第2話 転命
目覚めた時、もし、私の姿が毒虫であったのならば、やたらと眩い太陽のせいにできただろうに、残念ながら私は骨になっていた。
……骨。
そう、私は骨になっていた。手も、足も、腹も、胸も、全てが骨だけで構成されている。勿論、頭部も……。
どういう仕組みになっているのか、骨だけなのに私の身体は何故かバラバラにはならない。臓器も、皮も、筋肉も、腱も存在しない私の肉体……いや、もう“肉”体とは呼べない身体。
辺りを見回すと、ここは、どうやら何かの建物の内部の様だ。腐臭と汚臭が混じりあい、たっぷりと湿り気を含んだ大気、漆黒の闇へと続く冷たい石畳みの回廊……如何にも「何かが潜んでいそうな」空気が漂っている。
私の座りこんでいる位置から、そう遠くない場所に外界から差し込む明りが見えた。
出口だろうか?
上半身を起こした姿勢から、足の骨が崩壊する恐怖に怯えながら、ゆっくりと立ち上がる。不思議な事に、身体は肉体であった頃と同様に素直に私の意志に従う。
なんという軽やかさだろう。
あれほど悩んでいたお腹まわりの贅肉や脂肪など、余分な肉1グラムとてない今の私、当然と云えば当然かもしれないが……。
眩い光が注ぎこむ、その場所に立った私は外界を見つめる。もし瞼があったのなら、きっと、ひそめていた事だろう。
遠くない場所に、石造りの町並みが見え、多数の人々が行き来しているのが見える。いったい、何人の人がいるのだろうか? 夥しい人数だ。私は町に興味をそそられ、陽光の降り注ぐ出口から一歩、踏み出そうとした。
だが、進まない。右足は確かに一歩、前に踏み出している。
しかし、踏み出すと同時にふわりと押し返される様な感覚と共に、左足が後ろにずれていくのだ。何度も、何度も繰り返してみたが、身体は後ろに自然とずれる。ちょうど、下りのエスカレータを上に昇ろうとしている様な笑いだしたくなる感覚、永遠に進まない一歩。
どうやら、私は、私に相応しくない光の降り注ぐ世界に出る事は適わないらしい。
私は、目覚めた場所――――回廊脇の小さな湿った窪み――――に戻り、座り込む。
不思議だった。私の頭がい骨の中に、脳は存在していない。しかし、自分の名前を覚えている。優しい伴侶の名も、愛してやまない息子の名も覚えている。人生において関わった多く人々の名を、その顔を、その匂いを、その柔らかさも全て鮮明に思い出せる。
そして、何故、自分がここにいるのかも……。
「オンラインゲーム……キャラクター……か」
私をこの世界へと送り込んだ彼女の言葉が、心の奥底から蘇ってくる。オンラインゲームどころか、ゲーム自体でさえ、ここ二〇年はやっていないが、学生時代には、それなりに楽しんだものだ。その頃の微かな記憶を辿り、ようやく、私は思い出す。
スケルトン。そう、スケルトンだ。どうやら、骨だけの存在である私は、そう呼ばれるモノであるらしい。不死系とか呼ばれるモンスターの、確か、最下級の存在。
「御似合い……だよね」
愛してくれた人々に、私の別人格が行った事を思い描くと、心の奥底から笑いが込み上げてくる。
言い知れぬ孤独感、そして未来の描けぬ不安感を感じ、私は、大声を上げて笑いだす。
笑い続ける。存在しない喉に血がにじむまで……。
その姿をもし、他者が見ていたとしたら、骨がカタカタと鳴っているだけだっただろうが。
暗闇に目が慣れたのか――――眼球は存在していない筈だが――――目覚めた窪みの周囲の闇が、次第に払われていく。二の腕程の長さの刃渡りを持つ幅広の両刃の剣、黒ずんだ盾、金貨三枚が入った小さな皮製の巾着袋……。
その場にあったものは、それだけだった。どちらも一目でわかる粗悪品。しかし、今、私の持ち物と言えばこの三品しかない。
私は、巾着袋の紐を左の大腿骨に結び付け終えると、右手に剣を握り、一振り、二振り、素振りをしてみる。思ったよりも重く、思った以上に切れ味は悪そうだ。
左手に盾を持つ。まるで大鍋の蓋を手にした様な、円形の薄っぺらで不格好な金属の板。
私は、一人、両手に剣と盾を構え、見えない敵を想定して斬り結んでいる自分を想像する。
剣を振るい、盾で殴る。相手の剣を盾で受け、相手の身体を鈍い切っ先で貫く。
私は熱中した。生まれて初めて手にした、本物の剣と盾。それを一心不乱に振り回し、想像上の相手を次々と斬り伏せ、突き刺し、倒れた相手の腹部を引き裂き、血塗れの臓物に、まだ温かい心臓に口づけをし、頬ずりをする。
えも言われぬ快感、抑えようのない衝動、懐かしい感触に、私は身震いし、歓喜の嗚咽をあげる。
私は……私は本当に佐藤なのだろうか?
喉が渇いた。存在しない筈の喉が……。
お腹も空いた。存在しない筈の胃袋が、腹の虫を奏で、抗議してくる。
水が飲みたい、何か食べたい……。
私は窪地から立ち上がると、先程の出口(つまりは入口)から、彼らがやってくるのが見えた。安物の皮製の鎧を着け、腰に短剣を差し込んだ三人組の後ろには、ねじ曲がった杖を持つローブ姿の男、白い法服に纏い、棍棒を手にした男、そして目つきの悪い小男……。どう見ても、まともそうな人たちには見えないけれど、水を分けてくれるのならば、文句はない。
「あの、すみません」
私は、目が慣れていないらしい六人組を驚かさない様に、声を掛ける。
……声を掛けたつもりだった。しかし、単に上顎骨と下顎骨が打ち合わされる音が辺りに鳴り響いただけだった。前列の三人が素早く短剣を引き抜き、身構え、後列の三人も、それぞれ身構える。
「水を分けてもらえませんか?」
自分自身の声にも、そして彼らのリアクションにも戸惑いつつ、尚も、そう問い掛けた。だが、やはり闇の中に響くのは乾いた骨の打ち合わされる音だけだ。
「少しでいいんです、お願いします」
私は彼らに繰り返し懇願し、彼らの前へと歩を進める。
突然、三人組が一斉に飛びかかってくる。その動作は、まるでスローモーションを見ている様な鈍さだ。乱暴この上ない彼らの返答に、私は盾を構える。
いや、構えようとした。しかし、どうやら、私は彼ら以上にスローな動作しか出来ないらしい。
たちまちのうちに、右端の男に盾を持った左手を落とされ、左端の男が剣を持つ右手を落とす。最後に中央の男の手によって、首が落とされた。
首が落とされた瞬間、全身の骨と骨の結合が全て解かれたらしく、派手な音を立てて身体がバラバラになり、私はその場に崩れ落ちる。残ったのは、やや黄ばんだ骨の山。男の一人が骨の山をさらい、私の巾着袋を奪い取る。
「ちっ、たったの3Gか」
――――たったの?
確かに僅か三枚の金貨だが、それは貴方達のものではないでしょう? 私のものだ。何という強欲で無法な連中なのだろう。
私はただ水を分けてもらいたかっただけなのに……。
男達が私の骨達を踏み越えながら、奥へと進んで行く。私は、次の瞬間、目を疑った。緑色の粘膜の塊が床一面に現れ、無法者たちに果敢に戦いを挑んでいる。
スライム……?
「がんばれ!」
無法な男達への復讐を願い、そう叫ばずにはいられなかった。だが、願いは通じない。
スライムたちの攻撃は、ヌルヌルして気持ち悪いというだけで、無法者たちになんらダメージを与えていないようだったが、短剣を振るう無法者たちの攻撃もスライムたちに効いている様には見えない。焦れたようにローブ姿の男が、何やら叫ぶ。瞬間、空中に次々と握り拳大の火球が出現する。
火球の群れは次から次へとスライムたちへと降り注いでいった。勇敢なスライムたちが灰になるまで、そう時間は掛からなかった。
無法者たちが去って、どのぐらい経っただろう。
バラバラの骨の山となっても、喉の渇きは増すばかりだ。一口、たった一口でいいから、水が飲みたい……私はそれだけを念じ続けていた。目の前に唐突に、それが現れたのは、そんな時だった。
明るい黄色を示す21対の足、深紅の身体、巨大で派手な赤を基調とした毒々しい頭部……間違いない。
オオムカデ目オオムカデ科オオムカデ属、オオムカデの中のオオムカデ、ムカデたちの王――――。英名ペルビアン・ジャイアント・イエローレッグ・カイロポッド、和名ダイオウムカデと呼ばれる南米原産種だ。
気候変動によりもはや絶滅したと思われていた希少種が10センチはある触角を縦横に操り、私の眼窩の直径を慎重に計測している。その子はまだ体長20センチに満たない幼い個体だが、成長すれば40センチ以上、大きいモノでは60センチに達するとも言われる自分の身体を、私の頭がい骨が収められるか考えているのだろう。
硬質で鋭利な42本の足で私の頬を撫でまわし、強大な毒牙で私の頬骨に噛みついて強度を確かめると、ダイオウムカデは意を決した様子で、頭がい骨にぽっかりと開いた眼窩に侵入を開始する。
私は希少種を観察する、またとない機会が与えられた事を神に感謝した。
頭がい骨の中で、その子が盛んに触角を動かし、空っぽの頭がい骨の中が安全かどうか、確認している様子が見えずとも感じられる。言い知れないほどの不快感と、研究者としての使命感が私の中で激突し、相克する。
その子は、私の頭がい骨の内部を安全で、居心地の良い新居と見定めた様だ。本来であれば前頭葉が存在した場所当りを無数の小さな足が這いずりまわる感触、それは思っていた以上に最悪の感覚であり、私は知らず知らずに鳥肌を立てる。
鳥肌――。不思議なもので、皮膚など無いのに、皮膚の感覚だけはあるようだ。奇妙な話だ。もっとも、胃袋が無いのに腹が減り、喉が無いのに水を飲みたくなるのだから、これはこれで一緒なのかもしれない。
それにしても、この子、いつまでいる気だろうか?