心ではないですか」
悪びれもせずにエナは細く笑う。
言葉とは裏腹にひどく優しげな笑顔だ。
虫唾が走る。
エナはナナエに種を仕込んだ。
ただ飲み込ませるだけの簡単な方法で。
薬だと言われれば、ナナエのことだ、疑いもせずに飲んだだろう。
その種はイェリア家の秘術だ。
その存在をファルカ家は知っているが、詳しい製法、除去法などは何も知らなかった。
魔種と呼ばれる種を宿した者は、その魔力を魔種に養分として吸われる。
命を糧にするのだ。
豆粒ほどの種は魔力を養分にして育つ。
最初は体内で育ち、宿主にはそれが熱という症状になって表れる。
次に心臓の真上、丁度胸の真ん中あたりに魔種が宝石のように浮かび上がる。
そして、心臓と同じ大きさまで育つとその心臓を取り込んで砕けるのだ。
もちろん、それは宿主の死を意味する。
その砕けた破片は魔核と呼ばれ、すり潰せば魔薬となり、今では医療薬として非常に高い価値がある。
イェリア家当主はその事実をトゥーヤに告げる時に残念顔をして言ったものだ。
「セレン王子の子を身籠っていたら、死なずに済んだかもしれませんでしたのにね」
と、最後にはくすくす笑いながら。
元々そのつもりだったのに、至極わざとらしい。
ナナエが王子の子を身籠っていれば子を殺すつもりでエナに種を使わせたのだ。
仮に身籠っていなくとも、トゥーヤへの餌として使うのは大前提でもあったはずだ。
結局、脅しても除去方法は明かしてはもらえず、ただ、腹に子がいれば、魔核は子に寄生すると告げた。
子に寄生すれば、10月10日後に巨大な魔核を生み落したのに、と残念そうに。
そしてニヤリと笑っていった。
「子を作るのは今からでも遅くはないですよ?」
純度の高い魔核を作るのならやはり子が一番だと。
今からでも身籠れば魔種は子に寄生するだろうと。
浮かび上がる前なら可能だとも。
そうトゥーヤに煽って見せた。
ナナエを助けるためには、子を作るか、イェリアに従うかの二つに一つだ。
吐き気がするようなおぞましいことを平気で繰り返して言った。
だが、トゥーヤは知っている。
魔核となった子を宿した女性たちの末路を。
女たちは子を通じて、結局少しずつ魔力を吸われ続けるのだ。
その殆どが子を宿したまま、魔力が尽きて死ぬ。
かろうじて生きながらえたとしても、出産に耐えられず、そこを乗り越えたわずかなものは皆、心が死んだ。
ナナエの魔力の膨大さから考えれば、魔力が尽きて死ぬことはないかもしれない。
しかし、通常時でさえ出産には危険が伴う。
ただでさえ、体力があるとは言い難いナナエが出産に耐えきれるのだろうか。
そして、魔核を産み落とすことに耐えれるのだろうか。
無理に決まっている。
いくら気丈な娘だと言っても、余りにも無体すぎる。
「親切心……面白い言葉だよね~」
嘲るような幼い声がした。
その方向をみると、食事を乗せたトレイを運ぶ途中のシャルの姿。
その姿を見るや否や、エナは眉間にしわを寄せた。
「子供の出る幕じゃないのよ。さっさとお行きなさいな」
あしらう様にそうエナが言うと、シャルはにこりと笑って見せる。
「その子供の僕にすら勝てないのに、面白いことを言いますね、姉さん?」
「人をうまく殺せるのが自慢になるなんてほんと子供ね」
「そ、そうだぞ!俺の親切心がわからないなんて、お前はホントいつまでも子供だな」
エナの言葉尻に乗っかるようにシャルの兄が言う。
それをエナは不愉快そうに視線をちらりとやりながらも、黙った。
「ナナエ様に手を出すなら、僕が兄さんを殺すよ?」
シャルが脅すと、男は顔を白くし、反対にエナは笑った。
「……ホント馬鹿ね。私たちを殺してもナナエ様は助からないわよ?」
「馬鹿は姉さんだよ。どうせ助からないのなら殺しても一緒だろ?それに、兄さんや姉さんが死んでも、父さんはトゥーゼリア様との駆け引きはやめないはずさ」
小馬鹿にしたようにシャルが鼻を鳴らすと初めてそこでエナが顔色を青くした。
イェリア家当主の性質を誰よりも知っているのもまた彼達だ。
どんなに当主の威を借っても所詮小物は小物なのだ。
「シャル、いい加減におやめなさいな。母は悲しいですよ」
シャルの丁度後ろ側にあったドアから優雅に出てきたのはシャルの母親、つまりイェリア家の奥方だ。
老いても美しさを損なわずに、そして何事にも動じないような落ち着いた雰囲気のある女性である。
「……母様」
シャルが唯一、強く出れない相手。
母親、それがシャルの弱点だ。
シャルの年齢から考えれば無理からぬことだ。
「お兄様やお姉様は敬うものですよ。わたくしの教育が至らなかったのかしら?」
たおやかに微笑み、手にした扇で軽くシャルの肩をたたく。
そうするだけでシャルは言葉を失い、下唇を噛んだ。
「トゥーゼリア様、お見苦しい所をお見せいたしましたわ。お部屋を、ナナエ様のお隣にご用意させていただきましたの。どうぞ、お戻りに」
好き勝手な行動は許さないとばかりに、イェリア子爵夫人は扇で口元を隠し、目を細めながら笑う。
当主が何をしているかも、何をしようとしているのかも。
知っているのはおそらく彼女だけだろう。
「シャル、あなたはナナエ様のお世話をよくするのですよ。カズル、下品なことはこの母が許しません。父上からお許しが出るまでは部屋にも近づいてはいけませんよ?そして、エナ」
そこで夫人はいったん言葉を区切ってエナに向き直った。
その視線は先程までとは違い、厳しい目をエナに向けている。
「あなたはトゥーゼリア様に気に入っていただけるように振る舞いなさい。一刻も早く、子を授けてもらわないとね」
あくまでも口調は優しく、微笑んでそう言う。
ただし、有無を言わせぬ雰囲気が込められていた。
ナナエに仕掛けられた魔種。
それを除去するための条件の一つがエナとの婚姻だ。
イェリアにおいてもファルカにおいても婚姻の誓いは絶対だ。
相手の家族には手を出さないという誓いでもある。
つまり、婚姻を結ぶことによってトゥーヤ自身はイェリア家に害をなすことができなくなる。
名実ともにファルカの長となるトゥーヤを、イェリアとしては抑えたいのだ。
力で抑えることができないからこそ、血の契約で抑える。
その交換条件がナナエの命だ。
イェリアがトゥーヤに示した条件は3つ。
1.エナとの婚姻を結び、血の契約を交わすこと。
2.バドゥーシに組しないオラグーン有力貴族の当主の暗殺
3.セレン王子、及びパーリム大公クォルツの暗殺
これら全てを飲み、実行することがナナエを救う。
一つでも欠けてはいけない。
そう突きつけてきた。
ナナエと出会う前であったなら。
トゥーヤは何の迷いも持たずにナナエを見殺しにし、イェリア家の一族を殺しただろう。
だが。
もう出会ってしまっているのだ。
こんなにもナナエはトゥーヤの心を離さないでいるのだ。
オラグーン王家を守る役割のあるファルカ家の次期当主が、一人の娘の為にその王家に刃を向ける選択を迫られ、選択できずにいる。
そしてそのタイムリミットはナナエの命が尽きるまで。
条件をのむにしても、飲まないにしても。
トゥーヤがナナエの側に居る事のできる残り時間は少ない。
勿論、条件は飲むつもりだ。
一生イェリアに飼い殺しにされることになろうとも。
ナナエの為に幾人もの命を奪うことになろうとも。
それによってナナエが傷つき、泣くことになろうとも。
たとえそれが、自分自身の心を、身体を殺すことになろうとも。
自分の忠誠はもうナナエに捧げてしまったのだから。




