<10> 幕間 シャルの回想
──シャルだけが頼りなの。
そう言われた時に、確かにシャルの胸は高鳴っていた。
今まで一族の中では一目置かれていたとはいえ、任務に就くたびに依頼人から軽んじられることがままあったからだ。
どんなに一生懸命任務をこなそうと、年が若い、外見が子供だと言うだけで坊や扱いだ。
──僕の中身をちゃんと知ろうともしないで。
ファルカ家次期当主トゥーゼリアから連絡があったのは、そういう依頼が続く中、シャルがだんだんと外の人間に対して期待をしなくなっていた時だった。
トゥーゼリアが護衛している貴人の護衛補佐につけという。
しかも、ファルカ家の令嬢、マリーも護衛補佐として同じ任についているらしい。
正直、ファルカ家の者が2人も付いて、まだ足りないとはなんと傲慢な貴人なんだろうとシャルは思っていた。
ファルカ家当主より”次期正妃候補”とは聞いていたが、ファルカ家の護衛でも物足りないとは鼻持ちなら無い女だと思っていたのだ。
「はじめまして、ナナエです。これからよろしくね」
そう言って腰を落としてシャルの手を握った女性は、飾り気が無く、とても素直な明るい瞳をしていた。
ずっと小さい頃から人を殺したりと後ろ暗いことばかりしてきたシャルにとって、その瞳は己を恥じさせるのに十分だった。
どうやって生きてくれば、ここまで真っ直ぐな瞳になるのか。
人を疑うことがすっぽり抜け落ちたような、無防備な瞳は、本来シャルのような年代までの子供が持つものだ。
それを大人であるこの正妃候補と言うナナエは持っていて、子供であるシャルは持っていない。
それがとても恥ずかしいことのように思えたのだ。
ナナエは観察すれば観察するほど酷く一般の令嬢とはかけ離れている。
まず、給仕をする者が居るのに、気がつくと自分で何でもやっている。
それを見つかるたびにトゥーゼリアに怒られて、説教されて口を尖らせている。
しかも行動パターンが恐ろしく単純なので、シャルにしてみればこれほど扱いやすい主人は居ない。
ちょっと行動を先回りするだけで、感動して誉めそやすのだ。
……単純なのは行動ではなく、頭の中身だったのだろうか。
それが終われば、マリーとこっそり食い倒れ企画を立てていたりして、その立てている間中も2人でひたすらスイーツを食べる。
マリーとナナエは主従の関係というよりは気安い友人と言った雰囲気だ。
言葉遣いだけ主従っぽい。
むしろあれは主従プレイと呼ぶべきではなかろうか、とシャルは何時も思う。
まれに主従が逆転して見えるときも無きにしも非ず、だ。
最近はそのスイーツの会とやらにシャルも入れられてしまった。
スイーツは嫌いではないから良いのだが、常に食べ続けるのは遠慮させてもらいたい。
そもそもナナエがスイーツテロというほどのあの大量の菓子は一体どういう意図で贈られて来るのだろうか。
それが不思議でならない。
どう考えても量が多すぎだろう。
送り主はアホなのか?
そして、ひとしきりスイーツを食べた後は、おもむろに筋トレをはじめる。
といっても、今日は腹筋3回で挫折していた。昨日は1回だっけ……一応進歩しているのか?
スクワットは昨日20回やっていたのに、今日は5回で止めている所を見ると、総合的には退化している。
そして、ごくたまに”あきらめないで!”とかぼそぼそ言っているところを見ると、ダイエットとやらはどうやら成功していないらしい。
そうそう、ナナエの傍にはもう一人の執事が居る。
ルーデンスだ。
最初は本当に執事見習いかと思っていたら、エーゼルの国王だというから驚きだ。
シャルがナナエの元に付くことになった大元の原因もこの国王らしい。
そして、ルーデンスは本気でナナエを正妃にと望んでいるらしいとも聞いて、シャルは二度ビックリだった。
オラグーンとエーゼル、2つの国から正妃に望まれるとは異例のことである。
正直、それほどの人物には思えない。
美醜で言うならば悪くは無い。いい方と言えると思う。
ただし、そんなに手放しで褒め称えるほどではない。これは断言できる。
性格は……
一言では筆舌に尽くし難い。
とりあえず、素直だ。思ったことがポンポンと口から出る。
その内容の八割が妄想で固まっていることがままあるが、それは触れないことにした。
次に、ぐーたらと見せかけてそれなりに勤勉だ。
常に効率化がどうとか経費削減だの経常利益だの机上の空論ばかり無駄に考えているっぽい。
そもそも考える内容が貴族女性の考えることじゃない。
手が空くと本を読んでいることが多く、経営や商売についての本を読んでは甘い……とか言っている。
そうかと思えば戦争時の戦略指南本などを読んでいたりするので訳がわからない。
そういえば最近は”ふぁいぶうぇいぽじしょにんぐ戦略”とやらの本が読みたいといってた気がする。
これも戦略指南本なんだろうか。戦争でも始めるつもりか?
午睡のときの寝言が「……値上げ…ウハウハ……」だったときには流石に引いた。ドン引きだ。
普通の貴族の令嬢らしくしろとトゥーゼリアが嘆くのも頷ける。
そして真面目でお人好しだ。人から相談されるとまず断れない。
その結果、ストレスを大きく抱えて帰ってくることもしばしばだ。
この間は部屋の外で見張りをしていた時、うんうん言う声が聞こえて窓からそっと覗いてみたら、ナナエがお腹を押さえて寝台の上で唸っていた。
どうするべきかと戸惑っているうちにトゥーゼリアが室内に現れて、何故かナナエは寝台の上で正座させられていた。
どうやら説教を受けているらしい。
ナナエはお腹を押さえながら半べそになっていた。
夜中に何をやっているんだ、あの二人は。
あの二人といえば。
ナナエに仕えるようになってシャルは初めてトゥーゼリアの笑顔を見た。
というか、あんなに喋っているトゥーゼリアを見るのも初めてだ。
トゥーゼリアと言えば仲間内では【沈黙の訪れ】と揶揄されるがごとく、己も無言で相手に一言も発せさせずに息の根を止めると言われている。
そしてどんな依頼も、ピクリとも表情を動かさず、能面のような顔で達成するのだ。
それが、だ。
ナナエの前だとトゥーゼリアが普通の青年に見えるのだ。
まぁ、多少感情の起伏は普通レベルよりは乏しいかもしれないが。
説教をするトゥーゼリアなど仲間内で誰が想像することができるだろうか。
身内であるマリーにすら言われているのだ。
ナナエの前のトゥーゼリアは別人だと。
特筆すべきは【わんこ酒】という物だ。
トゥーゼリアにひたすらシャンパンを注がせ、ナナエはひたすら飲む。
何か楽しいのかわからないが、2人はそれをかなり楽しんでいる。
片方が高い酒をばかばか飲ませ、片方がばかばか飲む。
そうしてナナエが酔い潰れれば、トゥーゼリアは酷く愛おし気にナナエの髪を撫で、優しく抱き上げると寝台に運ぶのだ。
ナナエもナナエで、酔った勢いなのかよく子供のように甘えていた。
時折寝台に運ばれた時に起き、トゥーゼリアの手を離さない事がある。
そんな時はトゥーゼリアは寝台の端に腰をかけ、朝方まで寝入るナナエを楽しそうに眺めながらじっと手を預けたままでいた。
一族の生業柄、みなじっとするのは得意ではあるのだが、あそこまで穏やかな表情で居れるのは、相手がナナエだからなのであろう。
まるで親子のようだと思ったものだ。
そんな二人は表面上はどうであれ、とても信頼しあっているように見えた。
阿吽の呼吸というのだろうか、多くを語らなくても予定調和のように動くのだ。
全く正反対とも言える2人のその関係を見ると、シャルには酷く眩しい遠くの存在のように思えた。
ナナエの話に戻ろう。
ナナエはシャルを子ども扱いしない。
いや、正確には子供だからといって差別をしないのだ。
子供だから危険だとか、子供だから安心できないといったそぶりは全く見せない。
先日、森で襲撃にあった時。
一段落したところで、ナナエはシャルを心配して走り寄ろうとしたことがあった。
あの時は一瞬、シャルが子供だから心配されたのだと思い、落ち込んだものだ。
結局その心配とやらはシャルだけに向けられていたわけではなかった。
それはあの後のタバサへの取り乱し様や、ライドンの邸宅に戻ったときのマリーを心配しての行動も、シャルの時となんら変わりは無かったのだ。
彼女にとっては、それが例え自分よりもずっと強いものであっても、心配の対象であることには代わりが無いのだ。
彼女の前では子供だろうが大人だろうが平等なのだ。
唯一平等でないとすれば。
シャルにはナナエを運ぶ役だけはさせてもらえない。
常にその役はトゥーゼリアが受け持っている。
シャルだって一応男だ。
そして、ナナエは一般女性にしたらかなり小柄だ。
やろうと思えばできない事は無いのだが、行動が著しく制限される。
だが、寝台に運ぶ程度なら問題ないのだ。その状態で飛んだり跳ねたりする訳ではないのだから。
しかし、トゥーゼリアがそれを良しとしないし、ナナエ自身も選択権があれば「トゥーヤ」と言う。
時折それでルーデンスと揉めているのを見る。
やはり信頼の度合いが違うのだろうか。
トゥーゼリアはナナエの付き合いが3人の中で一番長いと言うのだから、仕方がないかもしれない。
多少の不満はあるのだけれども、仕方がないと思うことにしている。
本当ならば、どんなことでも一番で居たいと思うのだが、相手がトゥーゼリアならば引くしかない。
信頼度からしても、実力からしてもトゥーゼリアが秀でているのは覆しようが無いのだ。
その日。
ナナエはいつもとは違ってかなり着飾っていた。
夜会に出席すると言うことで、マリーも屋敷の使用人も張り切って着飾らせた結果だ。
「折角着飾っているのに誰もきちんと褒めてくれない!」とか「着飾ったらどんなに酷くても褒め称えるのは執事の義務だ」とかナナエは無茶苦茶な不平を洩らしていた。
だが、シャルは知っている。
着飾ったナナエを見てトゥーゼリアが一瞬息を呑んでいたことや、ルーデンスが満足げに目を細めていたことを。
もちろんシャルはきちんと言った。
「ナナエ様、今日はいつもと違って、とってもお綺麗ですね!まるで普通のお姫様みたいです!」
と言ったら一瞬喜んだ後、微妙な顔をしてガックリ肩を落とした。
何か間違ったのだろうか。
ナナエがルーデンスと共に屋敷内に入った後、トゥーヤは屋敷の東側、シャルは西側の警戒を受け持つことになった。
マリーは他の使用人に不審がられない様に馬車での待機だ。
2時間ほどは何事も無かった。
不審な人物も居ない、と思っていた。
そんな風に少しだけ気を緩めた時、建物の西側の端の方で小さく人を呼ぶ声がした。
「トゥーヤ、マリー?シャル?誰か居ない~?」
その声は小さかったが、はっきりとシャルはその耳に捕らえた。ナナエだ。
何かあったのかと急いでその声の元へ行き、目の前に降り立った時。
ナナエのその姿に驚愕させられた。
ショールを羽織ってはいるものの、肌の透けた肌着しか着ていない。
足も腕も胸元も大きく露出している。
この2時間ほどの間に何が起こったと言うのか。
そして言われた。
──シャルだけが頼りなの。
その言葉に衝撃を受けた。
胸が高鳴った。
その時だけのものであったのは理解し、その内容もたいした物でもないことはわかっている。
しかし、それはシャルの心を躍らせるに十分だった。
マリーやトゥーヤではなくシャルだけを頼りにしてくれた。
その時だけ、その一瞬だけのこと。
それでも、それは酷く甘美に耳に残った。
服を手に入れることはできなかった。
しかし、丁度よい長さの厚手のケープを手に入れ、当座はこれで凌いで貰おうとナナエのいた部屋へと戻った。
そしてその部屋の惨状に冷や汗が流れる。
部屋はめちゃくちゃだった。
ガラスの破片が散らばり、窓枠が無くなり。
部屋の中は水浸しでテーブルは二つに割れ、観葉植物らしき植物が鉢ごと粉々になって散らばっている。
何かが起こったのは間違いが無かった。
そしてその水浸しの中できらりと輝くもの。
薔薇の形をした紅い石と涙のように白く輝く石。そして銀色に輝く鎖。
見覚えがあった。
つい先ほどまではナナエの首元で輝いていたはずだ。
それを見れば、何かあったのは部屋だけでなく、ナナエ自身にもと言うことがわかる。
ゾクリとした。
すぐに部屋の入り口を確認する。鍵が掛かっていた。
踵を返すようにしてバルコニーに戻り、そこから周囲を見回す。
シャルが来たのとは逆の方向から争うような音が聞こえる。
急いでその場所へ向かったときに目にしたもの。
それを見た瞬間、激しい怒りが沸き起こった。
使用人風情が、ナナエを組み敷いていたのだ。
その手はシャルがナナエに貸した上着を引き剥ぎ、その下の肌着を破った。
我慢がならなかった。
すぐにでも殺してやろうかと思ったが、普通の殺し方ができそうも無かった。
ナナエをおびえさせるのは得策ではない。
だから、声をかけた。
今思えば即殺しておくべきだったかもしれないと思う。
「お嬢様から離れていただけますか」
その声で男は瞬時に飛びのいた。
すぐに小刀を数本放ってみたが、簡単に避けてみせる。
どう見てもまともな使用人の身のこなしではない。
「うっはー。気配全然読めなかった!姫さんの護衛怖えぇぇーーー」
腹立たしいほどの軽薄さで笑いながら男は鞭を持って身構えた。
エーゼルには鞭使いの手練がいると聞いたことがあった。
それが彼なのだろうか。
どちらにしても、シャルの主人であるナナエを害しようとした時点でシャルの敵である。
敵ならば排除するまでだ。
ふと背後のナナエが体を起こしながらシャルの名を呼んだ。
視線をナナエにやり、後悔する。
酷い姿だ。肌着が辛うじて肌を覆っている程度だ。
ナナエは青い顔をして慌ててシャルのジュストコールで体を隠す。
その姿に自分の不手際さが要因である事を自覚させられた。
腹が立てば腹が立つほど、自分の中に冷たく澄み渡っていくように冷えていくものがある。
──さて、どんな殺し方をしてやろうか。
遊んでやるように適当に小刀を投げる。
ナナエの前で殺すことはしない。
適度に泳がせて、この場から遠ざけ、その場で殺す。
それはもうシャルの中では決定事項だった。
ルーデンスの登場はシャルにとっては想定外だった。
よくよく考えてみれば、ナナエが一人でいる以上、ルーデンスが探しに来る可能性はあったのだ。
しかし、シャルはルーデンスの存在自体をすっかり忘れていた。
ルーデンスにあの男をくれてやるつもりなどは無かった。
あの男はシャルの獲物だ。
しかし、ルーデンスの言葉に一瞬だけ振り返ってナナエを見てしまった。
その酷く不安げで頼りなげに揺れる瞳を見てしまったのだ。
ナナエのその瞳を見てしまったら、もう動けなかった。
そうしてシャルが出遅れている間にルーデンスと男は消えた。
男を殺すチャンスを失ってしまったのだ。
見繕ってきたケープを拾い上げ、ナナエに渡す。
ナナエにこのような姿をさせたのはシャルの失態だ。
早くと言われていたのに、その緊急さを推し量れていなかった。
早くと言ったからには、ナナエ自身は身の危険を感じていたと言うことだ。
シャルがもう少し体が大きく力があれば、その時点でナナエを抱いて連れ出すことができたはずだ。
結局。
どう抗おうと、否定しようと、シャルは子供なのだ。どうしようもないくらいに。
あの場に行ったのがトゥーゼリアであったのなら、ナナエはこんな目にはあっていなかったはずだ。
それが酷くシャルを傷つけた。
「トゥーヤ」
音も無くナナエの隣に降り立ったトゥーゼリアを見て、ナナエはやわらかい笑みを見せた。
先ほどまで青い顔でぎこちない笑顔を無理に見せていたのが嘘のようだ。
だがトゥーゼリアは無表情だった。
ナナエは気づいていないだろう。
他愛ない言葉を紡ぎながらも、トゥーゼリアからは押さえきれないほどの殺気が漏れ出ている。
口調や仕草が気安いものであるのに表情だけは無表情を崩せなくなっている。
それがトゥーゼリアの怒りの深さを表していた。
シャルを責めもせず、その怒りは駆けつけることができなかった自分への怒りと、ナナエを害そうとした者への怒りで占められていた。
2人はまるで何事も無かったかのような軽い会話を続けた。
そしてナナエは子供のように甘えたことを言い、トゥーゼリアはそのまま甘えさせる。
トゥーゼリアが抱き上げてもナナエは少しも嫌がりもせず、普段とまるで変わらずに不平を並べる。
その様子に初めてトゥーゼリアがほんの一瞬だけほっとした表情をした。
しかし、それがシャルには面白くなかった。
このぐらいの事では揺るがないその信頼関係を、シャルはとても妬ましく思ったのだ。




