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自分の気配を徐々に夜気の中に消して行く。迷路を吹き抜ける風を読む。闇の中に足音が響いた。大した手練れではない。テロの横行と裏社会の抗争の隙間を縫って名前を挙げようと言う、命知らずの田舎出に違いない。早い話が、殺し屋気取りの鉄砲玉だろう。
足音は二人分。
公命は彼らを追った。誰を狙っているのか知りたかった。そう言う情報を常に探るのが、彼のもう一つの仕事なのだ。
このまま南に行けば、フランス租界と城内を分かつ民国路に出る。西には東新橋街。
(なるほど―)
公命はにやりと笑う。
闇に同化しながら、二人組とは別の小路を滑るように往く。当たりがついたのだ。
(この辺りには確か張大人の色が住んでいた筈だ)
しかも、今日は木曜日。青幇のボスの一人、張友啓は木曜の夜に、最近囲い始めた若い女のもとに通うのだと小耳に挟んだことがある。
先回りして女の家の裏口を望める角に立った。そこで待っていると、案の定、いかにもそんな荒っぽい仕事に似合いな若い男たちが辺りを覗いながら止まった。一人が下手な野良猫の鳴き声を真似ると、すぐに戸口が開かれた。屋内の明かりが漏れて、男たちの面容が割れる。
まだ、二十歳にもなっていない若さだった。
(子供じゃないか…)
公命は心のうちで舌打ちした。
だが、彼らを止めることは彼には出来ない。
(青幇の揉め事は、青幇内で解決するがいい)
彼らが狙う相手が自分には関係のない人物であることを知って、公命は家路へと戻ろうとした。
振り向いた刹那。
喉元を男の指で締め付けられて、彼は動きを封じられた。
そのまま石壁に背中を押し付けられる。
目下にしなやかな腕が伸びていた。
月が男の顔を照らす。
これもまた、若い―。
真っ直ぐ視線を当てて、公命がまず思ったのはそのことだった。
白い、細面。
切れ長の目が、公命を冷たく見詰める。
後ろに立たれたことに気付かなかった― それが、公命をぞっとさせた。
皮膚が粟立つのを感じた時には、おそかった。男の指先は、間違いなく急所を押さえていた。
やられたな、と公命は観念する。
いずれのたれ死ぬ運命だったやも知れぬ。それを覚悟で選んだ仕事だった。
公命は相手をただ見詰めた。
信じられぬことに。
彼は薄い唇を公命の耳元に近づけ、ひとこと囁いた。
「対不起……」
感情のこもらない声音ではあったが、確かに彼は「すまない」と口にした。
グ。
男の指が公命の皮膚に食い込む。
公命は、既に息も出来ぬ体で、相手の肩を掴もうとした。男は動かなかった。公命の節くれだった手が、指先が、滑り落ちて行く。ようやっと掴めたのは、コー トの口袋。そのまま彼の体は男の足元に崩れ落ちて行く。掴んだ口袋は千切れ、中のものが零れ出た。
ふわりと甘い香りが夜気に広がった。凄惨な殺人現場には全く不似合いの、茉莉花の香りだった。
公命は殺人者が自分の耳に最後に残した言葉を反芻しながら、目を閉じる。
この世は、申し訳の立たないことばかりだ―
男が一歩退いた時、月が再び雲の中に姿を消した。
蒼白の細面は、闇に溶けた――




