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「見て!」
寒風をものともせずに甲板から身を乗り出し、少女が叫ぶ。
コートの襟元をかたく合わせ、体をぶるっと震わせると、一人は仕方なく振り向く。
「あれは揚子江の河水ね?」
束ねた髪が乱れるのもそのままに、冷気に当てられた頬を紅潮させた立夏が海面を指さす。
この日、運良く晴れた冬の東シナ海は、見事な紺碧色の海原を見せていた。海面は日の光を受けて、きらきらと煌いている。その紺碧の海原に、大量の、濁々とした泥土色の水が、まるで絵の具を流し込んだように、青い海水と色を分かっているのが見える。
「大河は海に到達しても、すぐにはそこに交わらないんだな」
二人の後ろから声がした。
振り向くと、身なりの整った中年の男性が立っていた。
「お父様」
立夏がにっこりと笑う。
「揚子江は遠く西蔵にその源流を発して、六千四百メートル近くの河長を誇る。これは中国を代表する黄河を勝るのだよ。中国人が長江と呼ぶ名の通り。黄河のあの黄色い河水はよく知っているだろう? 揚子江も同じように、河口に到達するまでに尾根の肌を削り河岸を削り、源流では清色だったものが、河口に近づく頃には、その身に夥しい泥を纏うことになる。長い長い旅の間に形作られたものは、すぐには他と交わろうとはしない。中国の河は、まるで―中国と中国 人そのもののようだな」
戸田泰夫は、泥色の流れの向こうを見透かすような目をして言った。
それから、静かに自分の横顔を見詰める視線を感じて、すぐに余計なことまで口走ったと気付いた。戸田は、少し困ったように少年の視線を振り向いた。
周姓を名乗り、日本の華僑世界で生活する少年は、肩をすくめて見せただけだった。
「河口が近いと言うことは、大陸はもうそこだと言うことだよ。この海の色を見ると、ああもうすぐに上海に着くんだな、と思うよ」
旅慣れた立夏の父は、そう言って、キャメルのコートの襟を立てた。
「さあ、立夏も一人君も下に降りないか。こんな所に長時間居たら風邪を引いてしまうよ。せっかくの上海旅行も、風邪で寝て過ごしたなんてことにならないようにね」
「でも、景色を見ていたいわ」
「下のラウンジからでも見えるだろう」
「うーん…」
立夏は未練がましい表情を見せたが、一人はほっとした表情で素直に戸田氏に従って階段を降り始めた。既に歯の根も合わなくなっている。




