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だが、それも仕方がない。
既に、自分は歴史の中に身を投じたのだ。個人の感情なぞ、捨てるほかない。
"彼"は木製の手摺りに手を掛け、空を仰いだ。夜の帳が下りていた。中庭で、若い女たちの嬌声が起こる。
目線を落としてふと、"彼"は自分の指先に目を止める。指先が周公命の首筋にめり込んだ時の感触を思い出す。
あの時、思わず洩らした言葉に、周公命は不思議そうな視線を"彼"に向けた。そして、次にその目が"彼"を哀れむように見詰めた。
一体、殺される者が殺す者を哀れむと言うことなどあるものなのか――
"彼"は頭を振る。
考えても仕方のないことばかりだ。
"彼"は階段を駆け下りた。地上に降りると、女たちが声を掛けて来たが無視して出口へ向う。
「何だよ、ちょいといい男だと思ってお高いね!」
背中から謂われない罵声を受けたが、それも無視した。
大世界を後にしても、辺りはさして変わらない状況だった。化粧くさい女たちと、風体の良くない男たちが彷徨う夜が始まっていた。彼らにとっては、これからが一日の始まりなのだ。彼らは隠花だ。彼らを照らすのは、月の光ではなく人工のネオンサインだ。
夜の無い街の、夜が始まる。
上海なぞ、大嫌いだ。
とりわけ、上海の夜が嫌いだ。
"彼"はこの街に唾を吐きかけたい思いにかられる。
だが、そんなことを思うたびに、"彼"はその上海の夜にしか生きられない自分を思い知るのだった。




