僕たちは書くために、本をどう読むべきなのか
はじめに
こんにちは皆さん。皆さんは「本を読んでいますか?」また、「あなたには、とっておきの、あなた自身にとってもっとも大切な本はあるでしょうか?」
僕にはたくさんあります。ライトノベルにも、ゲームにも、ハードSFにも、純文学にも忘れられない物語と言葉があり、それらは僕に様々な影響を残しました。結局、僕が書き始めた理由はやはりこうした本の影響なのです。
今回は読書についての話です。それもある傾向で読書をすべきだろうと言う話です。そう、小説を書くために、より良い小説を書くために本を、もっと言えば他の作家の本をどう読んだらいいのだろうかと言う話を論じてみようと話です。
もちろん、ここで書いた論は、僕の一意見であって、もっといい意見もあるかもしれないし、中には違うよと思う方も現れるかもしれません。でも、それはそれだと思っております。なぜなら、よほどの天才を別にして、素人だろうとプロだろうと小説を真剣に書いていくのなら、小説をどう読み、そこから何を学ぶかを避ける事が出来ないのではないかと思うからです。また、こういう文章を書いてみたくなったのは、皆さんがどういう本の読み方をしているのか、知ってみたいと思うことでもありました。
「僕は読み専門だよ」と言う方もいるでしょう。「本は楽しんで、自由に読めばいいんだよ」という意見は実にもっともです。でも、読み方を変え、こだわって理解しようとすると、小説はまた違った側面を見せはじめるのです。そうした読み方を積み重ねると、内面に確実に何かが残っていきます。
たとえ、書き手としてその時は成長できなくても、いつかは自分の中にウェーブがやってきます。それに乗る事ができれば、自分の小説を大きく成長させることができるかもしれません。もちろん僕もそうありたいと願っています。そのために、優れた小説をリザーブし、しつこく読むのです。
一つのやり方
まずは、読みます。自分の選んだ小説を読むと「ああ、面白いな」とか「ちきしょうーそう来たか」「キャラの造詣や描写がうまいな。バトルが巧みだ」とか感想を持つでしょう。逆に「つまんねえ」「安易だ。筋が破綻してんじゃんねえか」「なにこの超展開www」とか、僕もそういった感想を普通に持ちます。とにかく一読者として小説を楽しみます。まあ、ここでもういいやと読了してしまうことも多々あります。
でも、ここから先、何かあるなと、判別が付かない。またはこれは凄過ぎる、あと、なんでこの小説、つまらないのに見過ごせないのだろうとか、そういう風に感じる小説は、幾度も読みます。やがて、気に入った文章とか、引っかかるところは付箋をつけて、繰り返し読みます。そうすることで、よく頭に入ってきます。すると、あるところからここの言葉がなかったら、この一文がなかったら、どうなるんだろうとか様々な事を考え出します。すぐれた作家は最後の一押しが出来るなということを実感します。それを見つけ自分だけの発見をすると、やがてその作家に対しての具体的な尊敬へと変わります。例えば僕は異界や空間を行き来して再生する話を書く,村上春樹さんを尊敬しています。彼のことはいつかまとめてみたいと思っています。
蟻の目で、カタツムリの様な速度で一字一句、場合によってはリズムを掴むために声を出して、読むことが大切だと思います。手間をかけることを厭わないのなら、一つの章を丸ごと拡大コピーして、書き込みをしながら徹底的に読むことをお勧めします。巧いとか神秘的だとかそういうところは、具体的に文章のどこから発現してきているのか、目を凝らして自分の言葉に置き換えて、説明できるようにすべきです。
蛇足ですが、自分の言葉に置き換えることはメタ的な部分を逆に照射し、意識下に置く事に繋がり、自分にひょんなおまけを与えてくれるかもしれません。
ただ、いくら読んでもよくわからなかったという事も起こります。「この作家さんの書く秘密、わからんかった」という具合に、それはたいてい知識量の、読書の力量の差です。出来れば、すぐれた読み手を先生にして、グループで読むと様々な事がもっとわかります。同じ小説を題材にして、これだけ理解の差があるのかというショックがありますが、大学のゼミ形式みたいなのは良いやり方です。
さて、これらの読み方が何に役に立つのと言う話に戻ります。結論から言うと、書き方講座とは違って、読み方うんぬんは大した役には立ちません。「ええっ、サザエ、ここまで読んだのにそりゃないよ」と言われるかも知れませんが、目に見える即効性はありません。
しかし、話は少し変わりますが、読み込みをやると、小説には常に文体と言うものがあるということが分かってくると思います。文体とは一言で言うなら、その作家固有の表現の事です。具体的に言えば、うんちくが多かったり、笑いが多かったり、暗喩が百出したり、隠された仕掛けや、奇妙な登場人物等々、つまり小説家が企みと書きたいものを書き尽くすために、文体を作っていることが、そこには物凄い努力があることなど、等身大のものとして理解できるようになると思います。これは小難しい純文学も、楽しい娯楽小説も変わりません。
役立つかもといえば、やがて、僕たち自身が書く小説を企むときに、新しい文体を作りたいと願った時にヒントや勇気をくれると言うことぐらいです。
おわりに
最後はエトセトラです。まず一つに、改めて本はどう読んでもいいということです。破いて食べてみたら、新しい世界が見えるかもしれません。まあ、これはもちろん冗談ですが。それくらい色んなやり方があっていい。そして、僕たちのまわりには僕の知らないすばらしい本が溢れています。僕はこれからもそういう本を楽しみ、学びたいと思っています。そして、願わくば、自分もそうした本を書いてみたいと思っています。
次に人と違う本を読むことの大切さについて書いておきます。小説を書いているといつの間にか、よく誰かと同じ発想になってしまうということがあります。これを避けるにはどうしたら良いか、これは二つあります。一つは人と違った経験をつむ事、もう一つは人と違った本を読むことです。ただ、これにもギャグみたいな事が起こりうる可能性があります。例えば、ライトノベル作家志望者が軍事に凝って、その手の本を読みまくるうちに、ライトに書けなくなってしまったとかそういうことです。まあ、とにかく物事は両面だという感じです。でも、人と違った本を読むことはとても大切な事です。
関連して、俺は安楽椅子で本を相手に、俺は知識を蓄えて行くぜという人と、いや、俺は取材して、フィールドワークで生の知識を拾って行くぜという人に物書きも分かれがちです。得てして、この両派は仲が悪い。でも、これもどっちもどっちだと思います。僕の浅い経験から言うと、フィールドワーク型の人は取材だけで、満足してしまう人が多いような気がします。逆に安楽椅子型の人は知識だけ、考えだけという人が多いです。やはり両方、出来なきゃだめなんじゃないかと思ってしまいます。ちなみに、僕は安楽椅子タイプですね。
最後に演じきることの難しさと大切さです。文体は小説家にとって、舞台の上の仮面劇みたいなところがあります。舞台にひとたび出ると、その仮面(文体)を演じ続けないとなりません。これは思いのほか、どころでない大変さがありますね。たとえ、苦しくなってもはじめた文体で最後まで行かなければならない。これは物凄く大変な事です。でも、頑張りたいと思います。
いや、ここまで書いて、なんとも纏まりませんね。それにずいぶん、自分のことを置いて偉そうに論じた感もあります。おわりに最近、読んで面白かった本とか書いておきます。それでご容赦ください。
参考文献のようなもの
文春文庫『若い読者のための短編小説案内』村上春樹著
講談社文庫『真贋』吉本隆明著
それと最近読んだわけじゃないけど『ドグラ・マグラ』夢野久作著 青空文庫で無料みたいです。文体がエキサイティングでロックです。なんのこっちゃ。けど、面白い。
ここまで読んでくださった方、ありがとうございます。本来は連載の「アルテ」を投稿する予定でした。いろいろありまして書けませんでした。「アルテ」は来週以降になります。
この文章も休載時に載せる予定でしたが、一足早く、今日書きました。内容はまとまらず申し訳ないです。