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10

 ひとしきりの談笑を終えると月陵はそそくさとその場を離れた。

 階下に戻ると、楽屋から煙草をふかしながらリーナが顔を出した。

 目で呼ぶ。

「二階に来ているのは誰?」

 単刀直入に聞いて来た。

「黄長格大人。大物老板ラオバンの一人ですよ」

「そう」

 リーナの瞳が艶やかに輝く。

「あたしも挨拶したいわ」

「僕に言われても何とも」

「いいわ。男同士のお話し合いはもう済んでいるのでしょ。行って来るわ」

 言うが早いか、煙草を指に挟んだまま、リーナは月陵の前を通り過ぎる。


 月陵は一瞬止めようと思って、やめた。

 相手は噂に聞こえた好色爺だ。美女の登場に上機嫌になっても不快に思うことは無かろう。勝手にすればいい。それに、止めてもリーナは行く。月陵が彼女を胡散臭く思うのは、こう言う実力者と見れば片っ端から近づこうとする態度にもあった。

 勿論、それは単に上昇志向の高い女に過ぎないと言うことかも知れないし、リーナもそう振舞ってはいた。だが、気に食わない。


 リーナが上がってすぐに、二階から上等の酒と肴の注文が届いた。

 うまくやったようだ。

 少なくともあの女はこの店に貢献はしてくれている。

 月陵はそう自分に言い聞かせ、ボードからリーナの気に入りのグラスを出し、ウェイターに持って上がらせた。

(さて――)

 店内に目を配りながら、月陵は時折り二階の様子を覗う。

 皆様ご機嫌上々でご歓談中。

(何処で手を打ったのか)

 月陵の気に掛かるのは、その一点である。

 修英が外灘での事件を、黄大人揺さぶりに使ったのは明白だ。黄はまるでそんな事件の事など初めて聞くように驚き、青幇の規律の低下に憤って見せただろう。そして、大抵の場合、ああ言う古い人間はこう言うのだ。

「仁義も今や地に落ちたものだ」

 何の事はない、彼らは自分が若い頃にやって来た事を忘れているだけだ。青幇が仁義やら掟やらを大事に守っていたのは、水運業者たちが自助組織として青幇を 頼っていた大昔の事だろう。今や青幇は、上海と言う街に巣食う巨大な犯罪組織に過ぎない。しかし、上海と言う街はまた、その暗闇を一手に引き受ける組織無しでは成り立たない。


 いずれにしろ、仁義を取り戻し規律を確立させると言う大儀の為に、黄は修英への協力を約束させられただろう。半世紀近くに渡って上海の裏社会を生き抜いて来た男も、勢いのある若い合理主義者には押され気味らしい。

 金かシマか。

 どちらにしろ、林修英と言う男はこうやって膨れ上がって行く。

 彼は、何処まで行くのだろうか。

 何処まで行くつもりなのだろうか。

 自分は――

 月陵は、ふっと眩し過ぎる店内に眩暈を覚える。

 自分は、何処まで彼について行けるのだろうか――


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