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上海1932 恋恋不舎(上)  作者: 田中しう
上海の男たち
20/39

10

 だが、それも仕方がない。

 既に、自分は歴史の中に身を投じたのだ。個人の感情なぞ、捨てるほかない。

 "彼"は木製の手摺りに手を掛け、空を仰いだ。夜の帳が下りていた。中庭で、若い女たちの嬌声が起こる。

 目線を落としてふと、"彼"は自分の指先に目を止める。指先が周公命の首筋にめり込んだ時の感触を思い出す。

 あの時、思わず洩らした言葉に、周公命は不思議そうな視線を"彼"に向けた。そして、次にその目が"彼"を哀れむように見詰めた。

 一体、殺される者が殺す者を哀れむと言うことなどあるものなのか――

 "彼"は頭を振る。

 考えても仕方のないことばかりだ。

 "彼"は階段を駆け下りた。地上に降りると、女たちが声を掛けて来たが無視して出口へ向う。

「何だよ、ちょいといい男だと思ってお高いね!」

 背中から謂われない罵声を受けたが、それも無視した。

 大世界を後にしても、辺りはさして変わらない状況だった。化粧くさい女たちと、風体の良くない男たちが彷徨う夜が始まっていた。彼らにとっては、これからが一日の始まりなのだ。彼らは隠花だ。彼らを照らすのは、月の光ではなく人工のネオンサインだ。

 夜の無い街の、夜が始まる。

 上海なぞ、大嫌いだ。

 とりわけ、上海の夜が嫌いだ。

 "彼"はこの街に唾を吐きかけたい思いにかられる。

 だが、そんなことを思うたびに、"彼"はその上海の夜にしか生きられない自分を思い知るのだった。


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