思い出のものは一緒に
「や、やめて! そんなトイレの後に石鹸つけて洗わないような汚らわしい手で私に触らないで!」
「は、はい?」
「いかにも臭いそうなその手で、触らないでって言ってるの! それ以上近付けたら警察呼ぶわよ! いや、でも呼ぶとしたらゴミ収集車かバキュームカー……のほうがいいかも?」
「な! なんでそうなる!?」
「……不潔だから」
効果音で表すとしたら“グサッ”という音がピッタリな状況だった。鋭利なナイフで突き刺されたかのような激しい痛みが心の中をほとばしる。痛い! と思わず叫びそうになるのを何とか抑えて、反撃に打ってでる。
「ふ、不潔じゃねえよ! てか、トイレの後はちゃんと手を洗ってるから」
「石鹸つけて?」
「……時々は」
「時々? やっぱり不潔だよ、君。私に触れる資格無し」
「好きで触れたかないよ! 触れないから早く出てけ、ここ俺の家だから!」
そう言うと目の前にいる彼女は少し悲しそうな表情をした。ダークブラウンのいまにも泣き出しそうに潤んだ瞳が俺を捕えて、胸の詰まる思いがする。罪悪感が徐々に込み上げてくる。自分は何も悪くないのに……。
彼女は突然にこの部屋に現れた。引っ越しの準備をするために部屋を片付けていた時のことだ。用を足そうとおもいトイレにいった、そのわずかの時間に、先程までは自分一人しかいなかった部屋に彼女は存在していた。サラサラとした長くて美しい黒髪に、ダークブラウンの瞳、綺麗な顔立ちをした子だった。
最初はびっくりして焦ってしまったが、焦りながらも何とか接触を試みた。どこから来たの、名前は何て言うの。何度も同じ質問を繰り返したが、返事はなかった。そして、仕方が無く、近くの交番に連れて行こう思って手を伸ばした時だった。
――やめて、汚い
それからずっとその調子だった。
「ごめん……少し言い過ぎた」
「……私の家だって……ここだもん……」
彼女は瞳から溢れんばかりの涙を拭った。それとともにぐすんっ、という泣き声も一緒に聞こえてきた。罪悪感がますます浸蝕してくる。
「ここだもん、って……この家には俺と両親以外は居ないはずなんだけど……」
そう言うと彼女は完全に顔を下に向けて俯いてしまった。その肩はプルプルと震えている。そんな仕草をされても俺は何を言って上げればいいのか、まったく分からなかった。自分の方が正論を言っているし、彼女が何をしたいのかも理解できなかったたからだ。しばし二人の間には沈黙がながれた。ムズムズとした感覚が背中を駆け巡って行く。自分の部屋のはずなのに妙に緊張していて、手のひらが汗ばんでいた。
「……ねえ」
唐突に彼女は言葉を発してきた。嗚咽まじりの声だったが、まだ彼女は顔を伏せていて表情をうかがいしることはできなかった。
「……なんだ?」
「……私からも一つ言いたいことがあるんだけど……」
「……言いたいこと?」
何を言われるのか分からず、少し心臓がドキドキとする。だが返ってきた言葉に俺は唖然としてしまった。
「私を“キズもの”にした責任はしっかりと、とって貰うからね!」
「な、な、何!」
相変わらず潤んだ瞳だったが、しっかりと俺の瞳をとらえて彼女ははっきりと言い放った。俺は動揺を隠せない。きっと彼女からみれば不審者か、とでもおもわれて仕方無い程、目はキョロキョロと宙をおよいでいるに違いなかった。
「ば、馬鹿かお前は! お、俺と、お、お前がいつ、そんな関係を持ったんだよ。て、てか俺、年下には興味無いし……」
自分で何を言っているのか意味不明だった。ただ体中が燃えるように熱かった。
「痛かったなぁ、あの時は……君がまだ三才のころのこと……」
「三才のころ?」
「そう。まだ私がピカピカの新品で買われて、この家に初めてきた時のこと。君はその日に早速、赤いクレヨンで私の体に落書きをしてくれたわ」
「…………」
「そう言えば五才になったばかりの時にも、私を乱暴に扱って、何枚かページが剥れて……君はお母さんに叱られたのよね」
しゃべっている彼女の表情がみるみるうちに晴れやかになっていった。そんな彼女を見て、俺は何だか懐かしい気持ちで胸がいっぱいになった。ホカホカとした温かい気持ちが自然と込み上げてくる。
俺は彼女を知っていた。クレヨンでの落書き、ページの剥げ落ちた本。間違いない、そんな扱いをしていたものはこの家に一つしかなかった。それは大切な、この世で唯一無二の自分の宝物だったものだ。そして俺は知らず知らずのうち彼女の名前を呟いていた。
「もしかして君は――!」
その時、彼女の体が突然白色に輝き出した。その光は瞬く間に部屋中に満ちていく。眩しくて目が開けられない中、その光の中心から彼女の最初で最後の笑い声を聞いたような気がした。
「馬鹿は君の方だよ、何年間も放ったらかしにしといて……あ! でも新しい家には私も連れていってよね。もちろん、石鹸で洗った綺麗な手で私を扱ってくれるのならだけど……ね!」
目を開けた世界はいつもの自分の部屋だった。引っ越し準備中の散らかった空間。先程までの光は集束し部屋の隅で粒子となって弾け、キラキラと美しく散っていった。俺は彼女を名残惜しむその場所に近付いていった。そこにあるのはビニール紐で結ばれた書物。その一番上に置かれている本が不思議なことに笑っているように見えた。
その本の題名は『オズの魔法使い』
幼い時に、何度も何度も繰り返し読んだ、赤いクレヨンでペイントを施されたボロボロの表紙の、大好きな物語だった。