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小六は約束通り真面目に走り、ほどなくして力車はホテルの前にたどり着いた。
上海随一の目抜き通り・南京路沿いにある競馬場のすぐそば。誰に頼んでも何処に迷い込むことなく、真っ直ぐに到着する筈の立地だ。
真新しい高層ビルがそびえている。
その正面玄関前では、戸田と佐藤が見回りの巡査をつかまえ、懸命に何かを訴えている最中だった。おそらく、娘たちの着くのが遅いのに気を揉んで、パニックに陥っているのだろう。その剣幕に、ホテルの従業員たちもどうしたものやら、と彼らを遠巻きに眺めている。
巡査の姿を認めた途端、小六は車を止め、振り返った。哀願するようなまなざしを向ける。一人は小六が何を言いたいのかを悟って、軽く頷いた。
「わかった。警官には言わない」
「助かるよ。さすがに同郷人だ」
言われて、一人は苦笑した。
確かに一人が小六を許す気になったのは、彼が寧波人だからと言うのが大きい。中国人の同郷人に対する思い入れは思いのほか強い。
車はホテルの前に停まった。
「お父様!」
転げるように立夏が父のもとに走り寄る。
振り返り、娘の姿を認めると戸田は安堵し、紳士然とした彼には珍しく表情を崩した。
「立夏! 何故こんなに遅くなったんだ?」
当然、戸田が問う。
「途中で不良たちに絡まれちゃったんです。あ、でも、心配しないで下さい。こうやって無事でしたから」
立夏が答える前に、一人は言った。事実ではある。かなりはしょってはいるが。
立夏はちらりと一人を責めるように見たが、彼女もそれほど物分りの悪い方ではない。凝っと小六の顔をにらみ、それからふいと視線を外した。
戸田は上海上陸早々のトラブルに声を荒げていたが、その様子を眺めていた一人は袖口を引かれて振り返った。
「ありがとうよ、兄弟。また縁があって会うことがあったら、何でもお前さんの力になるからさ」
あばた顔にそう言われて、一人は困ったように微笑んでから、懐から財布を取り出した。
「とんでもねぇ。いらねぇよ」
吃驚して小六は首を振った。その態度に一人の方も驚いてしまった。
「老李にも睨まれちまったしな。悪いことは出来ないよ」
小六は愚痴るように言った。
「彼は、あんたたちのボスなのか?」
興味を引かれて、一人が訊く。
「ボスって言うかね… 李姓だが、彼は林家の一員さ。まぁ、お前さんが関わりを持つことは無いだろうが、林家って言やぁ、上海では顔なんだ。表でも裏でもな。俺たちが世話になるのは、もっぱら裏の方だけどさ」
小六はにやっと笑う。
「四馬路に『桃源』って名前のクラブがある。随分羽振りのいい店だ。ここらでも酔狂な連中に聞けば、大概が知ってる。そこのオーナーが老李の従兄弟で、林修英。青幇の間でも、今や飛ぶ鳥落す勢いさ。老李の顔を拝みたきゃ、『桃源』に行けばいい。大抵はその店に居るからな。もっとも」
一人を値踏みするように、頭のてっぺんから爪先までねめ回した。
「子供の行く場所じゃあないしな、どのみち関係ないよ。それより、旅行気分で浮ついたお嬢さんには気をつけるように言ってやんな。とてもじゃないが、今の上海はそんな甘いとこじゃないぞ。俺たちみたいなヤツが危ないばっかりじゃないしよ」
そう言うと、ちょっと片手を挙げてから小六は逃げるように走り去った。
一人は車夫のはしこさに呆れ、その背を見送った。




