くじら防衛網
男は長年潮風と戦ってきたのだろう、ほとんど近隣の漁師と区別がつかなかった。
「禁止とはいえ、現場では食べたりしないんですか。海の上ならバレないでしょうに」
男ーー調査員は赤みを帯びた眉間に皺を寄せ無視した。GPS連動モニターを眺め、自船の位置を確認している。船はゼリーの表面を滑るように、穏やかな海を進んでゆく。
「やっぱり昔に比べてエコテロリストがうじゃうじゃ来るから、食べてるとこ見られると怖いですよね」
「奴らは別に怖くないが。お前さん、さっきからそんなにクジラが食べたいように聞こえるが?」
彼の批判的な調子に、私は頷くことができなかった。
年配の彼はのっそりと重そうな身体を持ち上げ、煙草に火をつけた。海原を眺めて何か考えている様子であった。
私が生まれた時には、既に日本が鯨肉の食用流通を全面禁止にして久しかった。もちろん私は食べたことなどなかった。美味と聞くので、ずっと食べてみたくてたまらなかったのである。
政府から委託された機関はクジラを殺さない調査捕鯨を行っていて、たとえうっかり殺してしまった場合でも肉は捨てているという話であった。モッタイナイ!
絶滅が危惧されていたクジラたちは安全圏まで増えた。それでもエコテロリストはひっきりなしにやってくる。
グルメライターの私はその辺りについて、つまり食材としてのクジラについてーー調査捕鯨の現場へ取材に来たのだった。
「どうしてこんなにエコテロリストがやって来るんですかね」
調査員は煙をゆっくりと吐き出し、クジラのワンポイントの入ったキャップを目深に被りなおした。
同僚の話だが、と前置きしてから彼は重い口を開いた。
「実は今、調査捕鯨以外にもクジラは捕っているんだ」
公式の言説ではあれだけやっていないと言いながら、か。
「捕まえたハクジラ類の脳や周辺をサイボーグ化、ある程度制御できるようにして海に帰す。それをたくさん日本の周辺海域に待機させてるんだ。ハクジラ亜目はたいてい音波で状況を把握する反響定位を使う。水中の振動を下顎で捉え、骨伝導で内耳へと伝えることができる。それらハクジラの広大なネットワークを海の防衛網にしているんだ」
海中生物なら怪しまれず早急に危険な船を見つけ出せるのだろう。ましてやエコテロリストがクジラを狙って大量に殺すというのは考えづらい。手段が目的化したアホなら別だが。
「例えば不審な船――エコテロリストが近づいてきたら、音波と骨伝導で教え合い、やがて受信機を介して人間にまで届く。そして必要とあらば命令次第で軽く体当たりなどの攻撃も行う」
彼はクジラが大好きなようで話し出すと止まらない。私は気圧されつつも、納得はできなかった。
「エコテロリストは『調査捕鯨以外にも捕ってるんじゃないか』って名目でやってきてるのに……」
その言う通りじゃないか。
しかし彼は私の話を聞いているのかいないのか、興奮するように続けた。モニターに肘をぶつけたが気にならないようだ。
「そう。エコテロリストは増え続けてるから、こっちも増強していく。海軍並に強化されてるテロ船に負けないよう、もっと強く、もっと音波を遠くまで飛ばすため下顎と頭部が発達するよういじくったのを海に帰して……」
「そんなことしてたら解決しないじゃないですか!」
信じられないことに、彼は口の端を上げて笑っているらしかった。
「そのうち奴らがやめるんじゃないか? もうクジラにファンタジックな知性なんてものを見出だしはしないだろうよ。日本のクジラはすぐに攻撃してくる野蛮な生物だから……いや、クジラに攻撃されたとも思わないか」
エコテロとテロ対策の奇妙なねじれに引きずられ、クジラは変わっていく。遺伝子をいじられたものが子を産み、新しいクジラになるのだ。
しかしそうだとして、違いがわかるだろうか。私は元々しっかりとクジラを見たことがないのである。図や古い映像や水族館で繁殖された姿ではなく、目前の海で泳ぐ姿を。
生のクジラ。
そうだ。
私は本来聞きにきたことを思い出した。
「それで、クジラっておいしいんですか?」
調査員は大袈裟に私の肩を叩き、指さした。
「おい、クジラが出たぞ。あれだよ」
船はなにやら小型の球体を数個放出した。それはクジラを囲むように着水する。調査員が傍のスイッチを入れると、クジラは自ら泳いで船へと近づいてきた。
粘液でぬるぬるした全身は白く大きい。前肢は広く薄く、うっすら太い腕の骨が見える。その先はまるで水かきのある手のようである。何かを掴むこともできそうだ。
そして……首がある。ぶよぶよした頭部が肥大してそう見えるののかもしれない。
上半身だけならヒトの形に近かった。
調査員の帽子にある旧来の姿とは似ても似つかない。彼はクジラの前肢に付けられたタグを確認して解放した。
ため息を一つ吐いて言った。
「クジラがうまいかって?」
それから私の目を覗き込んで豪快に笑った。
「……お前さん、アレを食べたいのか?」